鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

映画痴れ者/ライター済東鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

Fidel Devkota&“The Red Suitcase”/ネパール、世界を彷徨う亡霊たち

さてさて、この鉄腸ブログでは何度も書いているが、最近にわかにネパール映画界がアツいことになっている。この国の新鋭たちの作品が2022年辺りからサンダンスやロッテルダムなどの有名映画祭に続々と選出されているのだ。そして2023年、その中でもより特権的なヴェネチアトロント長編映画がそれぞれ選出されたのを目撃した時、私のなかでネパール映画界の今後10年における躍進を確信したのである。ということで今回は中でもヴェネチア国際映画祭オリゾンティ部門に選出された、Fidel Devkotaによる第2長編“The Red Suitcase”を紹介していこう。

今作の主人公は名もなきトラック運転手(Saugat Malla)だ。彼はトラックを駆り、日々ネパールの各地へと荷物を届けるという仕事をしている。この日も彼は中東はカタールからやってきたという大きな荷物を受け取った後、首都カトマンズにある空港から山奥にあるという目的地に向けて出発するのだった。

まずこの映画は、そんなトラック運転手の旅路を静かに見据えることになる。ラジオの音声を相棒としながら、彼は黙々とトラックを走らせていく。時折ガソリンスタンドなどに止まりはするが、基本的には脇目をふることもなく目的地を目指す。周囲の景色は都市のそれからあっという間に山岳地帯のそれとなっていくのだが、その美しい自然は長閑にも見えながらその実崇高で険しいものだ。だが完全に慣れているのだろう、運転手はひたすらにトラックを走らせるのみだ。

Sushan Prajapatiによる撮影は長回しを主体としながら、主人公やトラック、彼らを包みこむ大いなる自然の数々を静かに見据えている。目前に広がるありのままを映し取ろうという風な姿勢は世界を観察する科学者の視線を思わせるものだ。その感触は冷ややかなものであり、例えレンズに浮かぶ風景がいかに美しくとも、どこか不穏な印象を常に観客に与えることになる。

旅の途中、運転手を予期せぬ事態が襲う。突然トラックが故障してしまい、道で立ち往生することとなってしまったのだ。しかし通りすがりの男から、自分は茶屋を経営しているのだがそこで休んでいかないかとの申し出を受ける。最初は躊躇しながらも背に腹は代えられないということで、運転手は男の優しさに甘えることにする。最初は男の世話を有り難く思うのだが、彼の態度は少しずつ奇妙なものとなっていく。

謎の男の登場から今作はそのテーマ性を露わにしていく。彼に勧められるがままに酒を飲み酩酊していく運転手だったが、酔いの勢いのままに運転手は驚くべき打ち明け話をする。彼が学校に通っていた頃、恩師である教師が毛沢東主義者によって嬲り殺しにされたというのだ。恩師が受けたという凄惨な暴力について語った後、運転手は自然とネパールという故国への呪詛をブチ撒け始める。この国において弱者は見捨てられる。その光景を目にする若者たちは必然的に国を捨て、国外へと逃げるように去ってしまう。こんな状況でネパールという国が存在していると本当に言えるのだろうか?

だがだからといって国外の生活がより良いものかといえば、それは違う。国際化という現象は小国の人間を労働力として搾取することでこそ成り立っている。この華々しく、可能性に満ち溢れたように見える現象の裏側には現代の奴隷労働こそが存在している。ネパールにおいては国外、例えば中東の富裕国で出稼ぎ労働者として働く人々も、ネパールに残ることを選んだ人々も等しく国際化に絡め取られ、酷使の末にボロ雑巾さながらに打ち捨てられる。

国際化という現象で重要な要素は物流だろう。この100年、車や飛行機といった輸送機はもちろん、陸海空を股にかける輸送路の発展によって物流は急速に、世界的な展開を遂げ、その勢いは留まるところを知らない。何もかもがどこにでもすぐ届くという状況は、つまり世界の一元化であり、この状況では欲望は加速度的に広がっていく。今作において、その限りなく逼迫した状況を象徴するのがトラック運転手である主人公なのだろう。全てがあまりにも開かれすぎ、そして緊密に繋がりすぎているがゆえに、仕事が終ることがない。そしてその仕事というのは……

この主人公の疲労感に満ちた道行きとともに、もう1つ描かれる道行きがある。物語の合間にはスーツケースを持った作業着の男(Prabin Khatiwada)が登場する。彼は運転手以上に黙々と、何処かを目指して歩き続けるのだ。街中、山道、森の中。どんなに険しく見える場所でも気にもせずに彼は歩く。

彼の存在こそが、今作にホラー的な趣きという別の層をもたらしている。とはいえいわゆるジャンプカットなどの観客を怖がらせようとする、扇情的な演出が行われことは一切なく、むしろもっと霧のなかに亡霊が佇んでいるといった、幽幻な雰囲気こそを醸し出すような演出が多く取られているゆえだ。観ているうちにどこか落ち着かなくなる、観客をそんな状態に陥らせることを目的としている風だ。

こういった演出法は、例えば長回しを効果的に駆使しながら世界観を丁寧に構築してきたシャンタル・アケルマンタル・ベーラらの作品、もっと言えばスローシネマの系譜に属する映画を彷彿とさせるものである。しかし監督の采配で独特なのは、このスローシネマ的な演出法をホラー映画に適用している点である。数日前にPerivi John Katjaviviというナミビアの新人監督による長編“Under the Hanging Tree”(レビュー記事はこちら)を紹介したが、ここで私は、今はジャンル映画をスローシネマ、もしくは実験映画の方法論で再構築し、その物語を新たに語り直していく新鋭が多く現れ始めていると記した。Fidel Devkotaはネパールにおいてこの潮流に共鳴する存在なのかもしれない。

