鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

映画痴れ者/ライター済東鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

Maria Ignatenko&“Achrome”/良心が、その地獄を行く

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ソビエト連邦支配下に置かれていたバルト三国の人々にとって、第2次世界大戦におけるナチスドイツの侵攻はある種の“解放”とも映ったのだという。そして彼らの中にはドイツ軍に加入し、枢軸国側としてソ連軍と戦った者たちもいた。更にナチスによるユダヤ人虐殺に加担する者さえいたという。こういった歴史は戦後に秘匿され、長らく語られぬままの時もあったが、ここ最近その歴史を映画として提示していく若手作家たちがいる。例えばリトアニア人監督Jurgis Matulevičius ユルギス・マトゥレヴィチウスのデビュー長編“Izaokas”(レビュー記事はこちら)はリトアニアにおけるユダヤ人虐殺とその余波を描きだした1作だった。そして今回紹介するのは、ロシア人作家Maria Ignatenko マリア・イグナテンコによる1作“Achrome”だ。

今作の主人公はラトビア人青年マリス(Georgiy Bergal ゲオルギイ・ベルガル)だ。彼の住む辺境の村にも戦争の影がチラつき、彼は弟であるヤニス(Andrey Krivenok アンドレイ・クリヴェノク)とともにナチスドイツに徴集されることとなる。彼らはドイツ国防軍に所属した後、基地として接収された修道院で待機期間を過ごし始めるのだったが……

まずこの“Achrome”はそんな戦時下における日常を過ごすマリスの姿を淡々と描きだしていく。同じく徴兵されたラトビア人男性に混じり、彼もまた機械的に検査を受けることになり、それが終わった後には装備一式を渡される。だが即時戦場へ送られるということはなく、待つことを余儀なくされる。打ち捨てられた迷宮さながらの様相を呈する修道院の奥を、マリスは目的もなく彷徨い歩く。その合間には神への祈りが捧げられる。闇ばかりの迷宮とは打ってかわり、祈りの広間は暴力的なまでの白光に包まれている。ここでマリスは今自分が直面する現実を神にもたらされた運命と捉えている。そして同僚とは全く異なる、粛々たる落ち着きを以て運命を受容するのである。

今作において注目すべきはAnton Gromov アントン・グロモフによる異様な撮影だ。まず印象的なのは画面の暗澹たる様だ。今作には常に闇が這いずり回っており、その暗さによって視覚情報が著しく制限されている。マリスを含めた登場人物が一体何をしているのか判然としないことが多ければ、彼らがいる空間を把握すること自体が困難なことも頻繁にあるのだ。

それは監督らが撮影のために最小限の光源だけを使用しているゆえに他ならない。例えば窓から差し込んでくる青みがかった灰塵色の陽光や、例えば全き闇のなかに心許ない橙色を揺らしている篝火、こういった弱々しい光だけを取り入れる禁欲性によって今作の異様なまでの暗澹が紡がれているのだ。これを詩的とするか、ただただ見にくい自己満足と取るかは評価がハッキリ分かれるだろう。

しかし不思議なのは、この極端なまでの不明瞭さが逆説的に空間、もしくは建築空間の存在感を際立たせるのだ。今作は修道院を主な舞台としているが、祈りを捧げる大広間を除いては全てが陰鬱な瘴気に支配されている。光があるとしても微かな陽光だけだ。それとも灰塵の色彩が石造りの壁や柱を照らす時、その荒い、ザラザラした質感が観客の網膜により迫りくるのだ。そして黒で塗り潰したような闇に篝火が輝く時、修道院という建築が持つ荘厳なうねりがのたうつのを観客は感じるだろう。“優れた建築は闇のなかにこそ浮かぶ”と、そんな言葉を否応なく思いださせる、ここにおいてはひどく恐ろしい形でだが。

この空間が催させる陰鬱なまでの畏怖というのは、マリスら兵士たちの心にも去来しているものかもしれない。だがこの畏怖に常に晒され続ける彼らの心は徐々に麻痺していき、虚無へと傾いていくことになる。そして思考の余裕を奪われていった先にこそ残虐の萌芽が存在している。修道院の一室には拉致されたユダヤ人女性たちが監禁されており、ドイツ人兵士たちから凄惨な虐待をも被っている。これにラトビア兵も荷担させられ、その神経、その精神は変質していくのだ。

そして陰鬱かつ荒涼たる風景に幻覚が浮かび始める。例えば闇のなかに得体の知れない何かがいるという風景。例えば虐待されていた女性たちが明滅を繰り返す1つの空間に集結し、こちらを眺めているという風景。そういった不気味な映像に更に付け加わるのは、鼓膜を貫いたり、押し潰したり、引き裂いたりするような攻撃的な音の数々だ。それはおそらく兵士たちを苛む幻影なのだろう。この麻痺を催させる闇と、激烈な幻影のイメージが交錯する様に、観客は兵士たちが発狂を遂げる様を追体験することになるのだ。

そんな中でマリスは神への献身によって能動的に自身の感情を麻痺状態にしていき、現状から目を背けることで、発狂という地獄から逃れようとする。だが彼はナチスや同僚兵による暴虐を目の当たりにするうち、この姿勢を問い直さざるを得なくなっていく。神は何故女性たちを救うことがないのか、神は何故こんな過酷にすぎる試練を与えるのか。神への献身は徐々に不信へと変貌を遂げていく。

“Achrome”はこのマリスの姿を通じて、極限状態に置かれた人間たち、彼らに残された良心の行く末を見据えていく作品だ。こういった状況下において、例え肉体は生き延びようとも、良心は潰えるしかないのか。それとも生き残るものもまた存在するのだろうか。だが少なくとも、凄まじき苦痛の道を歩むことは避けられない。戦争はこの地獄をもたらすのである。

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Maryna Er Gorbach&“Klondike”/ウクライナ、悲劇が今ここに

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現在、ウクライナに対してロシアが不穏な動きを見せ、ともすれば戦争が起こってしまうのではないかという緊迫した状況が続いている。そんなキナ臭い雰囲気のなか、サンダンス映画祭であるウクライナ映画がプレミア上映された。この作品を観ながら、私は正に今立ち上がっている現実について考えざるを得なかった。今回は今年最初の衝撃として私の前に現れたウクライナ映画である、Maryna Er Gorbach マリナ・エル・ゴルバック監督作“Klondike”を紹介していこう。

今作の主人公はイルカとトリク(Oksana Cherkashyna オクサナ・チェルカシナ&Sergey Shadrin セルゲイ・シャドリン)という夫婦だ。彼らはロシアとウクライナの国境に程近い町に暮らしていた。だが時は2014年、ロシアがウクライナ南部のクリミア半島、東部のドンバス地方に侵攻、いわゆるクリミア危機・ウクライナ東部紛争が勃発した年である。イルカの町にもロシア軍が進駐し、常に厳戒体制が敷かれている。そんな状況だったが、イルカのお腹には待望の赤子が宿っていた。

今作は紛争に見舞われたウクライナの人々が極限の状況に追い込まれていく姿を淡々と描きだしていく。家の周りには重装備のロシア兵や戦車が闊歩し、心休まる時がほとんど存在しない。暴力と死の予感が常に隣には存在している。夫婦はそんな場所で生きている、ここから去る気は微塵もないようだ。もし去ったならば命は助かりながら、誇りは全て踏みにじられるとでもいう風に。

この生存闘争の過酷さを物語るのが冒頭場面だ。寝室にいるイルカたちは眠ろうとしながら、些細なことから神経を逆立てて、挙げ句の果てに痴話喧嘩を始めてしまう。寝室を行き交いながら互いに怒りを向ける2人、そして罵倒が響き渡る寝室そのものを、撮影監督であるSviatoslav Bulakovskyi スヴィトスラフ・ブラコフスキのカメラは見据えていく。そしてゆっくりと、まるで這いずる油のようにカメラは360°の回転を遂げていき、そこにはカットが一切かからない。しかしある瞬間爆音が炸裂し、家が煙に包まれることになる。2人は無事だが、寝室の壁は完全に破壊されてしまっている。

物語の始まりを悍ましい形で祝福するこのシークエンスは先述通り生の過酷さを象徴するが、それと同時に今作の撮影がいかに凄まじいものかをも語っていると言えるだろう。ここにおいてBulakovskyiは途切れなき長回しを主体とした撮影を遂行していく。カメラは目前の風景を極端なまでの自然主義的なアプローチで映しだしながら、常時固定されている訳ではなく、異様なまでに遅いズームやパンを行い、被写体を追うことともなる。この拳を遅々として石造りの壁に押しつけるような圧力に満ちた長回しのなかで、時間という概念は息詰まる無限として拡大されていくかのようだ。

ウクライナ映画において、長回しキラ・ムラートからの伝統といっても過言ではない形で脈々と継承されているが、近年それは加速度的に激化している印象を受ける。例えばミロスラヴ・スラボシュピツキー「ザ・トライブ」ヴァレンチン・ヴァシャノヴィチアトランティスといった作品に、形式主義長回しが内容との均衡を崩していくような印象を受けた。ここまでとは言わずとも先鋭な形式主義を今作もまた共有しているように思われる。

更に今作ではロングショットが多用されることで、イルカたちの生活風景が、彼女たちの暮らす世界そのものの中に現れることにもなる。この地域は町や村というよりも、だだっ広く不毛な荒野に人や彼らの住まう家が点在するといった状況の方がしっくりくる。そしてそこに鼓膜を潰すような轟きを響かせながらロシア軍が進駐を遂げる訳だ。荒涼、虚無、不穏、そんな重苦しい言葉の数々だけが観客の頭には浮かぶはずだ。

こういった状況でイルカたちは生存を続けようとするのだが、その方法こそが家事なのである。例えば砲火で破壊された家の残骸を片付ける、それが終わったら料理を作って食べる、外では水を汲んで体を洗う、家事が終わった夜にはテレビを観てそして眠りにつく。こういった家事、もしくは生活そのものが先述した演出のなかで淡々と繰り広げられていく訳だが、ここで想起するのがシャンタル・アケルマン「ジャンヌ・ディエルマン」だ。今作は永遠にも思えるほど続く料理や掃除といった主婦がこなす家事の数々を、固定され一切動くことのない長回しによって延々と描きだす凄まじい1作だ。どちらも家事という日常の所作を長回しで描きだすという手法がよく似ている。

だが興味深いことに2作においては家事の意味合いが全く変わってくる。「ジャンヌ・ディエルマン」が家庭という牢獄における懲役刑のように家事を描きだしている一方で、今作では家事が生存戦略として機能している。戦時下という1つの極限状態においては、家事を続けることで日常を過ごすという行為自体が生の希望を繋ぎとめる役割を果たしているのだ。家事によって保たれる日常こそが生の核にあるのである。

そしてここにおいて撮影と同様に印象的なのが、監督自身が手掛けている編集だ。Bulakovskyiの長回しは時の流れをそのままスクリーンへと投影する一方で、ただただカットを長くすればこれが十全に機能するという訳ではもちろんない。むしろ長回しにおいてこそ、いつどのタイミングでカットするかが重要になる。監督の編集はこれを知悉しているかの如く、ショットとショットを繋げていく。一瞬に時間と時間を切り裂いたかと思えば、ある断面と断面が新たに繋がり先鋭なリズムが生まれるといった風なのだ。

