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映画痴れ者/ライター済東鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

ヴェイコ・オウンプー&「ルクリ」/神よ、いつになれば全ては終るのですか?

エストニア、ヨーロッパの最北端に位置し大国ロシアと隣り合う故に、常にその脅威に晒されてきた。戦後のゴタゴタに関してはこちらの記事に詳しく書いたので読んでもらいたいが、2010年代に入ってウクライナ情勢を重く見たロシアがクリミア半島に侵攻を果たしたその時、エストニアの人々の中で戦争への危機感が最高潮に達することとなる。今回紹介するのはそんな恐怖を映画として具現化させた作品「ルクリ」と、エストニアの気鋭作家ヴェイコ・オウンプーについて紹介していこう。

ヴェイコ・オウンプー Veiko Õunpuu は1972年3月16日、エストニアのサーレマー島に生まれた。1995年からエストニア・ビジネス・スクールに通い経営学の学位を取得、タリン大学では文学理論・記号論を、そしてエストニア美術アカデミーでは絵画を学ぶ。映画については独学で学び始めたそうだが、好きな作品はタルコフスキーソラリスファスビンダー「不安は魂を食いつくす」そしてカウリマスキ「ラヴィ・ド・ボエーム」などなど。

大学卒業後は広告代理店で働きだし、2005年にはエストニアの有名制作会社Kuukulgur Filmisで数多くのCMを手掛けることとなる。そして彼は自身の制作会社であるHomeless Bob Productionを設立、ここから監督としてのキャリアが幕を開ける。

監督デビューは2006年の"Tühirand"、主人公はとある事情から自身の別荘で妻と彼女の愛人と共に週末を過ごすこととなる。彼らを取り囲むのは雄大な森林と空っぽの海岸だけだ。この微妙な三角関係を芸術的に描き出した短編はエストニア映画界に新たな風を吹き込んだ功績を称えられ、タリンの映画祭で賞を獲得する。

これに勢いづいたオウンプー監督は翌年初長編である"Sügisball"を手掛ける。今作はエストニアの国民的作家であるMati Untの同名小説を映画化したもので、エストニアのタリンに生きる6人の男女の生活を切り取る群像劇だ。この動画を見ると分かるが、スーパーでエロ本を買ったら店員に目をつけられる気まずいシーンを延々と描くようなそんなオフビートな作品らしい。"Sügisball"はヴェネチア国際映画祭オリゾンティ部門で上映され、見事グランプリを獲得、テッサロニキマラケシュ映画祭でも最高賞を得るなど彼の名は一躍有名となる。

そして第2長編は東京国際映画祭でも上映された「聖トニの誘惑」である。あらすじを引用すると"われ正路を失ひ、人生の羈旅半ばにあたりて、とある暗き林のなかにありき(ダンテ)。その「暗い林」の中で自分を見つめ直すことになった中年男の物語。工場長トニの生活は、沼地で手首を拾った日を境に徐々に崩れていく……。不条理な出来事の連続を、シュールで美しいモノクロ映像で描いた話題作"*1だそうです。カルロヴィ・ヴァリ映画祭では特別賞、ブラジルのルメ国際映画祭では監督賞を手に入れた。

脚本のみを担当した"60 Seconds of Solitude in Year Zero"、さらに舞台演出家としてタリン劇場での"ゴミ、都市、そして死"の上演を経て、第3長編は2013年の"Free Range/Ballaad Maailma Heakskiitmisest"だった。主人公は新聞社で働いていたのだが、ある時テレンス・マリック監督作「ツリー・オブ・ライフ」の映画評を適当に書いたことを咎められ解雇されてしまう。路頭に迷ってしまった彼は自分の周りに広がる世界を受け入れるための旅を始める。今作はエストニアで高く評価され、アカデミー外国語映画賞エストニア代表に選ばれることとなった。そして2015年、彼は第4長編である「ルクリ」を監督する。

カメラが映し出すのは灰色の風景、その中で人々は自分たちの仕事を黙々とこなしていく。顔からは表情すら失われ、全身から倦怠が滲み出すのを止めようとする者は誰一人としていない。仕事を終えたのだろうか、ある女性がテーブルに向かって食事をしている。ドアの向こうから彼女をみやり、2人の男女が声を潜めて何か話している。もうジャガイモがなくなってしまう、何で彼女は今頃帰ってきたの、どうでもいいだろそんなこと。そんな中、外から耳に届いてくる音がある。雷が雲の内でとぐろを巻くような音、だがその響きは膨張し鼓膜を引き裂く。戦闘機の轟音は大地を揺るがすが、人々に成す術はない。戦争の予感にただ呆然としてうち震えることしか彼らには出来ない。

