鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

映画痴れ者/ライター済東鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

Salam Zampaligre&“Le taxi, le cinéma et moi”/ブルキナファソ、映画と私

さて、ブルキナファソである。この国は例えばイドリッサ・ウエドラオゴ Idrissa Ouedraogoガストン・カボーレ Gaston Kaboréなど日本で作品が上映されるほど著名な映画監督にも恵まれている。さらにこの国ではアフリカ映画のある種メッカとも言えるワガドゥグ全アフリカ映画祭(FESPACO)が開催されており、日本未公開映画を探し求める私のような人々でもその存在を認識している人はかなり多いだろう。だが今回紹介するのは、様々な事情からそんなブルキナファソ映画史から消えてしまった人物を描きだすドキュメンタリー、Salam Zampaligre監督作“Le taxi, le cinéma et moi”だ。

今作の主人公となるのはDrissa Toure ドリッサ・トゥレという映画監督である。彼は1952年にブルキナファソで生まれた。そんな彼が若い頃に出会ったのが、日本でも「黒人女」「エミタイ」といった作品が有名な、セネガル映画界の巨匠センベーヌ・ウスマンの作品だった。当時、彼の作品は既にヨーロッパ圏で評価されていたわけだが、それらに衝撃を受けたことことをきっかけに映画監督を志し始めたのだという。

その時期、先に名前を挙げたウエドラオゴやカボーレが映画界でキャリアを築こうとしていた時期であり、彼らとの知遇を得たトゥレはパリへと留学、ここに創設されていたAtrisという組織で映画製作を学ぶことになる。短編制作などで着実にキャリアを積み重ねていった後の1991年、彼は待望の初長編“Laada”を完成させる。故郷の村と都市を行き交う青年の苦悩を描きだした本作は、何とあのカンヌ国際映画祭に選出されることになる。当時は先輩格であるウエドラオゴが「ヤーバ」「掟」と連続でのカンヌ選出と賞獲得(前者は国際批評家連盟賞、後者はグランプリ)でブルキナファソ映画の波が来ていたゆえの、大抜擢だったのかもしれない。今作は好評を以て迎えられ、トゥレの名は一躍有名となる。

そして2年後の1993年には第2長編“Haramuya”を監督、西側から流入してくる文化とブルキナファソ古来の伝統の狭間で翻弄される家族を描いた作品で、カンヌ筆頭にロッテルダム国際映画祭などでも上映され、話題を博す。ドキュメンタリー内ではトゥレがテレビ出演した際の映像が流れる。他の出演者から“語りが支離滅裂”と批判を受けるのだが、彼は“これは自分なりの語りを目指した結果だ”と堂々たる反論を行い、映画監督としての風格を漂わせているというのを印象付けられる光景だった。

こうしてトゥレはウエドラオゴらとともに、ブルキナファソ映画界の未来を背負って立つ存在としての地位を確立するのだったが、そこから約30年が過ぎ、彼が作った長編数は……0本である。今は故郷で運送屋として働きながら、家族を養っている。ウエドラオゴやカボーレが着実にそのキャリアを積み重ねていった中で、何故トゥレは映画を作ることが出来なくなってしまったのか?ここから今作はその問いに迫っていく。

そこには様々な不運が存在していた。自身の作品がニューヨークで上映された後、トゥレは映画製作の拠点をアメリカに据えるため、この都市への移住を試みる。しかし家族からの猛反対に遭ってしまい、移住を断念、彼はブルキナファソへと帰ることになる。そこで映画製作を再開しようとするのだが、ここで再び悲劇が起こる。パリにおいて自分の活動を支援してくれたAtrisが解体されてしまい、その他ブルキナファソ政府からの支援なども一切なくなってしまったトゥレは映画が制作できなくなり、そのまま約30年もの時が経ってしまったというわけである。

もちろん本人の問題もあるとは思われるのだが、今作はその批判の目をむしろブルキナファソ社会にこそ向けていく。あそこまで将来を嘱望されていた映画監督がその後1作も映画を作れなかったのは、ブルキナファソ政府がいかに文化を軽視し、数少ない文化振興に関しても明らかな機能不全が見られ、不平等が生まれてしまっている。この影響を致命的なまでに受けてしまったのがトゥレなのだと今作は語るのだ。

ここでなかなか複雑な立ち位置にいるのがワガドゥグ全アフリカ映画祭である。“全アフリカ映画祭”と称する通り、アフリカ映画のメッカとして華々しい活動を誇っているが、当のブルキナファソの映画人に対する支援などがここで行われているのだろうか、他国からの支援を取り繋いだりということをしているのだろうか……トゥレの実情を見るのならば状況はあまり芳しくないもののように思われる。

しかしそんなワガドゥグ全アフリカ映画祭を愛する者の一人が何を隠そうトゥレその人なのである。カメラの前で映画祭への憧れを語った後、彼は撮影クルーとともに久方ぶりに映画祭へと赴くのである。映画を楽しむのは勿論、満員で作品が観れなかった時にも「シネフィルの情熱はすごい!」と笑顔で語るなど、映画祭を心から楽しんでいる様子がありありと伝わってくる。映画への情熱は彼から一切失われてはいないのである。

“Le taxi, le cinéma et moi”Drissa Toureという、ブルキナファソ映画界が忘れ去ってしまっていた1人の映画人への、そして彼がかつて背負っていたブルキナファソ映画史へのオマージュである。そしてその深い敬意があるからこそ、監督は現在のブルキナファソへと鋭い批判を向け、これを世界の観客に問うている。トゥレが再び映画を作れるようになる未来のための一助に、この紹介記事がなることを願っている。

