東欧は悲しいことに性的多様性においては保守的で、LGBTQに対する抑圧がかなり大きい。その保守性を反映してか、映画界においてもいわゆるクィア映画の制作本数は少ない。そもそも産業が小さいので長編制作数自体が少ないので、クィア映画なんかは本当に輪をかけて少なかったりする。だがそんな状況でも果敢にクィア映画を制作する映画監督たちは確かにいる。ということで今回はスロヴェニア映画界の新鋭が作りあげたクィア映画、Kukla監督によるデビュー長編“Fantasy”を紹介していこう。
今作はミフリエ、シナ、ヤスナ(Sarah Al Saleh, Mina Milovanović, Mia Skrbinac)という20代の女性3人を中心に描かれる。都市郊外の団地に住む彼女たちは親友同士、常に一緒につるんでいる。3人の共通点はともに“女性らしさ”を押しつける社会が耐えがたく思っていることだ。むしろ“女性らしさ”を遠ざけて生きる3人は“トムボーイ”と揶揄されて、それゆえに他に気の許せる友人や知り合いはいない。家庭にすら居場所はなく、いつも3人でいた。
ミフリエたちにのしかかる性差別的な抑圧は深刻なものだ。バスケなどスポーツを楽しんでいるだけで男性たちからセクハラされ、完全に舐めきった態度を取られる。そういう男性を喧嘩でブチのめして家に帰ると、家族からは「もっと女性らしくなれ! お前は可愛い少女でいりゃいいんだ!」と罵られる。彼女たちの日常にはこういった性差別が根づいており、それゆえに気の休まることがない。
ある日3人でつるんでクラブへ行くと、見知らぬ女性と出会う。ファンタジー(Alina Juhart)というそのトランス女性は輝くように魅力的な人物で、ミフリエは彼女にひと目で恋に落ちてしまう。そしてファンタジーを自分たちのグループに引き入れる。シナとヤスナは当初はトランス女性である彼女を理解できず反感を抱いていたが、その独自の美意識や価値観に触れていく中で感化され、自然と自分を見つめ直すことになっていく。
Kukla監督の演出は小気味よいもので、場面場面がテンポよく捌かれていき観客を物語へとあっという間に巻きこんでいく。シンメトリー的構図が頻出したり、MVをも彷彿とさせるキメキメショットも随所に炸裂するなど監督の美意識がその映像には存分に反映されている。そしてファンタジーの登場以後はネオンといった極彩色が画面を覆い尽くしだし、それは今作がクィア映画としてのギアが入ったことをも示している。
4人でつるむうちにミフリエのファンタジーへの恋心は加速度的に高まっていき、ロマンスの機運が画面では鮮やかに踊りだす。他愛ないおしゃべり、クラブでのどんちゃん騒ぎ、2人だけでの親密なメイク時間、そして……だがその愛に対して大きな障壁が立ちはだかる。ミフリエは結婚のプレッシャーを家族にかけられ、普通の家庭を築くことを強いられる。そしてミフリエもファンタジーも同性を愛することへの当惑や不安が確かに存在し、その躊躇いが2人を遠ざけてしまう。
こうしたより普遍的な要素と同時に、スロヴェニアや旧ユーゴ圏特有の要素も物語には現れる。この地域には様々な民族が暮らしているのだが、ミフリエはアルバニア系である。スロヴェニア人やセルビア人らはスラブ系である一方、アルバニア人はアルバニア独自の言語や文化を持っている。彼らは前者から孤立している少数派なのだ。そしてファンタジーは同じく旧ユーゴ圏のマケドニア系で、親類はスロヴェニアと対角線上の反対側にある北マケドニアに住んでいる。2人はスロヴェニアにおける少数派として共通する部分があり、それでいてその中でもアルバニア系とスラブ系という少数派と多数派に分かれていたりする。ちなみに劇中ではスロヴェニア語を主としてアルバニア語、セルビア語、ボスニア語、マケドニア語の5語が話される。
こういった背景ゆえの度重なる苦悩から、とうとうミフリエとファンタジーは団地から駆け落ち同然で逃げ出すことになる。その逃避行の中で彼女たちは互いへの想いを育み、そして抑圧からの解放を夢見ていく。ファンタジーのように生まれた時に割り当てられたものでない性で生きる、ミフリエのように同性を愛するクィア当事者は現実に存在しない“ファンタジー”として扱われる。だが彼女たちは自身の生きる様を通じて社会に訴えかける。クィアはファンタジーじゃない、ここに確かに存在してると。
それと同時に、2人が愛を交わす時世界はファンタジーとしか言い様のない飛躍すら見せる。公園の芝生で愛しあう最中、彼女らがクィアであることを祝福するかのように周りにはいきなり色とりどりの花が咲き誇り、空には煌々と輝く火の鳥が羽ばたいていく。その際あの“ファンタジー”という名の更なる意味を知る。私たちは貴方がたのファンタジー、こうして現実を塗り替える無限の力を宿したファンタジー!と、まるで“変態”という侮蔑語だった“クィア queer”を簒奪し自分たちの誇りと成したように、それを堂々と己の生き様で体現するのだ。
だがそれでいてスロヴェニアにおける性的多様性への保守性が、そんな彼女たちを一切の容赦なしに潰しにかかる様を私たちは目撃することにもなるだろう。ただ抑圧からの解放を物語が描かない、描けない様には、故郷スロヴェニアに対する監督のシビアな現状認識があると思えてやるせなさすら抱くことになる。
この“Fantasy”は抑圧に対するNOを突きつけながらクィアとして生きることの喜びを極彩色で祝福する一方で、スロヴェニアでクィアとして生きることの果てしない絶望をもスクリーンに焼きつける。この2つが、それこそ殴りあうかのごとく衝突する様こそが今なのだと、監督は力強く私たちに語るのだ。
最後に1つばかり余談を。ファンタジーの部屋はド派手なピンクに包まれ、悪趣味スレスレというかキャンプな装飾をしたインテリアが多数置かれているのだが、そこに生け花やドデカい扇子、着物が印象的に置かれている。そしてそれらが言及されもするのだ。興味深いのは日本文化がある種のクィアなものとして扱われているのだ。まあ確かに米国のアングラ実験映画な、ジャック・スミスの「燃え上がる生物」でも着物を着たドラァグクイーンが乱交していた気がする。とはいえ日本の内部にいる者としては、いやいや日本そんなにクィア当事者に優しい文化じゃないですよとはちょっと思ってしまった。