鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

映画痴れ者/ライター済東鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

コロンビア映画界の明日について~Interview with Pablo Roldán

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さて、日本の映画批評において不満なことはそれこそ塵の数ほど存在しているが、大きな不満の1つは批評界がいかにフランスに偏っているかである。蓮實御大を筆頭として、映画批評はフランスにしかないのかというほどに日本はフランス中心主義的であり、フランス語から翻訳された批評本やフランスで勉強した批評家の本には簡単に出会えるが、その他の国の批評については全く窺い知ることができない。よくてアメリカは英語だから知ることはできるが、それもまた英語中心主義的な陥穽におちいってしまう訳である(そのせいもあるだろうが、いわゆる日本未公開映画も、何とか日本で上映されることになった幸運な作品の数々はほぼフランス語か英語作品である)

この現状に"本当つまんねえ奴らだな、お前ら"と思うのだ。そして私は常に欲している。フランスや英語圏だけではない、例えばインドネシアブルガリア、アルゼンチンやエジプト、そういった周縁の国々に根づいた批評を紹介できる日本人はいないのか?と。そう言うと、こう言ってくる人もいるだろう。"じゃあお前がやれ"と。ということで今回の記事はその1つの達成である。

さて今回インタビューしたのはコロンビアの映画批評家Pablo Roldán パブロ・ロルダンだ。彼は新進気鋭の批評家であり、コロンビアにおける新興の批評雑誌Cero en conductaでは編集も務めている。正にコロンビア映画批評界を背負って立つ人物である。今回はそんな彼に個人的なコロンビア映画の思い出、Victror Gaviria ビクトル・ガビリアという作家の偉大さ、毀誉褒貶に満ちたCiro Guerra シーロ・ゲーラのキャリア、新鋭作家Lina Rodriguez リナ・ロドリゲスの存在感などなど、コロンビア映画史について縦横無尽に語ってもらった。何と12000字にも渡るボリュームである。この特大コロンビア映画インタビューをどうぞ楽しんでほしい。

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済藤鉄腸(TS):まずどうして映画批評家になりたいと思ったんでしょう? それをどのように成し遂げたんでしょう?

パブロ・ロルダン(PR):私はトリュフォーが言った言葉を信じています。大人になったら何になりたいか聞かれた時、彼は"映画批評家!"と答えたんです。なので私としてはどうして批評家になりたかったについては正確に覚えていません。ただ映画の目録を積み重ねていって、友人や家族と映画について議論していたまでなんです。大学に入学した時、映画批評家でもあった素晴らしい教師たちと出会いました(Andrea Echeverri Jaramillo アンドレア・エチェベリ・ハラミロSantiago Andrés Gómez サンティアゴアンドレス・ゴメスらです)彼らの授業は私にとって天啓のようであり、その道を進もうと思ったんです。そしてブログでの執筆を始め、次から次へと記事を執筆しました。それは特定のラベルについて考えすぎないことにはできない作業でした。可能な限り映画に近づいていき、観たものについて書くことで自身の感情を表現できると分かりました。それは私が叶えるはずだった運命の中に存在する空間のようでした。

全ては映画についての素晴らしい本から培われました。鮮烈に覚えているのは私を形成してくれた本の数々です。トリュフォー「映画の夢 夢の批評」ロメール「美の味わい」それから文学と映画批評の間に存在したAlberto Fuguet アルベルト・フゲ"Las películas de mi vida"です。その頃はコロンビアの批評家の作品を見つけられる限り全て読んでいて(Andrés Caicedo アンドレス・カイセAlberto Aguirre アルベルト・アギーレは"最も偉大な人物"として記憶されています)少し後、セルジュ・ダネの作品全てを読み、それが今まで追い求めたかった批評家というキャリアを行くための最後の一押しになりました。大学を卒業した後、様々なメディアで執筆を始め、映画祭にも行くようになりました。基本的に映画批評家になりたかったのはそうすることで私の人生と映画が分かちがたいものになって欲しかったからです。何が映画かについて理解するための唯一の方法は観客としての自分の経験を書くことだと感じていました。それでこそ何の映画が好きか、それ以外に関してはあまり考えないかについて理解できる可能性がありました。言葉とは論理的なステップなんです。私を形成し、人生を変えた他の経験は映画祭の間に出席したワークショップです。2014年のカルタヘナ国際映画祭(残念ながらもう存在していないですが)と2017年のブエノスアイレス・インディペンデント国際映画祭でのことです。

TS:映画に興味を持った時、どんな映画を観ていましたか? 当時コロンビアではどんな映画を観ることができましたか?

