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映画痴れ者/ライター済東鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

Goldberg Emília&“Tiszavirágok”/ハンガリー、歴史に埋もれたクィアな生

歴史は勝者によって描かれる。そしてその勝者というのは社会における多数派である場合が多いゆえに、力を持てない少数派は歴史から消されて後世で語られることも必然的に少なくなる。ここにおいてクィア理論は、そんな多数派の歴史を性的少数者の視点から描き直す試みをも行っていると言えるだろう。資料を渉猟する中で“この人物は今でいう……”といった風に、歴史に埋もれた人物に新たなる光を当てる。今回はそんな試みに満ちたハンガリークィアロマンスであるGoldberg Emília監督作“Tiszavirágok”(英題:“Mayflies カゲロウたち”)を紹介していこう。

舞台となるのは1930年代のハンガリー、この国を震撼させていたのがPipás Pista ピパーシュ・ピシュタ(Török-Illyés Orsolya)という連続殺人犯だった。殺人を行いながら10数年もの間潜伏していたが、1932年に彼はとうとう逮捕されることとなる。だが刑務所内で行われた身体検査で驚くべき事実が明らかになる。ピスタはFődi Viktória フェーディ・ヴィクトーリアという出生名で女性として生を受けた人物だったのだ。

今作はそんなピパーシュが獄中で過ごす過酷な日々を描きだしていく。彼は出生時の書類に従って“女性”として意図的に誤って扱われ、名前もヴィクトーリアという出生名で呼ばれるなど、今の言葉で言う“ミスジェンダリング”と“デッドネーミング”の犠牲になる。そうした非人道的な扱いに反抗するように、ピパーシュは獄中で何度も問題行動を引き起こし、刑務官たちの悩みの種となっていく。

そしてその人物像もただの殺人鬼ではなく、限りなく灰色の領域にいる存在といった解釈が成されている。彼は何度も殺人を犯しており余罪すら存在するが、その殺人は夫からのDVに苦しむ女性たちから金をもらった上で彼らを自殺に見せかけて殺害する、ある種の義賊的な存在かもしれなかったことを示唆している。家父長制に抗うクィアな反抗者、ピパーシュはそんな存在なのだと。

そんな彼の元にやってきたのが刑務所お付のカルヴァン派の牧師、その娘であるイルマ(Stork Natasa)だった。ピパーシュは女性刑務所に収監されているゆえ、男性の牧師ではなく彼女がピパーシュを“悔い改め”させる任を受けたのだ。ピパーシュの前で聖書の朗読を行ったり、読み書きができない彼に文字を教えることで導こうとする。ここにはハンガリーキリスト教事情も見え隠れする。この国はカトリックが多数派でプロテスタントは少数派だ。だからこそ殺人鬼を悔い改めさせ威光を見せつけ、信頼を勝ち取りたいというわけだ。しかしピパーシュは逆に、そんなプロテスタント側の使者として送られたイルマの心に蟠る不満や欲望を見抜いていく。

そしてピパーシュの日々と同時に、イルマの生活も描かれていく。イルマは牧師である父を含め周囲から結婚への圧力をかけられており、それにウンザリしていることが伺える。この鬱屈に拍車をかけるのが重度の生理痛だ。毎月その痛みによって体調は著しく崩れ、ベッドから動けないことも多々ある。社会という外部から、そして肉体という内部から女性性を押しつけられるがゆえ、その性を呪うような表情すらもイルマの顔には萌すのだ。だからこそ、あるべき性や役割を社会が押しつけようとも拒否し“これこそが私だ”と生きるピパーシュに惹かれていく。

ここにおいてSzilágyi Gáborによる撮影は陰影が印象的なもので、猥雑な刑務場を映すとしている時すらある種の格調高さが宿っている。そういった切れ味ある映像はDunai Laszloの編集によって適度なテンポで流れていくが、そこに絶妙なタイミングで長回し映像を挿入していくことで物語の緊張感を高めていく。長回しといえばハンガリー映画界におけるもはや伝統的個性であるが、今作にもその伝統は受け継がれていると言えるだろう。

こういった撮影において繰り広げられるのは、格調高くもスリリングなクィアロマンスである。性という側面において抑圧され社会の片隅に追いやられた2人が、剥き出しのコンクリートに四方を囲まれた独房で密やかに、しかし大胆に愛を深めていく。表立ってキスやセックスなどできるわけもないが静かに視線が交錯する、髪を梳かす、ベッドで並んで横たわるとそういった行動の数々に愛の高まりが豊かに見えてくる。

そして興味深いのはピパーシュが女性刑務所でも堂々と男性として生きる一方で、イルマの性への姿勢は常に曖昧である部分だ。結婚への社会的圧力や自身の肉体に嫌悪感を抱き、そういった性規範を嘲笑うように乗り越えるピパーシュに惹かれながら、どういう存在でありたいか、なるべきかへのイルマの姿勢は最後まで定まらない。翻ってそれは自身の性自認性的指向が定まっていない、もしくは定めない曖昧な領域に自分から立つ、いわゆるクエスチョニングといった姿勢にも思える。

このようにして“Tiszavirágok”は歴史 に埋もれていったクィアな生をロマンス映画として掬いあげる野心的な試みに満ちている。今までこういった歴史のクィア的な再解釈は性的少数者の権利において先進的な北米や西欧、ラテンアメリカで多く行われてきた印象があるが、今後は東欧においてもそんな作品が多く作られるようになるかもしれない、そんな予感がある。


イルマとピパーシュの実際の写真らしい。ニュースサイトhvgから引用。