さて、日本の映画批評において不満なことはそれこそ塵の数ほど存在しているが、大きな不満の1つは批評界がいかにフランスに偏っているかである。蓮實御大を筆頭として、映画批評はフランスにしかないのかというほどに日本はフランス中心主義的であり、フランス語から翻訳された批評本やフランスで勉強した批評家の本には簡単に出会えるが、その他の国の批評については全く窺い知ることができない。よくてアメリカは英語だから知ることはできるが、それもまた英語中心主義的な陥穽におちいってしまう訳である(そのせいもあるだろうが、いわゆる日本未公開映画も、何とか日本で上映されることになった幸運な作品の数々はほぼフランス語か英語作品である)
この現状に"本当つまんねえ奴らだな、お前ら"と思うのだ。そして私は常に欲している。フランスや英語圏だけではない、例えばインドネシアやブルガリア、アルゼンチンやエジプト、そういった周縁の国々に根づいた批評を紹介できる日本人はいないのか?と。そう言うと、こう言ってくる人もいるだろう。"じゃあお前がやれ"と。ということで今回の記事はその1つの達成である。
今回インタビューしたのは旧ユーゴ圏の小国モンテネグロを拠点に活動する映画批評家Maja Bogojević マヤ・ボゴイェヴィチである。彼女は批評家として活躍するとともに、大学で映画理論についての教鞭を取り、更にはモンテネグロ初の映画雑誌Camera Lucidaの編集者としても活動するなどしている。実は私も今回知り合ったことが縁で、Camera Lucidaに大林宣彦の追悼記事を寄稿したりと、とてもいい経験をさせてもらった。モンテネグロの映画雑誌に寄稿した日本人評論家なんて私だけじゃないだろうか。という訳で今回はモンテネグロ映画史、この国で最も偉大な映画作家Živko Nikolić ジヴコ・ニコリッチ、期待の新鋭作家たちなどについて聞いてみた。モンテネグロ映画史に関する情報は貴重だと思うので、ぜひインタビューを読んでほしい。それではどうぞ。
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済藤鉄腸(TS):まずどうして映画批評家になりたいと思いましたか? それをどのように成し遂げましたか?
マヤ・ボゴイェヴィチ(MB):映画批評家になるというのは全くプロとしての計画ではありませんでした。思うに生きるには何かへの愛や情熱が必要ですが、ユーゴスラビア(昔も今も、最も尊敬される国の1つです)で過ごした10代の頃は芸術に埋没していました。TVでは素晴らしい映画が放映され、古典映画も上映され、さらにはユーゴの著名な批評家たちが映画を紹介してくれたりしました。これが当時、私だけでなく文化に興味のあるユーゴスラビア人にとっての映画教育だった訳です。実際誰もが文化に興味があり、暗黙の了解として映画は欠かせない公共の文化でした。なぜならその頃、社会的・経済的格差というものは存在せず、人々には文化や芸術を楽しむたっぷりの時間があったんです。こんにちでは、猛烈なリベラル資本主義が幅を利かせていますが。"Kino Kultura"という映画館(当時はCapital Titogradと呼ばれていました)はチケット代がとても安く(ユーゴスラビアの全ての文化施設においてチケット代は非営利的なものでした)年齢による制限もなかったんです(幸か不幸か、保護者の監督も必要なかったんです)なので学校の前や後にマチネ上映(チケット代は今の値段だと1ユーロでした)に行って、上映後は延々と喋りつづけました。映画館にはカフェがあって、そこで皆が集まり映画やその他の芸術、政治について話し合ったものです。モンテネグロにはその頃カフェやレストラン、クラブが多くなかったので、映画館にいる時が最も興奮しました。
そして言語学を学ぶ者として(ベルギーのブリュッセルで英語とスペイン語を学んでいました)、自分が観た映画の短いレビューを執筆するようになりました。それが更に濃密なものとなったのは、初期のパイオニア的な映画批評家のほとんどは言語を学ぶ人々であったことを知った時です(口語や映像、文学や舞台、ビジュアル・アートなど)ロンドンで修士号を取ろうとしていた頃、ロシア・ソ連のフォーマリズムに親しむことになりました(それに携わるほとんどの人々が言語学者や文学・舞台批評家、構造主義の先駆者たちでした)それからアンドレ・バザンやフランスのヌーヴェルヴァーグ、イタリアのネオリアリズモ、ハリウッドの黄金時代について知りました。そうして映画史・映画理論が自分のなかで回りだしたんです。思うに映画は私にとって最初の、最も長きに渡る愛でした。映画を作りたいとはまだ思ったことはありませんが、それに携わる人々と関わるのは大きな楽しみです。私としては独りで書く時間が好きなので、映画批評家になったんだと思います。
TS:初めて観たモンテネグロ映画は何ですか? その感想はどのようなものでしたか?
