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映画痴れ者/ライター済東鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

Urška Djukić&“Kaj ti je deklica”/狭間にたゆたい、そして私は……

LGBTという言葉は昨今一般にも膾炙してきたと思える。これはレズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダーの略であるわけだが、クィア映画という観点においてはLGTを主人公とする作品は割合として多く、このブログでも何十本も紹介してきた。しかし男女両性を愛するバイセクシャル当事者を主人公とする作品はかなり少ない。それは少数派の中でも彼らがさらに少数派であることを意味している。ということで今回は未だ数の少ない、バイセクシャル当事者を主人公とするクィア映画である、スロヴェニア映画界の新鋭Urška Djukićのデビュー長編“Kaj ti je deklica”(英題:“Little Trouble Girls”)を紹介していこう。

主人公は16歳のルチヤ(Jara Sofija Ostan)という少女だ。カトリック学校に通う彼女は女子生徒だけのコーラス団に入部することを決めるのだったが、そこで年上の女子生徒アナ=マリヤ(Mina Švajger)と出会うことになる。引っ込み思案なルチヤにとって、カリスマ性という自分に全く欠けたものを持っているアナ=マリヤは羨望の的であり、すぐさま彼女に惹かれていくのだったが……

今作はコーラス団を舞台とするだけあって、冒頭からその音響設計の緻密さが際立っている。少女たちの喋り声や歌声、ピアノの伴奏が観客の鼓膜に鋭く迫ってくるのはもちろんだが、最も印象的なのは歌う前に行われる発声練習において空気を切り裂くような呼吸が、どこか居心地悪いほどに喘ぎ声のごとく聞こえてくる瞬間があるのだ。この緊張感に満ちた音の比喩が既に、作品が思春期における性の目覚めを描くものであることが予告されるわけである。

さらにLev Predan Kowarskiによる撮影もまた序盤から洗練の極みを誇っている。まずファーストショットの露骨なまでに大胆な性の隠喩表現から始まり、解像度の高い洗練かつ鮮烈な映像はルチヤたちの表情とその移り変わりを丹念に捉えていき、さらには彼女たちの周囲に満ちる緊張感を視覚的に濃密な形で提示していく。

この聴覚的にも視覚的にも描かれる性の緊張感の淵源はルチヤがこうむる性的な抑圧である。序盤アナ=マリヤから口紅を塗ってもらうのだが、その直後迎えに来てももらった母親に唇についたそれを見咎められて叱られる場面がある。性へ興味を抱くこと、ひいては性欲を抱くこと自体に抑圧が存在し、どこかそういったものを抱いてしまう自分へも嫌悪感を抱いてしまう。しかし突然現れたカリスマ的なアナ=マリヤに対して眼差しを向けてしまうわけだ。

ある時、コーラス団はスロヴェニアとイタリアの国境付近にあるチヴィダーレ・デル・フリウーリ、ここにあるカトリック協会の寄宿舎で合宿を行うこととなる。ここで練習に明け暮れるルチヤたちだったが、協会では工事が行われており、そこで働いているイタリア人の作業員(Mattia Cason)から目が離せなくなっている自分に気づく。

ここから前景化していくのが、ルチヤのバイセクシャルとしての性の目覚めである。クィア映画では同性愛者が主人公の作品が多数派だ。なので自分のセクシャリティに徐々に気づいていくタイプの作品だと序盤では社会の“普通”に従って異性と恋愛して関係性を築こうとしながら、同性に心惹かれる自分に気づき……というパターンが多い。だが今作は真逆で、まず最初ルチヤは同性であるアナ=マリヤに恋愛的/性的に惹かれていくが、しかし作業員の男への感情を通じて異性にも惹かれることに気づき、動揺するのである。

ここから監督はルチヤが抱く、両性を愛するがゆえに異性愛と同性愛どちらにも居場所がない寄る辺なさを描きだしていく。狭間の存在として周りに理解者はおらず、疎外感を抱くことになる。さらにはルチヤ生来の性への嫌悪感が事態をさらに複雑化させ、彼女は孤独を深めていかざるを得ないのである。

そして世間一般的にも、いわゆるバイフォビア/バイ憎悪は根深い。異性愛者からは同性愛者と思われ差別される一方で、同性愛者からはどうせ異性愛に戻る偽物と軽蔑されてしまう。こういった異性愛者か同性愛者かでありその狭間は存在しないという規範によって両性愛者の存在が消されてしまう“両性愛の消去”(Wikipediaにもページが立項されている)という傾向がかなりのところ存在してしまっている。さらに両性を愛することを性的に奔放と見做され、同性愛者とはまた違う形で過剰に性的という固定観念を担わされてしまう。

実は監督自身がバイセクシャルを公言しているのだが、ここにおいて興味深い記事がある。このPop Heistにおけるインタビュー記事では、インタビュアー自身もまたバイであり自身の体験も踏まえて“この映画は自分のセクシャリティに関して感じる困惑、そしてintangibleness 形にならない曖昧さを本当に上手く描いていると思いました”と書いている。ルチヤの悲痛な姿が体現しているのはこのintangiblenessなのだろう。

さらに今作において目を惹くのがそのカトリック性である。ルチヤはアナ=マリヤに惹かれる最中、カトリック教会である彫像にキスをするのだがそれは聖母マリア像である。さらにルチヤの惹かれる逞しい男性は工事の作業員で大工仕事をこなす……それは大工であったヨセフ、もしくは彼の息子であるイエス・キリストを彷彿とさせる。つまり彼女のバイセクシャルとしての性的目覚めはマリア、そしてヨセフ/イエスというキリスト教において最も重要な家族関係の中で培われるのである。

これはキリスト教に限らないが、クィア映画において宗教は性的少数者への抑圧と結びつきがちである。今作が異色なのはカトリック信仰こそが自分の奥底に隠されたクィアな欲望に気づかせ、それと向きあわせてくれることである。単純に“前向き”と形容はできないが、しかし他作のように“後ろ向き”でもない信仰とクィア性の複雑な関係性を今作は提示しているのである。

そんな今作を牽引するのはルチヤを演じるJara Sofija Ostanに他ならない。両性愛者としてどちらの性にも惹かれるがゆえに、どちらからも受け容れられず狭間に揺蕩わざるを得ない少女の悲哀を彼女はその身で象徴している。そして彼女がその曖昧さ、白黒つかなさを抱き前へ進んでいくラストに、私たちはルチヤの幸せを願わざるを得なくなるだろう。