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映画痴れ者/ライター済東鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

Abner Benaim&“Plaza catedral”/パナマ、幼い命が失われゆく街で

さて、パナマである。グアテマラコスタリカとともに中米を構成する国の1つだが、この国について知られていることは少ないかもしれない。斯く言う私もパナマといえば、地理の授業で必ず習うだろうパナマ運河や、近年の金融スキャンダルで話題になったパナマ文書という感じだった。映画に関しても情報が乏しく、ただでさえパナマで作られた作品は少ないのに、その作品ですら管理の不徹底で大部分失われているゆえ、古典作品で観られるものはほぼない。こんなわけで現代においても映画産業はそこまで発展しておらず、年間の長編製作本数も2桁行くか行かないかのようだ。だがそんなパナマ映画界で気焔を吐く人物による新作映画を紹介したい。それこそAbner Benaim アブネル・ベナイム監督の第4長編“Plaza catedral”だ。

今作の主人公はアリシア(Ilse Salas イルセ・サラス、日本でも主演作「グッド・ワイフ」が公開)という、不動産業界に勤める中年女性だ。彼女はつい最近、最愛の息子であるルカを事故で亡くし、これが原因で夫との仲も破綻、孤独な生活を送っていた。

だがある日、彼女は13歳の少年チーフ(Fernando de Casta フェルナンド・デ・カスタ)と出会う。パナマは土地が狭いらしく、都市部では車を所有しても駐車スペースがない状況がある。これを背景に、運転手へと取りいり車の管理を行う仕事を行っている者たちがいる。チーフもそんな人物で、ほとんど押し売りさながらアリシアの車を管理し始めるので最初は煩わしく思われながら、徐々にチーフのことを気にかけるようになっていく。そしてこの2人の交流が、物語を牽引していくことになる。

チーフの勢いに負けて彼に車の管理を任せるようになった頃、思わぬ事件が起こる。アリシアは自身の部屋の前でチーフが血を流して倒れているのを発見する。何らかの犯罪に関与していることは明らかだ、あまり深く関わってはいけないと思いながらも、彼を病院へと運び治療を受けさせる。これで一旦は決着がついたと安堵するも、アリシアの部屋に再びチーフが現れる。匿ってもらいたいらしい。躊躇いながら、彼を居候させることを決めるアリシアだったが……

監督はアリシアの心理模様に焦点を当て始める。彼女は息子の事故死は自分が原因だと悔いており、その罪悪感によって彼女は自ら孤立を選びとってしまっている。その状況に波紋を投げ掛けるのがチーフであり、未だ幼い子供である彼にアリシアは息子の面影を認めざるをえない。そしてチーフは逆に母親から忌み嫌われる息苦しい生活を送っているのを知るなら、彼を放っておくこともできなくなる。

だがこの共同生活のなかで彼らを隔てる決定的な違いも明らかになっていく。アリシアは金銭的には不自由のない中産階級に属する一方で、チーフはスラム街に身を置かざるをえない貧困層に属している。さらに彼らは都市部の土地開発によって逼迫した状況に追い込まれているが、それを主導するだろう不動産業界でアリシアは働いている。また彼女はメキシコからの移民であり、好況著しい不動産業界で海外の富裕層と契約を取り交わすことに関与している。ある種、特権的な立ち位置から甘い蜜を吸っている状況でもある。そしてここに白人と黒人という人種的な緊張も加わる。出会った当初、チーフに“gringa 白人女性”というスラングを投げ掛けられアリシアが不機嫌になるという場面に、これが象徴されてもいるだろう。

これに関連して、今作は不動産・建築映画としての趣も宿している。まず最初の場面からしてこれが顕著だ。アリシアは建設中の高層ビルへと赴き、住居を探しているという富裕層の家族をガイドすることになる。パナマにおける不動産業の不穏な活気が見えてくる一幕だ。だがその後、アリシアはほとんど空と重なるような高さから真下に広がる都市の地べたを見据えながら、自身が投身自殺を遂げる姿を想像する。観客はそこにアリシアの絶望を見出だし、すぐその原因が息子の死であると分かることにもなる。

そして建築という意味で注目すべきはアリシアの住まいだ。彼女の住むアパートはまず入り口から戸締まりが厳重で、住民以外の存在を孤絶するようだ。アリシアはその一室に引きこもり他人の介入を拒んでいる。そうして己に孤独を強いているのだ。この様子を見ながら想起するのは富裕層が作るゲーテッド・コミュニティに関してだ。あそこまで厳重ではないし、このアパートの立地は都市部の中心で、隔絶した場所に作られているわけでもない。しかし厳重に戸締まりの成されたアパートは中産階級にとっての砦として屹立しており、外で自分たちから金をせびろうとしている貧困層を拒絶するのだ。

だがアリシアはそんな場所にチーフを招きいれ、彼と共同生活を送り始める。先述の意味で彼はアパートの住民たちにとって招かれざる客であるゆえ、アリシアはこの事実をひた隠しにする。実際、彼女自身が貧困層への不信を内面化しており、寝ている時にチーフに頸動脈を掻き切られるという悪夢も見ている。いくら交流を深めようと根底の部分で、彼は自分に取りいり最後には金品を盗んでいく泥棒でしかないのでは?という疑念を拭えない。それでもアリシアは彼を匿い続けるのだ。

この様を見るなら冒頭における自殺妄想も別の意味が見えてくる。経済状況という意味では、彼女は生活に何ら不自由のない中産階級としての生活を過ごしている。だがそれは貧困層と富裕層の板挟みになりながら、後者のために前者を搾取してこそ成せる自由なのだ。この状況に心を引き裂かれる彼女の良心は、富裕層が生活する高層ビルの一室という上部から下へと飛び降りたいと願っている。抑圧的な富裕層の世界から逃れたいのだと。

だがこれはある種、恵まれた者の戯れ事でしかないのかもしれないという事実を映画は提示していく。チーフの以前の暮らしぶりは絶望的なものであり、チーフや彼の姉たちは貧困と同時に母親や継父からの虐待も受けているのだ。そしてアリシアは彼の傷と血の理由もそこにあると知らざるを得ない。彼女はチーフに逃げ場を提供してはいるが、抜本的な解決とはなるはずもなく、それは結局のところこの中産階級の聖域にただ引きこもっているだけというのも意味している。この状況を変えるには一体どうすればいいのか?

今作を最も力強く支える存在がアリシアを演じるイルセ・サラスだろう。息子を失った悲しみのなかで救いを求めて足掻き続ける女性の姿を、彼女は静かに演じ切っている。そして物語においては彼女が体現する善意や良心はエゴイズムと表裏一体であり、単純な称賛や感動だけで形容できるものではない。状況があまりにも複雑なのだ。サラスの存在感はこの複雑さを背負っているのだ。

そして監督はチーフの悲惨な人生とともに、特権を持ってしまっていることに苦悩を抱くアリシアの葛藤に、パナマという国で格差がみるみる拡大している現実をも託している。そして私たちは、それが引き起こすものとは何か?という残酷な事実を知ることにもなる。エンドロール前、映画の裏側で起こったある信じがたい事実とともにこういった言葉が流れるーー“ラテンアメリカでは毎日何人もの子供たちの命が失われている”と。監督はアリシアとチーフの交流、そして彼らが最後に成す選択を通じて、“Plaza catedral”にこの残酷さを越えるための祈りを託している。それは希望というにはあまりにやるせない灰色の祈りであるが。