最後に少し。劇中でも重要な役割を果たすワガドゥグ全アフリカ映画祭、私がこれを知ったのは懇意にしている日本未公開映画の伝道師チェ・ブンブンさんを通じてだった。彼はブルキナファソひいてはアフリカの映画を熱心に探求し、その魅力を伝えようと活動している。例えばこの記事では友人が撮ってくれたという写真を通じて映画祭を紹介、下部にはアフリカ映画関連記事つきだ。この記事も含め、ぜひチェブンさんの映画ブログ“チェ・ブンブンのティーマ”を読んでくれたら幸いである。

france-chebunbun.com

Álfrún Örnólfsdóttir&“Band”/悲痛と悲哀のアイスランド音楽界

ビョークシガー・ロスオブ・モンスターズ・アンド・メン……その国の規模に反してアイスランドの音楽超大国ぶりたるや、他に並ぶ国を思いつかないほどだ。私がルーマニア映画をきっかけにルーマニア語を学んだのと同じように、アイスランド音楽に触れてアイスランド語を勉強し始めたなんて日本人も少なくないのではないか。意外と日本語でも教材がたくさん出ているわけで。そんな中、私はそんな自国の音楽業界を描きだしたアイスランド映画を見つけたのだが、これがなかなか痛烈な映画だった。ということで今回はこの国の新鋭Álfrún Örnólfsdóttir アールフルン・オェルノールースドウティルによるデビュー長編“Band”を紹介していこう。

この映画の主人公はサーガ、フレフナ、そしてアールフルン(Saga Sigurðardóttir, Hrefna Lind Lárusdóttir, そして監督本人)という3人の中年女性だ。彼女たちはThe Post Performance Blues Band、略してPPBBという3人組バンドを結成しており、ポップスターとして有名になる日を夢見て、日夜バンド活動に明け暮れていた。しかし子育てなど家庭生活も忙しく、既に30代も終わりが見えかけている。そうして彼女たちは決断する、40までに夢を叶えられなければバンド活動はもう終りにすると。

今作はまずそんな3人の日々を描きだしていく。夜にはバーで奇矯な衣装を着て“機能不全性!”という訳の分からない歌詞をがなりたて、前衛的なパフォーマンスを繰り広げる。その翌日は子供を学校に送り届けて、家事をこなした後には子供を学校へお迎え。その合間に時間を作って作詞や作曲を行うわけだが、その暮らしぶりは大分ハードなものだ。

そしてこのPPBBというバンドの音楽性だが、何というかなかなかにエキセントリックなものだ。演奏や風貌が前衛的ならば、歌詞から作っているPVから全部イカレた感じで、良く言えばキッチュ、身も蓋もない言い方をすれば正直ダサい。こういう妥協がない音楽性なので一般受けは良くないし、40手前でこれはイタいと腫れ物扱いされているのも自分らが一番分かっている。彼女らとしてはこの音楽性こそを信じ突き進んでいるわけだが、それでもさすがに限界を感じ始め、あの決断をせざるを得なくなったのだった。

今作の興味深い点はそんな彼女たちの姿をモキュメンタリー形式で描いているという点だろう。虚構ではあるのだがカメラクルーがPPBBに密着という体で、どんな場所でもカメラがその傍らに厚かましくも居座っている。一歩引いてPPBBの活動を観察するならかなり滑稽な面があるのだが、彼女たちは真剣も真剣に活動している。その真剣さゆえにそこには常に息詰まるような空気感が満ちている。観客は臨場感ってやつを感じざるを得ない。

モキュメンタリーという体裁に相応しく、今作には虚実が入り乱れている。サーガとフレフナ役のSigurðardóttirとLárusdóttirはパフォーマンス・アーティストが本業であり、劇中でもそうなのだが正直あまり成功しているとは言えない。そしてアールフルン役は監督のÖrnólfsdóttirが兼任しているのだが、実生活でも劇中でも俳優としての活動がメインで、しかし劇中ではそのキャリアはやはりパッとしていない。こういった鬱屈がゆえ、アイスランドの芸術界でも最も成上りやすい音楽業界に縋って、ポップスターという夢に一発逆転の希望を託しているというわけだ。

こういった一応アイスランドの芸術界に片足は突っ込んでいるのだがキャリアはパッとしないままそこにしがみついている中年たちの視点から、今作はアイスランド音楽界の内幕を描きだしていく、外から見れば才能の塊が群雄割拠で上り調子以外の何物でもない光景が繰り広げられているといった風だが、実際にはイマイチ突き抜けられない人々が燻りに燻り泥臭い失敗があちこちで起こっているとそんな目も当てられない状況だったりする。

そして興味深いのは他の領域で成功しているのに、音楽業界で成功できなかったことを未練としている存在すら現れることだ。劇中、日本でも有名な現代芸術家Ragnar Kjartansson ラグナル・キャルタンソンが本人役として登場するのだが、彼も昔はバンドを組んで音楽業界での成功を夢見ていたと語るのだ。だがそれには挫折し、アート界で成功したにも関わらず未練を吐露する。自分のレーベルも作ったけど台所で運営してるようなヘボいやつだよ……彼の語りからは、アイスランドの芸術界において音楽界は最も特権的な世界であり、ここでの成功以外は“成功”ではないくらいの圧を感じさせる。だからこそ3人もここでの成功に執着しているのだろう。

今作は“失敗の数々をめぐるコメディ”と公式側から紹介されている。だが作風としてはそのリアリズム重視の演出も相まってかなりシリアスなものであり、私としてはあまり笑えなかった。Sebastian Zieglerのカメラに克明に焼きつけられていくアールフルンたちの表情には強ばった笑みや必死さ、そして何よりも苦悩が満ち満ちており、その生々しさたるやそもそも笑う気になれないし、監督自身も笑わせようという気もないのでは?と思わされる。

