鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

映画痴れ者/ライター済藤鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

ヨルゴス・ランティモス&"Alpeis"/生きることとは演じることならば

余りにも大きすぎる成功は、映画監督に"次回作"という名のプレッシャーをもたらす。私たちはその圧力に耐えられず砕け散る才能をいくつも見てきたはずだ。ではヨルゴス・ランティモス監督はどうだったか?2011年、彼はヴェネチア国際映画祭ーー籠の中の乙女と共に"ギリシャの奇妙なる波"の幕開け的作品となった"Attenberg"が上映されたのと同じ場所だーーで世界の映画ファンへ次回作"Alpeis"を突きつけた。観客たちはその内容に当惑するしかなかった、だが人々は思っただろう、この当惑こそ私たちが求めていたものだと。

一瞬あなたは画面に映るものが何か分からないかもしれない、だが良く見てみれば正体がハッキリとする、それは頭頂部だ、血まみれの少女の頭頂部。ベッドに寝かされた彼女のそれを目にさせられる内、男の声が届いてくる。「君の名前は?」少女は掠れた声でそれに答える。「何て言ったんだ、マリア、それともマリー?」少女は画面外の私たちにも聞こえる声でマリーと言う。「まあいいや、君のことはマリアと呼ぶよ」「マリア、よく聞いてほしい」「ここにリストがある、俳優の名前が書いてあるリストだ」「今から名前を順に言っていくから、好きな俳優になったら合図してくれ」「いくよ、ブラッド・ピット……ジョニー・デップ……好きじゃない?……じゃあ次は……」

結局彼女はジュード・ロウが好きだったんだ、そんな救命士("Kinetta" Aris Servetallis)の言葉を聞いた後、看護師(籠の中の乙女」アンゲリキ・パブーリァ)は部屋を出ていき、少女の両親の元へと向かう。少女は交通事故に遇い重体です、現在は予断を許さない状態です、看護師がそう告げると男は水色のリストバンドを見せ呟く、彼女はテニスの選手で試合の時はいつもこれを付けていたんです。そして看護師は家に帰る、そこにはたった一人で父(Stavros Payllakis)が待っている。看護師はただいまと言ってから彼に目薬を指す。父との関係は良好だ、休日は彼の行きつけであるダンス場へ一緒に行ったりもする。そして命と直接関わりあう看護師という激務の合間、彼女は恋人と海へと遊びに行く時もあった。恋人が見守る中、白い飛沫が寒々しい海へと飛び込み、何故か酷くたどたどしい英語で、彼女はああとても楽しいと声を上げる。私たちはこうして"看護師"の日常を目の当たりにするが、この光景には何か不気味な感触が宿っていることにすぐ気づくはずだ。

ある時、彼女は近くの体育館へと向かう。そこには"体操選手"(アリアーヌ・ラベ"The Lobster"にも出演)とその"コーチ"(Johnny Vakris)、そしてあの"救命士"がいる。この4人を繋ぐ関係性が題名にもなっている"Alpeis"という言葉だ。"Alpeis"は団体名であり、彼らは大切な者を亡くした人々にあるサービスを提供している、人々の傷ついた心を癒すため死者になりきるというサービスを。看護師はコーチと共にある家へと向かう、そこには盲目の老婆がいる、看護師は"老婆の親友"を演じる、コーチは"老婆の夫"を演じる、"老婆の親友"は老婆に本を朗読してあげる、"老婆の夫"は老婆をハグする……薄暗い部屋の中で繰り広げられるこの異様な光景を、ランティモス監督は奇妙な距離感を以てカメラに撮していく。

監督は"生きる=演じる"と捉えている、前の"Kinetta"レビュー(この記事)でそう記したが、"Alpeis"ではその思惟をより深めていっているのが伺える。看護師たちは代わる代わる死人を演じていく、その合間に自身の日常を生きていく。だがここにおいて、"Kinetta"であからさまだった演技臭さは更に露骨となり、全てはあらかじめ定められており俳優たちはそれと寸分も違わず行動しているという印象を受けることとなる。これは死人を演じるシーンでは当然かもしれないが、日常である筈のシーンでもこのアプローチは徹底しているのだ。そしてある時、看護師にとってあの恋人との付き合いは"Alpeis"としての仕事の一環ではないかと思わされる場面すら現れる。日常/非日常、自然体/演技という二項対立が崩れていき、全てがヴァーチャルな存在へと変貌を遂げる。

何も信じられない、そんな私たちの思いはいつしか看護師の思いとも共鳴していく。リーダーとして君臨する救命士の言われるがまま仕事をこなしてきた彼女は、初めて彼の命令なしに自分の意思に従って死人を演じることとなる。看護師はテニスウェアを着て、水色のリストバンドをつけ、ラケットを持つ。最初は他の演技と同じ感触を持ちながら、彼女はこの存在にのめりこむと共に"マリー"という名前をその肉体に宿し始める。この行為は支配する者への反逆だ、"Kinetta"「籠の中の乙女」と描かれた強者→弱者、男性→女性という支配構造への反逆なのだ。しかしランティモス監督はこれを単純な希望の物語にはしない。"マリー"はどんどん歪みを増し、物語はどんどん歪みを増す、そして最後に監督はひどく痛烈な一発を私たちの頬に叩きつける。

"生きる=演じる"という1つの真理への洞察、それが"Alpeis"を構成するものだ。一見ペシミズム的としか取れない真理に対し、彼は映画史に類を見ない奇妙な観点から鋭く切り込んでいきながらも同時に、この時点での彼の限界を露呈させることともなっている。しかしこの作品を観た者は2つの思いを抱き、胸を裂かれるはずだ。その思いが、そしてランティモス監督の最新長編"The Lobster"へと繋がって行くこととなる[A-]