そしてネパール新世代の作品を何作も観て感じたのは、霊的な存在とそれにまつわる出来事を描きだす作品の多さである。例えばSunil Gurungによる短編“Windhorse”は妻/母の死をきっかけにネパールの寺院を行脚する親子を描いた作品であったし、このNiranjan Raj Bhetwal監督作“The Eternal Melody”は亡くなった夫が心置きなく向こうの世界へ行けるよう奔走する女性の姿を描いていた。どれもネパールにおける霊的存在への畏敬を感じさせるものだったが、今作もやはりこの畏敬の念に裏打ちされた作品であり、これが国際化によって踏み躙られることへの怒りもまた存在している。これらの要素を描くにおいてホラーというジャンルが選ばれたのには全く説得力がある。

故郷であるネパールという国を心から憎みながらも、小国を下僕の立ち位置に追いこむ国際化にも与することができない。“The Red Suitcase”はそんな複雑な思いを抱える人々の悲哀、そして怒りを格調高いホラーとして描く1作だ。それでいて本作はネパール映画界の新世代到来を告げる記念碑としても記憶されるべき作品なのだ。

Wissam Charaf&“Dirty Difficult Dangerous”/レバノン、愛ってだいぶ政治的

さて、レバノンである。この国は人口1人当たりの難民受け入れ数が最も多い国としても有名だろう。近隣国であるシリアやパレスチナからの難民が多く押し寄せるゆえである。更には地中海を挟んでアフリカ大陸にも距離が近いので、そこから難民や移民たちがやってくるという事情もあり、レバノンにはこの2つの地域からやってきた人々が混ざりあいながら生活をしているわけだ。今回はこういった背景から紡がれるレバノン発の奇妙なメロドラマである、レバノンの新鋭作家Wissam Charafによる第2長編“Dirty Difficult Dangerous”(アラビア語原題:حديد، نحاس، بطّاريات)を紹介していこう。

今作には主人公が2人存在している。アフマッド(Ziad Jallad)はシリア内戦を逃れてレバノンへとやってきた難民だ。彼は同じシリア難民たちが身を寄せあうスラムに暮らしながら、屑鉄集めによって何とか糊口を凌いでいる。一方でメフディア(Clara Couturet)はよりよい未来を求めてこの国にやってきたエチオピアからの移民である。彼女はとある中産階級の家庭で認知症の老人を世話する介護士として働いているのだが、過酷な職務に神経を磨り減らし、生活をやっていくだけで精一杯という状況だった。

そんな2人は恋人同士であり、暇を見つけては愛を語りあっており、それが人生唯一の希望といった風にもなっている。だが彼らの愛はレバノン社会において常に危機に瀕している。シリア難民の増加によって治安の悪化を懸念してか、彼らには外出禁止令が出されており、アフマッドは屑鉄集めをするのも一苦労だ。そして道を歩いているだけでも町の住民たちから因縁をつけられ、酷い時には暴力を振るわれることすらある。故に彼がメフディアと会うのも命懸けの行為となってしまう。

メフディア自身の状況もアフマッドとは別の意味で過酷なものだ。介護士としての生活は敬意を持たれず、雇い主であるレイラ(Darina Al Joundi)からも邪険に扱われている。さらに被介護者であるイブラヒムは病ゆえに徘徊行動などを繰り返し、時にはメフディアに襲いかかろうともする。これでは心が休まるわけもなく、だからこそ危険を犯してでもアフマッドとの逢瀬を果たそうとするわけだ。彼との時間だけが心休まる時間なのだから。

このようにして2人の置かれた状況は相当に深刻であり、物語も必然的に重苦しいものとなっているのだが、これらとは裏腹に劇中に満ちている雰囲気は不思議なほどあっけらかんとしたものだ。“間が抜けている”と形容すると軽薄に響きすぎるかもしれないが、今作はなかなかに笑える作品なのだ。物語の深刻さを登場人物たち自身があまり理解していないといった風に、彼らは何だか妙な行動を繰り返す。そしてその妙な行動を繰り返す妙な登場人物たちを、俳優陣は真顔で、かつ律儀に演じる。そう、演じている感がもう露骨なのである。この乖離が何だか笑えるのだ。

この虚構性バリバリで妙な雰囲気を、撮影監督のMartin Ritは技術的な面から支えている。一見するなら彼の照明の当て方がめちゃくちゃわざとらしいことに観客は気づくはずだ。今作に浮かびあがる光と影は自然さとは真逆を志向しており、今作が虚構であることを堂々と提示しているようですらある。こんな不自然な世界でアフマッドやメフディアは真顔で妙なことをやらかしていく。ここから先述したような可笑しみが溢れてくるのである。

ここで想起するのがフィンランドの奇才アキ・カウリスマキである。今ちょうど日本でも最新作である「枯れ葉」が公開中であるが、彼の作品を特徴づける真顔のユーモアに似たものが今作にも現れているのだ。実際に監督のCharafは好きな映画監督としてロベール・ブレッソンユイエ=ストローブとともにカウリスマキの名前を挙げており、彼からの影響が伺い知れる。妙な登場人物たちを慈しむような手触りも、作風として共鳴するものがあるように思えてならない。