確かに3人の行動の数々は大分痛々しい。バンドに新しい要素を取りこもうと男性メンバーを入れたりするのだが、自分たちは“ガールズ・バンド”なのだからと一方的に彼をクビにしたりする。そして音楽性の違いで脱退した元メンバーを引き戻そうと、彼女を説得しようとするなど、すこぶる身勝手な行為を幾度となくやらかす。そして必然的にバンドは崩壊の危機を迎えるわけだが、この無様さを痛々しい、痛々しすぎると最も思っているのは他ならぬ3人だというのはその真剣な表情から痛いほど分かる。それでも捨てられないのが夢というものなのだ。

今作からは笑いよりも何より悲壮さこそが感じられる一因は、これを描きだす監督が傍観者の立ち位置にはなく、主演の一人としてこの痛々しさをむしろ自らが前のめりとなって体現しているからではないかと思える。今作において痛々しさは笑いのめせる他人事では断じてない。もしかしたなら自分もこうなっていたかもしれないと思わされる、あったかもしれない未来なのだ。であるからして今作はコメディとしては笑えない失敗作と言わざるを得ない。だがそれは監督の真摯さの表れでもあるのかもしれない。

“Band”は40手前でポップスターになる夢を叶えようと足掻く中年女性たちを追う作品だが、彼女らのバカっぷりを嘲笑うものではない。むしろ今作は“ポップスターになるのを諦める”という道をどうしても選ぶことができなかった不器用な者たちにこそ捧げられる、壮絶なる鎮魂の歌なのだ。

Beinta á Torkilsheyggi&“Heartist”/フェロー諸島、こころの芸術

さて、フェロー諸島である。デンマーク自治領であるこの地域にも、実は固有の映画産業が存在している。まず70年代後半にフェロー諸島舞台、フェロー人キャスト、この地域で話されるフェロー語を使用した数本の映画がスペイン人監督Miguel Marín Hidalgoによって作られた。そして1989年にはこの地域出身であるKatrin Ottarsdóttir“Atlantic Rhapsody - 52 myndir úr Tórshavn”を監督するのだが、今作が初めてのフェロー諸島映画と見做されている。その後にも細々とフェロー諸島映画は作られているとはいえ、私のような日本未公開映画ばかり観ている存在ですらこの国の作品を観られる機会は本当に少ない。しかしとうとう、そんな珍しい機会が巡ってきた。ということで今回Beinta á TorkilsheyggiMarianna Mørkøreというフェロー人映画作家たちによる長編ドキュメンタリー“Heartist”を紹介していこう。

今作の主人公となるのはSigrun Gunnarsdóttir シグルン・グンナルスドッティルという人物である。日本においてはほとんど無名であるが、彼女はフェロー諸島では最も有名な画家として有名であり、デンマークなどの北欧においても高名だそうだ。“Heartist”はそんな彼女の作品や人となり、そして今年74歳になる彼女の人生を60分という短い時間ながらも、観客に小気味よく紹介していくという体裁を取っている。

まず彼女の絵の作風なのだが、本人が形容する通りなかなかに“シュール”なものである。彼女は風景にしろ物体にしろ人間にしろ、意図して平面的な描き方をしており、どれもこれも不思議にのっぺりとした見た目をしている。特にどこを見ているか分からないジトーっとした目をした人々は一番のっぺりしている。これらの絵画を眺めていると、まるでおとぎ話の世界がキャンバスにそのまま描き出されているような不思議な印象を受けるのだ。これが彼女の作品の魔力なのだろう。

今作はまずそんな彼女の日々の暮らしぶりを追っていく。朝は早く起きて朝食を摂った後、愛犬を連れて散歩に行ったりとその生活は規則正しい。それらを終えてからは作品作りを始めるのだが、独りで黙々と作業をしている時もあれば、近所の人々や政治家を招いてお喋りをする時もある。夫からのサポートも厚く、離れて暮らす娘も子供に囲まれ幸せそうでその人生は順風満帆といった風だ。

撮影監督であるRógvi Rasmussenはそんなグンナルスドッティルの暮らしぶりを映す際、その作品をなぞるようにかなり平面的な画作りをしている。人々や風景を真正面から捉えていき、むしろ奥行きを丁寧に取り除くような撮影を行っているわけである。この撮影越しに見える世界はどこかメルヘンチックでもあり、見る絵本を体験しているような感覚に陥る。だがそもそもフェロー諸島、正確に言えばフェロー諸島を形成する島の1つエストゥロイ島、そこに位置する彼女の故郷エイジ Eiðiという町それ自体がメルヘン的な雰囲気を宿しているのかもしれない。この町から彼女の作品が生まれたというのに、観客は納得せざるを得ないだろう。

さらに実写映像に加えてKaty Beveridgeによるアニメーションも挿入されていくことで、今作のメルヘン性はさらに深まっていく。彼女はグンナルスドッティルの絵を層のように幾つも重ねていき、独特の世界を構築していく。そこでは妙な表情をした人々や動物たちが思い思いに動き回っているのだが、その妙な可笑しみに満ちた風景はそのまま彼女の作品が宿す精神性を観客に伝えてくれるのだ。

そして話はグンナルスドッティルの人生へと映っていく。祖父もまたフェロー諸島で有名な芸術家の家庭に生まれた彼女は子供の頃から画家を志し、長じてはデンマークの美術学校で芸術制作について学ぶことになる。そこでスランプに陥ることになりながらも、試行錯誤の末にシンボリズムという天啓を得て、彼女は今のシュールな作風を確立していくことになる。このシュールで素朴な作風が注目されて、彼女は一躍有名になったそうだ。大衆からの人気はもちろん、今では政治家からも肖像画の依頼が届き、果てはデンマーク王女の肖像画まで描くことになるほどだ。劇中ではその行程も描かれている。

