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映画痴れ者/ライター済東鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

Ahd Hassan Kamel&“My Driver & I”/サウジアラビア、彼女と彼の旅立ち

さて、サウジアラビア映画である。日本でも数年前に「少女は自転車に乗って」という作品が話題になったが、おそらくサウジアラビア映画と聞いて名前が挙がるならこれ以外はほぼないのではないか。斯く私ですらそんな感じである。だからこそ、サウジアラビア映画が観てみたい!ということで今回は今年のアカデミー国際長編映画サウジアラビア代表作品である、Ahd Hassan Kamel監督作“My Driver & I”を紹介していこう。

主人公はサマルという少女(Roula Dakheelallah)と彼女のお抱え運転手であるガマルという男性(Mustafa Shehata)である。サマルはサウジアラビアの裕福な家庭に生まれ、愛情深い両親に囲まれて何不自由なしに育った存在だ。明るい性格で自分の意見を強く持っており、家族や友人と対立することもしばしばだ。一方でガマルは不安定な政情が続くスーダンから、家族を残してこの国へ出稼ぎにやってきた移民男性である。今作はそんな全く異なった身分にある2人がそれを乗り越えながら絆を深めていくさまを、軽快に描きだしたコメディ作品というわけである。

まず印象的なのはサマルの家庭における騒動だ。今作において彼女の父親は進歩的な人物で、娘が様々な文化に触れることを良しとし、積極的に大学進学をサポートするなどしている。とはいえ仕事に邁進しているゆえ、家にいる時間はそこまで多くない。母親(Rana Alamuddin)は娘に対して過保護であり、友人と遊びに行くにも監視したり、さらには大学進学にも反対する。それも、家族を守ろうとする姿勢と社会の現実に板挟みになっているからなのだろう。とはいえそんな母とサマルが対立するのは必然であり、喧嘩は絶えない。こういったどこの国にも広がっているだろう普遍的な親と子、特に母と娘の対立を、まずこの映画は見据えている。

そこにサウジアラビアの事情も絡みあってくる。母との対立や思春期ゆえの反抗心もあり家に少し馴染めなくなっているサマルにとって、お抱え運転手であるガマルとの交流は楽しいものだ。友人のようでもあり、父と母のいいところを持ち合わせた3人目の親のようにも感じられる彼とは例え対立している時ですら心地よさを感じられる。だが実際、ガマルはスーダンに本当の家族を残してここに来た出稼ぎ移民であり、そこには厳然とした身分差が存在している。ガマル自身もサマルに愛情を抱きながら、この国に居続けるか否かの選択を常に考えていざるを得ない。

こういったものが描かれる中で、イスラーム文化圏の女性映画/フェミニズム映画において“運転”という行為が重要であることが分かる描写がある。ガマルはサマルら家族のお抱え運転手であるわけだが、2人の交流の少なくない部分が車内で繰り広げられ、その延長線上にガマルがサマルに運転を教える場面も存在している。車にしろ乗り物を自分の手で運転できるようになることは、自分の人生を自分の手で進めていくことにも繋がる。この比喩表現はイスラーム文化圏の女性映画/フェミニズム映画に頻出するモチーフで、先に名前を挙げた「少女は自転車に乗って」でも、私が以前紹介したヨルダン映画“Inshallah a Boy”でもこの運転が、女性の自立に繋がるものとして描かれていた。実際監督のAhd Hassan Kamel「少女は自転車に乗って」に女性教師役で出演しており、フェミニズム的な問題意識をキチンと受け継いでいる印象を受ける。

こういった物語を担うのが、主演俳優2人の存在感である。思春期にある少女が持つ不安定さ、そして未来への可能性を体現するサマル=Dakheelallahの輝きを、お抱え運転手や友人、父といった役割を同時に担いながらも、それらとは完全に重なることもない狭間の人として、ガマル=Shehataは受けとめていく。そんな2人の化学反応が画面に満ち渡ることで、物語は観客1人1人の心に染み渡るような滋味を獲得していくのだ。

今作は家族との関係性や女性の自立といった普遍的なテーマを扱うとともに、この普遍性をイスラームひいてはサウジアラビア文化を通すことで新たな側面から見直すことに成功している。ゆえにサマルの旅立ちがある種ストレートな感動を呼ぶとともに、観客の心を他の作品とはまた違う形でも震わせるのだ。