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映画痴れ者/ライター済藤鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

都市計画と不動産、建築とオブジェクト~「イン・ザ・ハイツ」&「映画クレヨンしんちゃん謎メキ!花の天カス学園」

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最近、建築学に嵌まっており、建築や都市計画という面から映画を観たりしているのだが、そういった意味でかなりしっくり来る映画に映画館で2本連続出会った。「イン・ザ・ハイツ」と「映画クレヨンしんちゃん謎メキ!花の天カス学園」だ。

まず「イン・ザ・ハイツ」から。私にとってミュージカル映画は、ディテールの映画だ。一旦歌い始めると登場人物が自分の気持ちを1曲使ってまるまる歌いながら表現するといった風に語りが停滞する故に、その停滞にどんな細部を描きこむかが私にとっては重要となってくる。そんな中でこのミュージカル映画は完全に開き直って、停滞を2時間半に引き延ばしているのだが、そこに何を描きだすといえば不動産と都市計画のシビアな地政学的エピックであり、予期せぬ壮大さに圧倒されたと言わざるを得ない。

不動産と都市計画のエピックというのは、つまりは金と地政学叙事詩な訳である。これほどまでに金の話が全編に現れかつ、引っ越し/移住 (主人公のドミニカ共和国移住、ラストも引っ越しの枠内で物語が進行)、店舗移転 (最後にはあの3バカの美容室がブロンクスに移転する)、土地買収 (エリートの娘と叩きあげの父のスレ違いは個人的に最も興味深い)といった不動産売買によって、登場人物や語りが駆動する映画はなかなかないのではと感じた。そして今正にジェントリフィケーションの時代なんだなと、凄く思ってしまった。

去年観た映画に“Residue”という映画がある。気鋭の黒人映画作家である主人公が故郷であるワシントンD.C.に戻ると、住宅街は白人たちによって埋めつくされていたという物語だ。黒人やラテン系などPoCの人々が居住していた住宅街が、白人の富裕層によって奪われ土地は高級化、彼らは故郷を捨て別の場所に移住せざるを得ない。このジェントリフィケーションはアメリカにおいてかなり深刻な現象になっているのだろう。ちなみに“Residue”の監督は、L.A. Rebellion運動を代表する作家Haile Gerima ハイレ・ゲリマの息子Merawi Gerima メラウィ・ゲリマだ。「イン・ザ・ハイツ」はゲリマ父の代表作“Bush Mama”とも絡めて語れるかもしれない。

こういった意味で、とにかく原作・脚本のキアラ・アレグリア・ヒューディーズの地政学的な描きこみが圧巻だった。語り自体は割に断片的といった印象なのだが、無数の点の集積としての群像によってワシントン・ハイツ、アメリカ、ラテンアメリカと地図を加速度的に拡大させていく。しかし視線は常に個それぞれへとある。最後に美容室のオーナーが発破をかける大々的ミュージカル場面においてラテンアメリカ各国の国旗が舞ったり、美容室の3バカの1人が“私のママは○○系○○人で、パパは○○系○○人。でも私は○○生まれで○○系○○人!”(あの下り覚えたかったけど覚えられなかった。それくらい複雑だ)といかに自分たちのルーツが複雑かというのを意識的に提示している様からもヒューディーズの眼差しがどこへ向いているか分かる。大局と小局の行交いにおいて息を呑むような巧みさがあった。

そして、ラストの苦さで言えば、元気の出る歌唱で紛らわされる節はありながらも「プロミシング・ヤング・ウーマン」すら彷彿させた。終盤、登場人物たちが行う決意の数々たるや悲壮なもので、希望と絶望がない交ぜになった最後には思わず“こうするしかないのか……?”とやるせなさすら抱く。白人の富裕層によって強引な形で都市が整備されていくなかで、ウスナビたちの反抗があれなのだろう。