しかし北欧を股にかけて注目されながらも、彼女にとって一番重要な場所はフェロー諸島という故郷であるのが映画からは伝わってくる。彼女はここでこそ家族や友人たちとともに生き、作品を創り続けている。ゆえにその作品を最も愛しているのはフェロー諸島の人々なのである。劇中ではアトリエ兼ギャラリーである場所で展覧会が何度も開かれ、来場者とちへグンナルスドッティルが交流する姿が描かれている。彼女と同世代の人々から娘よりさらに若い若者たちまで幅広い層の人々がここに来場し、時にはコンサートまで開かれているのだ。ここは人々にとって交流の場にもなっているのだ。

さらに彼女の絵を基に大きなオレンジ色の鳥の像が作られ、それがお披露目されるという場面がある。これがなかなか巨大でトラックで運ばれている風景がまたシュールなのだが、このシュールさに子供たちはおおはしゃぎ。そうして小さな少年少女が像の周りで遊びに遊びまくる姿はこの映画でも随一に微笑ましいものだ。ここで分かるのはグンナルスドッティルの作品のある場所、いやその作品自体がもはやコミュニティの場ともなっていることだ。エイジという人口700人ととても小さい町において、彼女の絵画は共同体意識を培うための重要な存在としてそこに存在しているのだ。

“Heartist”というタイトルは“芸術というのは心なんです”という言葉から取られている。絵画として表れたグンナルスドッティルの心が、人と人とを繋げていくなんてとても素敵なことじゃないか。今作はそんな風景を余すところなく映しとりながら、芸術の在るべき形の1つを観客に提示してくれるのである。

Hamida Issa&“Places of the Soul”/カタール、石油の子供たち

さて、カタールである。アラビア半島の北東部に位置するこの小さな国は、映画界における存在感もまた比較的小さい。私のように日本未公開映画を観まくっている方ならばアラブ首長国連邦ルクセンブルクに並んで、他国の映画を共同制作する国として知っている人もいるかもしれない。だが他の2国もそうだが、自国の映画産業は完全に二の次であり、カタール人監督によるカタールを舞台としたカタール資本の、いわゆる“カタール映画”というのお目にかかれる機会は驚くほど少ない。しかしこの度、私はそんな一作をとうとう観ることができた。ということで今回はカタールの新鋭作家Hamida Issa ハミダ・イッサによる長編ドキュメンタリー“Places of the Soul”を紹介していこう。

まず映し出されるのはホームビデオの荒い映像である。そこには広大な砂浜で両親に囲まれながら、笑顔を浮かべる子供が映っている。彼女は子供時代の監督自身であり、この映像は監督の子供時代を映したものなのだ。母がホームビデオを撮影するのが趣味であり、そのおかげで多くの映像が今に残っている。家族でパーティをする姿、ゲームセンターで家族がはしゃぐ姿、そんな他愛ないからこそ愛おしい風景がそこには刻まれているのだ。しかしカメラの持ち主だった母はもう既にこの世にはいない。そして監督のなかでその喪失の傷は未だに癒えることがない。

映像に映っていた子供は亡き母親の影響もあり、長じて映画製作者としての道を歩み始めるのだったが、新しい仕事は南極の観測旅行に随行することだった。彼女は南極に降り立つ初めてのカタール人という責任を背負いながら、カメラクルーたちとともに南極へと向かう船に乗船することになる。ここで監督はカメラマンであるChristopher Moonと旅路に広がる風景を映しとっていく。船の出発地点であるアルゼンチンはブエノスアイレス、どこまでも広がる大海原、そこに漂う超巨大な氷山、そして小さな氷の板のうえをヒョコヒョコと歩くペンギンたち……

今作において独特なのは、カタールを映したホームビデオの映像と監督たちが映す南極の観測映像が織り合わされることで構成されている点だろう。かたや世界の端に存在する氷の世界、かたや中東に位置する砂の世界。一見するなら全く異なる場所同士とも思えるが、この映像詩を観るうちに2つは豊かな海に面しているという共通点に気づくことにもなるだろう。こうして監督の視線と記憶を通じて、2つの世界は優しく溶け合っていく。

しかし観客は不気味な影をもそこに見出すことになるだろう。監督はカタールを映す映像にある老人の証言を重ねていく。石油が発掘される前、カタールでは真珠漁が盛んであったのだが、これを通じて人々は自然といかに共生していくかを学び、ゆえに皆が自然への敬意を確かに持っていた。しかし石油産業の勃興はもちろん、真珠漁も養殖業に取って代わられ、人々はその敬意を失っていき、環境を破壊することにも躊躇わなくなってしまったと。

さらに南極を映した映像も少しずつ不穏なものとなっていく。気候変動が進んでいき温度は上昇していくことで氷山が加速度的に溶けていってしまっている。これによって南極に生きる動物たちの命が危機に瀕している。他にも様々な異常事態が連続しているが、根本としてこの気候変動を促進する大きな産業とは何か。それこそが石油産業というわけである。ここにおいてカタールは他の中東諸国に並んで、随一の石油および天然ガス埋蔵量を誇っており、このおかげで一人あたりのGDPは世界第4位となるほど高所得者数が多い。これもあってか一人あたりの二酸化炭素排出量は世界一であるという研究結果も存在している。監督が南極観測に参加した理由とは、おそらくこれなのだろう。

私たちは石油の子供なのだ、映画内でこんな言葉を監督自身が呟く。その実情を私たちはホームビデオのなかに何度も見てきた。豪勢なパーティ、厩舎での馬との触れ合い、ディズニーランドへの家族旅行。今までこの映像は甘やかな郷愁を観客にもたらしてくれていた。だが南極の実情とカタールの現代史が繋げられたその時から、映像からは苦い後悔と罪悪感が現れ始める。それはおそらく監督が抱く思いそのものなのだろう。