先述した通り、今作は主人公たちの周囲に広がる荒野をも内包するロングショットを多用する。だがそれらロングショットの合間、ふとイルカらの表情のクロースアップが挿入される瞬間が何度かある。時間の流れを長く取りいれるロングショットにおいては人間を含め全てが一種の無機物に思える一方で、クロースアップにおいてはイルカらの顔に浮かぶ皺や動き、何より表情が中心に据えられ、無機物とはまた違う生の存在を感じさせる。後者はカットがかかるのもより早いので、無限にも感じられる時の流れとは様々な面で対比が成されていき、リズムは更に息詰まるような緩急を宿す。そうして彼女らの生活と日常にこそ存在するダイナミクスが露になるのだ。

そしてイルカの出産が近づくなかで、同時に戦争の影もまた濃厚になっていく。そんなある日、衝撃的な事件が起こる。家の近くに旅客機が墜落したのだ。マレーシア航空17便が飛行中、ロシアによって撃墜され墜落、乗客283人と乗組員15人の全員が死亡したというあの事件だ。こうして未曾有の惨状が広がるなかで、イルカたちの人生は急転直下の悲劇へと突き進んでいく。

この惨劇をきっかけとして、イルカたちはもはや戻れない一線を踏み越えることを余儀なくされるが、それでも彼女たちは死に物狂いで日常を保とうとする。これがウクライナに生きる人々にとっての全身全霊のサバイバルという風に。だが観客は目撃することになるだろう、この意志が完膚なきまでに破壊される、この悲劇が淡々と繰り広げていく様を。ここにおいて私たちは監督が提示するあまりの絶望に言葉を失うしかないはずだ。だが同時にこの悲劇が、今再び繰り返されようとしていることにも気づかざるを得ない。私もそんな1人だ。だからせめて、語らなくてはいけない。悲劇を繰り返さないよう私たちに訴える、この“Klondike”という映画について語らなくてはいけないのだ。この文章を読んだ方が、少しでもウクライナが直面する現実に思いを馳せてくれることを願う。

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Bogdan Theodor Olteanu&“Mia își ratează răzbunarea”/私は、傷ついてもいいんだ

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razzmatazzrazzledazzle.hatenablog.com
監督のデビュー長編についてはこちらを参照。

今年の4月、ルーマニアの鬼才監督Radu Jude ラドゥ・ジューデのベルリン金熊受賞作品「アンラッキーセックスまたはイカれたポルノ」aka “Babardeală cu bucluc sau porno balamuc”が日本公開される。今作はセックス動画が流出した女性教師がめぐる狂騒を通じて、コロナ禍真っ只中のルーマニアを描きだす意欲作だ。だが今回紹介する作品はこれではない。実は今作製作の前年に、同じくセックス動画をテーマとしたルーマニア映画が作られていたのだ。「アンラッキーセックス」ルーマニア社会そのものにより焦点を当てた映画なら、その作品はよりパーソナルな心理模様を描きだした1作とも言える。という訳で今回紹介するのはルーマニア映画界期待の新鋭Bogdan Theodor Olteanu ボグダン・テオドル・オルテアヌの第2長編“Mia își ratează răzbunarea”だ。

今作の主人公はミア(Ioana Bugarin ヨアナ・ブガリ)という若手俳優だ。彼女は恋人のテオとド派手に喧嘩をし、ビンタされた挙げ句に別れることになってしまう。これについて母親(Maria Popistașu マリア・ポピスタシュ)や友人たちに愚痴を吐き散らかすのだったが、テオへの復讐としてあることを思いつく。それは行きずりの男たちとセックスしまくり、そのファックを撮影してやるということだった。というわけでミアは男を漁り、セックスしようとしたところでハメ撮り撮影を提案するのだったが、誰も彼もまずそれに困惑したかと思うと、セックスすらも拒否し始める。その態度が更にミアを苛立たせ、カメラを片手に彼らを罵倒し、煽りたてていくことになる。そして彼女は撮影を強行していく訳だったが……

この作品が描きだすのは、そんなアグレッシブなミアの迷走ぶりを描きだしたドラマ作品だ。彼女は男を漁りまくって動画撮影に打ってでる一方で、友人たちと酒を呑みながらお喋りを繰り広げたり、参加している舞台の稽古を行ったり、ブカレストで開催されたプライド・パレードに赴いたりする。今作はそんなミアの姿を通じて、今を生きるルーマニアの若者たちの姿を活写した作品であるとも言えるかもしれない。日本人から見ればとんでもなくアグレッシブという感じだが。

私は日本の誰よりもルーマニア映画を観てきている自負があるが、その過程で思ったルーマニア映画の特徴として、とにかくセリフ量が多いというのを挙げたくなる。老若男女問わず、映画の中のルーマニア人は喋りまくる。饒舌を突き抜けて言葉をブチ撒けまくる。それがただのお喋りの時もあれば、凄まじい口論の時もある。今作のミアたちも同様で生活の話からどのルーマニア人映画監督とファックしたいかみたいな他愛ない下ネタ、演技論からセックスについての真剣な対話まで、観客の頭がルーマニア語で埋めつくされる。ここはある種、ルーマニア映画を観る時の醍醐味でもある。

ここにおいてAna Draghici アナ・ドラギチによる撮影が面白い形で作用している。まず彼女はカメラを固定し一切動かさないまま、静かな長回しによってミアたちの姿を捉えていく。目前で繰り広げられる出来事を一瞬すら見逃すまいという風な気概すら感じられる、不動の観察眼がショットの1つ1つに宿るようだ。それは洪水さながら荒れ狂うルーマニア語の響きとは真逆の演出となっている。Draghiciの撮影に導かれ、私たちはミアの破天荒な行動の数々を静かに見据えることになる訳だ。

だが時折、ミアが所有するカメラ視点での映像が挿入されることともなる。先述の冷えた観察とは一転して、アマチュア的な手振れが目立つ映像はミアが感じている空気感を直接反映するかのようだ。くだらない下ネタで場が熱くなる、男とだけ部屋を共有する時間には親密さと居心地悪さが同時に染みでる。そしてミアが鏡に向かってカメラを向けたった独りで言葉を紡ぐ時、そこには孤独が豊かに立ち現れる。こうしてDraghiciは即物的な観察と心理主義的な表現を平行して行っていくことになる。

ミアという女性は頗る反抗的で、気の強さも相当なものだ。ハメ撮り撮影の際には男に喰ってかかり、口論を繰り広げる。自分のことを思ってくれる友人に対しても、自分の心に土足で踏み込んできたと思えば、ブチ切れることも辞さない。そのせいで彼女は常に不安定だ。これを象徴する場面がある。ミアは1人の男性と一夜を共にするが、朝起きた際に彼にハメ撮り撮影を持ちかける。馬鹿にされたと思った男性は彼女を帰らせようとするが、ミアは彼を罵り、自分から尻を突きだしてファックしろと煽りたてる。頭に血が上った男性はペニスを露出し挿入を試みるが、うまく勃起しないまま事はうやむやに終わってしまう。ここに現れるのは男女間における力関係とその絶え間ない反転、同意のあったセックスがレイプへと振り切れていく不穏さ、セックスを撮影するという行為が必然的に持つ暴力性だ。そしてこの後、ミアは独りの部屋で鏡にカメラを向けながら、自分の本心を吐露する。あんなことしたけど、本当は私も怖かったと。

最近のルーマニア映画に顕著になってきたテーマの1つが、被害と加害の間に存在している曖昧な領域だと私は考えている。2021年製作のAlina Grigore アリナ・グリゴレ監督の“Crai nou”(レビュー記事はこちら)を例として挙げよう。今作は強権的な親族に支配される人生を送ってきた女性が主人公だ。彼女はあるパーティで1人の男性と出会い、翌日自分が彼とセックスしていることに気づくが、泥酔ゆえに記憶が全くない。この同意なきセックス/レイプにおいて、女性は間違いなく被害者だろう。だが女性はこの事実を利用し男性を脅迫、親族の元から逃げるために彼の罪悪感を搾取していく。今作は家父長制に踏みにじられてきた女性が、被害者という現状を脱するために他者への加害を行い、自身が加害者になっていく様を忌憚なく描きだしていく。この社会で生き抜くためには自分が加害者にならなくてはならないのか?という問いをもこちらに突きつける。

今作もある面でミアは間違いなく被害者だ。別れ話の際にテオはミアに対してビンタという暴力を振るい、その記憶が彼女を苛み、セックス動画の撮影へと駆りたてていく。更に舞台の稽古の際にも、演出家がエロさが足りないとミアを含めた女優たちの衣装に文句をつけていく、そんな様が冷たい長回しで描かれていく場面がある。こうして生活のなかで彼女が性差別の被害者になっていく姿が頻繁に映しだされる。それでいて彼女が男性たちの同意も満足に取らず、セックス動画を撮影しようとするというのは明らかに加害行為だろう。ミアは被害者という立場から脱却するため、他の人間に対して加害を働くことになる。その様は“Crai nou”の主人公とよく似ている。そしてミアは冷静になり、己の行動を振り返るにあたり恐怖について吐露する。この恐怖とは正に被害と加害の間に存在している曖昧な領域、ここにこそ根づく恐怖なのだ。

だがそもそもミアがセックス動画を撮影しようと思った動機というのが何かといえば、それは元恋人であるテオへの復讐だろう。だが実際に何故そのセックス動画が彼への復讐になるのか、そういった理由は一応ミアから溢れでる言葉のなかに見出だせるかもしれないが、決定的なものがそこには欠けているといった印象も抱くはずだ。そして彼女の自暴自棄なまでの邁進ぶりには“自分が傷ついている”という現状から必死に目を背けようとしているのではと思える瞬間がある、彼女は自分の弱さを認めたくないとでもいう風に。

監督はそんなミアの姿を時には冷徹な観察を以て、時にはその不安定な心情をそのまま反映したような震えとともに描きだしていく。ここで重要になってくるのは、やはり言葉なのだ。ミアは母や友人たち、男たちと何度も何度も対話を果たし、止めどなく自身についての言葉を紡いでいく。それは見境なく、時には危険で、だからこそ感情に満ち満ちている。これによって彼女はセックス動画の撮影とその理由、つまりは復讐とその理由を手探りで見出だそうとするのだ。私が感動したのは、そうしてミアの行き着く先が“自分は傷ついてる、自分は傷ついてもいいんだ”と弱さを受け入れるというものだからだ。これがミアにとっては、自分が被害者でもあり加害者でもあるという事実にケリをつけるということだからだ。

今作の題名である“Mia își ratează răzbunarea”は、ルーマニア語で“ミアは復讐が恋しい”ということを意味している。復讐とそれによって生じた心のうねりを肯定も否定もしない、いや肯定も否定もする、何にしろどんな可能性も切り捨てることはなく、曖昧なままで受けとめる、そんなミアの感慨が現れたような題名だ。題材自体は頗る過激なものでありながら、今作はそうして性や愛への割り切れなさを抱えて生きていくことについて教えてくれる1作なのだ。

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Christos Massalas&“Broadway”/クィア、反逆、その生き様

