さて、このサイトでは2010年代に頭角を表し、華麗に映画界へと巣出っていった才能たちを何百人も紹介してきた(もし私の記事に親しんでいないなら、この済藤鉄腸オリジナル、2010年代注目の映画監督ベスト100!!!!!をぜひ読んで欲しい)だが今2010年代は終わりを迎え、2020年代が始まろうとしている。そんな時、私は思った。2020年代にはどんな未来の巨匠が現れるのだろう。その問いは新しいもの好きの私の脳みそを刺激する。2010年代のその先を一刻も早く知りたいとそう思ったのだ。
そんな私は、2010年代に作られた短編作品を多く見始めた。いまだ長編を作る前の、いわば大人になる前の雛のような映画作家の中に未来の巨匠は必ず存在すると思ったのだ。そして作品を観るうち、そんな彼らと今のうちから友人関係になれたらどれだけ素敵なことだろうと思いついた。私は観た短編の監督にFacebookを通じて感想メッセージを毎回送った。無視されるかと思いきや、多くの監督たちがメッセージに返信し、友達申請を受理してくれた。その中には、自国の名作について教えてくれたり、逆に日本の最新映画を教えて欲しいと言ってきた人物もいた。こうして何人かとはかなり親密な関係になった。そこである名案が舞い降りてきた。彼らにインタビューして、日本の皆に彼らの存在、そして彼らが作った映画の存在を伝えるのはどうだろう。そう思った瞬間、躊躇っていたら話は終わってしまうと、私は動き出した。つまり、この記事はその結果である。
さて、今回インタビューしたのはパキスタンの映画作家Hamza Bangash ハムザ・バンガシュである。彼の最新短編"1978"はタイトルの通り1978年のパキスタンを描いた作品だ。キリスト教徒のロックスターLennyはそのカリスマ性で着実にキャリアを築いていたが、イスラム教がパキスタンに浸透していく辺り、異教徒である彼は弾圧の憂き目に遭う。それでも彼はロックスターとしての生き様を貫こうとするのだが……今作はロックスターの生き様と当時のパキスタンにおける宗教対立を同時に描きだす野心的な作品である。ということでここではBangash監督に映画作家としての始まり、"1978"のあれこれ、パキスタンひいては南アジア映画について尋ねてみた。それではどうぞ。
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済藤鉄腸(TS):まず何故映画監督になりたいと思いましたか? どのようにそれを成し遂げましたか?
ハムザ・バンガシュ(HB):映画という旅を始めたのは4年前のことです。学部生の頃、私は演劇を勉強していたのですが、演劇の儚い本質、演劇に携わる本物の芸術家が求める何か、それが私を限りなく不満にさせたんでした。
例え作り手がこの世からいなくなっても残り続ける物語、映画に興味を持ちはじめたのもそれが原因の1つです。そこで私は自分の痕跡を残すために映画を作っていると思うでしょうが、それ以上を目指していますね。私が悟ったのは未だ語られていない物語は数多くあるということです。パキスタンとカナダで育った私のような、様々なアイデンティティを持つ誰かにとって、そのアイデンティティを形成するに物語は価値があると分かりました。私はそんな現実を反映した物語を語りたいんです。
カラチで戯曲を執筆し、舞台を演出していくなかで、私が所属する演劇グループはとても、とても低予算の映画を作りはじめました。これらはある程度の評判を呼び、そこから1つの映画から次の映画へと成長していけるようになったんです。
私の成長はローカルと世界の映画製作プログラムに支えられていました。映画学校に行ったことはありませんが、こういったプログラムが私にとっての学校になってくれたんです。私はまずGoethe InstituteとPrince Claus Fund’s Film Talents Programに参加し、それからロカルノのOpen Doors ProgramとFilm Academy、そして釜山のAsian Film Academyに参加しました。
TS:映画に興味を持ちはじめた頃、どんな映画を観ていましたか? 当時パキスタンではどういった映画を観ることができましたか?
HB:カナダで演劇の学位を獲って卒業した後、私はアート界でキャリアを重ねるためパキスタンに戻りました。そして世界の、パキスタンの映画を出来うる限り観始めたんです。最初に観たパキスタン映画の1本はSabiha Sumar脚本・監督作"Khamosh Pani"(2003)です。今作はロカルノで金豹賞を獲得しました。
今作は世界的な名声を獲得した数少ないパキスタン映画であり、映画の道を進むよう私を後押ししてくれたんです。
TS:あなたの短編作品"1978"の始まりはなんでしょう? あなた自身の経験、パキスタンの実在したロックスター、もしくは他の事柄でしょうか?
