まずこの文章を書くにあたって、ある俳優に関する個人的な思い出から始めさせてほしい。彼女を初めてスクリーンで観たのは2012年に日本で上映された、ヨルゴス・ランティモス監督作「籠の中の乙女」でだった。まずこの映画が提示する異常な世界観に驚かされた。既成の常識を否定するような、箱庭的な世界に暮らす家族と、彼らの独自の論理に裏打ちされた生活。それは今までの映画体験を根本から覆すようなものだった。しかし最も衝撃を受けたのは、ある俳優の演技だった。神経質かつ不気味な容貌、独自の論理に支配されながらも、徐々にそれに疑問を抱き解放を求める。その過程で現れるあの激烈なダンス、終盤における犬歯を抜いて、血まみれになった時の笑顔。俳優だとか演技だとかに対する概念が変わる、正にパラダイム・シフトが、彼女の演技に触れることで起きたんだった。
そしてこの異常性に魅了された私は、彼の作品を筆頭としてギリシャ映画、特に“ギリシャの奇妙なる波”と呼ばれる作品を浴びるように観始めた。そこには常にあの俳優がいた。ランティモス監督の次回作“Alpeis”(レビュー記事)において、彼女は社会と自己の軋轢に耐えられず自壊していく女性役だった。そして彼が世界を最もざわつかせた英語作品「ロブスター」では脇役ながら印象深い、冷血ゆえに頗るキュートな修羅役を演じていた。他にも“A Blast”(レビュー記事)においては抑圧の末に爆発を遂げる女性、“The Miracle of the Sargasso Sea”ではハードボイルドな刑事役を演じるなど、様々な表情を見せながら、私を魅了した。ここまで書けば誰だかはもう分かってもらえるだろう。彼女こそ、私が最も尊敬する俳優の1人でもあるAngeliki Papoulia アンゲリキ・パプーリァだ。
先日、ある映画を観た。それはギリシャ映画、ではなくキプロス映画だった。2010年代前半にギリシャはそのタガの外れた奇妙さから世界を席巻するのだが、後半よりその勢いに衰えが見え始める。個人的な観察から言うと、先述のランティモスが図抜けて才能を発揮し、その奇妙さで世界へと羽ばたいていったのだが、あまりにも奇妙すぎて後が焼け野原と化し、後続が育つ余地がなくなったという印象なのだ。そんな中で頭角を表し始めた存在がキプロスなのである。ギリシャ語という言語を共有する、ある種ギリシャの弟分のような国だが、映画界の規模はかなり小さく今までは存在感をあまり感じることができなかった。
しかし徐々に有望な新人が現れていると言ってもいい。例えば"Senior Citizen" のMarinos Kartikkis マリノス・カルティッキスや、"Smuggling Hendrix"のMarios Piperides マリオ・ピペリデス、そして"Pause"が話題になると同時に、有能なプロデューサーとしてもキプロス映画界を支えるTonia Mishiali トニア・ミシャリなど、才能が続々と現れており枚挙に暇がない。“ギリシャの奇妙なる波”と、例えば家父長制批判など受け継ぐ部分はありながら、しかしその影響より離れ、異なる魅力を発揮し始めているのを私は感じるのだ。ということで機会が訪れたら、必ずキプロスの最新映画を観るようにしていたのだが、そこにギリシャの俳優であるパプーリァが現れ、驚いたのである。ここからはそのキプロスの新鋭Petros Charalambous ペトロス・ハラランボスによる第2長編“Patchwork”の紹介を通じて、パプーリァの魅力を記していきたい。