そんななかアフマッドとメフディアに大きな危機が訪れる。仕事場で密会しているのを知られたメフディアは、彼と会うことを止めなければエチオピアに強制送還すると通告されてしまう。彼らの愛は文字通り禁断のものとなってしまったわけだ。最初はこの通告を守りアフマッドを遠ざける彼女だったが、最後には彼への愛こそを選び取ることになる。こうして2人は愛の逃走を繰り広げることになるのだったが……

ここから監督がHala DabajiMariette Désertと共同で執筆した脚本は、より政治的なものとなっていく。ここで際立つのが人種間に存在する厳然たる権力勾配である。シリア難民であるアフマッドはレバノンで差別される存在でありながら、それでもアラブ人である意味では多数派に属することになる。そして彼の傍らにいる肌の黒いメフディアは“アラブ人に劣った何処ぞの民族”扱いになる。劇中、日雇労働の給料をもらおうとした2人は、雇用主から“わざわざ奴隷のスリランカ人を連れてきたんだな”と厭味を言われる。日常に自然と根づいてしまっている差別意識が現れた瞬間がこれなのだろう。

こうした苦境のなかで、アフマッドも差別する側に立つこととなってしまう。2人はヨーロッパのTVクルーからインタビューの申し出を受けるのだが、お金を稼ぐために仕方なく自分たちの悲惨な人生を売り渡す決意をする。そしてメフディアが喋る際、共通言語である英語を彼女が上手く使えないゆえ、アフマッドが通訳をすることになるが、ここで観客は彼が明らかにメフディアの言葉をそのまま訳していないことに気づかざるを得ない。TVクルーが気に入るようにリアルタイムで彼女の言葉を改竄しているわけだ。こうして被差別者が差別者に転じてしまう状況すらも、今作には描かれている。

そんな状況においても、何とかして愛を貫き通そうとする2人の姿は悲壮だ。それでいてここでこそまた効いてくるのが、全編に満ちるあっけらかんとした雰囲気なのである。ここにはどんな過酷な苦境においても生き抜こうとする人間の前向きさが、確かに織り込まれている。そしてこの強かさこそがこの映画の魅力の核でもあるのだ。

再びカウリスマキを話題に挙げさせてもらうと、彼の近作であるル・アーヴルの靴みがき希望のかなたにはアフリカや中東からの難民が登場している。特に後者は主人公がシリア難民と、今作にそのまま重なるものとなっている。こうしてカウリスマキは世界情勢を反映しながら映画製作を行っているわけだが、その意味で“Dirty Difficult Dangerous”という、この極めて政治的な可笑しみに満ちたメロドラマは中東の一国であるレバノンからの、カウリスマキへの応答であるのかもしれない。

Perivi John Katjavivi&“Under the Hanging Tree”/ナミビア、血の過去とそして現在

アフリカ南部に位置するナミビア共和国、この国とドイツの間には負の現代史が横たわっている。欧米列強の1国として領土の拡大を目指し、ドイツは1884年から1915年に南西アフリカを植民地支配していた。その支配の最中、この地に住んでいたヘレロ、ナマの両民族が1904年に反乱を起こすこととなる。だがドイツ軍は“民族の絶滅”を旨としてこの反乱を徹底的に弾圧、そして数年をかけて数万もの人々が殺害される。ヘレロ・ナマクア虐殺と呼ばれるこの虐殺は後のナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺に繋がったとも言われ、100年経った現代でも両国間で長く懸案となってきたが、2021年にドイツが大量殺戮を認めとうとう謝罪と賠償が始まった。さて今回は、この血塗られた現代史を背景とした全く異色なナミビア映画、Perivi John Katjavivi ペリヴィ・ジョン・カチャヴィヴィ監督作“Under the Hanging Tree”を紹介していこう。

今作の主人公はクリスティーナ(Girley Jazama)という女性だ。彼女はサバンナの片隅にある小さな町の警察署で働いている。現在捜査しているのは、近くの大農場で家畜が殺害されその遺骸が放置されるという事件だ。クリスティーナの捜査を嘲笑うかのように家畜は次々と殺されていき、その山は大きくなっていくばかりだ。このあらすじからも読み取れるように、今作はまず刑事ものというジャンル映画として幕を開ける。不気味な事件を孤独な刑事が捜査していく中で、更なる事件が巻き起こっていく……このありがちな筋立ては、しかし今後の驚くべき跳躍への助走であることが後々分かってくる。

事件の頻発する大農場の持ち主がグスタフ・フィッシャーとその妻エーファ(Dawie Engelbrecht & Roya Diehl)である。彼らの夫婦仲は事件の以前からもはや冷え切っており、会話をするにしてもその視線が交錯することもほとんどない。物語の途中、観客はそんな夫婦の荒涼とした夫婦生活を目撃させられることになる。そこには常に不穏な静寂がつきまとっており、私たちはその破綻がそう遠くない時に来るという予感をも味わわされることになるだろう。

果たしてその悲劇は起こってしまう。ある日、グスタフが死体となって発見されることになる。彼の死体は農場にあるオムムボロンボンガ Omumborombongaという大樹に吊るされているという悲惨な状況を呈していた。クリスティーナはこの殺人事件の捜査を開始するのだが、エーファは夫が亡くなったにも関わらず平然とした態度を取っており、そこに疑念を向けることになる。

