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映画痴れ者/ライター済東鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

何物も心の外には存在しない~Interview with Noah Buschel

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Noah Buschel&"Bringing Rain"/米インディー映画界、孤高の禅僧
Noah Buschel&"Neal Cassady"/ビート・ジェネレーションの栄光と挫折
Noah Buschel&"The Missing Person"/彼らは9月11日の影に消え
Noah Buschel&"Sparrows Dance"/引きこもってるのは気がラクだけれど……
Noah Buschel&”Glass Chin”/持たざる者、なけなしの一発
Noah Buschel ノア・ブシェルのプロフィールと作品に関してはこちら参照。

済藤鉄腸(TS):まずどうして映画監督になりたいと思ったのでしょう? どうやってそれを成し遂げましたか?

ノア・ブシェル(NB):私は映画にこそ左右されるんです。映画は私に沢山のことを教えてくれたと同時に、私が持つ妄想の数々を強靭なものにもしてしまいました。盤石で永遠に続き、誰とも乖離した自己を持つことができるという妄想です。ある時点から、唯一性という観点に由来する映画を作りたいという興味が膨れあがっていったんです。もしくは唯一性という感覚が滲み渡っていたんです。登場人物は全員1つの身体と1つの精神を共有する訳です。言うは易し行うは難し、ですが。

TS:映画に興味を持ち始めた頃、どういった映画を観ていましたか? 当時において最も思い出深い映画体験は何でしたか?

NB:小さいときにTVで「波止場」で観たのは頗る衝撃的な経験でしたね。映画において全ての登場人物が明白に1つの身体を持つということの素晴らしい例でしょう。その後、Ziegfeld Theaterに兄弟と一緒にシン・レッド・ラインを観たのも覚えています。この映画も相互関連性にまつわる作品でしょう。それからやはり兄弟と二番館で「こわれゆく女」を観ましたが、これも心を揺るがす経験でした。さらに19th street theaterに独りで宮崎駿千と千尋の神隠しを観に行った経験は正に人生を変えるものでした。しかし心を開いてくれた映画と同時に、心を閉ざすような作品も100はありましたね。

TS:映画監督であると同時に、あなたはPat Enkyo O'Hara パット・エンキョ・オハラの許で禅の修行を行っていましたね。この記事によると映画監督・脚本家として鍛錬を積むと同時に、禅とその文化からも様々なことを学んでいたと。そこで聞きたいのはこの禅が映画製作や映画体験に影響を与えたかということです。

NB:私は禅についてまだ殆ど知りません。ただ足を組んで、1日に最低数時間を座布団の上で過ごしているというだけなんです。これは日々のメンテナンスのようなものであり、私にとっては歯を磨くことと同じなんです。

TS:あなたの作品に関する質問に入っていきましょう。あなたが2003年に制作したデビュー長編"Bringing Rain"は胸を打つ荒涼とした青春映画、目覚ましい群像劇として展開していきます。今作を観た時深く驚いてしまったのは、この映画が私の若さに対する深淵のような感情を、そして未来への幻滅を映しだしているようだったからです。そして一切の陳腐な救済が存在しないことも印象的でした。この映画がとても好きなんです。今振り返って、あなた自身はこの映画をどう見ますか? 今でも心に残っている映画製作に関する個人的な思い出はありますか?

NB:チャールズ・ブコウスキーはこう書いています。"魂が掠れていくごとに、形式が現れる"と。"Bringing Rain"において私は映画製作の形式や技術をあまり知らず、そこには魂だけがありました。今作は寄宿舎学校を舞台としたメロドラマという体裁を借りた、インドラの網にまつわる映画なんです。私にとって最新作である"The Man in the Woods"は同じく寄宿舎学校が舞台ですが、多くの技術と設えられた形式が存在します。つまりこれが未来に繋がった訳です。"The Man in the Woods""Bringing Rain"は2つのブックエンドなんです。今、私は監督として燃え尽きている状況で、作品はその念に由来するものであり、万人受けからより遠ざかっています。配給会社の人々はこの作品群を間違って宣伝する方法すら分からなくなっています。ゆえに主流のTVや映画スターを使って映画を作る行為自体がもうすぐ終わると感じます。他の映画作家のために脚本を書くということはあるでしょうが、監督としてはいわゆる実験映画と人々が言う作品を作るようになるでしょう。