観てからこりゃすげえ都市計画の映画だったなと思いながら色々考えているうちに、思いついたのがジェイン・ジェイコブズだった。彼女は多様性を都市計画の軸にした訳だが、今作において旧来の住民は追い出され、古い建物は奪われ建て替えられ、ジェイコブズの謳う多様性から加速度的に遠ざかっていく。そして彼女は何より遊歩道を重視したが、ジョン・M・チュウ監督の提示する風景においてはむしろダンスや歌より、ウスナビが家から自身の店まで歩いたり、友人とともにプールへ歩きながら談笑したりとそういった歩く場面の親密さが印象的だった。という感じで「イン・ザ・ハイツ」は個人的にジェントリフィケーションの時代の地政学的エピック、トランプ以降の都市計画映画としてかなり楽しんだ。

で2日後に「映画クレヨンしんちゃん 謎メキ!花の天カス学園」観に行った訳だけども、こっちは建築の映画というか、オブジェクトの映画と思わされる1作だった。今作ではエリートを育てる進学校が舞台になる訳だが、その敷地はしんちゃんの住む家から明確に隔たった場所にあり、隔絶の感覚が濃厚だ。そして建築自体もマッシブかつ装飾過多な代物で、内部も生徒たちを育む、もしくは生徒たちに生きられる相互的影響を喚起する空間というよりも、生徒たちの思考を制限し、エリートに仕立てあげる暴力装置のように機能している。

このかなり建築の存在に意識的と思わされる作劇を楽しみながら、想起したのが建築家である隈研吾のオブジェクト/反オブジェクト論だった。この先の論立ては稚拙かもしれないが、私の一解釈ってことでご寛如、ご寛如。私の解釈として、建築は環境から断絶し、人間を規定するオブジェクトであるべきではない。その対局にあるのが、環境に溶けこみ、時にはもはや埋没し、そして時の流れの中で移ろっていくような建築が反オブジェクトだと。今作においてはメインの巨大校舎や食堂がオブジェクトで、時が経つにつれ流れのなかで朽ちていく図書館と時計塔が反オブジェクトだろう。

しかし今作の場合はじゃあ反オブジェクトが善きものとして現れるかといえば異なる。反オブジェクトは朽ちることを前提としているとはいえ、ケアが成されなければ危険も孕む。そしてオブジェクト的、エリート的意識は、この危険を宿した反オブジェクトを悪用して肥大していく。黒幕はこの反オブジェクト建築を隠れ蓑として利用し、恐ろしい計画を進めていく訳である。作り手がこういった展開に先に提示するのは、ここにおいて私たちは悪用された反オブジェクト、その廃墟から始めなくてはならないのかもしれない。時計塔の崩壊と同時に、黒幕によってケツを弄られた挙げ句に風間くんは選民思想に裏打ちされたスーパーエリートと化し、同時にしんちゃんとそのケツは進化を遂げ、黒幕の正体に辿りつく圧倒的知性を獲得する。今作は廃墟の先に、新しい人類、ケツ人間の可能性を見出だすのだ。

こうして前半は隈研吾のオブジェクト論を彷彿とさせる建築映画として出色なのだが、途中からはケツによって今作に独自の理論が展開していく。だが個人的に惜しむべきことが1つある。終盤において映画はこのケツ人間という新たな人間存在と、風間くんとしんちゃんの姿に象徴される2つの可能性を提示する。だがこの2つが雌雄を決する際に、肝心のケツ・アクションが不在なのだ。無い物ねだりかもしれないが、風間くんが持つ王座に座すことにしか使われないケツを、しんちゃんがその得意のケツ・アクションで凌駕する場面が欲しかった。それこそ序盤の焼きそばパン争奪戦で行ったケツ爆走を、この最終決戦にこそ使うべきだったと思うのだ。そういう意味で建築映画としてかなり興味深かったが、ケッ作とまでは行かなかった。今年は既に「劇場版 ポリス×戦士ラブパトリーナ!~怪盗からの挑戦!ラブでパパッとタイホせよ!」という、弩迫のケツネタをかました大ケッ作があり、その後塵を拝した結果と言わざるを得ない。

と、いう感じで、私にとって「イン・ザ・ハイツ」は観ながらジェイン・ジェイコブズのニューヨーク都市計画論を思いだすアーバン・デザイン映画だったし「映画クレヨンしんちゃん謎メキ!花の天カス学園」は隈研吾のオブジェクト論を思い出す建築映画だったのだ。今週のシネコンは、建築/都市学映画でアツいぜ!

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