それでも今作はその罪の提示で終ることはない。こういったある種原罪にも似た苦悩に苛まれるなかで、監督は母との記憶を頼りにして、希望を探し求める。気候変動と引き換えに恩恵を得てきた自分が今できることは一体何なのか?この問いを彼女は突き詰めんとしていく。今作はその過程、カタールの特権的な富裕層に生まれた1人の女性がこれを自覚し、その特権を持つ者としての責任を引き受けるまでを描いた作品なのだ。

Fidel Devkota&“The Red Suitcase”/ネパール、世界を彷徨う亡霊たち

さてさて、この鉄腸ブログでは何度も書いているが、最近にわかにネパール映画界がアツいことになっている。この国の新鋭たちの作品が2022年辺りからサンダンスやロッテルダムなどの有名映画祭に続々と選出されているのだ。そして2023年、その中でもより特権的なヴェネチアトロント長編映画がそれぞれ選出されたのを目撃した時、私のなかでネパール映画界の今後10年における躍進を確信したのである。ということで今回は中でもヴェネチア国際映画祭オリゾンティ部門に選出された、Fidel Devkotaによる第2長編“The Red Suitcase”を紹介していこう。

今作の主人公は名もなきトラック運転手(Saugat Malla)だ。彼はトラックを駆り、日々ネパールの各地へと荷物を届けるという仕事をしている。この日も彼は中東はカタールからやってきたという大きな荷物を受け取った後、首都カトマンズにある空港から山奥にあるという目的地に向けて出発するのだった。

まずこの映画は、そんなトラック運転手の旅路を静かに見据えることになる。ラジオの音声を相棒としながら、彼は黙々とトラックを走らせていく。時折ガソリンスタンドなどに止まりはするが、基本的には脇目をふることもなく目的地を目指す。周囲の景色は都市のそれからあっという間に山岳地帯のそれとなっていくのだが、その美しい自然は長閑にも見えながらその実崇高で険しいものだ。だが完全に慣れているのだろう、運転手はひたすらにトラックを走らせるのみだ。

Sushan Prajapatiによる撮影は長回しを主体としながら、主人公やトラック、彼らを包みこむ大いなる自然の数々を静かに見据えている。目前に広がるありのままを映し取ろうという風な姿勢は世界を観察する科学者の視線を思わせるものだ。その感触は冷ややかなものであり、例えレンズに浮かぶ風景がいかに美しくとも、どこか不穏な印象を常に観客に与えることになる。

旅の途中、運転手を予期せぬ事態が襲う。突然トラックが故障してしまい、道で立ち往生することとなってしまったのだ。しかし通りすがりの男から、自分は茶屋を経営しているのだがそこで休んでいかないかとの申し出を受ける。最初は躊躇しながらも背に腹は代えられないということで、運転手は男の優しさに甘えることにする。最初は男の世話を有り難く思うのだが、彼の態度は少しずつ奇妙なものとなっていく。

謎の男の登場から今作はそのテーマ性を露わにしていく。彼に勧められるがままに酒を飲み酩酊していく運転手だったが、酔いの勢いのままに運転手は驚くべき打ち明け話をする。彼が学校に通っていた頃、恩師である教師が毛沢東主義者によって嬲り殺しにされたというのだ。恩師が受けたという凄惨な暴力について語った後、運転手は自然とネパールという故国への呪詛をブチ撒け始める。この国において弱者は見捨てられる。その光景を目にする若者たちは必然的に国を捨て、国外へと逃げるように去ってしまう。こんな状況でネパールという国が存在していると本当に言えるのだろうか?

だがだからといって国外の生活がより良いものかといえば、それは違う。国際化という現象は小国の人間を労働力として搾取することでこそ成り立っている。この華々しく、可能性に満ち溢れたように見える現象の裏側には現代の奴隷労働こそが存在している。ネパールにおいては国外、例えば中東の富裕国で出稼ぎ労働者として働く人々も、ネパールに残ることを選んだ人々も等しく国際化に絡め取られ、酷使の末にボロ雑巾さながらに打ち捨てられる。

国際化という現象で重要な要素は物流だろう。この100年、車や飛行機といった輸送機はもちろん、陸海空を股にかける輸送路の発展によって物流は急速に、世界的な展開を遂げ、その勢いは留まるところを知らない。何もかもがどこにでもすぐ届くという状況は、つまり世界の一元化であり、この状況では欲望は加速度的に広がっていく。今作において、その限りなく逼迫した状況を象徴するのがトラック運転手である主人公なのだろう。全てがあまりにも開かれすぎ、そして緊密に繋がりすぎているがゆえに、仕事が終ることがない。そしてその仕事というのは……

この主人公の疲労感に満ちた道行きとともに、もう1つ描かれる道行きがある。物語の合間にはスーツケースを持った作業着の男(Prabin Khatiwada)が登場する。彼は運転手以上に黙々と、何処かを目指して歩き続けるのだ。街中、山道、森の中。どんなに険しく見える場所でも気にもせずに彼は歩く。

彼の存在こそが、今作にホラー的な趣きという別の層をもたらしている。とはいえいわゆるジャンプカットなどの観客を怖がらせようとする、扇情的な演出が行われことは一切なく、むしろもっと霧のなかに亡霊が佇んでいるといった、幽幻な雰囲気こそを醸し出すような演出が多く取られているゆえだ。観ているうちにどこか落ち着かなくなる、観客をそんな状態に陥らせることを目的としている風だ。

こういった演出法は、例えば長回しを効果的に駆使しながら世界観を丁寧に構築してきたシャンタル・アケルマンタル・ベーラらの作品、もっと言えばスローシネマの系譜に属する映画を彷彿とさせるものである。しかし監督の采配で独特なのは、このスローシネマ的な演出法をホラー映画に適用している点である。数日前にPerivi John Katjaviviというナミビアの新人監督による長編“Under the Hanging Tree”(レビュー記事はこちら)を紹介したが、ここで私は、今はジャンル映画をスローシネマ、もしくは実験映画の方法論で再構築し、その物語を新たに語り直していく新鋭が多く現れ始めていると記した。Fidel Devkotaはネパールにおいてこの潮流に共鳴する存在なのかもしれない。