TS:第2長編"Neal Cassady"に関連して、あなたのアメリカ文学への考えをお聞きしたいです。あなたのアメリカ文学への志向は、ジャック・ケルアックデニス・ジョンソン――後述しますがあなたは彼の作品を映画化する計画を立てているそうですね――切実な騒々しさや無限の荒野の彷徨い人たちを向いているという印象を受けます。しかしあなたが実際に心惹かれるアメリカ文学というのは一体何でしょう? その理由もお聞きしたいです。

NB:自分がどんなアメリカ文学に惹かれるかというのは分かっていません。ですが読むのは殆どがアメリカ人作家の作品です。Maxine Hong Kingston マキシーン・ホン・キングストンRudy Wurlitzer ルディ・ワーリッツァーGloria Naylor グロリア・ネイラーDavid Goodis デイビッド・グーディスMichael Herr マイケル・ハー……おそらくこれは私が他の言語を知らないからで、翻訳小説を読むのも避けているからです。そして英国の小説家に関しても殆ど無知です。それでも宮沢賢治の作品は全て読んでいます。

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TS:それでも"Neal Cassady"は正確に言えばジャック・ケルアック「路上にて」を含め、どんなアメリカ文学も基にはなっていません。しかし今作は「路上にて」ディーン・モリアーティのモデルとなったNeal Cassady ニール・キャサディの人生を通じ、アメリカ文学の裏側にある複雑な現実を描きだしています。あなたは何故、もしくはどのようにNeal Cassadyの人生に惹かれたのでしょう? 彼の人生のなかにあなたは何を目撃したのでしょう。

NB:"Neal Cassady"ですか……あの映画は内容に見合う予算がなく、しかしそうであるべきだったとも思います。私は人間がいかにペルソナというものに囚われるかに興味がありました。私にとって今作はCassady自身についての物語ではないんです。つまり私は彼らを公平に扱うということがなかった。そしてIFCは酷な形で短くカットしたバージョンをリリースし、最近になって弁護士のおかげでやっとそれが撤廃されたところです。

TS:第3長編の"The Missing Person"に行きましょう。今作で最も印象的だったのは、いつだって壮大なマイケル・シャノンとの信じられない共同制作と、彼からいかに深遠な感情を引き出し得たかです。シャノンの煌びやかなフィルモグラフィにおいても、"The Missing Person"は甚だしいほどユニークで、深く感動的な存在感を放っています。マイケル・シャノンとの仕事はどうでしたか? 彼と再びタッグを組む予定はありますか? もしそうなら今度は彼にどういった役を演じて欲しいですか?

NB:私が思うに"The Missing Person"においてシャノンは殆どの部分でありのままでいたんです。思いやりを持ち、繊細な人物であり続けたんと。彼は美しいまでに控えめな人でした。映画を押し進めてくれたのは彼なんです。

素晴らしい俳優たちと関わりながら監督をする以上のことはありません。イーサン・ホークやリザ・ウェイル、ポール・ジアマッティやポール・スパークス、ジェーン・アレクサンダー……彼らに冷静かつ集中していられる環境を与えながら、もし安全圏に逃げ込もうとしたら少し小突いてやるといった風です。全ての俳優には安全圏というものがあり、もしそこから演技をするというなら、その演技はもう既に少し古びてしまっているんです。私はまたこの言葉に戻るべきでしょう。"魂が掠れるごとに、形式が現れる"と。

TS:そしてあなたの最も感動的な長編"Sparrows Dance"については、あの重要なシーンに関する質問をしたくて堪りません。あの引きこもりの主人公と彼女の想い人が部屋でダンスをするのをカメラが映し出す時、それがセットだったと明かされます。それはまるでヒッチコックのあの言葉、"たかが映画じゃないか"を彷彿とさせながら"確かにたかが映画だ、だが映画こそが人生を救う、映画が私たちに幸福を齎してくれるんじゃないか!"と言いたくなります。この興奮と感動をどう言葉で表現できるでしょう? 少なくとも私にはできません。しかしぜひともこの場面についてお聞きしたいです。この場面はどのように思いついたのでしょう? この信じられないような場面を俳優のMarin Ireland マリン・アイアランドPaul Sparks ポール・スパークスとともにいかに組み立てていったんでしょう?

NB:このショットでは特殊効果が使われる予定でした。主人公のアパートメントの背景に抽象的なVFXで都市の風景を使おうとしていました。しかしスタッフが設置した照明やバーバンクの倉庫が見えるこのショットを見た時、思ったんです――"ああ、これだ。何でそこに何か付け加えて風景を偽る必要がある? ありのままにしない理由があるのか?"と。

TS:あなたの作品における俳優たちに話を移しましょう。作品のレギュラー俳優でも特にマリン・アイアランドユル・バスケスが好きです。アイアランドが例えば"Sparrows Dance""Glass Chin"といった作品でまるでミューズさながら多様に光り輝く一方で、バスケスの存在は"Glass Chin""The Phenom"において作品を魅力的なまでに引き締め、力強いものにしてくれます。この2人の名優とどのように出会ったんでしょう? 彼らと頻繁に仕事をする最も大きな理由は一体なんでしょう?