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ギリシャ映画には連綿たるクィア映画の系譜がある。最近でいえば日本ではキワモノZ級映画と見なされている「アタック・オブ・ザ・ジャイアント・ケーキ」とその監督パノス・H・コートラスギリシャにおけるクィア映画史の重要人物でもある。彼の1世代後に現れた作家(ヨルゴス・ランティモスアティナ・ラシェル・ツァンガリなど)による、いわゆる“ギリシャの奇妙なる波”はクィア映画という面から様々な検証が成されており、2016年出版のMarios Psaras マリオス・プサラス“The Queer Greek Weird Wave: Ethics, Politics and the Crisis of Meaning”を嚆矢として、その研究は年々深化していっている。さて、今回紹介する映画はそんなクィアギリシャ映画の最新たる1作、Christos Massalas クリストス・マッサラス監督作“Broadway”だ。

今作の主人公はネリー(Elsa Lekakou エルサ・レカコウ)という若い女性だ。彼女はストリップダンサーとして働きながらも、貧困から逃れられない日々を過ごしていた。その閉塞感から彼女を救いだした存在こそマルコス(Stathis Apostolou スタシス・アポストロウ)だった。彼はネリーを連れてナイトクラブから逃走すると、自身が根城とするブロードウェイと呼ばれる廃墟へと赴く。彼はそこで仲間たちと暮らしていた。だがどう生計を立てているかといえば、スリなどの犯罪行為だ。しかしネリーはその犯罪家業に身を委ね、自由を感じるようになる。

マルコスが率いるこの名もなき集団は、資本主義や家父長制社会からは炙れた、野良犬のような者たちでできている。彼らはそのシステムに反旗を翻しながら、犯罪行為によって己の命脈を繋いでいく。例えば、広場でネリーがそのダンスによって通行人の注目を集めるなか、マルコスたちが観客から密かに財布を盗みとっていく。これを繰り返しながら、欲望の赴くままに生を謳歌している訳だ。

だがその中に、ネリーにとって謎の存在がいた。傷ついた体を、廃墟の一室に横たわらせるジョナス(Foivos Papadopoulos フォイヴォス・パパドポウロス)だ。殆ど死んでいるように見えたジョナスは、しかし少しずつ回復していき、ネリーのダンスの相棒として犯罪に参加するようになる。そこでジョナスは長髪のウィッグやドレスを身に纏い始め、そこに安らぎを見出だす。そうしてバーバラという名前を選びとった彼女に、ネリーは少しずつ惹かれていく。

Massalasによる演出は息もつかせぬ軽やかなテンポを伴った、目覚ましいものだ。編集のYorgos Lamprinos ヨルゴス・ランプリノスとともに、彼は社会の底辺で生存闘争を繰り広げるならず者たちの犯罪劇を一気呵成というべき勢いで軽快に語りまくる。そしてガブリエル・ヤレドの絢爛なるスコアはこの速度に更なる熱気をもたらしていく。この編集と音楽の交錯が、序盤における作品の推進力となっていく。

物語という意味で、今作はかなりの王道を行くことになる。はぐれ者たちが集まり、犯罪によって過酷な現実を生き抜かんとする。そういった犯罪映画は観たことがない人の方が少ないだろう。その展開に関しても観客の予想を裏切るといった類いのものでなく、その予想を堂々と踏襲してみせるといった趣向となっていると言える。

だが今作が他の犯罪映画と一線を画するのは、そのクィア性においてだ。この名もなき集団はクィアな人物たちによって構成されている。例えばネリーの先輩格で彼女の世話を焼いてくれる男性2人は恋人同士でもあり、加えて言えばインターレイシャルなゲイカップルでもある。そして主人公のネリーはバイセクシャルであり、最初はマルコスに惹かれながら、徐々にバーバラにも愛を抱くようになる。そしてそのバーバラはトランス女性だ。彼女は自己を模索する過程でネリーとダンスを繰り広げるうち、彼女もまたバーバラを愛するようになる。

これに対して不穏な感情を見せるのがマルコスだ。彼は秘められた暴力性と凄まじく強権的な性格を徐々に露にしていき、ネリーという存在を支配しようとする。例え警察に捕らえられ、刑務所にブチこまれながらも、その執念や愛憎の炎は消えることがない。そしてネリーとバーバラは、立ちはだかるマルコスとの全面戦争を避けられないものと知る。

今作の背景にあるのはギリシャにおける経済破綻だろう。2009年頃より顕著になった経済危機および破綻は、ギリシャ国民の生活を苦境へと追い詰めていき、映画界にもこれは波及していった。この状況で、限りない低予算とそれを補う映画作家同士の連帯、そして不条理な現状を元に紡いでいった奇想によってギリシャの奇妙なる波は幕を開けた訳である。しかしその余波は未だにギリシャ全土を苛んでいるようだ。アテネの寂れた風景、ネリーたちの舐める貧困の苦渋、そして打ち捨てられたブロードウェイという名の廃ビルがこれを象徴しているように思われてならない。

マルコスが率いる集団はこういった状況を作りだした資本主義に抵抗する反逆者の集まりである。そして資本主義に接続された、家父長制にも挑んでいくクィアな集団もであるのだ。しかしこれらのシステムの真に恐るべき点は、ネリーたち弱い立場に追いやられる人々をも分断し、互いに傷つけあうよう仕向ける、そんな抑圧的なヒエラルキーをもたらすことだ。連帯すらも無に帰すような現状がここから生じるのだ。

今作において悪として現れるのがマルコスという存在だ。マルコスは生臭い性欲と生々しい負の感情を持つ人物であるという意味で、集団のなかで再生産された抑圧そのものといった風に見える。同時に、どこか浮世離れした異様なる存在感を持っている。激しいファックによって男性性を誇示しながら、銀髪を揺らす彼の姿からはバイナリー的な性を逃れるような雰囲気もあり、正体が掴みにくい存在だ。彼を演じるStathis Apostolouは映画の出演本数自体は少ないようだが、しなやかな雰囲気を纏いながら、それでいて悍ましい攻撃性を持つ複雑な人物を、巧みに演じている。彼の存在が今作をより複雑にしているというのは間違いない。

ネリーとバーバラはそんなマルコスに闘いを挑むのだが、彼女たちの姿を見ながら想起した作品がある。それがウォシャウスキー姉妹のデビュー長編「バウンド」だ。今作は愛しあうクィアな女性2人が男たちを出し抜き、生存闘争を繰り広げるクライム・ロマンスというべき代物だ。この枠組みを“Broadway”は共有している訳だが、そこから更に1歩先へ行っていると思える部分がある。それはネリーがバイセクシャル女性であり、バーバラはトランス女性でかつレズビアンであることだ。バイセクシャルとトランス・レズビアンは女性を愛する女性のなかでも、マジョリティであるシスジェンダーレズビアンたちの周縁に置かれてきた。そんな彼女たちが今作では中心となり、抑圧者たちと対峙するのだ。この勇姿を目の当たりにしながら、ウォシャウスキー姉妹の魂はギリシャにも受け継がれている!と、思わず心が震えてしまった。

家父長制に挑む反逆者たちがいる。しかしこのシステムは弱き者同士が傷つけあう地獄をも生み出す。それでも両方に中指を突き立てて、愛を胸に生きるやつらもまた確かに、確かにいるのだ。この“Broadway”という作品は、そんなクィアな反逆者の生きざまを祝福する力強い1作だ。

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ワット、ウィスキー、広島、そしてウルグアイ映画史~Interview with Agustín Acevedo Kanopa

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さて、日本の映画批評において不満なことはそれこそ塵の数ほど存在しているが、大きな不満の1つは批評界がいかにフランスに偏っているかである。蓮實御大を筆頭として、映画批評はフランスにしかないのかというほどに日本はフランス中心主義的であり、フランス語から翻訳された批評本やフランスで勉強した批評家の本には簡単に出会えるが、その他の国の批評については全く窺い知ることができない。よくてアメリカは英語だから知ることはできるが、それもまた英語中心主義的な陥穽におちいってしまう訳である(そのせいもあるだろうが、いわゆる日本未公開映画も、何とか日本で上映されることになった幸運な作品の数々はほぼフランス語か英語作品である)

この現状に"本当つまんねえ奴らだな、お前ら"と思うのだ。そして私は常に欲している。フランスや英語圏だけではない、例えばインドネシアブルガリア、アルゼンチンやエジプト、そういった周縁の国々に根づいた批評を紹介できる日本人はいないのか?と。そう言うと、こう言ってくる人もいるだろう。"じゃあお前がやれ"と。ということで今回の記事はその1つの達成である。

さて今回インタビューしたのはウルグアイ映画批評家Agustin Acevedo Kanopa アグスティン・アセベド・カノパである。私は2020年代に力を着実に蓄え、2030年代に一気に花開くだろう国を探している訳だが、今頭に浮かんでいる4国がモンテネグロキプロスミャンマー、そしてウルグアイな訳である。実は2021年のベスト映画リストに2本もウルグアイ映画を入れていたりするほどで(今回のインタビューにも何度か出てくる)この国の動向から目を離せないのだ。だがウルグアイ映画と言われて即座に頭に何かが浮かぶ人は少ないだろう。2000年代から映画を観ている方は東京国際でも話題になったコメディ作品「ウィスキー」を思い浮かべる人もいるかもしれない。あの映画は実はウルグアイ映画なのだ。ということで今回は、そんな日本においては全く未知のウルグアイ映画史についてこの国で随一に有名な批評家に色々聞いてみた。それでは、どうぞ。

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済藤鉄腸(TS):まずどうして映画批評家になりたいと思いましたか? どのようにしてそれを成し遂げましたか?

アグスティン・アセベド・カノパ(AAK):自分が何を感じているか、なぜある作品を好きになったか、その作品がどのように機能しているか、子供の頃からこういったものを理論化するのに興味がありました。こういった感覚を人生において遭遇した全てに適応できると感じています。つまりどんな音楽を聴いたか、どんな本を読んだか、どんな料理を食べたか、もしくはもっとシンプルに、ある考えが頭のなかでどう変化したか、これを理論化するのが好きなんですね。これは芸術を体感するにあたって制限ととる人も多いですが、私の場合は真逆なんです。映画を観てそれを理解しようとするのは、あらゆるものをより興奮するものに変えてくれる、そして作品の効果というものを拡大してくれる行為という訳ですね。批評家としての仕事を振り返ると、まず日記に書いていたことを個人ブログにアップしていたんですが、2年後にLa diariaという雑誌が私をフリーランスの執筆者として迎え入れてくれました。2008年にこの仕事を始めて、毎週映画と音楽について執筆を行っていたんです。それから時間が経ち、ウルグアイ映画批評家組合に所属することとなり、このおかげでFIPRESCIの審査員として様々な映画祭に参加できるようになり、映画界というシステムにより深く関わることになった訳です。

TS:映画に興味を持ち始めた頃、どんな映画を観ていましたか? 当時、ウルグアイではどういった映画を観ることができましたか?

