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映画痴れ者/ライター済藤鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

Farkhat Sharipov&“Skhema”/カザフスタン、底知れぬ雪の春

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Farkhat Sharipov ファルハット・シャリポフというカザフスタンの監督がいる。2020年に彼が製作した長編“18 kHz”は瞠目の1作だった。詳しくは執筆したレビューをお読み頂きたいが、そんな彼が2020年代におけるカザフ映画を注目しようと思ったきっかけの1人でもあるのだ。そんなSharipovが新作を携えて、2022年のベルリン国際映画祭に現れた。その新作“Skhema”はやはりと言うべきか、Sharipovという才能の異様な輝きを再び証明する1作であった。

今作の主人公はマーシャ(Victoriya Romanova ヴィクトリヤ・ロマノヴァ)という少女だ。高校生である彼女は友人たちと夜な夜なパーティ三昧に耽る今時というべき少女であり、その度に親たちに叱られては、反抗期特有の不機嫌さを露骨に示しながら、部屋に引きこもる。そしてほとぼりが冷めたなら、また友人たちとパーティへと赴き、酒を飲みまくり、友人たちと喋りまくり、酩酊を楽しむことになる。

まずSharipovはそんなマーシャの日常を丹念に追っていく。彼女にとって高校生としての毎日は退屈の極みだ。授業に関しては聞いているフリをして、実際には友人とメールのやりとりをしている。そんな致死的な退屈から解放され、まるで炸裂でもするかのように、彼女はパーティではしゃいでいく。酒を飲めば、全てが忘れられる。そこにはイケメンのリマ(Tair Svintsov タイル・スヴィンツォフ)も居て、どんどん仲が深まっているような感じだ。しかもパーティに参加した後は大金ももらえる。これは参加しない理由がない!

だがその後が当然最悪なことになる。酔っぱらってほとんど意識がないまま、何とか友人にタクシーに乗せてもらい、家に辿り着くことになるが、そこで待つのは両親の激しい説教の数々だ。この勢いが激越であればあるほど、マーシャは反抗心を抱いてパーティに飛びこんでいく。酷いときにはパーティ会場に警察が踏みこんできて、補導された挙げ句に両親に引き取られる。そして叱られ、しかしマーシャはまたパーティに行く。

こうして彼女は殆ど不毛としか思えない繰り返しを延々と続ける、おそらく両親にとっては不条理な悪夢そのものとして映っているだろう。彼女は何も学ぶことないままにパーティ三昧を享受する愚かな人物と見なす観客も少ないはずだ。そして同時にパーティの裏側で不穏な何かが進行していることにも気づくはずだ。あの妙な金回りのよさ、コソコソ動き回るリマと彼が恭しく対応する謎の男。マーシャもそれには確かに気づいている。だが気づかないフリをする、自分の目を誤魔化すために唇にアルコールをありったけブチこんでいく。

こういった不毛な情景を、Sharipovは撮影監督であるAlexander Plotnikov アレクサンデル・プロトニコフとともに撮しとっていく訳だが、それらが怖気を震わせるほどに荒涼としたものだ。近年、カザフスタンの首都であるアルマティは開発が進み、加速度的にきらびやかさを増しているという状況がある。街並みは整然として、洗練されたショッピングモールは家族連れで賑わっている。だが庶民の経済状況が改善されているとは言い難いようだ。マーシャの父は借金を抱え、母はその対応に苦慮、食卓での喧嘩は日常茶飯事だ。手振れを伴うリアリズム志向でこの口論が描かれる様を見るのは息が詰まる。これを肌身に経験しているマーシャの精神は磨耗していき、この現状から目を背ける意味でも彼女はパーティに逃げ込むのだというのを否応なく思い知らされる。

故にアルマティの街並みに広がる煌びやかな美はただただ表面上のものにしか思えない。色や飾りだけが目に輝くのみで、その奥底にある精神は痩せさらばえて、貧困そのものと化している。そしてアルマティに降り注ぐ真白い雪はその美もその貧困も等しく呑みこんでいく。時にマーシャはリマと一緒にこの雪を投げ合いながら遊んだりする。時にこの雪はただただマーシャの通学の邪魔になる。そういった二面性が常に今作には付きまとっているようだ。