PR:子供の頃、メデジン(私の故郷です)では特に刺激的な映画生活を送ることができました。覚えているのはルイ・マル「鬼火」を観て、戻れないとはどういうことかについて考えたことです。狂気の後に来るものは何か。それに耐えるためたくさんの映画を観ようとしたんです。それから当時、DVDが大きなシェアを誇っていました。何が観られるかについてのカタログは膨大で異質なものでした。それから大学の映画サークルでロッセリーニルノワールを発見したのは私にとってとても重要なことでしたね。メデジンでは世界が見ている風景を見ることができたと思います。小さな映画祭があって、熱心な映画サークルのオーガナイザーがいましたから。さらに大きな経験となったのは、ボゴタで勉強している時にアッバス・キアロスタミ本人に出会えたことです。彼とライク・サムワン・イン・ラブを観る素晴らしい経験に恵まれました。

TS:まず最初に観たコロンビア映画はなんでしょう? その感想もお聞きしたいです。

PR:正確には思い出せませんが、おそらくVictor Gaviria ビクトル・ガビリア"La vendedora de rosas""Rodrigo D: No Futuro"、それかSergio Cabrera セルヒオ・カブレラ"La estrategia del caracol"だと思います。私の小さな頃、コロンビア映画に対しては多くの誤解があり、観るのはゆっくりと恐る恐るでした。それでもコロンビア映画の探求を始めた時、Gaviria自身がとても素敵なコロンビア映画祭を開催していて、それが共同体にまつわる特別な感覚を持っていたんでした。覚えているのはそこで初めてWilliam Vega ウィリアム・ベガ"La sirga"Sebastián Cordero セバスティアン・コルデロ"Pescador"(今作はエクアドルとの共同制作でした)を観て、感銘を受けたことです。その後私はいつもコロンビア映画を探求するようになり、その歴史を知っていくことは義務のようになりました。そして自身の国を考えるにあたり、喜びと正確さを意味していました。そんな時Gaviriaはいつでも大きな存在でありました。彼の作品群は私にとっても他の人々にとっても常に参考元となりました。コロンビア映画に触れることは私にとって誤解を解き、映画がその内側に持つものを見定めることでもありました。それはまるで未知の惑星を見つけ、そこにこそ私たちの物語について考える手掛かりが、バラバラになった国とつながるための手段があると知るようなものでした。Lisandro Duque リサンドロ・デュケ"Los niños invisibles"もまた私にとってとても重要な作品です。それは解放と笑い、柔らかさを意味していました(今作はコロンビアの「大人はわかってくれない」というべき作品です)

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"Los niños invisibles"

TS:コロンビア映画の最も際立った特徴とは何だと思いますか? 例えばフランス映画は愛の哲学、ルーマニア映画は徹底したリアリズムにドス黒いユーモアです。なら、コロンビア映画に関してはどうでしょう?