AAK:最初に大きな影響を与えてくれた1作はディズニーの短編カートゥーン「花と木」(1932)ですね。両親はビデオ再生機を2台持っていたので、映画を借りては観ていき、どれをコピーしてまた観たいか皆で吟味してましたね(それでお気に入りの映画を何度も熱にうなされたように観れた訳です)そのなかにはSilly Symphonies シリー・シンフォニーの短編群、例えば先述した「花と木」「音楽の国」「田舎のねずみ」といった作品があり、今でも素晴らしい作品だったと思ってます。とにかく、私のシネフィル文化は根本においてビデオレンタルから培われていきました。父には何を借りるかの基準などはなかったので、今の観点からいえば当時の年齢には全くそぐわない作品なども借りさせてくれましたね(例えばホラー映画や、セックスと暴力まみれのアクション映画などなど)それからカバーを見て気に入ったけども、子供の世界とは何の繋がりもなかった作品なども借りました(例えば思い出すのは、10歳の頃なんですけど、キシェロフスキのトリコロール/赤の愛」を借りて、何も分からなかったということです。何にしろ最初から最後まで観ましたけどね)そして真の意味でシネフィル的な人生が築かれるための大きな1歩を踏んだのは16歳の時でした。古典映画やアングラな映画に少しばかり特化したレンタルショップに会員登録したんです。初めて行った時に借りたのがルトガー・ハウアー/危険な愛」自転車泥棒」「蛇の卵」ピンク・フロイド ザ・ウォールで、そこから止まらなくなってしまいましたね。

TS:初めて観たウルグアイ映画は何でしたか? その感想もお聞きしたいです。

AKK:確か初めて観たウルグアイ映画はBeatriz Florez Silva ベアトリス・フロレス・シルバ“La historia casi verdadera de Pepita la pistolera”でしたね。テレビ放送だったと思います。当時この映画に関して大きな騒ぎがあったんですが、思い出すのは今作が相当に低予算で(私が観ていたハリウッド映画に比べると本当に規模が違いました)、私が日常を過ごすウルグアイの風景がスクリーンに映しだされており奇妙な心地になったことです。とはいえこの印象以上に、まだ10歳くらいの子供の目にはとても退屈に思えましたね。

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TS:あなたの意見として、ウルグアイ映画史において最も重要なウルグアイ映画は何だと思いますか? その理由もお聞きしたいです。

AKK:2000年までに、ウルグアイ映画は何度も構築され直していきました。新しい映画が現れるたびに“最初のウルグアイ映画”というオーラを纏っている、なんて風ですね。しかし20世紀初頭からこの国でも映画は作られてきていた訳です。しかしながら、私が思うのは“25 Watts”という作品が国際的な注目を浴びた時、初めてウルグアイ映画は外国人の目に触れたと言えるのではということです(私たちの国と同じような小国は常にメインから除外された枠に入っていて、自分たちの文化を真剣に受け止めるには他国の評価というのが必要なんです)こういった理由で“25 Watts”は私たちの国において映画の新しい歴史、公式な歴史が綴られ始めるうえでの分岐点なんですね。これも私の考えですが、説得力のあるウルグアイ性というもの、ここにおいてはウルグアイで若者として生きるうえで何もやることがないゆえにダルくて退屈で、同じことが延々と続くといった感覚をどう強度ある形で再構築していくか、これを最も良く理解していた映画が今作な訳です。他の国でも似た作品はあったでしょうが、特に北米においていわゆるマンブルコア映画がやっていたことを今作はやっていたということですが、それと比べてもこの“25 Watts”はさらに迫真性があり、笑えたんです。この時までにもウルグアイについて語る作品はありましたが、どれも常に分析的な距離感を持つか(例えばMario Handler マリオ・ハンドレルの映画など)より私的でインテリ的な(例えばPablo Dotta パブロ・ドッタの賛否両論な“El Dirigible”など)作品でした。しかし“25 Watts”はウルグアイ人による、ウルグアイ人のための、ウルグアイ人についての映画だと初めて感じられる1作だったんです。後に監督のJuan Pablo Rebella フアン・パブロ・レベージャPablo Stoll パブロ・ストール「ウィスキー」という第2長編を作り、映像面ではより洗練されています。“25 Watts”の倍も越えるほどの評価を受けました。しかし彼らの初長編こそがより広大なカルト的評価を獲得していると、私としては常に思っています。

TS:もし1作だけお気に入りのウルグアイ映画を選ぶなら、どの映画を選びますか? その理由は何でしょう、個人的な思い出などがありますか?

AKK:先の質問で答えたことに少し戻るんですが、私のお気に入りの1本は“25 Watts”ですね。個人的に思い出すのは今作を観て突然、慰められたような奇妙な感覚を味わったんです。私の退屈な人生が突然に映画的なものに見えるようになったんですよね。そして他2本として“Carlos, video-retrato de un caminante” (Mario Handler, 1965)と“Las Olas” (Adrián “Garza” Biniez アドリアン“ガルサ”ビニエス, 2017)を挙げたいと思います。2作は劇的なまでに異なる作品で、全く異なる理由で私を魅了し、興奮させるんです。

TS:日本において最も有名なウルグアイ人監督はPablo Stollでしょう。Juan Pablo Rebellaとの共同監督である第2長編「ウィスキー」はカンヌとともに東京国際映画祭でも賞を獲得、さらに日本でも劇場公開され暖かく迎えられました。今でも日本には「ウィスキー」のファンがいます、Stollの次回作“Hiroshima”は未だに日本で上映されていませんが(日本の都市の名前がタイトルなのに!)しかし彼と彼の作品はウルグアイ本国でどういった評価を受けているのでしょう? ウルグアイ映画史において彼の立ち位置はどういったものになっているでしょう?

AKK:Pablo Stollウルグアイ映画において欠かせない存在です。その理由は映画自体(中でも“Hiroshima”はより完成度の高い1作と思います)だけでなく、彼のおかげでウルグアイ映画が世界的な映画祭で短いハネムーンを過ごすこととなり、今後の道が築かれたという意味でもなんです(例えばManolo Nieto マノロ・ニエト“La Perrera”ロッテルダムで、そしてAdrián Garza Biniez“Gigante”でベルリンで銀熊賞を獲得しました)さらにこんにち、ある特定の映画、もしくは特定の場面(映画外でも日常のある状況も)が“Control Z-esque / Control Zっぽい”(Control ZとはJuan Pablo RebellaPablo Stollの制作会社です)という言葉で形容されるようになりました。何かが形容詞にまでなるというのは、人物やものが何か大きなことを成し遂げたということだと思います。

TS:現代の作家たちのなかで、国際的に評価されている作家は間違いなくFederico Veiroj フェデリコ・ベイローでしょう。彼独特のユーモア感覚は世界の観客を魅了していますが、特に「アクネ ACNE」「映画よ、さようなら」は日本でも上映されています。彼のウルグアイでの評価はどういったものでしょう?

AAK:Veirojはとても興味深い作家ですね。異なるテーマやスタイルに挑戦することを恐れない様は、ウルグアイの同世代にはあまりないことです。個人的に彼のベストは“Belmonte”(2018)だと思っていて、あの作品では現実と非現実が奇妙かつ巧みに混ざりあっているんです。

TS:前の問いにおいては2000-2010年代において国際的に認知されたウルグアイ人映画監督について尋ねましたが、他にウルグアイでは有名ながら国際的にはまだ認知されていない映画作家はいるでしょうか? いるならぜひともその人物がウルグアイでどう評価されている知りたいです。

AAK:この問いに答えるのが難しいのは私が興味深いと思う新人監督の多くが未だ2作ほどしか長編を作っていないからです、つまり彼らの作品を正確に見定める、そして次に一体何を作るのかを予想することが難しいという訳ですね。しかし何にしろ将来性のある作家は多くいます。例えばGuillermo Madeiros ギレルモ・マデイロスFederico Borgia フェデリコ・ボルヒア(2015年製作の“Clever”と2019年製作の“El campeón del mundo”)やAgustín Banchero アグスティン・バンケロ(2021年製作の“Las vacaciones de Hilda”)らですね。彼らの次回作がどうなるのか注目する必要があるでしょう。

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TS:ここでお尋ねしたいのが、あなたが思う2010年代最も重要なウルグアイ映画は何かということです。例えばFederico Veroijのユーモアたっぷりのコメディ作品、Gustavo Hernández グスタボ・エルナンデスのジャンル映画「shot/ショット」(“La casa muda” 2010)、2019年のサンダンス映画祭で評価されたLucía Garibaldi ルシア・ガリバルディ監督作“Los tiburones”などなど。しかしあなたの意見はどういったものでしょう?

AAK:2010年代でも最もお気に入りの作品はAdrián “Garza” Biniez監督の“Las Olas”ですね。今作は小さな、しかし同時に大いなる作品でもあり、様々なテーマについてまとめて語りたくなるような映画です。実験的なアプローチのおかげで均衡を失うことなしに、自身をパロディ化しながら、自分で定めたルールをも破り、越えていくような作品ともなっています。間違いなく私が一番観たウルグアイ映画であり、特に興味深いのは作品に引用やオマージュ(例えばカルロス・サウラの「従妹アンヘリカ」など)を見つけるたびに、作品は小さくなるどころか大きく広がっていくんです。あなたが挙げた作品だと「shot/ショット」Pedro Luque ペドロ・フケの替えが効かない撮影スタイルという献身以上のものでなく、“Los tiburones”も悪い作品ではないですが、いわゆるサンダンス的に収まるようにクッキーカーターで切られてできた作品と思えるんです。

TS:そして2010年代が終わり、2020年代が始まりましたが、コロナウイルスのせいで予想外なまでに過酷なものとなっていますね。それでもここでは映画について話していきましょう。あなたにとって真の意味でウルグアイ映画界の2020年代という新しい10年を始めた1作は何でしょう? 例えばベルリンに選出されたAlex Piperno アレックス・ピペルモ“Chico ventana también quisiera tener un submarino”は文字通り最初のランナーとなった1作でしょう。しかし個人的な意見ではEmilio Silva Torres エミリオ・シルバ・トレス“Directamente para video”ウルグアイ映画の2020年代、いや私にとってはウルグアイ映画への門戸をも開いてくれた作品でした。あなたの意見はどういうものでしょう?

AAK:思うにウルグアイ映画の最も大きな問題は長い間、本物の流行というものを作ってきていないことです。映画がリリースされ、興業収入ランキングに乗り、新聞にレビューが載ったり、時には映画祭で賞を獲得する。しかし長く続くような印象を観客に与えることができていないんです。ですからこの意味で10年の終わりや始まりを象徴する作品というものについて考えると長くなってしまいます(特に今はコロナウイルスのせいで、こういった観客への波及に制限がかかったりしていますからね)この候補になる作品の中で、一番のお気に入りは“Las vacaciones de Hilda”になるでしょう。“Chico ventana”は素晴らしい才能のある作家が力強い美学とコンセプトを込めた1作ですが、そのフォーマットや構成のせいで論理的すぎるきらいがあり、専門性のある閉じられた枠内でだけ大きく評価されている印象があります。“Directamente para video”は始めこそ興味深いのですが、監督がスタイルにまつわる1つの考えに捕らわれ、そのせいでこういったドキュメンタリーに不可欠な要素を入れ忘れてしまったゆえ、幾ら実験的でありたいとしてもこれでは、といった風です。

TS:ウルグアイ映画界の現状はどういったものでしょう? 外から見るとそれはとてもいいように思えます。Federico Veroijの後にも新たな才能が有名映画祭に現れていますからね。例えばベルリンのAlex Pipernoサン・セバスチャンAgustín Banchero、さらにManolo Nietoは第3長編である“El empleado y el patrón”がカンヌに選出されました。しかし内側から見ると、現状はどのように思えますか?