冒頭で記した通り、Sharipovの前作“18 kHz”もまた荒涼の極みというべき青春映画だった。ドラッグ中毒によって袋小路に嵌まりこむ少年たちの姿には、言葉に尽くしがたい虚無感が宿っていた。今作においてマーシャを含めた少年少女はパーティやアルコール、そして何故だか振る舞われる大金に目が眩み、どんどん泥沼にはまっていく。そして1本の踏み越えてはならないだろう線へと肉薄していくのだ。

今作はベルリンのなかでもジェネレーション部門という青少年向けの部門に出品を果たしている。その選出理由は一応青春映画ということもあるだろうが、他にも注目すべき要素がある。前作の“18 kHz”もそうだったが、“Skhema”は表面上“ドラッグ/お酒、ダメ絶対!”という青少年向けの犯罪啓蒙映画のような内容となっているのだ。ドラッグやお酒は一時的には気持ちよくさせてくれるかもしれないが、それの中毒になってしまうと人生が崩壊してしまう。そうした道徳の時間に見せられるような教育映画を彷彿とさせる訳だ。

が普通はあくびが出るほど退屈になるだろう啓蒙映画も、非凡な映画作家が作るならば異様な作品に仕上がる時も存在する。例えば40-50年代ハリウッドB級映画の異才であるエドガー・G・ウルマーの初長編「傷物の人生」(“Damaged Life”)は性病の啓蒙映画として製作された1本だ。しかしメロドラマとしての堂々たる風格はもちろん、放埒な性生活の果て性病に罹かった者たちの末路を示す場面は、次回作「黒猫」ひいてはホラー映画群の片鱗をも感じさせる不気味さを誇っている。この“Skhema”もまたそうした啓蒙/教育映画から逸脱するような風格を持ち合わせているのだ。

何より今作に登場する青少年の無軌道さにはゾッとするものを覚える。当然、啓蒙映画に出てくる登場人物は観客が教訓を得るため、律儀なまでに悪辣な事件を引き起こす訳だが、今作において少年少女は何をしでかすか分からないのだ。酒を飲むなどはそれとして、彼らは例えば盗みや殺人など明確に悪と見なせる行為は表だって行うことはない。だがパーティ会場に鶏を持ちこみ奇妙なおふざけを繰り広げたりと、論理が明確に掴めない行為に打ってでる。この意味の分からなさが観客を落ち着かなくさせる。

マーシャはそんな異常な状況に追い込まれていく訳だが、戻れないと悟った時にはそのパーティ会場で元締めへの少女の“人身供養”が行われていることも知ってしまっている。そして必然的に彼女は次のターゲットになるのだ。金欲しさにリマたちが淡々とお膳立てを整えた後、マーシャは酒とドラッグにまみれながら捧げられることになる。

“Skhema”において子供たちはみな愚かである。だが愚かなのは彼らだけではない。子供を酒や金で釣り、搾取する大人がいる。タクシー内という密室で少女に言葉の暴力を投げ掛ける大人がいる。自分の子供が明らかに危険な目に遭っているのを知りながら、自身の事情にかまけ何もできない大人がいる。大人たちもみな愚かなのである。それはつまり人間という存在自体が救いようもなく愚かなのである。Sharipovは常にこの絶対零度の眼差しを崩すことなく、この世界においてそれらの避けがたい愚がどこへ行き着くかを見据えているのだ。

“Skhema”とは虚無である。そして徐々にこの虚無という言葉自体も生ぬるく思えてくるだろう。だが……終盤において私たちは何とも形容しがたい境地へとも導かれることになる。このどうとでも解釈できてしまう複雑微妙さ、これこそがFarkhat Sharipovという映画作家の底知れなさだと私は戦慄せざるを得ないのだ。

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