PR:思うにコロンビア映画は2つの大きなグループに分かれます。1つ目のグループは常に家族、そして血のつながりという考えを描き続けています。コロンビア人として、それは世界で生きていく上でとても重要なんです。家族こそが。家族は全てなんです。それは全てのGaviria作品("Rodrigo D"は主人公と姉妹の荒れ狂う関係性と、母の死後もはや家は元の通りではないという事実を描いています。今作は母の死の後に生きることの嘆きと不可能性を描いているんです。"La vendedora de Rosas"は孤児についての寓話です。家のない人々が夜に溢れかえり、自分自身の何かを探すんです。主人公の少女は最後天国で祖母に迎えられることを期待します。"Sumas y Restasis"はドラッグ密売による家族の崩壊を描いた物語です)であり、さらに家族はDaniela Abad ダニエラ・アバドの2作品、近年でもとても重要なドキュメンタリーでも重要な役割を果たしています。"Amazona""Después de Norma"です。同じことはCiro Guerra シーロ・ゲーラCristina Gallego クリスティナ・ガジェゴ"Pájaros de verano"もそうですね。同じことは"Noche herida"にも言えますね。さらにRuben Mendoza ルーベン・メンドーサ"Tierra en la lengua""Niña errante"は全てが家族にまつわるものです。死によって新しい人生が約束されながら、この世を去ってしまった人々への深い後悔と悲しみを抱かざるを得ないと。家族という概念は常に循環しています。もう1人の"家族の映画作家"はFranco Lolli フランコ・ロジです。彼の作品は全て血の繋がりについて描いています。Lina Rodriguezは繋がりという考えやその繊細さについて映画を作っています。

映画作家たちは家族を受け入れるか、家族から逃げるかという選択を迫られているんです。"El vuelco del cangrejo""La playa D.C."(こちらは逃げることを選んだ作品です)"Los hongos""Todo comenzó por el fin""Virus Tropical"(家族と友人を近づけることは幸福の鍵になると)、"Alias Maria""Dos mujeres y una vaca"(家族の最も極端な形です)。"Los conductos"というディストピア的な寓話においても、最終的には家族についての映画なんです。それは"Matar a Jesús"(主人公の父親が殺されたことをきっかけに起こる復讐譚です)や"Los nadie"(今作はメランコリックで苦い故郷への帰還、母との再会で幕を閉じます)それからCatalina Arroyave カタリナ・アロヤベ"Los días de la ballena"(今作では娘が母のようになろうとできること全てをしていきます、それが人生を危険に晒そうとも)家族は自身によって積み上げられる何かなんです。"Pura sangre""La mansión de Araucaima""La estrategia del caracol"「大河の抱擁」"La sombra del caminante""Los colores de la montaña""Los niños invisibles"を見てみましょう。それから自分のきょうだいが嫌いで友人の方が好きなら"Apocalipsur""Estrella del sur""Silencio en el paraíso""La estrategia del dragón"を観ましょう。それから"Monos""Porfirio""Te prometo entusiasmo"、それから"Por ahora un cuento"は家族にまつわる別の考えをも描いています。最終的に、世界は家族から始まり家族に終わるようであり、家とは善と悪が隣りあって暮らす場所だということです。見ての通り、家族は私たちを国家として規定するんです。コロンビア人が家族に向ける愛や憎しみを過小評価してはいけません。家族がなければ、コロンビア映画というものは存在しません。

第2のグループは、もっとゴダール的なやり方で、イメージの問題と可能性を描いています。一般的に、こういった映画群は映画史の外と内における暴力の発露を注視しています。このグループは当時禁止され今では失われた最初のコロンビア映画"El drama del 15 de octubre"から始まっています。"Pirotecnia""Doble yo""El susurro del jaguar""Los abrazos del río""La selva inflada""Mambo Cool""Mariana"、それにCamilo Restrepo カミロ・レストレポLaura Huertas Millan ラウラ・ウエルタス・ミジャンらのほとんどの作品、さらにFelipe Guerrero フェリペ・ゲレロ"Paraíso""Oscuro animal"Juan Soto フアン・ソトの辛辣な一作"La parábola del retorno"Sebastián Múnera セバスティアン・ムネラ"La torre"Martín Mejía Rugeles マルティン・メヒア・ルヘレス"Nacimiento"Camila Rodríguez カミラ・ロドリゲス"Interior"などです。そしてLuis Ospina ルイス・オスピナの初期短編も入るでしょう。"El bombardeo de Washington""Cali: de película""Oiga""Vea""Acto de fe""Asunción"とそして彼の最も重要な映画"Agarrando Pueblo"ですね。それから美しい"En busca de María"、とても優れた一作"Mucho gusto"、折衷主義的な"Un tigre de papel"、メランコリックで観るのが辛い"Nuestra película"(私にとって"Agrrando pueblo"の次の傑作が今作です)

