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映画痴れ者/ライター済東鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

Andres Rodríguez&“Roza”/グアテマラ、キチェの民のこの苦渋

中米はグアテマラ、この国にはキチェ族というマヤ人に属する民族が暮らしている。グアテマラ高地に住む彼らはマヤ語族であるキチェ語を話し、Wikipediaによればその“話者は現代のマヤ諸民族のうちではもっとも人口が多く、グアテマラ全人口の11%を占める”そうである。著名な人物にはノーベル平和賞を受賞したリゴベルタ・メンチュウがおり、彼女の証言集である「私の名はリゴベルタ・メンチュウ―マヤ=キチェ族インディオ女性の記録」が邦訳もされている。今回は彼らキチェ族が現在置かれている難しい状況を描き出した1作、Andres Rodríguez監督のデビュー長編“Roza”を紹介していこう。

今作の主人公はエクトル(Hector Ramos)という中年男性だ。彼は家族を養うため彼らを故郷に置いて都市部へと移住、出稼ぎの身として数年間暮らしていた。だがそこでの暮らしも限界を迎え、とうとう彼は帰郷を果たす。迎える家族の反応は冷ややかなものだ。母は何も改善されぬ自分たちの暮らしぶりを嘆き、妻は長年捨て置かれたゆえの反感を隠さない。そして息子のダルウィンはもはや自分の顔すら覚えておらず、父を見知らぬ他人として扱うばかりだった。

“Roza”はまずそんな苦境に置かれたエクトルの再起の日々を淡々と描きだす。信心深い家族は熱心に教会へと赴き、祈りを捧げるのであるが、そんな彼らにエクトルは距離感を感じざるを得ない。神父も自分たちに親身になってくれるのだが、その優しさにすら違和感を抱く。金を稼ぐために若い労働者に混じってサトウキビ畑で過酷な仕事に励むのだが、いまや中年の彼は明らかに他の男たちの足手まといになってしまう。そして疲れはて家に帰るが、そこでは自分に不信の眼差しを向ける家族が待っているのみだ。

撮影監督であるMichelle Rosalesのカメラはそんなエクトルの疲弊に満ちた暮らしぶりを静かに見据える。カメラはほとんど不動を保ちながら、目前に広がる鬱々たる光景を凝視するようだ。そして現れる映像において色彩は息詰まるほどに掠れており、その灰燼色の風景はエクトルの心証風景をそのまま反映しているかのようだ。そこには生の喜びといった明るい感情は一切なく、ただ泥ついた疲労感だけが滲みだしている。

そしてそれはキチェ族が現在置かれている苦境をも象徴しているのかもしれない。生まれ育った地域は貧困にまみれているゆえに、よりよい未来を望むのならば故郷から遠く都市部へと身を移さなくてはならない。だが移住したからといって無条件に幸福が得られることなどありえず、むしろ苦渋を呑まされることの方がしばしばだ。それに打ちひしがれ故郷に帰れども、都市生活で自分が変わってしまったなら、故郷や家族、友人たちも変わってしまっている。この変化に順応できなければ、自分が元いた共同体においてすら邪魔物として扱われる残酷な未来が待っている。今作においてエクトルはその苦難を一身に背負っているのだ。彼はどこにも馴染むことのできない余所者としての生を生きざるを得ない。

劇中において印象的なのが食事シーンだ。家族全員が集合し普通ならば団欒とでも言うべき状況がそこには広がっているが、雰囲気はどこまでも重苦しい。そこでは母が自分が置かれている状況への呪詛を愚痴として吐き散らかすか、さもなくば全員が無言か。響くのは食器がぶつかりあう音や食物を摂取する咀嚼音ばかりだ。エクトル及び家族の表情にもただただ虚無感しか見えてこない。

興味深いのは、今作のランタイムは78分と長編映画にしてはすこぶる短いのだが、そこに家族での食事場面が何度も挿入される。しかもカットの長く途切れない長回しでそれらは描かれる。カメラは重苦しい空気を執拗なまでに凝視し、観客はその空気感をこれでもかと味わわされる。そして私たちはこの構図を生ぬるい地獄絵図としか表現し難くなるのだ。

そんな状況でエクトルの状況は刻一刻と悪化していく。行商としての腕を姑に罵られた妻はその不満をエクトルにぶつけ、かといって彼はその権威を恐れ母を注意することもできず、家族の仲は凍てついていく。さらにサトウキビ畑でも彼の不注意で凄惨な事故が起こってしまい、同僚たちからも見放されていく。こうして彼の心には暗々しい鬱屈が溜まっていき、それが爆発する時、悲劇が起こってしまう。

今作の核となるのはやはりエクトルを演じるHector Ramosの存在感に他ならないだろう。彼は寡黙な男であり言葉として感情は表れることは少ないが、錆びたような色合いの、皺深い表情からは常に濃厚なる苦渋が滲みだし、観客に彼の苦悩の深さを思い知らせる。彼の存在は、例えカメラが姿を小さく映し出していた時ですらも、観客の網膜にグッと迫ってくる。迫真の演技は熱演ならぬ、濃密な静演とでも形容すべきものだ。

終盤、再びエクトルが家族と食事をとる場面が現れる。おそらく昼頃、ダルウィンや母と野外で仕事をした後、彼らは大地に積みあがった藁に腰を据えて昼食をとるのだ。その雰囲気は太陽の柔らかな輝きあってか、珍しくゆったりとし、初めて本当の意味で“家族団欒”と言える状況ができているように思える。だがここでこそ、エクトルは家族、ひいては共同体そのものと決定的な決裂を遂げることになる。様々な積み重ねの末に、夢見たかもしれない幸福がそのまま破綻を意味することになってしまうのだ。監督はこのようにして、グアテマラにおいてケチュ人の置かれる悲痛な状況を力強く提示する。彼らの絶望はいまだ深い。