こうして今作は刑事ものの王道を行き、脚本の展開自体もそれを踏襲するような進み方をしていく。だが徐々に私たちはこの映画がそこを逸脱する独自の要素を数多く持っていることにも気付かされるだろう。まず顕になるのは、今作が持つ無二の背景である。捜査の最中、クリスティーナはグスタフがオイゲン・フィッシャーという科学者の子孫であることを知る。フィッシャーは医学、そして優生学を研究していた人物であり、ナチス党員でもあった。ナチスユダヤ人や障害者を劣った存在と見なし虐殺を行っていたが、その背景には優生学の知見があり、こういった研究を牽引する存在の1人がフィッシャーであったのだ。そして彼がこういった優生思想に傾倒するきっかけとなったのは、ドイツ領南西アフリカ、つまり今のナミビアでの“混血”の研究だったのである。そしてその研究を始めたのは1908年、ヘレロ・ナマクア虐殺の末期だった。

このようにグスタフ殺害の裏側にはナミビアとドイツの間に横たわる忌まわしき過去が存在しているのだ。虐殺自体は100年以上前の出来事でありながらも、国同士としては勿論のこと、個人間や人種間においてもこの傷は未だに清算されていない。そしてこの因縁はクリスティーナの血にも滲みこんでいる。彼女はヘレロ人、つまりドイツ軍によって虐殺された民族の子孫なのである。彼女自身はこの出自から目を背けて生きてきながらも、事件をきっかけとして正面から対峙せざるを得なくなる。そんな彼女の姿を通じて、監督はナミビア現代史の闇へと潜行していくこととなるのだ。

この背景の異様さとともに、監督による演出もまた一線を画した切れ味を伴っている。冒頭からして観客は今作が只ならぬものだということに気づかざるを得ないだろう。闇のなか、不穏に燃える焚き火の前、そこに座りこんだ男が延々と呪詛を吐き散らかす。これが不動の長回しによって提示されるのを何分も観客は見せつけられるのだ。血、死、亡霊。振り返るならこれはナミビアとヘレロ人の被った悲劇を仄めかすものであったが、それと同時に今作そのものの異様さをも予告するものでもあったと分かる。

撮影を担当するのはRenier du Bruynという人物だが、その撮影は他のジャンル映画のそれとは全く異なっている。カメラ位置はほとんどの場合、クリスティーナら登場人物からは隔たっている。少なくともその顔や体の部位にクロースアップするということは滅多にない。ここにおいて主役となる被写体は彼らのいる部屋か、もしくは彼らがポツンと佇むサバンナ、言うなれば空間そのものなのだ。ゆえにここにおいてはカメラと登場人物の距離は物理的には勿論、精神的な意味でより遠い。彼らを世界の主役でなく、あくまで一部として観察するという科学者のような冷えた視線が常に存在している。

そして編集を担当するKhalid Shamisはロングショット多用のこの風景を、長回しという形で持続させ続けていく。通常ならばカットはテンポよく割って、観客の注意を掻き乱すというのがジャンル映画の方法論というものだが、今作はスローシネマ的な瞑想の状態へと観客を誘い込むような方法論を取っている。であるからして編集の流れは物語の議論を呼ぶだろう煽情性とは裏腹に、奇妙なほどゆったりしているのだ。

それでいてこの永遠にも思えるほど引き伸ばされた時間には、一刻の後に何か悍ましいことが起こるのではないかという予感にも満ち溢れているのにも、観客は気づくはずだ。この雰囲気に寄与するのが音という要素である。まずMpumelelo McataJoão Orecchiaが担当する音楽はノイズ主体の前衛的なジャズといったものになっている。全編通じてこのジャズが流れるのだが、ずっと聞き続けていると三半規管が惑わされるような感覚すら覚える。そこではナミビアの闇は迷宮ともなっていくのである。

この劇伴と並びたつのが音響だ。今作では音楽が鳴らない場面においても、常に画面外から自然音や日常音が響き続けているのだ。闇のなかで燃える薪のパチパチいう響き、サバンナの大地を撫ぜる風の響き、自然のそこかしこに潜みながら生きている虫の響き。こういった音が増幅されながら、何処からともなく響き続けているのだ。画面外にも世界が確かに広がっているのだという畏怖にも似た予感を、観客は執拗に喰らわされていく。今作を観ている、いや聴いている時に観客が心を休められる時間はほとんどない。

このように今作の演出は刑事もの、もしくはB級ノワールといったジャンル映画の方法論からは面白いほどに逸脱している。その方法論はむしろスローシネマ、もしくは実験映画にこそ近いものだ。物語を語るというよりも、映像詩を紡ぐことにこそ注心している印象を受けるのだ。ここで思い出すのは映画作家ケリー・ライカートだ。彼女はロードムービー(「リバー・オブ・グラス」)や西部劇(「ミークズ・カットオフ」「ファースト・カウ」)などのジャンル映画を、例えばJames Benning ジェームズ・ベニングPeggy Ahwesh ペギー・アーウィッシュといった実験映画作家の演出法に学んだうえで再構築していっている。

私は数々の日本未公開映画を観るなかで、少なくとも劇映画においては、実験映画の方法論を有機的に取り入れ、その技術を以て物語(特にジャンル映画)を解体していき、新しく創り直す映画作家が2010年代以降続々と現れているという感覚がある。ライカート然り、ジョナサン・グレイザー然り、この鉄腸ブログで紹介した作家としてはEduardo Williams エドゥアルド・ウィリアムスや、Hilal Baydarov ヒラル・バイダロフなどがその作家にあたる。

そして今作の監督であるPerivi John Katjaviviはその系譜の最先端に属する新鋭なのではないかと私は直感したわけである。今ちょうど「ファースト・カウ」「ショーイング・アップ」の公開で、日本の観客もライカートを発見している最中と思うが、もしかするなら皆が彼女に感じるものと同じ類の驚きをこの“Under the Hanging Tree”を観ている時に味わったと言えるかもしれない。上述の作家たちの映画を観ていたゆえ、私はこれこそが劇映画の行くべき道という確信があるが、その系譜にある作家がナミビアという映画界においては比較的無名な国から現れたことは予想外ながら、これこそが日本未公開映画を観る醍醐味でもあると思った次第だ。

“Under the Hanging Tree”ナミビアの忌まわしき過去へと深く潜行し、そこに満ちる血塗られた闇を抉りだすことによって、ナミビアの現在を浮かびあがらせていく。そしてそれは映画の現在、その最先端へと躍り出る試みともなっている。驚くべき新鋭監督が現れたものだ、ということで監督の今後に期待!