これらがどんなに素晴らしく大切だとしても、このグループにおいて最も重要な映画はMarta Rodriguez マルタ・ロドリゲスJorge Silva ホルヘ・シルバの映画、特に"Chircales"と素晴らしい傑作"Nuestra voz de tierra, memoria y futuro"でしょう。さらに論争的な作品"Gamín"(今作は孤児についての映画でもあります)やJairo Pinilla ハイロ・ピニージャDunav Kuzmanich ドゥナフ・クズマニッチの作品もあります。このグループにはジャーナリズムに極めて近づこうとした、弁証的で教育的な最初期の作品群も入ります(Acevedo兄弟の短編作品からPatricia Restrepo パトリシア・レストレポ"El alma del maíz"Enock Roldán エノク・ロルダン"Passing"(私たちは親類ではないですよ)、そしてCarlos Mayolo カルロス・マヨロの作品です)ほとんどが50年代60年代の映画で、この頃コロンビア映画は初期段階にありました。そしてもう1本、容易なカテゴリー化を拒む大切な作品があります。José María Arzuaga ホセ・マリア・アルスアガ(彼はスペインで生まれました)はもっと作品を作っていたなら、新しい潮流を作ることができただろう存在です。彼には自分自身の伝統を持っていました。コロンビア人についての自身の考え方があったんです。もちろんすべてのコロンビア映画には言及できませんよ。多すぎますからね。

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"La vendedora de Rosas"

TS:世界で最も有名なコロンビア人映画作家は間違いなくLuis Ospinaでしょう。 "Agarrando pueblo""Pura sangre"といった彼の作品は現代コロンビアの複雑さを描き出しています。しかし、コロンビアで彼と彼の作品はどのように評価されているんでしょう?

PR:Luis Ospinaの影響は大きく、彼の作品群は新しい映画作家にとって今でもとても存在感があります。彼の豪勢で天才的な言葉の使い方を思うと、彼はコロンビアのゴダールだと私は常に言いたくなります。ある意味でそれは真実で、何故なら彼は伝統というものを作り上げた2人の監督(もう1人はVictor Gaviriaです)の1人だからです。他の映画作家の中に、どう独立し不適切であるべきかについての考えやレッスンの源として彼を認識しているという人物もいます。Camilo RestrepoからJuan Sotoまで、彼らはOspinaと共通するものを持っています。彼は人生において祝福された映画作家であり、彼の遺産は今によく受け継がれています。さらに多くの映画監督が彼の作品を心に刻みながら現れることを確信しています。先に言った通り、私の最も好きな作品は"Nuestra película"です。今作は彼が映画において実践した全てを兼ね備えた、特別で小さな秘密のような映画です。暗い物語ですが、輝きと敬意に溢れています。今作こそLuis Ospina的な映画なんです。

TS:私の好きなコロンビア映画の1本はJaime Osorio ハイメ・オソリオ"Confesión a Laura"です。今作を観た時、いかに繊細で心を打つかには驚かされました。しかしIMDBによるとOsorio監督は死までにたった2本の作品しか残していないですね。彼に何が起こったんでしょう? 彼の作品と生涯について教えてください。

PR:私にとって"Confesión a Laura"は天啓とまでは行かなかったと言わざるを得ません。今作は正確な形でインテリアを撮影し、壁や内装から雰囲気を作りあげています。今作はとても文字的な映画で、コロンビアにおける文学の伝統を内包しています。歴史上の重要な瞬間に材を取り、それを背景として、その中間で起こる何かを物語るというものですね。最終的に彼の映画で革命的だったのはそうはならなかったことです。繊細なミザンセーヌは早くも忘れ去られ、コロンビア映画は外へと出たがりました。路地や公共の空間、空の質感や都市を撮影したがったんです。今では今作は誰かが正しい場所に置くのを忘れた、大きなパズルのピースのようです。Jaime Osorioの人生についてはあまり知りませんが、彼に起こったことは他の監督にも起こっていたことでしょう。コロンビアで1つ以上の作品を作るのはとても難しいことで、作品を作り続けるのは才能の問題だけではなく、運や他のコントロールできない要素の問題でもあるんです。