NB:マリン・アイアランドユル・バスケスと頻繁に仕事をする理由は彼らを愛しているからです。そして映画監督という存在がその作品において同じ俳優と仕事を続けることにいつも素晴らしさを感じます。私たちが生きているのは、多くのインディーズ映画が実際はハリウッドの代理店によって制作されているとそんな時代です。ある種の決まったレパートリーを持つ一座を抱えるというのは、機械的な雰囲気を避ける効果があります。私は厳密なまでにプロフェッショナルな雰囲気を湛えた映画というものを作りたいと思ったことはありません。家族のような存在と映画を作ると、その作品にはホームムービー的な感触が宿ります。もし映画がただ滑らかでプロフェッショナルのものであるなら、私にとってそこに無邪気な何かが見えることはありません。そして付け加えるべきなのは、私は最も仕事がしやすい人物という訳ではなく、作品もそうではないことです。何度も仕事をしている俳優たちは出世階段をとんとんと登っていくような人物ではありません。多くの俳優たちが何か少しだけ異なることをしてから、隠れてその反応を見守るなんてことをしていて、あなたもそれを見たことがあるでしょう。ユルやマリンのような俳優はそれ以上の存在で、恐れなど持っていません。彼ら自身が芸術家なんです。これは彼らと一緒に一か月間電車に乗るだとかそういう次元の話ではなく、信念にまつわる話しなんです。

TS:あなたが今のアメリカを捉えようと試みる際、例えば"The Missing Person""Glass Chin"、"The Phenom"といった作品群は全くアメリカ的な心理模様への深遠なる旅路ともなります。時にあなたは歴史的イベントを物語に織りこみ("The Missing Person")、時にあなたはレナ・ダナム"Girls"ウータン・クランソニー・リストンといった固有名詞を多く投入する("Glass Chin")こととなります。こういった手捌きに触れる時に感じるのは"ああ今自分はアメリカ映画を観ている。今自分はアメリカを目撃している"ということです。そこで聞きたいのは作品においてアメリカの現実やアメリカそれ自体を描きだそうとする時、最も重要なことは何なのか?ということです。

NB:そうですね、アメリカにおいて私たちは転落や挫折をうまくすることができません。思うにアメリカと日本はここが共通していると思います。挫折は私たちの社会において悪しき何かとなってしまいました。挫折などするべきではないということです。このテーマは私の作品に多く見られるでしょう。挫折によって苦悩する人々、挫折は過程の一部として健康的であると感じていない人々。西側の人間として、私たちは成功を追い立てられながら成長していきます。成功と失敗の二項対立の中で生きている時、その人生はいつだって他人からの承認に頼る極度に敏感なものになってしまいます。それに加え、私たちが考える成功という概念が今より歪んだものになってきています。もっと存在するべき、もっと観られるべき、もっと所有するべき……これこそが私たちにとっての悲劇なんです。

スタイルとして、私はクラシックなアメリカに惹かれます。ダイナーや野球、ジャズや煙草、コカコーラにボクシング、バーに車……これはいわば図像学的な夢の風景であり、時に戯れることもあれば、時に覆すべき時もある。そして時には時代考証よりも人工的な細工によってこそ現実に近づける時もあります。私の映画には1970年代のアメリカ的スタイルというものは存在せず、代わりに50年代、もしくは60年代序盤のスタイルがあります。私にとってこの年代にはある種時代を超越したものが存在しているんです。時代ものを作るとしても、その時代よりもその超越性を探し出そうという興味の方が大きい。そしてその時に現代を表現するものに関して言及することはありますが、それはこの超越性をより高めるための演出なんです。

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TS:そしてあなたの映画がいかに万華鏡的にジャンルを越えていくかにも感銘を受けます。"Bringing Rain"は荒涼とした青春もの、"The Missing Person"はハメットやチャンドラーを彷彿とさせる探偵もの、"Sparrows Dance"は古典的ななロマンス、"Glass Chin"はやはりノワールですが「ボディ&ソウル」「罠」といったボクシング・ノワール、そして"The Phenom"はスポーツものの皮を被った心理スリラーといった風です。フィルモグラフィを通じて、あなたのテーマや演出の選択はカメレオンのように自由自在です。この作品群のなかに、何らかの嗜好や一貫した傾向があると自分で感じますか? ジャンルには意識的でしょうか? 映画製作のために物語を選ぶ際、最も不可欠な要素は何でしょう?