Wendy Bednarz&“Yellow Bus”/その国の名は、アラブ首長国連邦

さて、アラブ首長国連邦(UAE)である。この国の映画を観たことある方は……実は意外と多いかもしれない。というのもUAEカタールルクセンブルクといった富裕国と同じく、他国の映画を共同製作しまくっている国ゆえだ。特に私のように未公開映画をよく観ている方なら、製作国に“United Arab Emirates”とのこの国の英語名を見掛けた人も少なくないだろう。が、先述した通りこの国は他国の映画に共同出資するばかりで、自国の映画産業の発展にはあまり興味がなく、つまりアラブ首長国連邦出身の映画作家によるアラブ首長国連邦映画というのが極端に少ない。何と言ってもこの国初の長編映画という、Ali Al Abdool監督作“Aber Sabeel”の製作は1988年、さらにこの国の映画が自国の劇場で公開された初めての年は2005年(Hani Al Shebani監督の“A Dream”)なのだ。

だがこの2023年、この国からから現れた新鋭のデビュー作がトロント国際映画祭に選出されるということが起こった。共同製作として携わった映画においては別に珍しくないが、今作は正真正銘、アラブ首長国連邦が製作し(正確に言うとアメリカが共同製作だが)、アラブ首長国連邦を舞台とし、アラブ首長国連邦について描いた、アラブ首長国連邦出身の新鋭によるアラブ首長国連邦映画である。ということで今回はそんな新鋭Wendy Bednarzによる長編デビュー作“Yellow Bus”を紹介していこう。

今作の主人公はアナンダ(Tannishtha Chatterjee)という中年女性である。彼女はインドからの移民であり、夫のガガン(Amit Sial)、2人の娘であるラフィーナ(Aarushi Laud)やアンジュ(Kshethra Mithun)らとささやかなながらも幸せな暮らしを送っていた。だがある日、悲劇が起こる。病気がちだったアンジュがスクールバスの座席に放置され、そのまま衰弱死してしまったのだ。学校は砂漠の中にあり、バス内に放置されたならその激熱で死を迎えるのは必然でもあった。それなのに何故、学校の関係者たちは彼女を助けられなかったのか? いや、助けなかったのか?

物語はそんな悲劇に見舞われたアナンダを中心に進んでいく。家族はイスラム教の戒律に基づいての賠償と、それを通じての学校側との和解を提案されるのだが、この悲劇には何か裏側があるのではないかと感じるアナンダはその提案を拒絶し、独自に事件を解明しようとする。だが幾つもの障害が彼女の行く手を阻むように現れる。事件に関わりがあるだろうバスの運転手や付き添いの用務員たちは事件について黙秘を続ける。その裏側には学校側による暗躍があるとの思いを、アナンダは徐々に強めていく。

こうして彼女が事件に深入りしていく一方で、他の家族とはどんどん距離ができていく。夫のガガンは提示された和解条件を受け入れたうえで、この事件については忘れ新たなスタートを切ろうと試みている。そして妹を失ったラフィーナは事件の関係者として同級生たちから虐めを受けるようになり、彼女自身も妹の側にいてやれなかったことを気に病み、自責の念に押し潰されていく。

夫と娘がそれぞれに苦しんでいる様を見ても、アナンダの事件解決への執念は留まるところを知らず、常軌を逸していく。事件への姿勢が真逆である夫に対しては露骨なまでの敵愾心を見せ、さらにはアンジュの死を惜しむあまりにラフィーナがその死の原因だと非難していく。監督と編集のMichèle Tyanはこういった家庭崩壊を雪崩のような速度と勢いによって畳みかけていき、観客の心にこの地獄絵図を矢継ぎ早に叩きつけていくのだ。

そんな息詰まる展開の中で、もう1人の重要人物が物語に登場する。それがミラ(Kinda Alloush)というアラブ人女性だ。彼女は学校を運営する校長の立場にあり
そしてアナンダの家族に賠償金と和解を提示した本人でもある。彼女は当初、校長として事務的に事件を処理しようとしていたが、アナンダの執念が幾つもの疑問点を暴きだしていくとともに、少しずつ自身の行動に疑義を抱くようになっていき……

彼女の登場から“Yellow Bus”において、より大きなテーマが徐々に浮かびあがってくる。それはアラブ首長国連邦におけるアラブ人とインド人の格差、そしてアラブ人社会におけるインド人移民たちの苦難である。アナンダらは移民であり、生活は豊かであるとは言えない。それゆえアンジュの葬式もまともに執り行えず、親類からそのための金を借りるかどうか相談する場面もある。一方でミラは家政婦つきの邸宅に住まい、富裕層としての生活を謳歌している。こうして双方の生活描写を見るだけで、その格差を一瞬で理解できるだろう。