TS:あなたのここ10年で最も重要なコロンビア映画についてのリストを観た時、あなたがLina Rodríguezの2本の傑作"Señoritas""Mañana a esta hora"を入れていることに驚くとともに喜びを禁じ得ませんでした。私もLina Rodríguezは2010年代の最も偉大な映画作家の1人だと思っています。しかし彼女や彼女の作品はコロンビアでどう評価されているのでしょう?

PR:Lina Rodriguezコロンビア映画界の未来です。最も偉大な作家でしょう。才能があり優雅、省略を良しとし実験的、正確で圧倒的かつ感情に溢れています。コロンビアでは彼女の作品はあまり観られていませんし、それは恥でしょう。しかしながらボゴタシネマテークメデジン現代美術館で上映され始め、世界の映画祭が彼女を求めています。彼女は奇妙な状況にあります。彼女はカナダに住んでいるので、"コロンビア映画界"には属していません。しかし問題ではないでしょう。世界中の人々が彼女の才能を認めているんですから。私たちの雑誌Cero en conductaにおいて、彼女の作品を特集したんですが、その記事の名前は"未来の映画"といいます。彼女は正に素晴らしい映画だけしか期待できない存在です。

TS:おそらく世界のシネフィルたちにとっての、コロンビア映画に関する最も大きなニュースは、タイ人映画監督アピチャッポン・ウィラーセタクンがコロンビアで新作"Memoria"を作っているということでしょう。しかしこのニュースはあなた含めコロンビアのシネフィルにどう受け入れられているのでしょうか? 彼がコロンビアを選んだのはコロンビア映画を深く知っているからでしょうか?

ウィラーセタクンがコロンビアを撮影地に選んだのは素晴らしいことです。これを機に世界の映画作家がこの国に来てくれることを願っています。撮影の前、彼はマスタークラスを行い、"Memoria"の詳細について説明しました。そこから彼にコロンビア映画の知識がないのは明らかでしたね。彼は少しだけ"Violencia"(監督はJorge Forero ホルヘ・フォレロ、彼はグループ2の作家に入れるべきでしょう。それから彼は"Memoria"のプロデューサーの1人でもあるので、言及されるのは当然でしょうね)と"La ciénaga"(ルクレシア・マルテル作品とは関係ありません)というサンダンス出品作――おそらく彼はそこで観たんでしょう――に言及しました。後者は法的な問題があまりにも根深すぎて、私含めコロンビアの皆が観ていました。しかしこれらはウィラーセタクンが作りたい作品とは少し違うようです。彼の情熱はコロンビア映画にはなく、風景や武力抗争との関係性に魅了されているようです。思うにこの選択は純粋にビジュアル的でセンセーショナルなものです。ウィーラーセタクンはゲストとして、カルタヘナ国際映画祭で名誉賞を獲得しましたが、そこで既に撮影について考えていたんでしょう。次の年のゲストはティルダ・スウィントンだったので、もう既に全て決まっていたんでしょう。世界のシネフィルと同じように、私たちも期待しています。が、カンヌが不安定な状況にある以上、誰もいつ観られるかは分かりません。

TS:最も重要なコロンビア映画とは一体なんでしょう? その理由も知りたいです。

PR:1本だけですか? もしそうならVictor Gaviria"Sumas y restas"を選びますね。今作は私たちの映画における(そして世界の映画における)麻薬文化や麻薬密売の描き方としてベストです。今作が描くのは試練です。映画が自身の限界を押しあげ、そして当時誰も聞きたくはない事柄についての映画ができあがったんです。そして芸術家として、Gaviriaは私たちに内省を与えてくれました。とても力強いものです。彼の作品は超越し、私たちの歴史における最も暗い瞬間の1つとともに輝かしい離れ業を見せてくれるんです。そして階級差を描くにもとても直感的です。ショックなのはここにコロンビアの全てがあるからです。今作は全てについての映画なんです。

TS:もし1本好きなコロンビア映画を選ぶとするなら、それは何になりますか? その理由も知りたいです。何か個人的な思い出があるんですか?

