
さてロカルノ映画祭である。つい今日その結果が発表され、三宅唱の新作がコンペで最高賞を獲ったことが話題になっているが、まあそれしか話題にならない。いつもの日本中心主義が繰り広げられており、少しでもその注目を去年最高賞を、しかも初長編で射止めたSaulė Bliuvaitėの“Akiplėša”に分けてやれと思ってしまうところだ。まあそんな文句を言っても仕様がないので、せめてここでは今年のロカルノで上映された注目作を紹介していきたい。まずはカザフスタンの新鋭Zhannat Alshanovaによるデビュー長編“Becoming”を紹介していこう。
今作の主人公はミラ(Tamiris Zhangazinova)という17歳の少女だ。彼女はシングルマザーの母ダリダ(Assel Kaliyeva)と妹リナ(Medina Sagindykova)とで旅行にやってきたのだが、これはダリダが勝手に連れ出したもので、ミラには不本意なものだった。まずはそんな旅行風景を通じて、彼女ら家族の関係性を描きだしていく。ダリダは客観的に見れば“毒親”としか言い様のない存在だ。子供の都合は一切考えず自己中心的、常に感情を乱高下させ、それを隠そうともしない。つまりはそれによって子供たちを自分のコントロール下に置いているわけだ。さらにミラたちよりも恋人優先で、彼に会うためホテルに2人を数日間放置する始末。反抗期であるミラは当然彼女に反発するが、頼る人も場所もないためにその繋がりを完全に断ち切ることもできない。必然的にこの旅行は不毛なものにならざるを得ない。
監督による演出は旅行の内実を反映するかのような冷ややかさを伴っている。カロリーヌ・シャンプティエのカメラはミラなどの登場人物たちとは常に一定の距離感を保ちながら、その一挙手一投足を観察し続ける。ダリダが乱暴に荷物を運びながらホテルへの文句を喚く、リナが部屋の隅で寂しげに体操座りをする、全てにウンザリしたミラが食堂で黙々と朝食を食べる。そういった誰にとっても息詰まるような旅行風景を、監督たちは冷ややかに、静かに見据えていくのだ。
そんな日々のなか、ある時ミラはホテルのプールでヴラド(Valentin Novopolskij)という男と出会う。唐突に泳ぐ時の呼吸法をアドバイスされミラは気圧されるのだが、後々彼が野外競泳のコーチをしているのを知り、興味の湧いた彼女は率いるチームに入れてほしいと頼みこむ。拒まれるかと思いきや、ミラはその技術を認められチームに加入、仲間たちと練習に励むことになる。
ここから孤独だったミラの日々に青春の光が兆していく。突然加入してきた彼女をチームメイトの少女たちは暖かく迎え、気さくに話しかけてくれる。ロッカー室でお喋りしたり、夜には化粧をして野外プールでパーティーを繰り広げたり……先ほど描かれていたような息詰まる風景とは打って変わって、ここにはいわゆる青春映画が宿しているような快活さや瑞々しさが滲んでおり、ミラのハシャギようには少しばかり笑みも溢れそうになる。
しかしカザフスタン映画である本作はそう甘い展開に傾くことはない。現代のカザフ映画全般がそういった傾向にあるが、特に子供を主人公とした映画や青春映画は徹底的に陰鬱としたものが多い。詳しくは以前このブログでも紹介した作品のレビューを参考にしてほしいが、カザフ映画において子供たちが直面するのは喜びや楽しみではない。絶望、虚無である。そして彼らが生まれてきたことを後悔するような世界の冷酷そのものである。中盤から今作は新世代のカザフ映画に宿る陰鬱がより鮮烈に描かれていく。
チームに馴染んでいくごとに、ミラの母親への反感はより表立っていく。勝手にホテルに戻ってきたかと思うと恋人の住むフランスに行こうとのたまうダリダに対して、ミラは嫌悪感を露わにして痛烈な批判を口にする。それは容赦ないもので、さしものダリダも圧されるしかない。さらに彼女は母だけでなく親類とも仲違いを遂げる。カザフ語を普段喋る祖父母たちとロシア語を喋りカザフ語をよく知らない若い世代のミラはそもそも言語的・文化的断絶があり、母の不在時に彼らは自分たちを世話してくれるが、ダリダの素行が悪さを増すごとにその反感がミラやリナに向くことを肌で感じざるを得ない。家族、そして血に彼女の居場所はない。
そして家族からの逃げ場ともなってくれる、理想の場であるように見えた水泳チームにも闇が見え隠れし始める。練習は苛烈を極めることになり、その肉体的かつ精神的疲労は確実にミラを蝕んでいく。それを癒やすのは得体の知れないサプリとイヤホンから流れる自己啓発的音声ばかりである。さらにとある重大な事件が起こりチームに激震が走りながらも、練習は止まることがなくミラはコーチたちやチームの経営体制に不信感を抱くことになる。そして気づくのだ、ここは想像していた理想郷とは程遠い場所なのだと。しかし気づいたその時には、ここから容易には逃げられなくなっている。
今作の核となるのは、この逼迫した現状がゆえに孤独を一身に背負うミラを演じる新人俳優Tamiris Zhangazinovaだろう。思春期らしい不機嫌な表情のその裏には、しかし年齢にそぐわない類の深い諦念が確かに滲んでいる。それでも壮絶な苦痛に満ちた状況で、彼女は足掻き藻掻きながら出口を目指し続ける。
自分がここにいてもいいと心から思える場所を探す少女の旅路を描きだす青春映画、こういった作品は世界にも枚挙に暇がないほど存在している。しかしここまで陰鬱で、底冷えするような形で描きだすものはカザフ映画以外にはないだろう。そんな映画界の新たなる才能がこのZhannat Alshanovaであるのだと“Becoming”は語っている。
最後に1つ。ある国の映画界が世界的に注目されると“ヌーヴェルヴァーグ 新たなる波”に則って“(国名)の新たなる◯◯”や“◯◯な波”といった名前が授けられる。例えば“ルーマニアの新たなる波”や“ギリシャの奇妙なる波”といった風だ。カザフスタンにおいてはソ連からの独立前後からDarezhan Omirbaev ダレジャン・オミルバエフやYermek Shinarbayev イェルメク・シナルバエフといった新鋭が活躍を始め、その潮流が“カザフの新たなる波”と呼ばれた。そして2010年代以後、ここでも取りあげたEmir Baigazin エミール・バイガジン、Adilkhan Yerzhanov アディルハン・イェルジャノフ、Farhat Sharipov ファルハット・シャリポフといった新世代が世界的に注目されている。私としてはこの潮流を“カザフの新たなる絶望”とでも呼ぶべきだと思う。もしくは“新たなる虚無”か。それほどまでの絶望と虚無を湛えた潮流、私はゾクゾクせざるを得ない。カザフ映画、要注目である。