アラブ首長国連邦はいわゆる“オイルマネー”によって相当の富を誇っており、この経済状況に希望を抱き周辺諸国から移民が多くやってきている。何でも、この国の人口比において自国民が占める割合がたった1割弱ほどで、逆に言えば人口の約9割が移民などの外国籍住民で構成されているのである。そしてその外国籍住民の少なくない割合が南アジア地域出身で、インド人移民であるアナンダ家もそこに属するというわけだ。だが低賃金労働や虐待、人種差別などその生活は理想とはかけ離れている。

しかし本国での生活よりはマシとここでの生活を続ける者が多く、彼らの複雑な心境を象徴するのが、アナンダが同じく南アジア出身らしきバス運転手らに詰問する場面である。最初はアナンダが事件について運転手たちをなじるのだが、彼らはその追求が自分たちから仕事を奪うのだと激怒し、お願いだからそっとしておいてくれと懇願する。それに対してアナンダはその場を立ち去らざるを得ない。移民たちが置かれる複雑な状況、それゆえに移民同士に生まれる対立の構図がここにはあるのだ。

そしてこの対立には言語的な政治性も宿っている。アナンダたちの言語はヒンディー語であるが、ミラの言語ひいてはこの国の公用語アラビア語である。それでいて先述した移民の割合ゆえに学校などの公共施設では英語が使われ、アナンダたちやミラが会話をする際にもこの言語が使われている。加えて今作ではタガログ語ウルドゥー語母語とする人物も登場し、その言語的多様性は特筆に値するが、この多様性が事態をより混迷させる原因でもある。

例えば学校が真相を隠していると抗議するために、アナンダは校舎の壁に赤いペンキで“お前の手は血にまみれている”と落書きをするのだが、これがヒンディー語の文字であるデーヴァナーガリーで書かれるのだ。ゆえにミラはそれを理解できず「何て書いてあるの!?」と助けを求めざるを得ない。このヒンディー語アラビア語の大きな相違が、双方の対立をより劇的な形で深めていくというわけである。

それでいて興味深いのは、ここにおける英語の立ち位置である。ある日ミラは虐めを受けているラフィーナを助けることになる。これをきっかけに2人は交流を始めるのだが、ラフィーナは自分が妹の死の原因だと詰る母親に背を向けるように、ミラにこそ接近していき関係性はより深まっていく。この会話の際に使われるのが学校での使用言語である英語なのだ。毀誉褒貶ありながらも、英語は世界における共通言語としての立ち位置を磐石としているがゆえ、異なる言語を持つ異なる人種の人々を繋げる橋渡しとしても機能できるということだろう。

“Yellow Bus”はその物語自体、娘の死の真相を探る母と彼女の行動がその家族や共同体に激震を生むというありがちな筋立てではある。だがまず今作はより普遍的なスリラー映画として、その畳み掛ける編集と登場人物1人1人の心の深奥を抉り提示する脚本によって、王道としての磐石たる高揚と面白さを堂々と披露することができている。

そしてこの普遍的なスリルを強化するものこそがアラブ首長国連邦という国の現状を抉る独自性に他ならない。アナンダとミラの対立は個と公の対立として捉えられることはもちろんだが、いつしかインド移民とアラブ社会におけるそれとも昇華されていくのである。先述した通りこの独自性の追求は相当に痛烈なものであり、これが今作に唯一無二の魅力的社会性を宿しているのだ。この普遍性と独自性の繊細にして大胆な均衡は、この“Yellow Bus”という映画がアラブ首長国連邦アラブ首長国連邦出身作家にこそ作れる愛と憎しみの1作であることを高らかに証明しているのだ。

Niranjan Raj Bhetwal&“The Eternal Melody”/ネパール、生と死とそのあわいと

鉄腸野郎の直近記事を読んでもらえば分かる通り、今、私のなかでネパール映画界がアツい。去年の2022年からその兆候を徐々に感じ取っていたのだが、今年はネパール人監督の長編作品がヴェネチアトロント国際映画祭に選出されるという破格の出来事があり、この思いを新たにした次第である。

で、ネパール映画の記事を色々と書いているうち、去年書こうと思って記事にできていなかった映画評の草稿がタブレットから発見された。ということでここに紹介するのは、ネパール映画界の今後の躍進を私に予想させた1作、ロッテルダム映画祭選出のNiranjan Raj Bhetwal監督作“The Eternal Melody”である。

冒頭、1人の女性がある夢を見る。そこに出てきたのは亡くなったばかりの夫だった。死後の世界において彼は次の命へと転生するために、来世への旅を始めようとしている。しかし彼は何か心残りがあるといった風に、その旅を始めることができないでいる。女性はそんな光景を夢として見てしまったのである。

今作はある大切な存在を失ってしまった女性と、彼女がその喪失の痛みと対峙する様を描きだした作品だ。もし叶うのならば夫が自分の近くにずっといてほしいと彼女はどこかで願っている。だがそれはネパールにおける世の理に反することであり、何よりも彼を自分の身勝手な執着に巻きこむことでもある。であるからして彼女は躊躇いながらも、夫が次の生へと踏み出せるよう行動を始める。

Sarad Mahatoによる撮影は陰影を濃厚に湛えたものであり、光と影のコントラストが彫刻刀で彫り進められたかのごとく鮮烈だ。それはある種、生者である主人公と死者である夫のまったき相違というものを示しているのかもしれない。もはや2人の住む世界は真逆のものであり、画面がそれを逐一観客に示し続けていくかのようである。