PR:もう既に言及はしていますが2つほど挙げたいです。Victor Gaviria"Sumas y restas"Lisandro Duque"Los niños invisibles"です。両作とも自分の個人的な思い出に繋がっていて、映画が何をできるかについての天啓ともなりました。私たちを社会として描くだけではなく、私たちの不安がどこから燃えだすかを描き出しているんです。これらは"世界を観客に説明する"ということをしようとはしていません。それとは全く異なるものです。これが時代を読解するということでしょう。

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"Sumas y restas"

TS:2010年代における最も重要なコロンビア人作家は間違いなくCiro Guerraでしょう。「大河の抱擁」"Pajaros de verano"といった彼の作品は世界中の映画祭で批評的に称賛され、コロンビア映画界が世界に躍り出るきっかけを作りました。しかし彼と彼の達成はコロンビア国内でどのように評価されているんでしょう? あなたの自身の意見はどのようなものですか。

PR:Guerraに関しては意見が真っ二つに分かれています。一般大衆にとって、彼はコロンビア映画界が持つ最も素晴らしい功績です。彼の作品は議論を呼びます。そうして彼の映画のコンセプト周りで激しい論争が引き起こされる訳です。例えば「大河の抱擁」が公開された際、Guerraがアマゾンやそこに住む人々を描きだす方法についてかなり議論がありました。強く反応する人々もいました。私としては"Pájaros de verano"は完全な失敗作です。風景に関わりすぎて、崩壊についての物語が映画それ自体に成り代わってしまうんです。つまり全てが崩壊してしまったと。今作に関する議論はさらに激しいものとなりました。麻薬取引において、歴史の専門家たちは間違いなく大部分が間違っていると指摘したんです。今作が地獄行きを運命づけられた家族の退廃的な自画像であるとしてもです。Guerraは間違いなく才能がありますが、彼の作品に感動したことはあまりありません。Guerraの初めての英語映画もA級の俳優を揃えていますが、これもまた完全な失敗作です。彼は俳優を盗まれた装飾品のように撮り、全てが奇妙なペースで進んでいきます。この映画は四隅に追いやられた監督によって作られたんです。救えるものは何もありません。Guerraは観客からの注目を求め、彼らが作品に興奮することを期待しているんです。結局彼は些か有難迷惑すぎるやり方で映画を作っている訳です。

TS:2010年代も数か月前に過ぎました。聞きたいのは、2010年代の最も重要なコロンビア映画とは何かということです。例えばCiro Guerra「大河の抱擁」Franco Lolli"Litigante"Alejandro Landes"Monos"などがありますが、あなたの意見はどのようなものでしょう?

PR:2010年代は"El vuelco del cangrejo"というとても力強い作品で始まりました。ゼロ年代"Sumas y restas"が成し遂げたように、ある種の話題に対する見方を変えてしまったんです。今作は暴力と孤立についての映画で、慎み深い静謐と最も鋭い比喩表現から作られました。映画製作に新しいスタンダードを用意したんです。いち監督がコロンビアの最も遠い場所に蟠る感情をどう描き出すかを想像するうえで、今作は天啓のようでした。kの映画作家たちの独立した新しい潮流の始まりは、悲しいことに結実することはありませんでした。今作のエネルギーはすぐさま蒸発してしまったんです。それでもこの瞬間は10年のピークでした。

