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映画痴れ者/ライター済東鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

Paul Negoescu&“Oameni de treabă”/ルーマニア、お前はここでどう生きる?

Paul Negoescu パウル・ネゴエスルーマニア映画界には稀な、批評家や映画祭からも、ルーマニア国民からも愛される映画作家である。デビュー長編“O lună în Thailandă”(レビュー記事)はヴェネチア国際映画祭でプレミア上映後、映画批評家からも高く評価された1作で、個人的にも2000年代以降で「シルビアのいる町で」テイク・ディス・ワルツに匹敵するラブロマンスと思う傑作だ。そこから一転、第2長編“Două lozuri”(レビュー記事)は哀愁あるユーモアに裏打ちされたコメディで、2016年にルーマニアで最も興行収入を稼ぎだした1作となった。2018年の第3長編“Povestea unui pierde-vara”はとある大学教授のすったもんだな恋愛を描きだしたロマンティック・コメディで、批評家と観客双方から暖かく迎えられ、Negoescuは“ルーマニアウディ・アレン”とも呼ばれることになる(いや、アレンの不祥事を鑑みるとこの評も色々な意味でどうかと思うが)そして今年、満を持しての第4長編がプレミア上映された。この1作、全くルーマニア映画としか形容しがたい映画だった。

今作の主人公はイリエ(Iulian Postelnicu ユリアン・ポステルニク)という中年男性だ。彼は警察官なのであるが、そこまで尊敬を受けることもなく鬱屈した日々を送っている。だが彼には夢がある。果樹園を買い取り、ここで第2の人生をスタートさせるのだ。そのためにはまとまった金が必要だが、簡単には手に入れられそうにない。そうして鬱屈した日々はまだまだ続きそうだった。

しかし彼の住む静かな村で事件が起こる。ある男が惨たらしく殺害され、死体が野原に放置されていたのだ。赴任してきたばかりの部下であるヴァリ(Anghel Damian アンゲル・ダミアン)は事件を解決するために調査を熱心に行うが、イリエは身が入ることがない。更に彼は町長(Vasile Muraru ヴァシレ・ムラル)に呼ばれ、驚きの告白を受ける。彼こそが殺人事件の真犯人だというのだ。彼から直々に事件の隠蔽を依頼されたイリエは、隠蔽を遂行するのだったが……

監督と、脚本を担当したRadu Romaniuc ラドゥ・ロマニュクOana Tudor オアナ・トゥドルはそんなイリエの姿を丹念に描きだしていく。しがない中年のイリエは常に苦い表情を浮かべながら、何の期待も持たずに日々を生きているように思われる。そんな彼にとって最後の希望が果樹園を持つことだった。町長はこの夢の成就を交換条件に隠蔽を迫るわけだ。

そして黙々と証拠隠滅を行いながらも、思わぬ出会いがある。ある日、イリエは被害者の妻であるクリスティナ(Crina Semciuc クリナ・セムチュク)の家へと赴くが、そこで彼女が町長たちに脅迫される様を目撃する。ひょんなことから彼女の息子を世話することにもなってしまう。そうして彼女たちと交流を繰り広げるなかで、イリエの心には揺らぎが生まれる。このまま隠蔽を続けるべきなのか、それとも……

撮影のAna Drăghici アナ・ドラギチは監督の公私におけるパートナーで、短編含め多くのネゴエスク作品を手掛けているが、今回もその連携は巧みだ。リアリズム主体の硬質な映像は村の寂れた空気感を観客の皮膚に体感させるとともに、その陰鬱さにイリエの心理模様そのものをも浮かびあがらせている。Marius Leftărache マリウス・レフタラケが手掛けた音楽は不穏な震えを多く宿しており、観客の鼓膜に凄まじく厭なざらつきを残していく。

こうして専心丹念に、時には泥臭いまでの鈍さで物語を組み上げていくなかで、現れるものがある。現代ルーマニア映画は個の倫理と公の倫理の、もっと言えば個人の倫理と職業倫理の衝突を一貫したテーマとして描きだしているのを感じる。例えば私の人生を変えたと言うべきCorneliu Porumboiu コルネリュ・ポルンボユ監督の第2長編“Polițist, adjectiv”は、警察官である主人公が高校生をある容疑で逮捕すべき否かに苦悩する作品で、このテーマ性を持ったルーマニア映画でも最も力強い1本ともなっている。そして“Oameni de treabă”は正に同じ問題意識を持ち、同時に警察官が主人公という意味で“Polițist, adjectiv”の直系にある作品とも言えるのだ。

今作の核となる存在がイリエを演じるIulian Postelnicuだ。彼を最初に観たのはRadu Muntean ラドゥ・ムンテアン“Un etaj mai jos”(レビュー記事)だった。ここでPostelnicuは犯した殺人を隠そうとする男性役で、真実を知った主人公を追い詰めていく。いわば個の倫理と公の倫理について問うてくる側の存在だったが、今作では逆にこれについて問われ、倫理的ジレンマに苦しむ側の存在となっているのが興味深い。

Postelnicuは劇中常に渋い表情を浮かべており、ここに陽の何かが兆すことはほとんどない。その状態でさらに精神的に追い詰められ、皮膚は影によって黒く染められて、絶望に塗り潰されることとなる。この表情こそが今作が倫理への苦悩を描きだすうえで、またとない説得力となる。顔中に刻まれた影、ここから深く濃厚なる苦渋が滲みだし、スクリーンを染めあげる。観客はこの苦悩の色彩を味わうことになるのだ。

“Oameni de treabă”はそうして倫理への問いを突き詰めていき、最後にはこういったスリラー的な作品にお約束の暴力へと到達する。だがNegoescuの手捌きは他と一線を画す。今作自体スリルといった要素は慎重に排されているが、暴力の激発においてもそれは徹底している。私たちはここに血腥さを目撃するだろう。しかしそれは果てしなく不毛であり、その先に何も生まれることはないと確信することになる。倫理への問いの臨界点に現れるこの絶望、この虚無。私は敢えて言いたい、これが、これこそがルーマニア映画なのだと。