今作においては水が重要な存在となってくる。正確に言うのならば水が作りだす流れ、この無数の集積である川という存在がここでは生と死の境界線としての役割を果たしているのだ。この周囲でこそ物語が展開していくのである。さらにこの印象を強めるのが繊細な音響だ。川の流れる音、雨が大地を打ちつける音、風が世界を撫でる音、鐘の小さくも耳朶をしたたかに打つ音。これらのささやかな音の数々がこの映画では繊細に掬いとられ観客に提示されていき、そして私たちは生と死のあわいに誘われるのだ。監督はネパールの宗教観について、自身の経験談も含めてこう語っている。

“ネパールではほとんどの人にとって、彼らの子孫の将来を守るためということこそが働く理由なんです。私の祖父は孫である私が自分よりもより良い時を過ごせる未来が来ることを願って、カトマンズに幾らかの土地を買ったんでした。私の子供時代は、祖父を尊敬する人々に囲まれながら過ぎていきました。しかし苦難に満ちた村での生活に背を向け、都市部に買った土地に家を建てようと準備していた最中、彼は亡くなってしまいました。そして私は都市での生活に四苦八苦しながら、いつしか祖父への想いを捨てていってしまったんです。

ある日、1人の霊媒師が近所にやってきました。人々は亡くなってしまった最愛の人々と交信しようと、彼女のもとに集まりました。私はこういった類いのことをあまり信じていなかったのですが、映画監督として目新しい経験ができないものかと興味が湧いて、彼女に会いに行ったんです。そしてそこで霊媒師はトランス状態になり、彼女から祖父の声が放たれるのを聞いたんでした。驚きましたね。彼はこう頼んできたんですよ、川辺にオイルランプを点けておいてくれ、そうすれば幾分か安心できるからと”*1

そして今作を観ながら感じたのは、仏教文化圏としての日本文化との呼応である。例えば生者と死者を別つ川の存在は、私たちにも親しみ深い三途の川を想起させるし、死者が安心して向こうに行けるようにという生者の想いは、いわゆる“成仏”と呼応するのではないかと個人的には思えた、日本人には“来世”という概念は希薄かもしれないが。

この“The Eternal Melody”はこの世から居なくなってしまった愛する者に、それでも幸福を願う、祈りのような1作だ。だが今作が際立つのは死を描きだしながらも、生者にとっても死者にとってもその先を描こうとしている点だった。そんな未来へと続いていくような感覚は、振り返るならネパール映画の未来を私に考えさせるに相応しいものだったかもしれない。そして監督の次回作は先ほど訳した実体験を元に、今作をさらに前進させたものだそうだ。“今やっと、私の人生に光を灯してくれた祖父に捧げる”長編映画を作っているそうである。ということで今後の監督の作品、ひいてはネパール映画界に期待!

Sunil Gurung&“Windhorse”/ネパール、人生の道筋もまた険しく

ネパールの山岳地帯に位置する僧院の数々は日本でも有名な観光地だろう。しかし険しい高地を行くトレッキングは相当に過酷なものだ。この記事を書くにあたって色々検索すると、ある村からある僧院までトレッキングで数時間といった文言すら見掛け、運動神経絶無かつ難病持ちの私は正直ブルってしまった。さて今回紹介するのは、そんな僧院へのトレッキングを通じてある親子の関係性を描きだす、ネパールの新人監督Sunil Gurungによる短編“Windhorse”である。

今作の主人公となる存在はサナムとカルマ(Jampa Kalsang Tamang & Sudarshan Gurung)という親子だ。つい先日にサナムにとっては妻であり、カルマにとっては母である女性が亡くなり、その供養をするために彼らはネパールの高地で再会を果たし、ともに僧院を目指すことになる。

物語において主眼となるのは、この父と子の間に広がる複雑微妙な関係性である。息子のカルマは理由こそ語られないがオーストラリアに移住しており、この地で家族を持つほどに根を張っている。それゆえサナムとの距離は物理的に遥か離れており、さらには家族を省みなかった彼に対して精神的にもかなりの隔たりが存在している。例えばトレッキング中にも父に対してほとんど笑顔も見せることがないほどだ。その険しい表情には常に怒りのような感情が満ち満ちている。

そんな疎遠な息子に対して、サナムもどう接していいか途方に暮れているようだ。不器用なりにも何とか彼と交流しようとするのだが、そこにはどこか人生の先輩として大きな顔をしたがる傲慢さが存在しており、それを見透かされてかカルマは何度となく拒絶反応を見せる。サナムの狼狽は反抗期の息子に手を焼く父親のそれにも見える、カルマはもはやそんな年齢ではないのだが。

そしてそこには男らしさというものも関わってくる。未だ若く健康なカルマは軽々と山道を進み、悠々トレッキングをこなすのだが、サナムは歩みも遅く、幾度も休まなければトレッキングを続けられない。息子の背中を力なく見つめざるを得ない状況は、文字通りに息子の後塵を拝すといったものとなっているのだ。こんな状態で男らしさにおいて何とか張りあえるというのが、立ち小便で尿をどこまで遠くに飛ばせるか?なのだからなかなか惨めである。それもサナムが勝手に横で張り合ってくるのだから、カルマもウンザリして怒りを露にする。2人の冷えきった関係性も然もありなんと思わざるを得ない一幕だ。

こういったサナムの頑迷さに対してカルマはもちろんだが、映画自体もどこか突き放すような視線を向けているように思える。監督のSunil Gurungアメリカを拠点とするネパール系アメリカ人であり、オーストラリアに根を下ろしたカルマに少し共鳴する背景を持っており、これが視線の重なりに関係があるかもしれない。2人の住む場所が英語圏というのも注目すべきだろう。劇中、サナムとカルマがネパール語でなくその合間に英語で喋る場面がなかなかの回数あるのだ。このスイッチングにはオーストラリア在住というカルマの事情以上の、ネパールの固有的な事情が関わってる可能性もあると、個人的には思えた。今後ネパール映画を探求するにおいて、探求していい要素かもしれない。

