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映画痴れ者/ライター済東鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

Wissam Charaf&“Dirty Difficult Dangerous”/レバノン、愛ってだいぶ政治的

さて、レバノンである。この国は人口1人当たりの難民受け入れ数が最も多い国としても有名だろう。近隣国であるシリアやパレスチナからの難民が多く押し寄せるゆえである。更には地中海を挟んでアフリカ大陸にも距離が近いので、そこから難民や移民たちがやってくるという事情もあり、レバノンにはこの2つの地域からやってきた人々が混ざりあいながら生活をしているわけだ。今回はこういった背景から紡がれるレバノン発の奇妙なメロドラマである、レバノンの新鋭作家Wissam Charafによる第2長編“Dirty Difficult Dangerous”(アラビア語原題:حديد، نحاس، بطّاريات)を紹介していこう。

今作には主人公が2人存在している。アフマッド(Ziad Jallad)はシリア内戦を逃れてレバノンへとやってきた難民だ。彼は同じシリア難民たちが身を寄せあうスラムに暮らしながら、屑鉄集めによって何とか糊口を凌いでいる。一方でメフディア(Clara Couturet)はよりよい未来を求めてこの国にやってきたエチオピアからの移民である。彼女はとある中産階級の家庭で認知症の老人を世話する介護士として働いているのだが、過酷な職務に神経を磨り減らし、生活をやっていくだけで精一杯という状況だった。

そんな2人は恋人同士であり、暇を見つけては愛を語りあっており、それが人生唯一の希望といった風にもなっている。だが彼らの愛はレバノン社会において常に危機に瀕している。シリア難民の増加によって治安の悪化を懸念してか、彼らには外出禁止令が出されており、アフマッドは屑鉄集めをするのも一苦労だ。そして道を歩いているだけでも町の住民たちから因縁をつけられ、酷い時には暴力を振るわれることすらある。故に彼がメフディアと会うのも命懸けの行為となってしまう。

メフディア自身の状況もアフマッドとは別の意味で過酷なものだ。介護士としての生活は敬意を持たれず、雇い主であるレイラ(Darina Al Joundi)からも邪険に扱われている。さらに被介護者であるイブラヒムは病ゆえに徘徊行動などを繰り返し、時にはメフディアに襲いかかろうともする。これでは心が休まるわけもなく、だからこそ危険を犯してでもアフマッドとの逢瀬を果たそうとするわけだ。彼との時間だけが心休まる時間なのだから。

このようにして2人の置かれた状況は相当に深刻であり、物語も必然的に重苦しいものとなっているのだが、これらとは裏腹に劇中に満ちている雰囲気は不思議なほどあっけらかんとしたものだ。“間が抜けている”と形容すると軽薄に響きすぎるかもしれないが、今作はなかなかに笑える作品なのだ。物語の深刻さを登場人物たち自身があまり理解していないといった風に、彼らは何だか妙な行動を繰り返す。そしてその妙な行動を繰り返す妙な登場人物たちを、俳優陣は真顔で、かつ律儀に演じる。そう、演じている感がもう露骨なのである。この乖離が何だか笑えるのだ。

この虚構性バリバリで妙な雰囲気を、撮影監督のMartin Ritは技術的な面から支えている。一見するなら彼の照明の当て方がめちゃくちゃわざとらしいことに観客は気づくはずだ。今作に浮かびあがる光と影は自然さとは真逆を志向しており、今作が虚構であることを堂々と提示しているようですらある。こんな不自然な世界でアフマッドやメフディアは真顔で妙なことをやらかしていく。ここから先述したような可笑しみが溢れてくるのである。

ここで想起するのがフィンランドの奇才アキ・カウリスマキである。今ちょうど日本でも最新作である「枯れ葉」が公開中であるが、彼の作品を特徴づける真顔のユーモアに似たものが今作にも現れているのだ。実際に監督のCharafは好きな映画監督としてロベール・ブレッソンユイエ=ストローブとともにカウリスマキの名前を挙げており、彼からの影響が伺い知れる。妙な登場人物たちを慈しむような手触りも、作風として共鳴するものがあるように思えてならない。

そんななかアフマッドとメフディアに大きな危機が訪れる。仕事場で密会しているのを知られたメフディアは、彼と会うことを止めなければエチオピアに強制送還すると通告されてしまう。彼らの愛は文字通り禁断のものとなってしまったわけだ。最初はこの通告を守りアフマッドを遠ざける彼女だったが、最後には彼への愛こそを選び取ることになる。こうして2人は愛の逃走を繰り広げることになるのだったが……

ここから監督がHala DabajiMariette Désertと共同で執筆した脚本は、より政治的なものとなっていく。ここで際立つのが人種間に存在する厳然たる権力勾配である。シリア難民であるアフマッドはレバノンで差別される存在でありながら、それでもアラブ人である意味では多数派に属することになる。そして彼の傍らにいる肌の黒いメフディアは“アラブ人に劣った何処ぞの民族”扱いになる。劇中、日雇労働の給料をもらおうとした2人は、雇用主から“わざわざ奴隷のスリランカ人を連れてきたんだな”と厭味を言われる。日常に自然と根づいてしまっている差別意識が現れた瞬間がこれなのだろう。

こうした苦境のなかで、アフマッドも差別する側に立つこととなってしまう。2人はヨーロッパのTVクルーからインタビューの申し出を受けるのだが、お金を稼ぐために仕方なく自分たちの悲惨な人生を売り渡す決意をする。そしてメフディアが喋る際、共通言語である英語を彼女が上手く使えないゆえ、アフマッドが通訳をすることになるが、ここで観客は彼が明らかにメフディアの言葉をそのまま訳していないことに気づかざるを得ない。TVクルーが気に入るようにリアルタイムで彼女の言葉を改竄しているわけだ。こうして被差別者が差別者に転じてしまう状況すらも、今作には描かれている。

そんな状況においても、何とかして愛を貫き通そうとする2人の姿は悲壮だ。それでいてここでこそまた効いてくるのが、全編に満ちるあっけらかんとした雰囲気なのである。ここにはどんな過酷な苦境においても生き抜こうとする人間の前向きさが、確かに織り込まれている。そしてこの強かさこそがこの映画の魅力の核でもあるのだ。

再びカウリスマキを話題に挙げさせてもらうと、彼の近作であるル・アーヴルの靴みがき希望のかなたにはアフリカや中東からの難民が登場している。特に後者は主人公がシリア難民と、今作にそのまま重なるものとなっている。こうしてカウリスマキは世界情勢を反映しながら映画製作を行っているわけだが、その意味で“Dirty Difficult Dangerous”という、この極めて政治的な可笑しみに満ちたメロドラマは中東の一国であるレバノンからの、カウリスマキへの応答であるのかもしれない。