他方で、私が思うに"Señoritas"が趨勢を変えました。今作は今まで観たことのない作品だったんです。コロンビアに住んではいない監督が青春の生のビジョンを提示しえたのは初めてのことでした。彼女の作品は最初から特色がありました。彼女の世界が映画の中で完全に開かれていたんです。ここ10年でも本物の傑作でしょう。今作のエネルギーは未だに共鳴していて、特に若い作家たちは自身の友人たちを撮影したり、自身の困難だった時期についての作品を作ったりしています。"Señoritas"がなければ、 "Días extraños"や都市を描き出した作品群が作られるとは考えられなかったでしょう。"Señoritas"、コロンビアで最もフェミニスト的で、最もフェミニスト的視点を持った作品(主人公は夜の街を独りで歩くとともに、彼女のヒールの音が路地に響き渡るんです)は新しい世代の自画像であり、観られるべきものです。全ての素晴らしい芸術と同じく、今作は誤読されて十分に注目されてはいません。この状況が変わることを願っています。Lina RodriguezJuan Sebastián Quebrada フアン・セバスティアン・ケブラダSara Fernández サラ・フェルナンデス(彼らは"Los niños y las niñas""Los innombrables"の監督です)、それからJerónimo Atehortúa ヘロニモ・アテオルトゥア(短編映画"Becerra"の監督です)らとともに新しい伝統を作っていくでしょう。もっと時代と映画史に近づいた伝統です。どうなっていくかは追々分かります。

TS:コロンビア映画の現状はどういったものでしょう。外側からだと、とても良いものに思えます。シーロ・ゲーラ以降も、新しい才能が有名な映画祭にどんどん現れています。例えばトロントLaura Mora Ortega ラウラ・モーラ・オルテガ、ベルリンのSantiago Caicedo サンティアゴカイセ、そしてカンヌのFranco Lolliなどです。しかし内側からだと現状はどのように見えるでしょう?

PR:状況は不安定なものです。あなたの言う通り、新しい才能はいますが"古い"才能は脇に追いやられています(William Vega"Sal"は完璧な例です。素晴らしい映画だのに誰も注意を払わないんです)コロンビアは新しい才能だけに注目して、去年注目していた新しい才能の新作は追おうとしないという風です。しかし未来に期待できます。Laura Moraは8月に新作を撮影する予定です。他にもたくさんの待機策があります。誰も語らない事実にコロンビアの短編映画がいかに健康的かということがあります。Andrés Ramírez アンドレス・ラミレスという催眠的な傑作短編"El edén"の監督は現在初長編を準備しています。最高のものはもうまだ見つかっていませんが、監督たちの進歩に注目する必要があるんです。

TS:それからコロンビアの映画批評の現状はどうでしょう? 外側からだと批評に触れることはほぼできません。ですが内側からだと、現状はどのように見えてくるでしょう?

PR:現状は曖昧なものです(質というものが常に問題になります)新しい才能はどんどん現れ、彼らを読解する新しい手法もたくさんあります。同僚や友人たちとともに、私たちは映画雑誌を作り、映画に関するもっと長く多様性のある洞察を深めようとしています。簡単なことなどありません。この国において映画批評の健康というものは私たちがどう新たな議論を起こせるかに左右されています。映画批評家はメインの雑誌や新聞からは排除されているので、新しい何か現れる必要があります。だからこそ映画雑誌を刊行したんです。にも関わらず、コロンビアの映画批評の歴史は大きなもので、偉大な作家が多くいます。Andrés CaicedoAlberto Aguirreに加えて、Luis Alberto Alvarez ルイス・アルベルトアルバレスもとても重要な存在です。映画批評が止まったことはありませんが、需要を満たすためには常に深刻な問題の数々に直面してきたんです。

TS:コロンビア映画界において最も注目すべき才能は一体誰ですか? 例えば私としては独自の映画的言語を持っている意味でCarla Melo カルラ・メロLaura Huertas Millánを挙げたいです。しかしあなたのご意見は?

PR:もう1度Lina Rodriguezの名前を挙げてもいいですか? それから短編の分野からも新しい才能は現れていますね。MeloやMillán、それからMónica Bravo モニカ・ブラボーAndrés Ramírez アンドレス・ラミレスSara Fernández サラ・フェルナンデスJharol Mendoza ハロル・メンドーサ、そしてSebastián Abril セバスティアン・アブリルを挙げたいです。

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"Mañana a esta hora"