「ルクリ」の舞台はエストニアの隔絶された村地、荒れ果てた建物の中にはヤン(ユハン・ウルフサク)、彼と過去に何かあったらしいマリナ(ミルテル・ポフラ)、ヤンの姉であるエヴァ(エヴァ・クレメッツ)、そして彼女の夫ヴィル(ペーテル・ラウドゥセップ)の4人が身を寄せあって暮らしている。彼ら以外には人の影は全く見えない、世界からヤンたちの他は存在を掻き消されてしまったかのような寒々しさがひたすらに広がっている。彼らは自分たちが生きるため来る日も来る日もそれぞれの仕事を続けるが、この状況で生きることに何の意味がある?とそんな答えなき問いに身を磨り減らしていく。カメラはグラグラと揺れながら、肌を這いずるような動きでもって、そんな腐りゆく日常を映し出す。だが同時に映り込むのはエストニアの大地が宿す美しき風景だ。寂寥を湛えた野原、風にさんざめき重なりあう葉、日々の残酷さはむしろ美によって影を増していく。いつしかヤンたちの頭上に広がるのは禍々しく膨張したドス黒い雲だ、彼らはここに再びの予感を見る、だが予感だけ……

オウンプー監督の演出は徹頭徹尾謎めいたものだ。このミニマルな作劇の中では何においても背景や理由が説明されることはないが、そんな状況に1つの変化が訪れる。ある日水を汲みにやってきたエヴァは廃墟に住まう2人の男を見つける。彼らは"ぺードゥ"から自分たちを匿って欲しいと頼まれる。男たちを連れ帰るエヴァだったが彼らの存在が少しずつ家に広がる関係性を歪めていく。ヤンたちは互いに憎しみを、悲しみを、憐れみをぶつけあい疲弊していくしかないまでに追い詰められる。

ここで監督が物語を読み解く鍵として散りばめていくのが宗教的な隠喩の数々だ。ヴィルが聖書を片手に語る蛇と果実の挿話、男の足に開いた血まみれの穴、世界の終りに瀕する中ですがり付ける物は神しかいないのかと、人々は自問自答を繰り返し、映画は観客の理解を越え始める。だがこの不可解さは映画の完成度を損なう物ではない。画面に刻み付けられた謎が観客に対して思考を促し、解釈は枝分かれしていき、そしてそれぞれの心でそれぞれの作品世界が構築される、これを成し遂げる力がこの「ルクリ」にはある。私たちは拒絶するでもなく酔いしれるでもなく、絶妙な意識の狭間で映画との対話を遂げることとなる。あの人知を容易く踏み越える聖域に溢れた緑、そして輝きの中心に見えてくる赤の色彩、そこに何を見出だすかはあなたの自由なのだ。

無限に引き伸ばされた時間の中で、死を選ぶことも出来ず、戦争の予感に命を削られることの苦しみ。神よ、何時になれば全ては終りを迎えるのですか、登場人物の思いに観客の思いと共鳴しあう瞬間が、この「ルクリ」に意味を宿す。だがそこからまた監督は一歩を踏み出す、救済とも絶望とも分からぬ筆舌に尽くしがたい地平へと「ルクリ」は私たちを誘なうのだ。[A-]


キャスト集合写真。めちゃくちゃ恰好いい。

私の好きな監督・俳優シリーズ
その1 Chloé Robichaud &"Sarah préfère la course"/カナダ映画界を駆け抜けて
その2 アンドレア・シュタカ&“Das Fräulein”/ユーゴスラビアの血と共に生きる
その3 ソスカ姉妹&「復讐」/女性監督とジャンル映画
その4 ロニ・エルカベッツ&"Gett, le procès de Viviane Amsalem"/イスラエルで結婚するとは、離婚するとは
その5 Cecile Emeke & "Ackee & Saltfish"/イギリスに住んでいるのは白人男性だけ?
その6 Lisa Langseth & "Till det som är vackert"/スウェーデン、性・権力・階級
その7 キャサリン・ウォーターストン&「援助交際ハイスクール」「トランス・ワールド」/「インヒアレント・ヴァイス」まで、長かった……
その8 Anne Zohra Berracherd & "Zwei Mütter"/同性カップルが子供を作るということ
その9 Talya Lavie & "Zero Motivation"/兵役をやりすごすカギは“やる気ゼロ”
その10 デジリー・アッカヴァン&「ハンパな私じゃダメかしら?」/失恋の傷はどう癒える?
その11 リンゼイ・バージ&"The Midnight Swim"/湖を行く石膏の鮫
その12 モハマド・ラスロフ&"Jazireh Ahani"/国とは船だ、沈み行く船だ
その13 ヴェロニカ・フランツ&"Ich Ser Ich Ser"/オーストリアの新たなる戦慄
その14 Riley Stearns &"Faults"/ Let's 脱洗脳!
その15 クリス・スワンバーグ&"Unexpected"/そして2人は母になる
その16 Gillian Robespierre &"Obvious Child"/中絶について肩の力を抜いて考えてみる
その17 Marco Martins& "Alice"/彼女に取り残された世界で
その18 Ramon Zürcher&"Das merkwürdige Kätzchen"/映画の未来は奇妙な子猫と共に
その19 Noah Buchel&”Glass Chin”/米インディー界、孤高の禅僧
その20 ナナ・エクチミシヴィリ&「花咲くころ」/ジョージア、友情を引き裂くもの
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その25 ディートリッヒ・ブルッゲマン&「十字架の道行き」/とあるキリスト教徒の肖像
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