そしてネパール新世代の作品を何作も観て感じたのは、霊的な存在とそれにまつわる出来事を描きだす作品の多さである。例えばSunil Gurungによる短編“Windhorse”は妻/母の死をきっかけにネパールの寺院を行脚する親子を描いた作品であったし、このNiranjan Raj Bhetwal監督作“The Eternal Melody”は亡くなった夫が心置きなく向こうの世界へ行けるよう奔走する女性の姿を描いていた。どれもネパールにおける霊的存在への畏敬を感じさせるものだったが、今作もやはりこの畏敬の念に裏打ちされた作品であり、これが国際化によって踏み躙られることへの怒りもまた存在している。これらの要素を描くにおいてホラーというジャンルが選ばれたのには全く説得力がある。

故郷であるネパールという国を心から憎みながらも、小国を下僕の立ち位置に追いこむ国際化にも与することができない。“The Red Suitcase”はそんな複雑な思いを抱える人々の悲哀、そして怒りを格調高いホラーとして描く1作だ。それでいて本作はネパール映画界の新世代到来を告げる記念碑としても記憶されるべき作品なのだ。

Wissam Charaf&“Dirty Difficult Dangerous”/レバノン、愛ってだいぶ政治的

さて、レバノンである。この国は人口1人当たりの難民受け入れ数が最も多い国としても有名だろう。近隣国であるシリアやパレスチナからの難民が多く押し寄せるゆえである。更には地中海を挟んでアフリカ大陸にも距離が近いので、そこから難民や移民たちがやってくるという事情もあり、レバノンにはこの2つの地域からやってきた人々が混ざりあいながら生活をしているわけだ。今回はこういった背景から紡がれるレバノン発の奇妙なメロドラマである、レバノンの新鋭作家Wissam Charafによる第2長編“Dirty Difficult Dangerous”(アラビア語原題:حديد، نحاس، بطّاريات)を紹介していこう。

今作には主人公が2人存在している。アフマッド(Ziad Jallad)はシリア内戦を逃れてレバノンへとやってきた難民だ。彼は同じシリア難民たちが身を寄せあうスラムに暮らしながら、屑鉄集めによって何とか糊口を凌いでいる。一方でメフディア(Clara Couturet)はよりよい未来を求めてこの国にやってきたエチオピアからの移民である。彼女はとある中産階級の家庭で認知症の老人を世話する介護士として働いているのだが、過酷な職務に神経を磨り減らし、生活をやっていくだけで精一杯という状況だった。

そんな2人は恋人同士であり、暇を見つけては愛を語りあっており、それが人生唯一の希望といった風にもなっている。だが彼らの愛はレバノン社会において常に危機に瀕している。シリア難民の増加によって治安の悪化を懸念してか、彼らには外出禁止令が出されており、アフマッドは屑鉄集めをするのも一苦労だ。そして道を歩いているだけでも町の住民たちから因縁をつけられ、酷い時には暴力を振るわれることすらある。故に彼がメフディアと会うのも命懸けの行為となってしまう。

メフディア自身の状況もアフマッドとは別の意味で過酷なものだ。介護士としての生活は敬意を持たれず、雇い主であるレイラ(Darina Al Joundi)からも邪険に扱われている。さらに被介護者であるイブラヒムは病ゆえに徘徊行動などを繰り返し、時にはメフディアに襲いかかろうともする。これでは心が休まるわけもなく、だからこそ危険を犯してでもアフマッドとの逢瀬を果たそうとするわけだ。彼との時間だけが心休まる時間なのだから。

このようにして2人の置かれた状況は相当に深刻であり、物語も必然的に重苦しいものとなっているのだが、これらとは裏腹に劇中に満ちている雰囲気は不思議なほどあっけらかんとしたものだ。“間が抜けている”と形容すると軽薄に響きすぎるかもしれないが、今作はなかなかに笑える作品なのだ。物語の深刻さを登場人物たち自身があまり理解していないといった風に、彼らは何だか妙な行動を繰り返す。そしてその妙な行動を繰り返す妙な登場人物たちを、俳優陣は真顔で、かつ律儀に演じる。そう、演じている感がもう露骨なのである。この乖離が何だか笑えるのだ。

この虚構性バリバリで妙な雰囲気を、撮影監督のMartin Ritは技術的な面から支えている。一見するなら彼の照明の当て方がめちゃくちゃわざとらしいことに観客は気づくはずだ。今作に浮かびあがる光と影は自然さとは真逆を志向しており、今作が虚構であることを堂々と提示しているようですらある。こんな不自然な世界でアフマッドやメフディアは真顔で妙なことをやらかしていく。ここから先述したような可笑しみが溢れてくるのである。

ここで想起するのがフィンランドの奇才アキ・カウリスマキである。今ちょうど日本でも最新作である「枯れ葉」が公開中であるが、彼の作品を特徴づける真顔のユーモアに似たものが今作にも現れているのだ。実際に監督のCharafは好きな映画監督としてロベール・ブレッソンユイエ=ストローブとともにカウリスマキの名前を挙げており、彼からの影響が伺い知れる。妙な登場人物たちを慈しむような手触りも、作風として共鳴するものがあるように思えてならない。

そんななかアフマッドとメフディアに大きな危機が訪れる。仕事場で密会しているのを知られたメフディアは、彼と会うことを止めなければエチオピアに強制送還すると通告されてしまう。彼らの愛は文字通り禁断のものとなってしまったわけだ。最初はこの通告を守りアフマッドを遠ざける彼女だったが、最後には彼への愛こそを選び取ることになる。こうして2人は愛の逃走を繰り広げることになるのだったが……