AAK:楽観はしていませんね。創造性と知性ある人々による革新という意味において自然とウルグアイは良い状態にあります(監督だけでなくPedro LuqueArauco Hernandez アラウコ・エルナンデスDaniel Yafalian ダニエル・ジャファリアンといった技術スタッフも才能ある人々が多くいます)しかし産業や製作システムにおいては映画を現実的な早さで作ることができないという問題が内在しています。補助金が少なければ、ターゲットととなる観客も少ない(ウルグアイの人口は300万人ほどというのを思い出してください)ので、必然的に製作に耐え難いほど時間がかかり、上映する頃には新鮮味が失われる訳ですね。そうして監督たちも十分な量の作品を作ることが叶わないゆえ、私たちもこの国の映画の本質について語ることも、この考えを組み換えていくということもできない状況にあります。失うばかりで得るものがありません。こういった意味でウルグアイ映画は、ウルグアイ映画について真実味を以て語るだけの製作の歴史が、少なくとも20年は欠けているんです。

TS:おそらくこれは曖昧で焦点の合っていない質問ですが、あえてさせてください。あなたにとってウルグアイ映画の最も際立った特徴とは何でしょう? 例えばフランス映画は愛の哲学、ルーマニア映画は徹底したリアリズムとドス暗いユーモアなどなど。ではウルグアイ映画はどうでしょう?

AAK:現時点でウルグアイ映画と一般に関連付けられる特徴はControl Zがもたらした真顔のユーモアと、そしてカウリマスキやジャームッシュから受け継いだような、辛辣かつ酸っぱくも甘い物語様式のブレンドでしょう。問題はこの考え、つまりウルグアイ映画は全部こんな感じだという固定概念がウルグアイの観客にあまりに浸透しすぎて、誰かがある映画にいいレビューをつけると、他の多くの映画がそれを真似し始めるんです。ここ数年そういった小綺麗だけどもぬるい映画が積み上がっていく様を正に目撃しています。フレンチタイプのアコーディオンが背景で鳴り響いている映画を何本も観ました。ある国の映画が辿る道としては興味深さの対極にあるものとしか私には思えません。

文中に出てきた幾つかの作品はレビューを執筆しているのでぜひこちらも。
razzmatazzrazzledazzle.hatenablog.com
razzmatazzrazzledazzle.hatenablog.com
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Z-SQUAD filmmakers and critics poll 2021!!!!!

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ということで、2021年は散々な年だった。コロナウイルスもまあそうなのだが、クローン病という腸の難病だと診断されて、今後一生食事が普通にできなくなった、特に油いっぱい使ってる系のやつと菓子パンが喰えなくなった。そんなわけで、別に命に関わる難病という訳じゃないが、さすがにちょっと死もチラついたので、他人の作品を紹介する映画批評家としての仕事より、自分の作品を残す小説家の方に軸足を置いて活動する1年だった。が、他の日本の批評家さまよりは映画を観て、レビューを書いて、世界の映画作家や批評家にインタビューを行ったとは思っている。そして今日ここにお披露目するのはそんな1年の集大成、Z-SQUAD Filmmakers and Critics Pollである。まず企画説明だが、去年書いたのをほぼ引用する。

年末年始、世界の映画雑誌では批評家や映画作家を集め、その年の映画ベストを集計する記事が掲載される。カイエ・デュ・シネマやSight & Soundといった老舗雑誌からLittle White LiesやDesist Filmといった歴史は長くないながらキレた映画誌までそれぞれに所縁のある人物を集め、興味深いリストの数々を掲載する。ここで知った作品を新年に観るというのも何度かあった。こういうのやってみてえなあ、そうは思いながら別にコネもないのでただ普通の記事を書くだけだった。が、時は来た訳である。私はこの実現のために知り合った人々にメッセージを送ると、特に有名である訳でもないこの鉄腸マガジンのためにリストやコメントを送ってくれた、何とも有難いことだ。

去年はコロナ禍で新作が観れなかったという人物も多かったので、選出できる作品は新作から旧作、長編から短編、フィクションからドキュメンタリーまで何でもありにした。のだが今年も状況はほぼ変わらずなので、これは変わっていない。そしてこれをこの鉄腸マガジンの基本ルールにしていいのでは?と今では思っている。来年やるとしても、多分この感じで行くだろう。なのでまとまりなさはもはや混沌レベル、集計とかも最初の時点でやる気がなかったのでやらなかった。という訳で純粋にそのリスト、映画の並びを楽しんでほしい。

前も書いたが目標はアルゼンチンの映画批評家Roger Kozaが主催するCon los ojos abiertosの総括記事だ。ここはラテンアメリカを中心に世界中の名だたる映画作家や批評家が集結しているゆえ、正に圧巻の風景。今後続けていくにあたって、この鉄腸マガジンZ-SQUADをここまでの規模に押し上げたい。とはいえこのサイト運営は全てにおいて自分1人でやっているので、実際は増えたり減ったりって感じだろう。まあぼちぼち続けていくという感じだ。

そして最後に書かせていただきたい。日本の映画雑誌のベストは日本人だけで構成された時代遅れな単一民族主義みたいな風景ばかりが広がっている。このZ-SQUAD Pollはこれに対するカウンターにはなっていると思う。まあ私は東欧が根城なので東欧ひいてはヨーロッパ過多なのは否めない。若い人々が東南アジアやラテンアメリカ、アフリカの映画作家や批評家を集結させるPollを作ってくれるのを私は願ってる。それでも鉄腸マガジンはいつだって日本にある既存の映画雑誌への幻滅と怒りが原動力だ。ここで日本の映画批評家陣、映画雑誌に礼を言いたい。あなた方が日本語字幕つきで日本の映画館で上映する作品しか取り上げない権威主義、拝金主義、古典主義、そして何よりただただ徹底的にダサい、野心の欠片もない凡であるおかげで、それを反面教師として、この鉄腸マガジンをやってこれた。感謝したい。と!いうわけで、ぜひこの記事を楽しんでほしい。それではどうぞ。

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Sofia Elena Borsani (スイス、“Über Wasser”主演)

“The Tsugua Diaries”
(モーレン・ファゼンデイロ、ミゲル・ゴメス 2021)

「兄が教えてくれた歌」
(クロエ・ジャオ 2015)

“Red Rocket”
(ショーン・ベイカー 2021)

“Summer Planning”
(Alexandru Mironescu 2021)

“Lili Alone”
(Zou Jing 2021)

“Taming the Garden”
(Salomé Jashi 2021)

「世界で一番美しい少年」
(クリスティーナ・リンドストロム、クリスティアン・ペトリ 2021)

“TECHNO, MAMA”
(Saulius Baradinskas 2021)

“Junior”
(ジュリア・デュクルノー 2011)

“Summer hole”
(Moris Freiburghaus 2019)

このリストに載っている映画を繋げるものは、人の脆さ、そして自分の人生に対する責任に宿るのだろう希望というモチーフだと、私は思います。

今年最も好きだったスイス映画“Summer Hole”はどれほどの真実に友情は耐えうるのか?を問う1作です。“Techno, Mama”は強靭な映画的美学と、いつか乗り越える必要のある複雑な関係性の描きこみ、この2つをとても巧く組み合わせた作品と思いました。“Red Rocket”は私を爆笑させながら、それが大丈夫なのか戸惑ってしまう映画でしたね。そして私のベスト1は"The Tsugua Diaries"です。暖かさやワクワクを与えてくれる、映画製作というものへの頌歌でした、特にこのパンデミックにおいては。

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Juan Mónaco Cagni フアン・モナコ・カーニ (アルゼンチン、"Ofrenda"監督)

「メモリア」(ウィーラーセタクン 2021)
“dark light voyage” (dirdamal, 2021)
「小石」(ヴィノートラージ 2021)
「ひかり」(シセ 1987)
「ロンリエスト・プラネット」 (ロクテフ 2011)
悪魔の陽の下に (ピアラ 1987)
ラルジャン(ブレッソン 1983)
「国境の夜想曲 (ロッシ 2020)
“first cow” (ライカート 2020)
「黒衣の刺客」 (シャオシェン 2015)

アルゼンチン映画“piedra sola (tarraf, 2020)

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CHE BUNBUN (日本、映画の伝道師・"チェ・ブンブンのティーマ"管理人)

1.ある詩人(ダルジャン・オミルバエフ、2021)
今年の映画業界最大の事件は、第34回東京国際映画祭ダルジャン・オミルバエフ監督の新作がワールド・プレミアで上映されたことであろう。哀愁と鋭さをもった彼の眼差しは、英語に駆逐され衰退していくカザフ文学界に目を向けられ、読書すれば没入できる広大な大地にまで魔の手が忍び寄る辛辣さを形成する。オミルバエフ監督特有の、ぬるっと夢が侵食する場面の滑稽な禍々しさ含めて力強い映画であった。

2.アンラッキー・セックスまたはイカれたポルノ(ラドゥ・ジューデ、2021)
新型コロナウイルスが国際的に蔓延してから、映画界は「今」をどのように捉えるかを暗中模索していた。その中で生まれた傑作が第71回ベルリン国際映画祭金熊賞を受賞した『アンラッキー・セックスまたはイカれたポルノ』である。ノーマスク、顎マスク、鼻マスクする人で行き交うコロナ禍のルーマニアを淡々と映す第一章から始まり、突如映像のスライドショーが始まる第二章、そして学校裁判が始まる第三章と展開されていく。この歪な構成が、鑑賞後に重要な意味をもってくる。学校裁判の場面でお洒落マスクを装備した人が、セックス動画流出事件を媒体に持論を投げつける。マスク=SNSのアイコンであることを象徴し、SNSの持論による暴力を肉付けするために第二章が存在することに気づかされるのだ。このユニークな構成、マスクをSNSの象徴にするアイデアの面白さに魅了された。

3.洞窟(ミケランジェロ・フランマルティー、2021)
死への欲動をここまで刺激される冒険旅行はないだろう。洞窟の深淵を目指して、少し進んでは立ち止まってポジションを立て直していく連動が面白い。名撮影監督レナート・ベルタの撮影により、闇の中にほっと明かりが灯る美しさと、見えない部分への好奇心が常に刺激され、没入の映画とはまさしくこれのことだと感じた。

4.ドライブ・マイ・カー(濱口竜介、2021)
村上春樹の原作はルッキズムがキツかったり、男らしさのアピールが酷かったりする。それを彼の「シェヘラザード」の引用から始めるところに濱口竜介の鋭さがある。これは千夜一夜物語におけるシェヘラザードのように、男らしさの塊である西島秀俊演じる家福悠介にエピソードを話す、それも多言語演劇を介することでその塊を溶かしていくものとして機能している。原作ものの映画でありながらも批評があり、その上で濱口竜介の会話によるドライブを堪能することができよかった。

5.仕事と日(塩尻たよこと塩谷の谷間で)(アンダース・エドストローム&C・W・ウィンター、2020)
8時間もある本作は、観る人、観る環境によっては地獄の8時間になるだろう。本作は京都の田舎町が舞台の作品であるにもかかわらず、会話を聞き取るのが非常に困難だからだ。まるで留学した時のように、言っていることはよくわからないが、空間でなんとなく状況が分かる感覚を8時間かけて描く。監督の一人アンダース・エドストロームが写真家である為、ショットがどれも美しく、特に仄暗い部屋にある介護ベッドと微かな光の空間に介護する者を配置する構図が圧巻である。土地の長い歴史と、長い人生の終焉をじっくり魅せてくれる怪作である。