MB:面白いのは、実際私にとって初めてのモンテネグロ映画が何かわからないからです。当時のユーゴスラビアでは1つの国営スタジオ、他の地域からやってきた監督や脚本家、ユーゴ中から集まった俳優など、今で言う"共同制作"がメインだったからです。それに私が観ていたのを思い出せるのはゴダール映画、フランソワ・トリュフォーの「突然炎のごとく」、アラン・レネの「ヒロシマ・モナムール」などで、私に大きな影響を与えてくれました。それから黒澤明の「羅生門」や小津安二郎の「一人息子」や「東京物語」などなど、こういった作品が私を作ってくれたんです。しかし18歳の時、ブリュッセルでŽivko Nikolićの"Lepota poroka"を観ました。私の外交官である父がブリュッセルで100本のユーゴスラビア映画上映を計画し、その1本が本作だったんです。Cinéma Vendômeという映画館で開催されていたので、大学の友人たちを誘って観にいきました。スタッフもそこにいました。ですが映画への反応は苛烈なものでした。"どうして女性をあんなにも酷く描写できるの? モンテネグロでは女性はあんな風に扱われるの?(田舎の男が女性を惨たらしく殺害する場面を観て)"などです。ショックを受けて、どう答えていいかも分かりませんでした。それから何年も経ってからやっとŽivko Nikolićの天才性が分かることになります。
TS:モンテネグロ映画の最も際立った特徴とは何でしょう? フランス映画は愛の哲学、ルーマニア映画は徹底したリアリズムとドス黒いユーモアなどです。ではモンテネグロ映画の場合はどうでしょう?
MB:これに答えるのは難しいですね。なぜなら(ユーゴスラビア崩壊後の)モンテネグロ映画は未だ建設途中で、表現の道筋を探しています。忘れるべきではないのが、ユーゴスラビアが存在した頃、モンテネグロの映画作家たちはアンソロジー的な作品を作ってきましたが、私たち――少なくとも、私は――それをモンテネグロ映画とは見做していません(Veljko Bulajić ヴェイコ・ブライッチ、Dušan Vukotić ドゥシャン・ヴコティッチ(彼は1961年"Surogat"という作品でアカデミー賞を獲得しました)Krsto Papić クルスト・パピッチ、 Branko Baletić ブランコ・バレティチ、 Miša Radivojević ミシャ・ラデイヴォイェヴィチ、Ratko Đurović ラトコ・ジュロヴィッチ、Živko Nikolićらです)内戦後のモンテネグロは、他の旧ユーゴ諸国と同じように、製作資金に苦労しました。実際、私たちはゼロから始める必要があったんです。映画の組合などは内戦や"移行期間"に破壊され、消え去りました。しかし今は新しい世代の若い映画作家たちがいて、映画祭でも活躍を収めています。彼らは信頼できる表現と声を探し求めつづけているんです。
"Jovana Lukina"
TS:モンテネグロ映画史において最も重要な映画は何だと思いますか? そしてそれは何故でしょう?
MB:1つの作品に絞るのは難しいですが、1人の監督には絞りましょう。それはŽivko Nikolićです。彼の作品は全てが素晴らしいものです。他のユーゴスラビア映画には見られないものですが、彼の視点の独創性はそのジェンダー描写にあります。それは家父長制的構造からの直接的生産物として描かれるんです。それは社会的・経済的な権力の関係性だけでなく、そういった支配と従属の構造に対する批評でもあります。準備や距離感ある技術なしに、彼は家父長的構造を開示し、対峙するんです。作品群の悲劇てな結末に関する彼自身のコメントによると、歴史的苦悩は女性と男性両方に科せられるのであり、全てのジェンダーが家父長制の社会的被害者であると表現されるんです。
TS;1作だけ好きなモンテネグロ映画を選ぶとすると、それはどれになるでしょう? その理由は何ですか、個人的な思い出などがありますか?