ここから監督がHala DabajiMariette Désertと共同で執筆した脚本は、より政治的なものとなっていく。ここで際立つのが人種間に存在する厳然たる権力勾配である。シリア難民であるアフマッドはレバノンで差別される存在でありながら、それでもアラブ人である意味では多数派に属することになる。そして彼の傍らにいる肌の黒いメフディアは“アラブ人に劣った何処ぞの民族”扱いになる。劇中、日雇労働の給料をもらおうとした2人は、雇用主から“わざわざ奴隷のスリランカ人を連れてきたんだな”と厭味を言われる。日常に自然と根づいてしまっている差別意識が現れた瞬間がこれなのだろう。

こうした苦境のなかで、アフマッドも差別する側に立つこととなってしまう。2人はヨーロッパのTVクルーからインタビューの申し出を受けるのだが、お金を稼ぐために仕方なく自分たちの悲惨な人生を売り渡す決意をする。そしてメフディアが喋る際、共通言語である英語を彼女が上手く使えないゆえ、アフマッドが通訳をすることになるが、ここで観客は彼が明らかにメフディアの言葉をそのまま訳していないことに気づかざるを得ない。TVクルーが気に入るようにリアルタイムで彼女の言葉を改竄しているわけだ。こうして被差別者が差別者に転じてしまう状況すらも、今作には描かれている。

そんな状況においても、何とかして愛を貫き通そうとする2人の姿は悲壮だ。それでいてここでこそまた効いてくるのが、全編に満ちるあっけらかんとした雰囲気なのである。ここにはどんな過酷な苦境においても生き抜こうとする人間の前向きさが、確かに織り込まれている。そしてこの強かさこそがこの映画の魅力の核でもあるのだ。

再びカウリスマキを話題に挙げさせてもらうと、彼の近作であるル・アーヴルの靴みがき希望のかなたにはアフリカや中東からの難民が登場している。特に後者は主人公がシリア難民と、今作にそのまま重なるものとなっている。こうしてカウリスマキは世界情勢を反映しながら映画製作を行っているわけだが、その意味で“Dirty Difficult Dangerous”という、この極めて政治的な可笑しみに満ちたメロドラマは中東の一国であるレバノンからの、カウリスマキへの応答であるのかもしれない。

Perivi John Katjavivi&“Under the Hanging Tree”/ナミビア、血の過去とそして現在

アフリカ南部に位置するナミビア共和国、この国とドイツの間には負の現代史が横たわっている。欧米列強の1国として領土の拡大を目指し、ドイツは1884年から1915年に南西アフリカを植民地支配していた。その支配の最中、この地に住んでいたヘレロ、ナマの両民族が1904年に反乱を起こすこととなる。だがドイツ軍は“民族の絶滅”を旨としてこの反乱を徹底的に弾圧、そして数年をかけて数万もの人々が殺害される。ヘレロ・ナマクア虐殺と呼ばれるこの虐殺は後のナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺に繋がったとも言われ、100年経った現代でも両国間で長く懸案となってきたが、2021年にドイツが大量殺戮を認めとうとう謝罪と賠償が始まった。さて今回は、この血塗られた現代史を背景とした全く異色なナミビア映画、Perivi John Katjavivi ペリヴィ・ジョン・カチャヴィヴィ監督作“Under the Hanging Tree”を紹介していこう。

今作の主人公はクリスティーナ(Girley Jazama)という女性だ。彼女はサバンナの片隅にある小さな町の警察署で働いている。現在捜査しているのは、近くの大農場で家畜が殺害されその遺骸が放置されるという事件だ。クリスティーナの捜査を嘲笑うかのように家畜は次々と殺されていき、その山は大きくなっていくばかりだ。このあらすじからも読み取れるように、今作はまず刑事ものというジャンル映画として幕を開ける。不気味な事件を孤独な刑事が捜査していく中で、更なる事件が巻き起こっていく……このありがちな筋立ては、しかし今後の驚くべき跳躍への助走であることが後々分かってくる。

事件の頻発する大農場の持ち主がグスタフ・フィッシャーとその妻エーファ(Dawie Engelbrecht & Roya Diehl)である。彼らの夫婦仲は事件の以前からもはや冷え切っており、会話をするにしてもその視線が交錯することもほとんどない。物語の途中、観客はそんな夫婦の荒涼とした夫婦生活を目撃させられることになる。そこには常に不穏な静寂がつきまとっており、私たちはその破綻がそう遠くない時に来るという予感をも味わわされることになるだろう。

果たしてその悲劇は起こってしまう。ある日、グスタフが死体となって発見されることになる。彼の死体は農場にあるオムムボロンボンガ Omumborombongaという大樹に吊るされているという悲惨な状況を呈していた。クリスティーナはこの殺人事件の捜査を開始するのだが、エーファは夫が亡くなったにも関わらず平然とした態度を取っており、そこに疑念を向けることになる。

こうして今作は刑事ものの王道を行き、脚本の展開自体もそれを踏襲するような進み方をしていく。だが徐々に私たちはこの映画がそこを逸脱する独自の要素を数多く持っていることにも気付かされるだろう。まず顕になるのは、今作が持つ無二の背景である。捜査の最中、クリスティーナはグスタフがオイゲン・フィッシャーという科学者の子孫であることを知る。フィッシャーは医学、そして優生学を研究していた人物であり、ナチス党員でもあった。ナチスユダヤ人や障害者を劣った存在と見なし虐殺を行っていたが、その背景には優生学の知見があり、こういった研究を牽引する存在の1人がフィッシャーであったのだ。そして彼がこういった優生思想に傾倒するきっかけとなったのは、ドイツ領南西アフリカ、つまり今のナミビアでの“混血”の研究だったのである。そしてその研究を始めたのは1908年、ヘレロ・ナマクア虐殺の末期だった。