ということでまずはあらすじからだ。今作の主人公はパプーリァ演じるハラという中年女性だ。彼女は夫のアンドレアスや娘のソフィアら幸せな家庭と安定した仕事に恵まれ、何不自由ない生活を送っているように思われるが、実情はそうではない。彼女の顔に浮かぶのは疲労、不満、倦怠ばかりだ。例えば彼女の上司は独身で子供もいないが、仕事では多大な成果を残し、会社の皆から尊敬を獲得している。そんな姿を見るとどうしても嫉妬を抑えきれない。仕事では出席できず、家族も自分の思い通りにならない。家に帰るとアンドレアスやソフィアにその鬱屈をぶつけ、独りになると自己嫌悪に陥る毎日が延々と、永遠と続くのだ。
監督とDoPYorgos Rahmatoulin ヨルゴス・ラフマトゥリンはダルデンヌ兄弟を彷彿とさせる不安定な手振れカメラで、ハラの姿を逐一追跡していく。ハラの表情は常に陰鬱なものであり、笑顔を見せることもできないまま、同僚たちともうまく付き合えない。家族に対しても同様の態度を取ることしかできず、自己嫌悪によって負のスパイラルに嵌まっていく。カメラの揺れはそのままハラの不安定な心理を語るゆえ、観客の精神まで共鳴するように磨耗していく。
ある日、ハラはメリナ(Joy Rieger ジョイ・リーガー)という少女に出会う。彼は新しく配属された男性上司の娘であるのだが、海外移住という大きな出来事に順応できず、不登校となっていた。父親にいやがらせを行うため会社にまで押し掛けるのだが、それを見かねたハラが彼女を自身のオフィスルームに招き入れ、少し世話をすることになる。ここからハラとメリナの交流が始まるのだ。
メリナは凄まじく反抗的な少女であり、ハラの助けを少しは受けながらも、大人など信じないという態度は崩すことがない。そんなメリナに根気強く接するハラだが、時には自身の娘であるソフィアに対する以上の感情をメリナに向けるのは何故か。交流の合間に、彼女は父の許へと赴くのだが、その会話の節々にハラの母親の影が現れる。不在の彼女に抱く複雑な感情、これがハラを突き動かすものなのか?そんな疑問が不穏に首をもたげるなかで、物語は大きな局面を見せる。
今作における核となる存在は、ここまで書いてきてそれ以外ないとは思うが、ハラを演じるパプーリァに他ならない。確かに不幸ではない。しかしあの時選び取らなかった、選び取れなかった人生にこだわり続けるあまり、絶望と後悔に苛まれて現実を直視することができない。ハラは常にここではないどこかを夢見ている。そしてそれを現実にしてくれるかもしれないのが、突如目の前に現れたメリナという訳だ。ゆえにハラは彼女に執着し、一線すらも越えようとする。この不安定で、危険な女性の姿をパプーリァは体現していく。
パプーリァという俳優は私にとって謎めいた存在だった。冷ややかで不安定、その感情を容易には理解することのできない存在だ。しかしその凍てつきの奥には常に炎が燃えている。時にはこの炎が燃え盛り、周囲に存在する全てを燃やし尽くそうとする、例えば「籠の中の乙女」や“A Blast”はそんな激烈さが全面に出た1作だった。
だがこの“Patchwork”においてはパプーリァの炎は思わぬ輝きを見せる。書いてきた通り、ハラは神経衰弱ギリギリの危険な状態にある人物であり、メリナとの交流に不気味さすら宿る瞬間がある。だがそんな絶望の袋小路に迷いそうになりながら、パプーリァはハラを救おうとする。その心に寄り添いながら、辛くとも現実を見据えなくてならないと諭していく。この過程で、パプーリァの炎はかけがえのない暖かさとしてスクリーンに滲んでいき、そして誰かの心を包みこんでいく。これを引き出す監督の手腕も素晴らしいが、やはり何よりもパプーリァの類い稀な演技が最も素晴らしいというのは否定しがたいだろう。
この“Patchwork”はPetros Charalambousというキプロス映画期待の星の到来を告げるとともに、アンゲリキ・パプーリァという希代の俳優を祝福するような作品でもある。何か彼女へのラブレターのような内容になってしまった気がするが、まあたまにはこういうのも許してほしいところだ。