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映画痴れ者/ライター済東鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

Anja Kreis&“Fără suflet”/モルドバ、神は与え奪い去る

さて、モルドバである。日本だとこの国はウクライナに隣接しているがゆえ、ウクライナ侵攻の影響をモロに受けて情勢不安が続いていることが有名かもしれない。そして憲法において公用語の“モルドバ語”が“ルーマニア語”という記述に改正されたという報道を聞いたことがある方もいるだろう。それはこの国がソビエト連邦に植民地化されており、現在でも少なくない数のロシア人が居住しているが、彼らと元々の住民であるルーマニア人が対立することで起こった出来事でもある。ルーマニア人側は自分たちと過去の植民地支配によって培われた文化を切断したいわけだ。モルドバという国が置かれた状況はなかなかに複雑なものだが、今回はそんな国の現在を見据える不穏な1作、Anja Kreis監督作“Fără suflet”(英題:“The Alienated”)を紹介していこう。

今作はXとだけあらすじで紹介されるモルドバの町を舞台とした作品となっている。ここにとある姉妹が暮らしている。妹のヴァルヴァラ(Maria Chupriskaya)は哲学教師として生計を立てており、近隣の大学でヘーゲルニーチェなどのドイツ哲学を教えている。そして姉であるアンゲリカ(Dana Ciobanu)は外科医であり、以前はモスクワで勤務していたのだが、何かの理由で故郷へ舞い戻り、今はこの町の病院で働いているのだった。

物語はこのヴァルヴァラとアンゲリカという姉妹を中心として展開していく。ヴァルヴァラは無神論的な哲学を教える傾向にあり、ある時にはニーチェの“神は死んだ”という言葉を生徒たちに教授する。だが敬虔なキリスト教信者であるイモゼツェフ(Epchil Akchalov)という生徒がテストでその無神論的な傾向に意義を唱えた際、彼を落第させてしまう。一方でアンゲリカは外科医としての手腕もあり地元の名士として称えられていたが、ある秘密を抱えていた。彼女は勤める病院で違法に中絶手術を行っているのだ。

この陰鬱な物語において、Eugeniu Dedcovによる撮影は長回しを主体として姉妹を執拗に追跡するようなものとなっている。それはまるで亡霊のごとき第3の存在が彼女たちに取り憑き傍らから一切離れることがないと、そんな不気味な印象を与えるものだ。こうして登場人物の表情や身振り、空間内で起こる出来事の数々がカットの介在しない途切れぬ時間のなかで描かれていくことで、それらはより生々しい形で画面に刻まれることになる。そうして場を支配する息詰まるような緊張感が観客に肉薄していくのだ。

こうして今作はスリラー作品としての様相を呈し始め、脚本も兼任するKreisは姉妹をその人間性を問うような場所へと追い詰めていく。イモゼツェフは単位を何とかもらうためにヴァルヴァラに付きまといだし、彼女はその嘆願を意にも介さず落第という事実を突きつけ続けるのだが、彼は徐々に常軌を逸脱していくことになる。さらにアンゲリカの元には、お腹の子はアンチクライストだと主張する女性が現れる。いつもの行程で彼女に中絶手術を施しながら、後日がアンゲリカの目の前で彼女が死亡するという事件が起き、病院内に波紋が生まれてしまう。

このように姉妹に関する描写を積みあげていきながらも、今作はそこからXという町の状況にも目を向けていくことになる。例えば新聞にアンゲリカを称える記事が掲載されるのだが、これはある政治家の差し金だった。これと引き換えにぜひ自分に票を入れてほしいと彼はアンゲリカに頼むのだ。そういった町の現状をほのめかす場面が、映画の細部に表れていく。被写体と同時に空間そのものも際立つ長回し撮影も相まり、姉妹の姿からはXの現状すらも見えてくる。それはまるで彼女らが否応なしにより大いなる社会の一部であることを象徴かのように。

今作において際立つ要素の1つが女性差別だ。モルドバでは妊娠12週までは中絶が無条件に認められているが、それ以降は強姦による妊娠や梅毒などの性病といった理由がなければ中絶が認められないなど、その権利に制限が存在している。それが理由で違法な中絶手術が行われざるを得ない状況は最も露骨な女性差別の表れだろう。女性が自分の身体を自分でどうにもできないという男性中心的な現状、これをある種救うためにアンゲリカは違法の手術を続けているわけだが、これをひた隠しにせざるを得ないゆえ彼女の精神が歪んでいく様を観客は目にすることになる。

そしてヴァルヴァラは職場における女性差別に日々直面することになる。会議の場では彼女がいるのを知りながら娼婦に対する好みなど性差別的な会話を男性教師たちが繰り広げるという場面も存在する。おそらくセクハラ行為も日常茶飯事だろうこともその空気感からほのめかされる。女性の少ない職場においてこうした扱いをされるヴァルヴァラの反感や心労は想像するに余りある。

この性差別的かつ保守的な状況で生き抜くためのヴァルヴァラたちの術こそが“神は死んだ”というニーチェの言葉に象徴されるような無神論なのだというのが、物語が進むにつれて伺えてくる。ヴァルヴァラほど積極的に神を否定することもないが、アンゲリカもまたキリスト教を信じる素振りは見せることなく、より即物的な形でこそ社会を生き抜こうとしている。その帰結が違法性を熟知しながら行う手術なのかもしれない。

こういった無神論的な姿勢に対して、神と、そして神への信仰がまるで逆襲として彼女たちに降りかかる様をも私たちは目撃することになる。それは手術を行うアンゲリカを見舞う不気味で不可解な事件であり、無神論を標榜するヴァルヴァラにその再考を問う信仰に篤いイモゼツェフであったりする。それに追い詰められ、姉妹は神への信仰というものを根本から問わざるを得なくなるのだ

これらはより普遍的な要素であるが、ここにさらにモルドバ特有の要素も重なりあってくる。このXという町が特徴的なのは姉妹ひいては町民たちがロシア語とルーマニア語の両方を日常言語として使用するところである。姉妹は基本的にロシア語を使用しながら、時にはルーマニア語で意思疎通を図るという場面が頻出する。私が観たFestival Scope Proの紹介ページでは使用言語が“ルーマニア語”と書かれていたが、使われているのは多くの部分においてロシア語だ。私はルーマニア語に関してはちょいちょい理解できるのだが、実際この2言語は発音に関してかなり似通っている。ルーマニア語はフランス語やイタリア語と同じロマンス語でありながら、使用圏であるルーマニアモルドバが、ウクライナセルビア、そしてロシア/ソ連といったスラブ語圏に囲まれていたゆえ、発音がその影響を多分受けているからである。ソ連に植民地化されていたモルドバなら尚更だ。この言語使用の特異な状況が、普遍性もしくはヨーロッパ性を越えた今作とモルドバの特殊性を常に意識させるのだ。

こうして普遍的な要素と独自の要素が交わりながた凄惨な光景の数々が連なっていくなかで、“Fără suflet”という映画はその凄惨さ、不穏さにこそモルドバの今を見出す。そして終盤における不穏も極まった展開の数々に、監督のモルドバという国への想いを見えてくるのだ。