このようにグスタフ殺害の裏側にはナミビアとドイツの間に横たわる忌まわしき過去が存在しているのだ。虐殺自体は100年以上前の出来事でありながらも、国同士としては勿論のこと、個人間や人種間においてもこの傷は未だに清算されていない。そしてこの因縁はクリスティーナの血にも滲みこんでいる。彼女はヘレロ人、つまりドイツ軍によって虐殺された民族の子孫なのである。彼女自身はこの出自から目を背けて生きてきながらも、事件をきっかけとして正面から対峙せざるを得なくなる。そんな彼女の姿を通じて、監督はナミビア現代史の闇へと潜行していくこととなるのだ。

この背景の異様さとともに、監督による演出もまた一線を画した切れ味を伴っている。冒頭からして観客は今作が只ならぬものだということに気づかざるを得ないだろう。闇のなか、不穏に燃える焚き火の前、そこに座りこんだ男が延々と呪詛を吐き散らかす。これが不動の長回しによって提示されるのを何分も観客は見せつけられるのだ。血、死、亡霊。振り返るならこれはナミビアとヘレロ人の被った悲劇を仄めかすものであったが、それと同時に今作そのものの異様さをも予告するものでもあったと分かる。

撮影を担当するのはRenier du Bruynという人物だが、その撮影は他のジャンル映画のそれとは全く異なっている。カメラ位置はほとんどの場合、クリスティーナら登場人物からは隔たっている。少なくともその顔や体の部位にクロースアップするということは滅多にない。ここにおいて主役となる被写体は彼らのいる部屋か、もしくは彼らがポツンと佇むサバンナ、言うなれば空間そのものなのだ。ゆえにここにおいてはカメラと登場人物の距離は物理的には勿論、精神的な意味でより遠い。彼らを世界の主役でなく、あくまで一部として観察するという科学者のような冷えた視線が常に存在している。

そして編集を担当するKhalid Shamisはロングショット多用のこの風景を、長回しという形で持続させ続けていく。通常ならばカットはテンポよく割って、観客の注意を掻き乱すというのがジャンル映画の方法論というものだが、今作はスローシネマ的な瞑想の状態へと観客を誘い込むような方法論を取っている。であるからして編集の流れは物語の議論を呼ぶだろう煽情性とは裏腹に、奇妙なほどゆったりしているのだ。

それでいてこの永遠にも思えるほど引き伸ばされた時間には、一刻の後に何か悍ましいことが起こるのではないかという予感にも満ち溢れているのにも、観客は気づくはずだ。この雰囲気に寄与するのが音という要素である。まずMpumelelo McataJoão Orecchiaが担当する音楽はノイズ主体の前衛的なジャズといったものになっている。全編通じてこのジャズが流れるのだが、ずっと聞き続けていると三半規管が惑わされるような感覚すら覚える。そこではナミビアの闇は迷宮ともなっていくのである。

この劇伴と並びたつのが音響だ。今作では音楽が鳴らない場面においても、常に画面外から自然音や日常音が響き続けているのだ。闇のなかで燃える薪のパチパチいう響き、サバンナの大地を撫ぜる風の響き、自然のそこかしこに潜みながら生きている虫の響き。こういった音が増幅されながら、何処からともなく響き続けているのだ。画面外にも世界が確かに広がっているのだという畏怖にも似た予感を、観客は執拗に喰らわされていく。今作を観ている、いや聴いている時に観客が心を休められる時間はほとんどない。

このように今作の演出は刑事もの、もしくはB級ノワールといったジャンル映画の方法論からは面白いほどに逸脱している。その方法論はむしろスローシネマ、もしくは実験映画にこそ近いものだ。物語を語るというよりも、映像詩を紡ぐことにこそ注心している印象を受けるのだ。ここで思い出すのは映画作家ケリー・ライカートだ。彼女はロードムービー(「リバー・オブ・グラス」)や西部劇(「ミークズ・カットオフ」「ファースト・カウ」)などのジャンル映画を、例えばJames Benning ジェームズ・ベニングPeggy Ahwesh ペギー・アーウィッシュといった実験映画作家の演出法に学んだうえで再構築していっている。

私は数々の日本未公開映画を観るなかで、少なくとも劇映画においては、実験映画の方法論を有機的に取り入れ、その技術を以て物語(特にジャンル映画)を解体していき、新しく創り直す映画作家が2010年代以降続々と現れているという感覚がある。ライカート然り、ジョナサン・グレイザー然り、この鉄腸ブログで紹介した作家としてはEduardo Williams エドゥアルド・ウィリアムスや、Hilal Baydarov ヒラル・バイダロフなどがその作家にあたる。

そして今作の監督であるPerivi John Katjaviviはその系譜の最先端に属する新鋭なのではないかと私は直感したわけである。今ちょうど「ファースト・カウ」「ショーイング・アップ」の公開で、日本の観客もライカートを発見している最中と思うが、もしかするなら皆が彼女に感じるものと同じ類の驚きをこの“Under the Hanging Tree”を観ている時に味わったと言えるかもしれない。上述の作家たちの映画を観ていたゆえ、私はこれこそが劇映画の行くべき道という確信があるが、その系譜にある作家がナミビアという映画界においては比較的無名な国から現れたことは予想外ながら、これこそが日本未公開映画を観る醍醐味でもあると思った次第だ。

“Under the Hanging Tree”ナミビアの忌まわしき過去へと深く潜行し、そこに満ちる血塗られた闇を抉りだすことによって、ナミビアの現在を浮かびあがらせていく。そしてそれは映画の現在、その最先端へと躍り出る試みともなっている。驚くべき新鋭監督が現れたものだ、ということで監督の今後に期待!