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映画痴れ者/ライター済東鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

Ekaterina Selenkina&“Detours”/モスクワ、都市生活者の孤独

最近、私が建築や都市デザインにまつわる映画に興味があるのは、直近の記事を読んでくれたりTwitterを見てくれている方ならご存知だろうと思う。クローン病と診断された後に開き直って大量の本を読み始めたのだが、そこで最も惹かれたものの1つが建築と都市デザインだった訳だ。今はこれを映画批評や小説にどう組みこむかというのを自身の命題にしている。そしてこの建築学的な視点から見て面白い映画というのも探しているのだが、今回紹介するのは正にそんな観点から頗る興味深い1作である、ロシア映画界の新星Ekaterina Selenkina エカテリーナ・セレンキナによるデビュー長編“Detours”だ。

今作の主人公はデニスという青年で、普段彼はペットブリーダーとして活動しているのだが、裏の顔もまた存在している。彼はいわゆる深層ウェブを通じた麻薬密売に関わっているのだ。彼は売人として指示を受けるとモスクワへと赴き、その都市の間隙に麻薬を置いていき、売買を行う。まず描かれるのはそんな彼の日常だ。まずGoogleマップで都市を探索、取引に使えそうな場所のスクリーンショットを次々と撮影し、メモを取る。話をつけた後には取引場所へ向かい、何食わぬ顔で麻薬を置いていくと、そそくさとその場を去っていく。この繰り返しだ。

Alexey Kurbatovのカメラはそんなデニスの姿を常に観察し続ける。クロースアップはほぼ使われず、風景において彼や他の人間が細い線として現れるほどの距離感を保ち、かつカメラ自体は一切動かさないままだ。このロングショット主体の定点撮影を長回しで行うことによって、ある種の監視カメラ的な触感をもKurbatovによるショットの数々は獲得していく。

ここにおいて本当の主人公はデニスではなくモスクワの建築、もしくは建築空間そのものと言えるかもしれない。武骨なコンクリートに包まれた団地の群れ、昼の微睡みを思わす光と影の交錯によって浮かびあがる建物の出入口、闇のなかで微かな街頭だけが歩く頼りとなる道路、団地の横に存在している開かれた草むら、青年たちが遊び場とする朽ち果てた廃墟。そういった風景の数々が長回しのなかに浮かんでは消えていくが、際立つのは人間よりも建築なのだ。

そしてこのイメージは不気味なほどに冷えているものだ。もしくは観察という行為に在るべき明晰性が宿っているとも言えるかもしれない。私が思うに、デジタル撮影が主流になった今において、フィルム撮影が対比的に獲得したものとして、まるで粒子がうごめく故の摩擦から生じるとでもいう風な熱もしくは暖かさ、それから曖昧さがある。こういった後天的性質は、例えば現在との対立物としての過去、さらに郷愁を抱くような幻想を描くことに利用されることがある(例えば2021年の作品ではワイルド・スピード JET BREAK」がこの手法で主人公ドンの過去を描いていた)だがここにそういった暖かみや郷愁は微塵も存在せず、あるのは観察という行為に根づく冷えた明晰だけだ、まるでモスクワの大気の凍てがそのままテクスチャーとして現れたといった風に。

同時にこのイメージと争うように存在するものが音響だ。作品世界においては日常音というべきものが氾濫し、大きな存在を持つ。例えば風の音、例えばどこからか聞こえる特売品の宣伝、例えば高速道路で渋滞に嵌まった乗用車の音、例えば建物を背景として写真を撮る女性たちの談笑。これらは本当に何の変哲もない音のように思える。だが上述した不気味なイメージとの相乗効果で、どこか現実離れした厭に気味の悪い響きを持っていく。このように今作においてはイメージと音の間に常に緊張感が存在しているのだ。Selenkina監督はこの緊張を巧みに操っていくことによって、観客の視覚や聴覚をここから逸らせなくなるようにしていく。

そしてこの緊張は徐々に人間と建築、さらに人間と都市の不穏なる関係性にも繋がっていく。デニスは密売人としてモスクワを暗躍していくが、それは危ない橋を渡るようなものだ。何者かから逃走せざるを得ない場面や、駅での持ち物検査に引っ掛かり警備員によって厳重な身体検査が行われる場面も存在する。ここにおいても実際に際立つのはデニスら人間でなく、彼が走り抜ける道路、彼が尋問を受ける狭苦しい部屋なのだ。建築は、都市は常にデニスを監視している。

今作に濃厚なのが都市生活者の孤独というべき荒涼たる感覚だ。デニスの精神は疲弊していき、売人稼業を放棄したいと願いながら、元締めによって引き留められた挙げ句、泥沼の状況に陥っていく。彼は都市という名の、回り道によってのみ構成され目的地の存在しない迷宮を彷徨い、そして最後には埋没を遂げていくしかない。“Detours”を観ながら、これがモスクワという都市における現実だと思うかもしれない。だが気づくのは、極限まで状況を削ぎ落とされた語りのなかで、今作は概念としての都市、その寓話でも有りうると。この一見して矛盾と思える2つを、Selenkinaは不穏なまでの鮮やかさで交わらせ、そしてこの“Detours”として私たちに提示するのだ。