6.ディア・エヴァン・ハンセン(スティーヴン・チョボスキー、2021)
人間は誰しも信じたい真実を見ようとしてしまう。SNS時代において、勢いに乗った歪んだ真実はあっという間に拡散する。その人間の気持ち悪さを意地悪に描いたこの修羅場映画は監督がスティーヴン・チョボスキーというところが重要だったりする。『ウォールフラワー』で陰日向にいる者に手を差し伸べた彼が、そのまま心臓を抉りとるような不気味さがあるのだ。精神衰弱しているエヴァン・ハンセンに降りかかる不良生徒の自殺。親族が信じたい真実を押し付けたことにより運命の歯車が回り始め、いつしかクラウドファンディングで偽りの果樹園が爆誕しそうになる展開に爆笑と涙の洪水が押し寄せた。真面目な話をすると、本作はミュージカル映画にありがちなバークレーショット(万華鏡のようにマスゲームを撮る手法)を挿入していないところが素晴らしい。スマホの画面を無数に並べて、肖像を作るバスビー・バークレーの別技術を援用しているところに好感を持った。

7.Exile(Visar Morina、2020)
コソボ映画がここ数年力をつけており、第34回東京国際映画祭では『ヴェラは海の夢を見る』が東京グランプリを受賞、第94回アカデミー賞国際長編映画賞ショートリストに『HIVE』が選出された。私が推したいコソボ映画はEXILEである。パワハラ、セクハラ問題が国際的に白熱しているが、本作は被害者がそこで受けた暴力を別ベクトルにぶつけてしまう加害の面に向き合った作品。職場で嫌がらせを受けている男が、暴力を家族や警察にぶつけてしまう様子を描いている。被害者の意識が強まると視野が狭くなり、理不尽な目に遭っているイメージが強くなる。そのせいで暴力に気づけなくなっていく感覚を生々しく描いているのだ。

8.The Card Counter(ポール・シュレイダー、2021)
ハンガリーのことわざに「逃げるは恥だが役に立つ」という言葉がある。これは「恥ずかしい逃げ方だったとしても生き抜くことが大切」という意味である。ポール・シュレイダーの新作は、カジノ映画にもかかわらず、少し稼いでは逃げる男の話でとにかく安全確保のために危険な賭けにでない。ファム・ファタール的存在も華麗にスルーしていく。でもって運命が彼を闇に連れ去ろうとする。この駆け引きがとても面白く、まさしくポール・シュレイダーの「逃げ恥」といった作品だ。

9.Mr. Bachmann and His Class(マリア・スペト、2021)
日本には3年B組金八先生があるが、ドイツには「6年B組Bachmann先生」がある。AC/DCの服を着てだらしなく授業するBachmann先生に最初こそ不信感を抱く。しかし、彼と生徒の関係を観ていくうちにBachmann先生の魅力に気づかされていく。移民が集まるクラス。モチベーションも人それぞれだ。そこで大事なことは、「自分の言葉で論理的に話す」ことである。徹底的に、「なぜ?」「どうして?」と掘り下げ、生徒に歩み寄る。その過程で生徒たちは外国語であるドイツ語を使って自分の意見を言い、内なるモヤモヤを解消できるようになっていくのだ。これは日本の学校現場でも教科書になり得る重要なドキュメンタリーであろう。

10.映画 おかあさんといっしょ ヘンテコ世界からの脱出!(監督なし、2021)
ここ数年、幼児向け映画が軽視されていることが問題だと思っている。日本ではアンパンマン、しまじろうの映画がたくさん作られているのだが、観ると奥深かったりエンターテイメントとして丁寧に作られていたりする。アート映画の監督がドヤ顔で第四の壁を破っていたりするが、幼児向け映画の世界では当たり前のように使われていたりする。ここに目を向けなくてどうすると私は言いたい。今年は『映画 おかあさんといっしょ ヘンテコ世界からの脱出!』が素晴らしかった。アニメの世界の住人が異世界転送スイッチのようなものを持って、うたのお兄さん、お姉さんたちの元へやってくるがそれが暴発し、四散バラバラとなってしまう。その中には擬似長回しをつかったクイズがあったり、フレームの外側や奥行きを使ったアクションパートなどがある。そして小池徹平演じる門番パートが大人にとっても唸らせられる場面となっている。クイズが出題されるのだが、それが「あなたは犬派?猫派?」といった脈絡がないものだ。これに対して疑問を投げかけると、「そういうルールだから」と開き直る。トップダウンで降りてきたものに疑問を持たない者とそれに対して疑問を持つ者のディスカッションは涙なくして観られないだろう。

【イチオシの日本映画】FRONTIER(服部正、2020)
立教大学大学院映像身体学科の『彼女はひとり』が好評でしたが、自分が注目している作品は服部正和『FRONTIER』である。低予算でSF映画を作ろうとすると、どうしても妥協してしまう。『偶然と想像』第三話「もう一度」のようにテロップでSF的概念を語って済ませることが起こる。しかし、本作は大学院制作の作品でありながら、クリストファー・ノーランの壮大なSF映画に追いつけ追い越せと言わんばかりに美しくも現実っぽくない画を作り、機械も手作り感を思わせない丁寧なものとなっている。確かに荒削りな内容であるが、服部正は将来、日本のSF映画を牽引する人物になるであろう。

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Csiger Ádám ツィゲル・アーダーム (ハンガリー映画批評家)

映画という意味で、私にとって2021年はいい年ではありませんでした。パンデミックに個人的なイベントに(娘が生まれたのが1番の出来事でした)私は今までも平均的な映画マニアのリストには全く敵わないリストしか作ってきませんでした。しかしおそらく普通すぎるからこそのユニークさもあると思い、今年もリストを作ってみました。ここで要約すると、今年は落胆の年でした。いい意味でも、悪い意味でも。M・ナイト・シャマラン「オールド」ジェームズ・ワン「マリグナント 狂暴な悪夢」エドガー・ライト「ラスト・ナイト・イン・ソーホー」などには期待していましたが、全部期待外れでした。それでも5つのポジティヴな落胆について見ていきましょう!

「最後の決闘裁判」(リドリー・スコット、2021)
初めてのセット写真を見た時、ベン・アフレックマット・デイモンの髪型にゾッとしました。しかしこの羅生門方式の1作は迫真性があり、緊迫して、感情に満ち、そして今日的なんです。リドリー・スコットという生けるハリウッドの巨匠によって成される古典的映画製作の結実です。

「DUNE 砂の惑星(ドゥニ・ヴィルヌーヴ、2021)
最初、良作になるとはとても思えませんでした。「メッセージ」はここ10年でも最良の映画の1本だと思う一方で、同じくヴィルヌーヴブレードランナー2049」は嫌悪していて、今作もただただ退屈なのではと恐れていたんです。しかし今作はスクリーンへと正しく投影された、SF小説の映画化でも最良のものとなっていました。

「ノー・タイム・トゥー・ダイ」(キャリー・フクナガ、2021)
馬鹿げたタイトルのせいでダニー・ボイルと決裂したのは先行き不安でしたが、最終的にはダニエル・クレイグ版でも(私にとって)ベストなボンド映画となりましたね。私自身ボンドファンではないですが、こんな物語は100万回見たにも関わらず驚くほど楽しい時間を過ごせました。

「フリーガイ」(ショーン・レヴィ、2021)
ビデオゲームの構造というものがスクリーンに映しだされるのを観るのは楽しかったですね。そういえばオール・ユー・ニード・イズ・キルも好きでした。今作はそれと同じくらい良かった訳ではないですが、この年でも最もオリジナルで、だからこそ最高にエンタメな娯楽大作でしたね。

「プロミシング・ヤング・ウーマン」(エメラルド・フェネル、2021)
失敗も幾つかあって、脚本に小さな問題があると私は感じた(皮肉なことにオスカーで賞を獲得しましたが)んですが、いわゆるレイプリベンジ映画への現代的なアプローチという今作を好きでいないのは難しいことでした。

2021年のハンガリー映画"Natural Light" (nes Nagy, 2021)
ベルリンで監督賞を獲得した1作であるこの映画は、ハンガリーにオスカーをもたらしたサウルの息子のインスパイア元となったソ連映画「炎628」(エレン・クリモフ)への解答の1つともなっています。

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Jon Davies ジョン・デイヴィス (USA, “Topology of Sirens”監督)

5つの新作

1.「ドライブ・マイ・カー」(濱口竜介)
あらゆるところで語られ、もう言うべきことは少ししかないですが、今作は他の“明白な”賞以上に、2021年において最も素晴らしい音響デザインと評される1作だとは明記する価値があるでしょう。

2.「仕事と日(塩谷の谷間で)」(C.W.ウィンター & アンダース・エドストローム)
巨大であるのと同じくらい静かな1作であり、記録されているのは人生の終りだけでありながらも、人生全てを経験したように思えるんです。

3. “Short Vacation” (Kwon Min-pyo, Seo Han-sol)
私の好きな廣木隆一作品の数々、それはつまり登場人物たちがただ歩きながら写真を撮っていくなんて作品を思い出しました。監督たちがここで成し遂げていることには深く嫉妬してしまいます。事も無げに高められた自然主義が、登場人物たちの受け継いだ世界をほどいていき、ファンタジーを煽ることは全くないままに、魔術的リアリズムの感覚を染みださせていくんです。

4. “Winter's Night” (Jang Woo-jin)
夜、くるくると歩いていく。それは一夜だけのこと、もしくは幾つもの夜を跨いでいるのか? 観てからしばらく経つのに、今でもその捉えどころない、不気味な感触に動揺しています。

5.「偶然と想像」(濱口竜介)
第2話、ある登場人物がモノローグとしてフィクションを朗読する。この場面は濱口作品で私が好きなものを象徴しています、つまり俳優たちの演技に彼がもたらす抑揚です。ある女優と共演者が対立的な官能性に直面し、突然ほとんどロボットのような存在となってしまうと。

5つの旧作

1.“VERTICAL FEATURES REMAKE” (ピーター・グリーナウェイ)
陳腐で乾いているのに、私たちを取り囲む世界における神秘的というアイデアを指し示しているようです。こういったのはあまり見たことがありません。

2. “Christmas, Again” (Charles Poekel)
煩いだけなカサヴェデス研究の成果を越えて、マンブルコアという潮流からこういった静謐と熟考こそ選びとる作品が現れており、心が暖まりました。

3.「愛と平成の色男」(森田芳光)
1人の女たらし、昼は女性しか雇わず患者にも受け入れない歯科医を経営、夜はサックス奏者として月光を奏でる。そんな奇矯なコンセプトだけでもこのリストに入るに相応しいでしょう。しかし今作はその攻撃的な滑稽さを越えて「卒業白書」のような思慮深い1作ともなっているんです。

4.「(ハル)」(森田芳光)
森田は間違いなく今年最良の発見でした。バーチャルな恋愛にまつわる最も信頼性ある1作、最も“90年代的な”映画の1本でしょう、たぶんいい意味で。

5.夏至(トラン・アン・ユン)
雨の日に観る映画として完璧です。

今年はおそらく韓国ドラマを映画よりも長く観ていた年でした。私のシネフィル的生活にこれも不可欠だったので、簡潔にですがここにトップ5を挙げる必要があるという訳ですね。

1.「マイ・ディア・ミスター〜私のおじさん〜」
笑って泣いて、その狭間にある全てを体感しました。IUイ・ソンギュンは完璧な主演コンビですね。去年観たどの映画よりも良かったです!