MB:もし1本選ぶとするなら"Jovana Lukina"(1979, Živko Nikolić)です。インタビューによれば監督自身の最も好きな作品でもあります。あの素晴らしい俳優Merima Isaković メリマ・イサコヴィチによるトランス的な舞踏場面は忘れられません。彼女は悲劇的な交通事故によって俳優としての未来を断たれてしまいますが。今作の意味は映画的にもメタ的な意味でも多様です。今作は男性中心主義的な世界で自身のアイデンティティーを探し求める女性の姿を描いた、極めて実験的な映像詩です。その詩情は夢のような場面の繰り返しが基となった構築に裏打ちされています。幻想的なミザンセンの中で主人公の暗いシルエットには白い光が不吉に輝きます。そしてイメージと音の反復は映画の詩的ライトモチーフとしても機能するんです。一時的なプロットでは、今作はアダムとイヴの聖書神話の再構築であると言えます。それはヨヴァナ(Merima Isaković)とルカ(Boban Petrović ボバン・ペトロヴィチ)という主人公たちによって遂行されます。そして二次的なプロットにおいて、映像的・言語学的なコードが絡みあい、女性のアイデンティティーの探求という読解が明らかになるんです。
TS:モンテネグロ国外において、世界のシネフィルに最も有名なモンテネグロ人作家はŽivko Nikolićでしょう。彼の作品"Jovana lukina"や"U ime naroda"はとても力強く奇妙な傑作であり、モンテネグロの文化がいかに豊かかを教えてくれます。しかし実際モンテネグロではどのように評価されていますか?
MB:上の答えも参考にしてください。
彼は2001年に貧困のなかで亡くなりました。彼のコメディ番組"Djenka"はテレビで未だに延々と放映されつづけていますが、晩年彼は地方のスーパーマーケットで食品部門のマネージャーをしていたそうです。つまり彼は評価されず、モンテネグロ人からも文化的な組合からも忘れられてきた訳です。彼はモンテネグロひいてはユーゴスラビアにおいて最も議論を呼んだ監督であり、ジャーナリストからはあまり地方色が強すぎるし、モンテネグロ人にしか理解できないほど難解だと非難されました。そしてモンテネグロ人からは故郷に関する反愛国的な描写を非難されたんです。しかし彼の芸術的誠実さは時を経て、モンテネグロの"集団心理"を暴き再構築していきました。Mate Jelušić マテ・イェルシッチとBožena Jelušić ボジェナ・イェルシッチによって、彼の作品に関する本"Iskusavanje filma"(2006)が執筆されましたし、私が設立した短命の映画祭MOFFEMでは彼の名が冠された賞が若い映画作家に贈られていました(
そして、コロナ禍におけるロックダウンのおかげか、そのせいか、モンテネグロ・シネマテークがRTCGというテレビの公共放送とともにモンテネグロ映画のプログラムを組み、そこではŽivko Nikolićに対するオマージュも捧げられています。そうして観客たちが再び彼の作品に親しみはじめたんです。
TS;私の好きなモンテネグロ映画の1つはBranislav Bastać ブラニスラフ・バスタッチの"Dječak je išao za suncem"です。今作は思春期の哀しみと喜びを深い郷愁や息を呑む美とともに描きだしています。しかし、今作と監督は今モンテネグロでどのように評価されているんでしょうか?
MB:Bastaćはモンテネグロで初めてのプロの映画監督と見做されており、彼の作品群、特にドキュメンタリー作品(50本以上の作品に数本の長編があります)は歴史的な現実に関する素晴らしい証言となっています。彼の作品はユーゴスラビア国外で様々な賞を獲得しています(彼の初のドキュメンタリー"Crne marame"は1958年フランスでジャン・ヴィゴ賞を獲得しました)彼は時代に先駆けて映画を作ってきましたが、依頼された作品に関しても、繊細にプロパガンダを避けながら、人々の物語を語ってきました。そして人々の人生、心理模様、伝統に関する親密な肖像画を記してきたんです。
あなたが“Dječak je išao za suncem"を気に入ってくれて嬉しいです! この作品は感動的で魅惑的な映像美であり、今にも普遍的に響く稀な信頼性があります。他の不当に無視された映画作家と同様に、Bastaćもモンテネグロ・シネマテークのおかげで、より一貫した形で再評価が始まっています。
"Igla ispod praga"
TS:モンテネグロの映画批評の現状はどういったものでしょう? 外側からだと、その批評に触れる機会がありません。しかし内側からだと、現状はどのように見えているのでしょう?