NB:ジャンルとは私たち皆が共有するしきたりです。私にとって、これらのしきたりは地盤となってくれる意味で有益なものなんです。そして映画が完全な非現実性へ傾かないようにしてくれる多様なお約束というものも存在しています。つまり私がどんなジャンルを作っていようとも、それは漫画として描かれる小さな詩のようになります。漫画として描かれる小さな詩、私自身作品をこう表現しています。辰巳ヨシヒロの劇画とある種似通ったものなんです。

TS:あなたの撮影スタイルにも興味があります。作品を通じて、ショットの長さは徐々に長く長くなってきていますね。いわゆる長回しというのはとても興味深いスタイルです。何故なら表面上それは現実を指向していますが、それが長くなるにつれ、むしろ非現実に近づいていくんです。言い換えれば、長回しは瞬きといった人間の生理現象を越えることで現実味やリアリズムを超越し、映画的な形で超現実性へと肉薄していくんです。この衝撃を伴った超現実性はあなたの作品でも観られます。例えば"Glass Chin"における主人公と敵対者の会話、シャワー内での主人公と恋人の会話という連なった2つの場面などです。作品を通じてどのようにこの撮影スタイルを築いた、もしくはそこに到達したのでしょう? 他の映画作家や映画作品からのレファレンスや影響はありますか?

NB:18日や21日で映画を作る場合、早く早く撮影する必要があります。そこで撮影日をもっと実践的なものにする(照明のセットにかける時間を短くするなどです)ためにショットが長くなるというのが部分的な理由です。そしてセーフティ・ネットとして代わりとなるショットは要らないなと感じた時にもやります。さらにカットや編集が多くなると俳優を見据えるのに邪魔になります。あなたが言及した場面において、私は舞台を観劇するようにビリー・クラダップを見据えたかったんです。ショットがしばらく持続すると、フレーム内にエネルギーが満ち始めます。こうして異なるやり方で時間と戯れることもできます。そしてもしそのショットが唯一撮影したものなら、本物の後押しとなってくれるんです。時の流れをありのままにし、そこで実践するしかないんです。

ここ西側諸国においては時間をありのまま流れるようにするというのが、時間を切り捨てることと混同されています。しかしこのあるがままの姿勢が、執着したり圧迫したりしないまま、何かと共にあることを私たちに許すんです。映画を作ることはあるがままであることの過程なんです。脚本やストーリーボードなど準備は全て揃っており、どう進むべきかは熟知している。それでもこれを手放し、理知的な思考やファンタジーを適用できない場所へ自分を突き動かさなくてならないんです。

映画作家に関しては頗る普通の感傷しか持っていませんが、小津安二郎はあるがままである勇気を私にくれる意味で確実に影響を受けています。

TS:これは最後になりますが、あなたの最新の計画についてお聞きしたいです。あなたはデニス・ジョンソンドッペルゲンガーポルターガイストクリストファー・アボット主演で映画化しようとしていると聞きました。ジョンソンの作品の中でも、このエルヴィス・プレスリー陰謀論にまつわるとてもアメリカ的な1作を選んだのは何故でしょう、もしくは作品の方があなたを選んだのでしょうか? (これは些細なことかもしれませんがこのニュースを聞いた時"Glass Chin"で素晴らしい演技を見せてくれたビリー・クラダップマイケル・シャノンジーザス・サン」の映画版に出ていたことを思い出しました。彼らにこの計画やジョンソンへの愛を語りましたか?)

NB:これについて話したのはユル・バスケスクリス・アボットだけです。デニス・ジョンソン……"Train Dreams"はオールタイムベストの1作です。彼の作品は私にとって大きなインスピレーションとなっていて、そういった人物は多いことでしょう。この短編に惹かれた理由は、あなたのジャンルに関する問いにも関わってくると思えます。これはいわゆる探偵ものです。ある詩人がエルヴィスにまつわる事件を解明しようとする。しかしジョンソンはこの探偵ものというジャンルを使い、ユング的な影、輪廻転生、永遠、自殺、9/11、精神疾患、80年代のニューヨーク、兄弟の絆、そして喪失など様々なことを描こうとしている。テーマが本当に広範で、だからこそ胸を引き裂くような作品となっているんです。そして今作は内面と外面が1つになった物語でもあるんです。何物もあなたの外には存在しない。世界全ては心以外の何物でもないんです。

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