HB:今作のアイデアは"1978"のエクゼクティブ・プロデューサーであるRashid Maqsood Hamidi ラシド・マクスード・ハミディに出会ったことで生まれました。彼は70年代のパキスタンで生まれ育ち、この時代に、私には存在しているとは信じられないカラチに郷愁を感じていたんです。多文化主義と忍耐の上で反映していたこの都市は"東のパリ"と呼ばれていました。RashidはプロデューサーのAbid Aziz Mercahnt アビド・アジズ・マーカントと組んで長編映画を作ろうとしていたんです。
しかし彼が思い浮かべていたのは現代のパキスタンが舞台の作品でした。そこで彼と話した後、パキスタンの歴史における70年代――短く儚いあの時代――を描きだした方がもっと興奮するものになると思ったんです。 その時、カラチは本当の意味で光の都市でした。私は彼らを説得して70年代が舞台の短編映画を作ることにしました。そしてそれが成功したなら、長編を作ろうと。
そしてリサーチを開始し、ディスコ時代の生き証人たち――ミュージシャンやダンサー、クラブのオーナーなどです――に話を聞き始めました。そこでゴアのキリスト教コミュニティがシーンで重要な役割を果たしているのを知りました。プロデューサーであるCarol Noronha キャロル・ノロニャ(彼女もそのコミュニティの一員でした)を通じて、Clifford Lucas クリフォード・ルーカスと出会いました。彼は私を家に招いてくれてたんですが、そこには70年代に活躍したミュージシャンたちも招かれており、彼らはセッションを始めたんです。音楽と飲み物を交えながら、私たちは今や忘れられたカラチについて語り、それからCliffordがUncle Norman アンクル・ノーマンを紹介してくれました。彼は1970年代の変わりゆくパキスタンを生きた自身の経験を話してくれて、私は描くべき物語を見つけたと思いました。
TS:まず魅了されたのは主人公がポスターの前で立ちションをするその鮮烈なファーストシーンです。私にとってこの場面は主人公のクールで反抗的な性格を象徴しているように思われます。そこで聞きたいのは、どのようにしてこの場面をファーストシーンに選んだのかということです。
HB:面白いですね。というのもあの場面は本当は最初ではなかったからです。実は、主人公が寂れたレストランにいるという他の場面が先にあったんですよ。彼とバンド仲間がそこで演奏をしていて、しかし極右活動家に襲撃を受けるんです。映画の序盤としてはやかましすぎるかということで最後にはカットしたんですが。
主人公が立ちションをする場面は気に入っていますね。それが登場人物の性格を語っているだけではなく、彼の最終的な選択も予告しているからです。最初の意図ではこの出来事はレストランを去った後に起こるはずだったんですが、イメージが力強いのでオープニングに置く意味があるなと思いました。
映画において、とても多くの素晴らしいことが幸せな事故として起こるんです。
TS:今作で興味深いことの1つはパキスタンにおける宗教的衝突の描写です。主人公はキリスト教徒ですが、彼のキャリアはイスラム教の侵攻が国を覆うとともに危険に晒されていきます。映画をより深く理解するために、日本の読者にこのパキスタンにおける宗教的衝突について詳しく説明していただけないでしょうか? この衝突は現在でも続いていますか?
HB:ゴアのキリスト教コミュニティは70年代における政治的・文化的シフトに多大なる影響を受けました。その結果、多くの人々がアメリカやカナダに移住し、この大規模な移民集団は他の少数民族にも見られるようになります。例えばパーシ人、ヒンドゥー教コミュニティです。パキスタンは最良の状況で住むことが難しい国であり、マジョリティであるスンニ派イスラム教徒でなければ、差別を縫い込まれたシステム・社会と直面することになります。それゆえにパキスタンに住み、生き続けたゴアのキリスト教コミュニティに触発を受けたんです。彼らは試練に直面してもたじろぎませんでした。私の目から見ると、彼らは真のヒーローなんです。
TS:そしてこの映画において美しいのは主人公と彼の弟の複雑な関係性です。彼らは互いに愛情を抱いており、髪を切る場面は今作でも最も心温まる場面となっています。この兄弟の関係性を描く時、最も重要だったことは何でしょう?
