スポーツというものは政治情勢の煽りを喰らうことがとても多いように感じる。その最たるものが国の代表が一同に介するオリンピックだろう。冷戦時代は東側と西側の代理戦争としての役割をも必然的に担い、イスラエルのアスリート11名が殺害されたミュンヘンオリンピック事件は去年の東京オリンピックで黙祷が行われるなど今でもその傷は忘れられていない。さて今回は、ソ連の内部で繰り広げられていた政治闘争とスポーツが否応なく交錯する様を描き出した1作、エストニアの新星Ove Musting オーヴェ・ムスティンクによるデビュー長編“Kalev”を紹介していこう。
ソビエト連邦の崩壊が噂されるなか、バルト三国の情勢が荒れ模様を見せていた時期、毎年恒例のソ連バスケ・チャンピオンシップが開催されることになる。ソ連各地から強豪バスケチームが参加し、その頂点を懸けて戦うというわけだ。ソ連併合下だったエストニアからも代表チームであるKalev カレフが参加することになる。チームは意気軒昂な一方で、ソ連からの独立機運が高まっていたゆえ、エストニアの人々は彼らの参加を批難、ソ連の名を冠した大会に出るなんてお前らはソ連の奴隷か?というのだ。波乱含みのなかカレフの戦いが幕を開ける。
今作はスポ根バスケ映画というのが基調ではありながら、冒頭からカレフの道行きがソ連末期における東欧情勢の影響を露骨に受ける様が描かれている通り、スポーツと政治情勢の相互作用というテーマ性は他とかなり一線を画している。カレフは当然勝ちたい、大会で頂点に勝ちたい。だがまず本選に出場するために、大会運営者に賄賂を払う必要が出てくるのだからタチが悪い。最初から社会主義国家の権力腐敗に、モロに鼻っ柱を折られる流れだ。
その障害を突破しても、今度はエストニア国民から“ソ連の追従者!”と批難されてしまう。ここでチーム側が取った行動がなかなか興味深い。コーチたちはバスケに興味がある女性たちを勧誘したかと思うと、試合でチアリーダーとして踊ってもらったりするのだ。さらにアメリカから黒人バスケ選手を招聘し、チームの一員になってもらうなどする。つまり自分たちは確かにソ連主催の大会に参加してはいるが心は西側とその文化にある!というのを国民に伝え、ご機嫌とりをするわけだ。冷戦末期におけるカレフの涙ぐましい努力が伝わる1コマでもある。
だが王道スポ根ものとしての魅力も負けていない。若いチームメンバーが集まっていき、癖のあるコーチ陣と対立を繰り返しながら、彼らは成長を遂げていくという物語は少年漫画で何度も読んだことがあると思える。チームメンバーも適宜キャラ立てが成されており、バスケと家族の狭間で悩む花形選手、試合に出してもらえず不満を溜める新人、ロシア人でありながらチームへの参加を望む青年など定石的なキャラを丁寧に描き出している。そして上でも少し語ったが、コーチなど組織を運営する側の奔走ぶりも興味深い。バスケと政治情勢を取り持つ役割という意味で、彼らもまた今作の主人公なのだ。
そしてカレフが勝利に邁進するなかで、刻一刻と情勢は変化していく。1991年1月、独立運動が加速していたリトアニアにおいて、その動きに介入するためソ連軍が送りこまれ、民間人が死傷する事件が起こる。いわゆる血の日曜日事件/1月13日事件だが、これをニュースで知ることとなったカレフのメンバーは“果たして今、自分たちはバスケを続けるべきなのか?”という問いと直面する。政治の大いなる趨勢において、自分たちは全く無力なのか。それとも……
この辺りから明確になっていく今作のテーマが、エストニアのナショナル・プライドだ。ロシア革命の後、1918年から他のバルト国家とともにエストニアは独立を謳歌していたが、1940年にはソ連に併合され厳しい統制下に置かれることになり、ここから約50年、苦渋を味わわされることとなる。だがとうとうソ連の崩壊が近づき独立の機運が高まる一方、ソ連から抵抗を受けリトアニアでは実際に多くの血が流れた。ここからエストニアはどこに行くのか、どう行動すればいいのか?
こういった思索はかなり危ういテーマでもあり、少しでもバランスを崩すならナショナリズムへと繋がる恐れもある。ただでさえスポーツは政治からの影響が絶大ゆえに、ソ連からの脱却を謳ううえでカレフの勝利がエストニア国民の誇りへ過剰に紐づけされるなら、また別の危機が起こる可能性も否定できない。今作を観ながら私はウクライナ侵攻のことを想起せざるを得なかった。侵攻の最中、ゼレンスキーの指揮でウクライナにおいてナショナリズムが肥大する様を目撃したのはもちろんだ。
だが一方でバルト三国がロシアの防波堤として常に緊迫した状況にあり、ウクライナ侵攻後はどこより積極的に情勢安定に動いている様をも見てきた。その背景には先の歴史があるわけだ。そして“Kalev”では正に再びの独立をめぐるエストニアとバルト三国の現代史が描かれている。物語ではカレフがチームとしての問題と政治情勢の問題両方に対処しながら成長を遂げ、そして国民たちからの信頼をも獲得し、皆の連帯が密になっていく。そこでは確かにスポーツこそが成せるナショナリズムの高まりがある。だが今作でその構図は私が単純に批判できるものではないと思わざるを得ない。私たちとバルト三国ではロシアに抱く危機感のレベルがあまりに違いすぎるのだ。
“Kalev”はこういった危険な橋を渡るのだが、結論として私はこの映画はナショナリズムを肯定するだけでない視点を持っていると思えた。ここからはそれをネタバレありで記していきたい。ラスト、カレフはソ連のトップチームと対戦し勝利、見事チャンピオンになるというスポ根映画の定石を堂々と行き、大団円を迎える。だが勝利に酔いしれる選手がトロフィーを床に落としてしまい、破壊してしまうのだ。周囲の熱狂は収まることはないが、選手やコーチは微妙な表情を浮かべる。劇中、このハプニングに関してアナウンサーが“あれはソ連の崩壊を象徴するものとなるでしょう”と言い、実際にこれは現実になる。
だが勝利の絶頂、エストニア・ナショナリズムの絶頂に、この熱狂に冷や水をかけるような場面を入れるだけで余韻もまた違ってくる。確かにロシアという脅威に対して皆が一丸になることは現実として必要にならざるを得ないだろう。しかしそれが行き過ぎれば何らかの悲劇と破綻を生むのではないか? そんな冷静な自己内省があの場面にはあると私には感じられたのだ。終り自体は予定調和で、物語後にも劇中の人物が今後バスケ界で大活躍を見せるという実録映画に付き物のテロップも流れる。だがそれを単純に“よかったなあ!”と思えるような余韻を、今作は提供しない。ここに描かれる“エストニアの誇り”は単純なものではない、そして“国の誇り”とはそんな単純なものであってはならないのだ。