MB:先にも短く記した多くの異なる理由で、モンテネグロの映画批評は映画製作と同じく膠着状態に陥っています。つまり世界の映画について書くばかりで、モンテネグロ産の映画について書くことがあまりない状態にあります。そして忘れてはならないのが、モンテネグロでも世界中でも、特にこんにちにおいては映画批評だけで生計を立てられるのは稀であることです。私たちは(そもそも小国であるモンテネグロには映画批評家は数えるほどしかいませんが)他の職業や文化的な活動に就くことで、生計を立てています。例えば私の場合は20年間、大学教授(映画理論を教えていました)として勤務し、今ではフリーランスの翻訳家として生計を立てています。それから普通もしくは頻繁に、映画のレビューや批評は文学者や詩人、文芸/舞台/ビジュアル・アーツの批評家によって、さらに社会学者や哲学者、ジャーナリストによって書かれています。なのでモンテネグロにおける"プロの"映画批評家については語りません。もう1つの問題は、他の分野の批評とは違い、Camera Lucidaが発刊されるまで、モンテネグロには映画誌が存在しなかったんです。だから努力している映画批評家たちは、大衆に向けた日刊紙以外で自身の作品を発表することができませんでした。
Aleksandar Bečanović アレクサンダル・ベチャノヴィチは脚本家・詩人でもあり、その作品は多くのヨーロッパの言語に翻訳されてきたんですが、彼はモンテネグロにおいて唯一の一貫した映画批評家・理論家であり、自身の批評を新聞に掲載してきました。それから映画作家の百科事典を含めた多くの作品の作家でもあります。
TS:あなたはCamera Lucidaという映画誌の創刊者・編集長だそうですね。日本の読者にこの雑誌について説明してくれませんか? モンテネグロの映画産業においてどういった機能を果たしているのでしょう?
MB:Camera Lucidaはモンテネグロの初めての映画誌であり、初めてのオンライン雑誌です。私や世界の映画批評家によって運営されており、"視覚芸術の政治"や映画の批評的読解に取りくみ、広範囲に渡る映画の話題や理論的な発達をカバーしています。多言語雑誌であ、デザイナーや編集者である私を含め、寄稿者たちはボランティアです。Camera Lucidaは映画の知識、映画機関、制作の境界線に挑戦し、支配的な理論、業界のコンセプトや信条を解体していき、多言語主義、多様性、多文化主義を促進していこうと試みています。
その題名が指している通り、ロラン・バルトに影響を受けていますが、Camera Lucidaの目的は映画の意味を突きつめることです。バルトの仮定への類推によって、止まらないイメージの時代において、情報は氾濫し、娯楽への欲望は留まるところを知りません。私たちは皆、ニュースやイメージへの瞬間の反応(そして快楽!)を経験するよう期待されているんです。Camera Lucidaはテキストの縫合を開き、明らかにし、解明し、映画作家が意図的、もしくは無意識的に明示し隠すものを白日の下に曝すのです。そしてRonald Bergan ロナルド・バーガン言うところの"映画を読解するための適切な道具"、"全ての批評家が知るべき"ものを批評家たちに与え、同時に映画批評の役割を問おうとしているんです。
TS;2010年代も数か月前に終わりました。そこで聞きたいのは2010年代に最も重要なモンテネグロ映画は何かということです。例えばIvan Marinović イヴァン・マリノヴィチの"Igla ispod praga"、Ivan Salatić イヴァン・サラティチの"Ti imaš noć"、Marija Perović マリヤ・ペロヴィチの"Grudi"などがあります。しかしあなたの意見はどのようなものでしょう?
モンテネグロ映画界において最も注目すべき新しい才能は誰でしょう? 例えば外側からだと、荒涼としながらも美しいリアリズムという意味でDušan Kasalica ドゥシャン・カサリツァと、深いヒューマニズムという意味でSenad Šahmanović セナド・シャフマノヴィチを挙げたいと思います。あなたのご意見は?
MB:この2問には同時に答えましょう。若い世代の映画作家にはDušan Kasalica、Nemanja Bečanović ネマニャ・ベチャノヴィチ、Branislav Milatović ブラニスラフ・ミラトヴィチ(彼らは皆映画学校での私の生徒です)、Ivan Marinović イヴァン・マリノヴィチ、Senad Šahmanović、Marija Perović マリヤ・ペロヴィチ、Jelena-Lela Milošević イェレナ=レラ・ミロシェヴィチ、Nikola Vukčević ニコラ・ヴクチェヴィチ、Andro Martinović アンドロ・マルティノヴィチ、Ivan Salatić、Ivan Bakrac イヴァン・バカラツなどがいます。モンテネグロ映画は世界的に認められ、多くの作家が映画祭で賞を獲得し、新たな作品を製作しようという段階にあります。彼らの新作を観るのが待ちきれません。コロナ禍が彼らの作品にそこまで深刻に影響しないことを祈ります。
"Ti imaš noć"