HB:私にとって兄弟の関係性は幸せのささやかな断片なんです。彼らがともに喪失感を味わう時、対立しあう時、自分たちの小さな世界を作りあげ、自分自身の小さな喜びを見つけなくてはならないと知るんです。それは自身の生きる社会を生き抜くために。
TS:"1978"の核となるのは俳優Muhammed Zeeshan ムハメド・ゼーシャンのカリスマ的な存在感です。彼は大胆で反体制的でありながら、例えばデヴィッド・ボウイなどの70年代ロックスターが持っていた純粋な繊細さを持ちあわせています。そこで聞きたいのは、どのようにMuhammed Zeeshanという存在を見つけたのでしょう? 今作で彼とコラボしようと思った最も大きな理由は何でしょう?
HB:今作はZeeshaにとって初めての出演映画です。彼は俳優ではないので、出演を決めてくれたのは嬉しいことでした。Zeeshanはパキスタンで有名なアーティストであり、2019年のビエンナーレにおけるカラチのキュレーターでもありました。私はその作品に親しんでいて、彼の芸術作品が映画の主人公――反体制的でカリスマ的、そして勇気を持つ人物――と共鳴しているのは偶然ではないと思いました。
実りのないオーディションを経た数日後、プロデューサーがZeeshanに連絡するよう言ったんです。Abid Aziz Merchantはアートギャラリーを所有していて、彼とは近しい友人でもあったんです。そしてZeeshanは役にピッタリだと思った訳ですね。オーディションにおいて彼は軽やかで反抗的なエネルギーを見せてくれて、レニーという役において輝かせることができると思いました。そして彼が私の演出を信頼してくれたことで、切迫しながら瞑想的なパフォーマンスを彼から引き出すことができました。
TS」今作は観客に70年代におけるパキスタンの音楽へ関心を持たせることでしょう。特にエンドクレジットにおける音楽はとても興奮するもので、主人公の独特で反抗的な性格を象徴してもいます。この曲について日本の読者に解説してくれませんか? 既成曲、もしくはスタッフが今作のために作った新曲でしょうか? それから70年代にこの国で流行った音楽についても知りたいです。どういった曲が人気だったのでしょう? 例えば最も有名な曲は一体なんでしょう?
今作はロックスターの人生を描いた作品ゆえ、音楽は常に物語において大きな役割を果たしています。70年代のパキスタンから現れた、エネルギーに溢れ、自由意思に満ちた音楽の数々は"1978"のトーンを決めてもくれました。
パキスタンのEP"Life is Dance"を聞いた時のことを未だに覚えていますね。このEPは70年代で最も有名だったプレイヤーたち、例えばNahid Akhtar ナヒド・アクタール、Noor Jehan ヌール・ジェハン、M. Ashraf M.アシュラフ、Tafo タフォといった人々の曲を収録しています。アルバムは灼けつくほどにホットで、映画に取りこみたい反体制的エネルギーを持っていました。この音楽たちが、芸術だけができるやり方で私の目を70年代の魂へと開かせてくれたんです。
曲のなかには映画の音楽のインスピレーションとなった、ゴアのキリスト教徒による素晴らしいバンドの曲もありました。例えばBlack Jacks、Talisman、Keynotes、InCrowd、Benjamin Sistersなどです。
そして主人公がナイトクラブで歌うためのオリジナル曲も必要でした。ここはレニーの人生で最も栄光に満ちた瞬間を描いた重要なものでした。覚えているのはCliffordの部屋で、彼が80年代中盤に所属していたバンドVisions Bandの曲を使うことを提案したことです。その曲は"Zindagi ka Safar"というタイトルで、英語では"人生の道筋"を意味しています。ウルドゥー語で書かれたものでしたが、70年代に披露されていた曲のほとんどが英語だったので、曲を英語に書き換えてから録音し直す必要がありました。
Cliffyと作曲家のMehreen Rizvi メーリーン・リズヴィの力を借り、新しい歌詞を書き終えてGangwar Studiosで録音をしました。この曲のほとんどはCliffyの新しいバンドメンバーのおかげで完成したんです。彼のバンドIn-Timeはゴアのキリスト教徒たちを集めたバンドであり、Glenn D'Cruz グレン・ド・クルス(ドラム)、Rodney Rodrigues ロドニー・ロドリゲス(リードギター)、Gerald Fernandes ジェラルド・フェルナンデス(ベースギター)、Hilary Rodrigues ヒラリー・ロドリゲス(サクソフォン)、そしてCliffyはキーボードとリードボーカルを担当していました。更にUncle Normanはバックボーカルも務めてくれました! とても骨の折れる仕事でしたが、素晴らしい経験でもありました。
そしてパキスタン人作曲家であるSalman Ahmed サルマン・アフメドと韓国人作曲家であるChoi Jong-Ho チェ・ジョンホにはこれらのインスピレーションに根差したサウンドトラックを作ってもらいました。その仕事ぶりを誇りに思っています。
TS:パキスタン映画の現状はどういったものでしょう? 外側からだとその映画に触れる機会があまりありません。しかし内側からだと、その現状はどういったものに見えるでしょう?