2.「恋のスケッチ~応答せよ1988~」
ああ、甘いノスタルジー!何度もこれは80年代に撮られたんじゃないかって思いました。

3.「恋愛体質~30歳になれば大丈夫」
チョン・ヨビンは今活躍中の女優でも大好きな1人になりましたね。

4.「それでも僕らは走り続ける」
ロマコメのお約束を思慮深いまでに押しあげる1作です。

5.「ヒーラー〜最高の恋人〜」
プロット重視の物語が上手くいったなら、ここまでの力を持つというのを思い出させてくれましたね。力強い!

そして今年1番のアメリカ映画はRob Rice監督作“Way Out Ahead of Us”です。プレミア上映は2022年ですが先に観る機会があり、最近観たどんなアメリカのインディーズ映画よりも素晴らしかったので、今後注目されるべきと思ったんです。カリフォルニアの田舎町にある小さな共同体を描く自由奔放な映画であり、初期のハーモニー・コリンが体現しながら、今は失われてしまったように思われる、アメリカ産インディーズ映画の血統にある作品なんです。

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Flavia Dima フラヴィア・ディマ (ルーマニア映画批評家・映画祭プログラマー)

年末において悩ましいことといえば、それぞれ異なる映画リストを送る必要があるということです。Roger Kozaが毎年開催する壮大なLa International Cinefiliaにも私はリストを送っていて、これをコピペすれば事は早く進むと分かっています(実際にそういう風にリストを再利用している人もいるでしょう)しかし第一にそれは怠惰ですし、何より頗る退屈です。

なので、ここには今年観た旧作のリストを送ろうと決めました。今年は映画祭における回顧上映にはあまり参加できませんでしたが(あるとっても明白な理由で)代わりに、私たちにとって古くからの愛しい友人であるCinemateca Eforie チネマテカ・エフォリエに、ここ4年では最も多く通いつめることになりました。

リストを載せる前に1つだけ。2020年という悪夢の只中、私が自分自身に言い聞かせたのは“パソコンの液晶画面で旧作を観て、映画体験を台無しにするのは止めよう。シネマテークが再開するのを待とう”ということでした。そして、この選択は正しかったなと思います。シネフィルとしての人生において、家での映画鑑賞以前以後で映画というものが分断されたかに、私は今最も意識的となっています。30年代の映画を家で観るというのは、想定されていた鑑賞法で観るのを否定する以上のものなんです。現象学的な意味で映画を殲滅しているんです(ここにおいて私は、シネフィル的人生のごく初期に家で観ていた映画を、やっと大きなスクリーンで観ることで“修正した”んです)

こういった訳で、下に載っている監督名簿は伝統的な聖典にかなり重なるものと感じられるでしょう。正直にいえば、それはルーマニアや、そのシネマテークみおける回顧上映のプログラムがほとんどの場合と同じく保守的だからなんです。しかしこのリストを作るという作業においては、大きなスクリーンで鑑賞した映画にこだわろうと思いました。それは映画という子宮にやっとのことで戻れた2021年、その最後における、象徴的な行為でもあります。世界の原子化が進行していく中で、映画体験の共有が存続していくための砦、そこで勇気ある戦いは確かに続いているのだと思うために。

2021年に(再)鑑賞した古典映画ベスト10
1. “The Long Day Closes” (監督:テレンス・デイヴィス、1992)
2.「大いなる幻想」(監督:ジャン・ルノワール、1939)
3.ニノチカ(監督:エルンスト・ルビッチ、1939)
4.「はなればなれに」(監督:ジャン=リュック・ゴダール、1964)
5.赤ちゃん教育(監督:ハワード・ホークス、1938)
6.「満月の夜」(監督:エリック・ロメール1984)
7.マルホランド・ドライブ(監督:デヴィッド・リンチ、2001)
8.ブエノスアイレス(監督:ウォン・カーウァイ、1997)
9. “Bildnis einer Trinkerin” (監督:ウルリケ・オッティンガー、1979)
10. Das Lied der Ströme” (監督:ヨリス・イヴェンス、1954)

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Arman Fatić (ボスニア, 映画批評家・小説家)

1.「ある結婚の風景」(ハガイ・レヴィ)
2.「アンラッキー・セックスまたはイカれたポルノ」(ラドゥ・ジューデ)
3.「偶然と想像」(濱口竜介)
4. “The Worst Person in the World”(ヨアキム・トリアー)
5. 「Hand of God -神の手が触れた日-」(パオロ・ソレンティー)
6. “Juste un mouvement” (Vincent Meessen)
7. “Petite maman (セリーヌ・シアマ)
8. “Landscapes of Resistance” (Marta Popivoda)
9.「世界で一番美しい少年」(クリスティアン・ペトリクリスティーナ・リンドストロム)
10. “Bergman Island” (ミア・ハンセン=ラブ)

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Jela Hasler イェラ・ハスラー (スイス、"Über Wasser"監督)

外国映画

  • A l’abordage (All hands on deck) by ギョーム・ブラック、フランス 2021
  • A night of knowing nothing by Payal Kapadia, インド 2021
  • Herr Bachmann und seine Klasse (Mr Bachmann and his class) by マリア・スペト、ドイツ 2021
  • Hayaletler (Ghosts) by Azra Deniz Okyay、トルコ 2020
  • North Pole by Marija Apcevska北マケドニア 2021
  • Selfie by Agostino Ferrente、イタリア 2019
  • The Coast by Sohrab Hura、インド 2021
  • The Moon, 66 questions by Jacqueline Lentzou,、ギリシャ 2021
  • This day won’t last by Mouaad el Salemチュニジア 2020
  • Titane by ジュリア・デュクルノー、フランス 2021

スイス映画

  • Les Nouveaux Dieux (The New Gods) by Loïc Hobi, 2020

このリストは間違いなく不完全ですが、これからも私と共にあってくれる、そして映画や世界の見方を変えてくれるとそんな映画を選ぶよう最善を尽くしました。そういった作品はもっとあり、そんなことは多くは起こらないので素晴らしかったですね。という訳で映画を観て経験するということにおいて、2021年は私にとってとても良い1年でした。

今年はあまり多くのスイス映画は観なかったので、この選出はかなりトリッキーです。それでも来年は2021年に制作されたスイス映画を観るチャンスがあればと思います、面白い映画はたくさんありますからね!

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Mariana Hristova マリアナ・フリストヴァ (ブルガリア映画批評家)

ここに挙げた映画は私の好みという風で、必ずしも“ベスト”という訳ではなく、互いに比べるというのも難しいです。なので2021年に私が感銘をうけた10作+1作ということにしておきます。

1. The North Wind (ロシア, 2021, Renata Litvinova)
2. France (フランス, 2021, ブリュノ・デュモン)
3. The Worst Person In The World (ノルウェー, 2021, ヨアキム・トリアー)
4. Petrov’s Flu (ロシア, 2021, キリル・セレンブレニコフ)
5. Celts (セルビア, 2021, Milica Tomović)
6. The Winged (Armenia, 2021, Naira Muradyan, アニメーション短編)
7. Sandra Gets a Job (エストニア, 2021, Kaupo Kruusiauk)
8. Forest – I See You Everywhere (ハンガリー, 2021, ベネデク・フリーガウフ)
9. Acariño galaico (de barro) (スペイン, 1961-95, José Val del Omar, 実験短編)
10.  Passacaglia y fuga (アルゼンチン, 1975, Jorge Honik, 実験短編)

ブルガリア映画ベスト:“January” (Andrey Paounov)

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今野芙実 (日本、映画ライター)

今年のTOP10は順不同で、新作と旧作を分けずに選びました。

フリー・ガイショーン・レヴィ/2021)
Mr.ノーバディイリヤ・ナイシュラー/2021)
コレクティブ 国家の嘘アレクサンダー・ナナウ/2019)
アデューマティルド・プロフィ/2019)
ヒポクラテスの子供達トマ・リルティ/2014)
奇跡是枝裕和/2011)
音のない世界でニコラ・フィリベール1992)
ノーマ・レイマーティン・リット/1979)
SF核戦争後の未来・スレッズミック・ジャクソン1984
アルジェの戦いジッロ・ポンテコルヴォ/1966)

SNSで映画情報を集めるようになってから「こういう映画なんだろうな」と予測した上で確認するかのような鑑賞の流れになってしまうことが増え(もちろんこれは単純にデメリットというわけではないのですが!)、事前のイメージというものから自由になることの難しさを常に感じています。

そんな中で、ベストに挙げた映画はいずれも「確認」にならなかった作品だったな、とこうして並べてみたことで気づきました。特に旧作で選んでいるものは、いずれも「見たときに初めて」私はこういう映画が見たかったんだ、と目の前がパッと開けていくようなそんな喜びが得られた作品です。

映画はたくさんの人が見て、たくさんの人が評価を下すもの。もともとレビューを読むのが好きな私は、ある程度そこでの「今のコンセンサス」を理解し、誰が何をどう評価する/しないかについては(それなりに)納得していることがほとんどです。でも「そのときの自分が必要としているのはどんな映画なのか」だけは、心を動かされた瞬間に初めてわかるものなのですよね……ってまあ、当たり前のことなんですけど。その原点に立ち戻れるような作品に、2022年もたくさん出会えるといいなと思っています。

1つだけ具体的に「今だから」出会えて良かった、という作品の話をしましょう。良かったらベスト邦画も挙げてね、というリクエストもいただいてたのでちょうどよさそうな話。

是枝裕和監督の『奇跡』は製作された2011年当時には全く食指が動かない映画でした(そもそも私はもともと是枝作品自体の甘さが苦手で、あまり興味がなかったので……)。ところが、この映画の主な舞台になっている鹿児島に東京から引っ越してきて5年目を迎えた私には、ものすごく特別な作品になったのです。

ここに映っている世界ーー駅、道路、火山、こどもたちの制服、かるかん、商店街ーーは、今の私にとっては本当に身近で、よく知っているものです。けれど、公開されていた時には自分にとってそうした親しさを覚えるものだとは「知るよしもなかった」ものなのだということが、映画の中でこどもたちが「永遠に続くものはないし、続かなくたっていいんだ」を無意識に学び取る様子と重なって見えたんですね。結果として「時は流れる」という当たり前のことに胸がいっぱいになって、涙が止まらなくなってしまいました。

映っている世界は10年前なので今私が見ている景色とは少しずつ違っている。それに、このとき幼い目的のために全力疾走していた子役たちの中から何名かが「若手俳優」として活躍している「今」の姿を知っている。そんなこともすべて時の流れについて考える理由になりました。

知っているけれど、知らないものが映っている。懐かしいのに新しい、新しいのに懐かしい。個人的な背景抜きに語ることができない。自分でも気づいてなかった感情に触れてきた映画は、ときとして「映画以上」の存在になるーーそんな経験ができたことは、とても幸せだと感じています。

未来の自分は常にわからないもの。既に見た最近の映画も、これから見るかもしれない有名な旧作も、まだ作られていない未来の映画も「見るときの自分にとってその映画が響くタイミング」かどうかだけは、見るときまで決して本人以外にわからないもの。今、大して興味がない映画も、いつかあなたに本当の意味で「出会う」日を待っているかもしれません。

批評を本業にする人がこうあるべきとも思いませんし、表現面での一定の標準をクリアしているかの指標はあるべきと考えていますが、この体験を経たことで「自分がどんなふうに映画を見ていきたいのか」が定まってきた気がしている2021年最後の夜です。

ちなみにドラマでは『真夜中のミサ』マイク・フラナガン/2021)が素晴らしかったです。照明の的確さという点でこれ以上に驚かされた作品はありません。ここまで語ってきたこととは全く逆方向になるんですが(あれ?)、こちらは描かれていること以上に「ひたすら巧みな話術を堪能できる」という点で最も純粋な喜びを得られた作品でした。

てなわけで、2022年も謙虚かつ図々しくあーだこーだと「どこまでも個人的な感情の反射」としての映画感想を言っていきたいなと思っています!