今作に今らしさを感じたのは、家族という概念そのものに対するドライな認識だ。この過酷なトレッキングを通じて父と子が絆を取り戻し、家族として再び歩み始める……というのが予想される筋立てだが、そういった瞬間はついぞ訪れない。オーストラリアでの生活の足しにとサナムがなけなしの金を渡そうとしてもカルマは拒絶し、僧院への巡礼が終わった後、彼は挨拶もなしに立ち去り物語はそのまま終わってしまうのだ。サラっとしながら、その実かなりシビアな終りに私としても少し呆気に取られた。

撮影監督Narendra Mainaliが映しだすネパールの高地は、灰燼の色彩に塗り潰された峻険たる地として凄まじく際立っている。そしてここに刻まれている険しく大いなる道筋は、監督が描きだした“家族”に対する乾いた諦念も相まって、何か人生そのものの険しき道行きをも象徴しているように思われてならない。少なくとも“Windhorse”には観客にそう思わせる厳粛な力が宿っているのだ。

Ayarush Paudel&“Helena”/ネパールより、遠く離れて

アラブ首長国連邦という国は中東に位置する連邦国家であるが、この国の人口比において自国民が占める割合がたった1割ほどなのだそうだ。つまり人口の約9割が移民などの外国籍住民で構成されているのである。驚くべき割合であるが、今回はそんな移民国家の日常を、南アジアの一国ネパールからの出稼ぎ労働者の目を通して描きだす作品を紹介したい。それがネパール人監督Ayarush Paudelによる短編作品“Helena”である。

主人公は題名ともなっている人物ヘレナ(Ayshuma Shrestha)である。彼女は家族を故郷に残し、アラブ首長国連邦のレストランで出稼ぎ労働者として働いている。この日、彼女は貯めたお金で息子のブブにノートパソコンを買おうとしていた。だが店内でその金を一部紛失してしまったことに気づく。これではプレゼントを買うことができない。何とか残りのお金を調達しようとするヘレナだったが……

今作はそんなヘレナの姿を追っていくのだが、基調となるのは撮影監督であるPu Jiaによる手振れを伴ったリアリズム演出である。カメラはヘレナの一挙一動を静かに撮しとっていきながら、その場に満ちる息苦しい空気感をも観客に伝えんとしてくる。傷心のままレストランの勤めに出ながら、ブブからは何度も何度も電話がかかってくる。どの色を買ったの? 友達が来たら絶対自慢するよ! そんな言葉に押し潰されそうになるヘレナの表情を、カメラは静かに見据え続けるのだ。

同時に監督らはアラブ首長国連邦という国の日常をも同時に映しだしていく。中でも印象的なのは言語の混交状況である。この国の公用語アラビア語であり、例えばヘレナが勤めるレストランの看板にもアラビア文字が記されている。だが横には同じ大きさでアルファベットを使った看板もあり、これが示すように英語も日常として完全に根づいているのだ。ヘレナは接客時は基本英語を使用し、他の店でも店員は英語で喋っている。むしろ今作においてアラビア語の会話場面はほぼ出てこないのだ。この背景には先述した外国籍住民の多さが関係しているのだろう。

さらにレストランにはヘレナと同じくネパール出身らしき同僚がいるのだが、彼女とはネパール語で会話をする。さらに同国に住む叔父と話す際に、ヘレナはヒンディー語を使用するのである。これは、彼女の生活はこれら3つの言葉でこそ構成され、アラビア語の影は薄いということを暗に示しているのかもしれない。そしておそらく他の地域からの移民にとっても似た状況が広がっているのではないかと思わせる。

物語の核となっているのは出稼ぎ労働者としての苦悩である。同じ状況にあるネパール人の同僚はヘレナを支えようとしながら、自身も経済状況が芳しくないゆえ金銭的な援助をすることができないでいる。ただ寄り添うだけでは解決できない問題がここには存在しているのだ。以前この国におけるフィリピン人労働者に対する虐待が報道されていたが、今作自体には直接的な暴力は描かれないとしても、これに類するだろう経済的苦境がヘレナたちを苛んでいる。

ここにおいて際立つのが、同じく出稼ぎ労働者である叔父との対話場面である。彼はヘレナに次のようなことを語る。故郷に置いてきた家族はプレゼントを求めてくるが、私たち出稼ぎ労働者にとってそのプレゼントこそが彼らに対する唯一の存在証明なのだ。そして家族がそれを求めてこなくなった時には、全てが手遅れになっている……物理的な距離は精神的な距離を生み、この溝を埋めるためには“プレゼント”というものが必要にならざるを得ない。そして今のヘレナにとって、それがあの“ノートパソコン”なのだ。これを買えなければ……

今作を牽引する最も重要な存在は、ヘレナを演じるAyshuma Shresthaに他ならないだろう。こういった過酷な状況を彼女は言葉少なに堪え忍び、その中で感情が磨耗してしまったかのような無の表情を幾度となく浮かべることになる。だがその表情からは彼女の抱く深い苦悩が、言葉よりも勇弁な形で溢れ出している。こうして彼女はヘレナの苦境に体現しているのだ。そして彼女の存在を以て、“Helena”という作品はアラブ首長国連邦ひいては世界に散らばるネパール人労働者たちの苦境をもスクリーンに暴きだしている。