HB:パキスタンの映画産業は幼年期にあります。TVドラマ業界――西欧のソープオペラのようなものですね――は隆盛しています。しかし映画というレベルではありません。世界に通用する作品を作れる映画監督は1、2人しかいませんね。映画館も少なければ、国のサポートも薄い、そしてインフラもないんです。さらにパキスタンには共同制作についての協定もないので、外国の投資を得るのが難しい訳です。専門の映画学校もありませんし、技術的なリソースにも欠けています。ゆえに映画製作は試練です。それでも何人かの映画作家は活動を続けています。Saim Sadiq サイム・サディク、Sabiha SUmar サビハ・スマル、Sarmad Khoosat サルマド・コーサット、Nabeel Qureshi ナビール・クレシ、Asim Abbasi アシム・アッバシらは創造的な作品を作る作家たちです。
そういった状況で映画を作るのは困難でありながら、同時に興奮するものでもあります。世界へ旅立つ作品のほとんどはそれを完遂した作品です。去年"Zindagi Tamasha"という作品がパキスタン映画として釜山で賞を獲得しました。そして私の作品"Stray Dogs Come Out at Night"はパキスタン映画で初めてクレルモン=フェラン国際映画祭で上映された作品となりました。試練はありますが、そういった急成長する映画界の一員となれるのは素晴らしい経験です。
TS:映画好きがパキスタン映画史について知りたいと思った時、どういった映画を観るべきでしょう? その理由もぜひ聞きたいです。
まずA.J.Kardar A.J.カルダルの"Jago Hua Savera"を観るべきですね。おそらくパキスタン最初のアート映画だと思います。漁村に住む貧しい家族を描いた美しい作品で、この当時の環境的・政治的試練を描いています。それでいて現代の資本主義という意味では今日的でもあります。作品はモスクワ国際映画祭で最高賞を獲得し、2016年にはカンヌでも上映されました。
そしてもう1作勧めたいのはMushtaq Gazdar監督作"They Are Killing the Horse"です。この短編映画は信仰療法や不動の家父長制に晒され、狂気に堕ちていく女性を描いています。タンペレ映画祭でパキスタン映画として初めて上映され、グランプリを獲得しました。
そして最後に紹介したいのはSabiha Sumar監督作"Khamosh Pani"です。本当に崇高な作品なんです。
TS:もし1作だけ好きなパキスタン映画を選ぶなら、どの作品を選ぶでしょう? その理由もお聞きしたいです。何か個人的な思い出があるのでしょうか?
HB:不幸なことにそれを選べるほどパキスタン映画に深みはありません。ここ40年、この国の映画は地方映画、世界を舞台にしたB級映画、メロドラマ的なTV映画ばかりでした。その中でも際立った作品は"Khamosh Pani"ですね。語り、演出、プロダクション、全てが際立っています。パキスタン映画界でキャリアを積もうと思ったきっかけでもありますね。
この状況のため私の影響元に関して語るには、豊穣さと深さを持つ南アジア映画全般に話を広げる必要があります。まずバングラデシュ人作家のサタジット・レイの作品が好きです。アプー三部作が有名ですが、私に深く影響を与えたのは「ビッグ・シティ」「音楽ホール」「森の中の昼と夜」という作品たちですね。ある時期において南アジアの国々(パキスタン、インド、バングラデシュ)は1つでした。ゆえに文化的に同様の価値観を持っているんです。これは私たちの映画にも見られます。
思うに注目すべきはパキスタン初めての"アート"映画が撮影された場所は現代のバングラデシュなんです。映画を愛する理由の1つは国境やアイデンティティを越えて人々を1つにする可能性を持っているからです。
TS:新しい短編、もしくは長編を作る計画はありますか? もしあればぜひ読者に教えてください。
HB:現在、新しい短編作品のプレプロ中です。作品はある兄弟の関係性を描いていますが、ここにおいて彼らが被る傷は内面的で自ら組み立てたものでもあります。それから長編映画のプレプロにも入っていますね。2022年の秋までには完成させたいと思っています。長く困難な道が待っているでしょうが、この不安定な時代に映画作家であれることの深い特権も感じています。