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Katerina Lambrinova カテリナ・ランブリノヴァ (Bulgaria, film critic)

1.「ドライブ・マイ・カー」(濱口竜介):その喪失と孤独にまつわる、深遠ながら感情の面で節制された語りを評して。
2.「ロスト・ドーター」(マギー・ジレンホー):その女性たちをめぐる普遍的なテーマに対する優雅な心理的アプローチを評して。
3.ヴェルヴェット・アンダーグラウンド(トッド・ヘインズ):その純粋で剥き出しの前衛に対する讃歌であることを評して。
4. “The Worst Person in the World”(ヨアキム・トリアー):30代における愛と生活への陽気でエレガントな姿勢を評して。
5.「見上げた空に何が見える?」(アレクサンドレ・コベリゼ):その悲喜劇と不条理に満ちた、詩的な映画世界を評して。
6. “January” (アンドレイ・パウノフ):そのYordan Radichkovによって執筆されたブルガリアにおける現代の古典戯曲への大胆なまでに超現実的な解釈を評して。
7.「二月」(カメン・カレフ):その存在に調和を与える技巧を評して。
8. “February”(Laura Wandel):その力強い映像スタイルと大胆なテーマを評して。
9. “The North Wind” (Reneta Litvinova):そのバロックで退廃的なおとぎ話のスタイルを評して。
10. “Divas” (Máté Kőrösi):その私たちの世代の誠実な肖像を評して。

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Dora Leu ドラ・レウ (ルーマニア映画批評家・Film Menu編集)

「ドライブ・マイ・カー」 (2021, 濱口竜介)
このリストに載っている他の映画は頭に浮かんだ順に記したものですが、この「ドライブ・マイ・カー」に関しては今年1番好きだった映画と、安心して言うことができます。もちろんそれは私が村上春樹の大ファンであることが主な理由なんですが(まあミーハーですね、言われなくても分かってます)これと同時に濱口は村上作品の魂を本当の意味で捉えることのできるとても少ない監督の1人で、西島秀俊は村上作品によく出てくる主人公の視線や振舞を、私が想像していた通りに実現してくれる人物だと思いました。そして西島はとても村上的な、教養ある男の内的な憂鬱を完全に体現してもいますね。村上は文学というメディア独特のギミックをよく使うゆえに、その作品を映画化するのは普通とても難しいことです。それを頗る満足いくように成し遂げている点で濱口は称賛されるべきでしょう。「ドライブ・マイ・カー」はエッセイ的な映画とはならないままに、コミュニケーション、言語、そしてテキストに関する聡明な映画となっています。長台詞こそが傑作を作る、ロメールも私たちに教えてくれていたでしょう。そして濱口は2021年を生きる現代的な人々を描くのも長けていると思いました、彼の対話はとても自然で今と深く共鳴しているという意味で。結論として、濱口は、必ずしも革新的ではないにしろ、保守的などではない現代の生き方をめぐる傑作を作りあげたと言えます。

ここからは特に順序はなく、頭に浮かんだ順です。

「カム・ヒア」(2021, アノーチャ・スイッチャーゴーンポン)
この映画は2021年の始めに観たんですが、忘れ難いほど美しく今でも心に長く残っています。若者グループがカンチャナブリーという町へ赴き、歴史的な悲劇が起こった鬱蒼たる森を彷徨います。詩的で実験的、常に境界線上にある映画で、ここでは現実と夢は空間が変化するごとに織りあわされていきます。水上住宅から現代のバンコクへ、劇場のようなスタジオからアーカイヴ映像に現れる動物園へ。人生がランダムですり抜けていく、出来事の集合体のように思えてくるんです。「カム・ヒア」における形式の厳格さは観客を映画の本質と真剣に向き合うよう誘うんです。

「家族の波紋」(2010, ジョアンナ・ホッグ)
監督のベスト映画という訳ではないですが、これは"The Souvenir Ⅱ"以外では前に私が観たことがなかった1作で、今まで観てこなかったことに自分で驚くような1作でした。今作の主演はまだ爆発的な人気を獲得していなかった頃のトム・ヒドルストンであり、イギリスの上流階級が過ごす穏やかな生活、その単調なリズムというものが描かれています。機能不全に陥った家族や特権性を、寡黙ながら強烈に批判するとともに、ゆっくりと燃えたぎる速度で綴られる静かで緊迫感ある美しさは正にジョアンナ・ホッグの作品というべきものです。"The Souvenir Ⅱ"の枠に今作が入っているとも言えますね。前作の「スーヴェニア 私たちが愛した時間」は正に傑作でしたから、これもきっと好きになるでしょう。

"To the Moon" (2020, Tadhg O’Sullivan)
月とその美を祝福する私的映画に、また1つ素晴らしい作品が増えました。監督は世界中のアーカイブ映像とオリジナルな映像を合わせ、月がいかに時代と文化を越えてきたかについて観客に静かに考えさせる、とても感動的なエッセイ映画を作りだしました。ジョイスベケットなどの古典的な作家から、より最近の詩や音楽まで引用しており、とても博学な1作とも言えます。そして人と映画を1つにする美しいトランス、仙薬のような作品でもあります。そして今作が特に琴線に触れたのは、私がアイルランド映画が大好きだという他にも、子供の頃に母が歌ってくれた子守歌を想いださせてくれるからなんです。

「彼女と彼」(1963, 羽仁進)
私は羽仁の後期作がより好みで、この映画は今まで観たことがなかったんです。他の作品よりは大人しめなのは当然ですが、今作では甘さ、穏やかさ、それにペシミズムと政治性が興味深く組み合わさっているんです。演出も素晴らしく濃厚に60年代を感じさせる、家庭生活をめぐる繊細な肖像画と言えるでしょう。ジェントリフィケーションや階級差についてのメッセージは今に思い出される必要があるものと私は思います。そして深く共感できる人物ではないにしろ、左幸子演じる直子には印象的な場面が幾つもあります。山下菊二の伊古奈さんと犬たちには泣かされましたね。ああ、世界というのは何て惨めなんでしょうか。

"Compartment no.6" (2021, ユホ・クオスマネン)
思うにこのリストにももっとクオリティの高い映画は幾つもありますし、今作は傑作という訳ではありません。しかし電車で長距離旅行をする時に"Voyage, voyage"を聞きながらこの、2人の男女が巡り会うという古典的なお約束をめぐる軽やかでスウィートなコメディを思い出さざるを得ませんでした。Yuriy Borisovはこの役を笑えるものにしてくれた、頗る才能ある俳優でしょう。東欧人としてはああいう人物はあるあるといった感じで更に笑えました。激しい吹雪を越えてペトログリフを見に行くというのが、美しく理想的なことというのもここで証明されましたね。

「アヘドの膝」(2021, ナダヴ・ラピド)
怒りと苦痛に満ちた悲鳴を挙げた時感じるアドレナリンを思わせる1作です。劇中でも、砂漠の丘に立つ主人公がこれと同じようなことを凄まじい形で行っていました。作品と作品の間で、映画監督は外的な要因の数々によって個人的な不満を抱えることになってしまう訳ですね。今作は幾度となく政治的なものとなりながら、イスラエルを越えて、より普遍的な視点での検閲についても映画ともなります。"自分の立つ場所が敵意しか呼ばないなら、自分はどんな存在になっていくのか?"というのが今作がもたらす問いの1つでしょう。そして"これにどう抵抗するか、そしていつかその抵抗に疲れ果ててしまったとするなら?"というのがもう1つの問いでしょう。

「アンラッキー・セックスまたはイカれたポルノ」(2021, ラドゥ・ジューデ)
この映画について長い記事を書いたので、もう殆ど言うことがないです。笑えて、論争を呼んで、しかも冒涜的? 他に? そりゃルーマニア的でしょう!

「ルクス・エテルナ 永遠の光」(2019, ギャスパー・ノエ)
映画館が再開してから、まず初めに観た映画の1本ですね。この映画が何についてかなんてどうでもいいでしょう。強いて言うなら、映画そのもの? そしてとてもギャスパー・ノエという感じで、観客への凄まじい強襲です。構造映画を思い出させる1作でもあり、強烈な頭痛とともに映画館を後にしました。あの映画にイライラさせられるのは快感でしたね。

「ウォールデン」(1968, ジョナス・メカス)
これは再見作なんですが、暗い暗い時代における解毒薬になってくれる1作でしたね。ジョナス・メカスはもう紹介する必要ないでしょうし、このリストに載せるべきはスポットライトの当たるべき、他のもっと無名な映画作家だとは思います。しかしメカスに戻ってくるたび、彼の映画がいかに啓示的であるか再確認するんです。純粋さ、人生、そして映画にまつわる鋭敏なセンスがありますよね。「ウォールデン」とその日記的なスタイルは今年の私にとって、際立ったインスピレーションとなってくれました。今生きている時代に意味を見出そうと試み、自分の作品を作ろうとしていた私は、世界や私の周りにいる人々を撮影し、だからもう彼らを失うことはないと思えるようになったんです。私が深く信頼を置いているこういったパーソナルな映画は、私たちの世代により共鳴するのではないかと思うんです。何故って私たちはカメラを手にして生まれてきたようなもので、全てを映すことが本当に簡単になってきていますから。「ウォールデン」は、私の大切な人が亡くなった時、とても平凡なものこそ、実際はそうではないから撮っておくべきと彼が勇気づけてくれたことを思い出させてくれた1作でもあります。手遅れになる前に行って、撮るべきなのだと。

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Thomas Logoreci  トーマス・ロゴレツィ (アルバニア、映画監督・批評家・プログラマー)

2021年はまるでスローモーションの飛行機墜落のようでしたが、今年最も私が誇れる達成は、チリの映画作家ラウル・ルイスの作品へと飛びこんでいったことです。長年、彼の作品は、未完成作も含めて全く手に負える量ではなく、圧倒されてきました。しかし世界に響きわたるノイズを掻き消すため、私はこの12ヶ月間ルイスの作品や執筆した文章、レクチャー、インタビュー、日記までも深く読み込んでいきました。このラウル・ルイスという魅惑的で、私を狂わせるような迷宮に迷いこむ、これこそが魔術的で神々しい、私にとっての達成でした。

2021年を耐えられるくらいマシにしてくれた10本の新作と旧作

Albert, Berger (Philippe Van Cutsem、ベルギー、2021)
Can't Get You Out of My Head (Adam Curtis、2021、イギリス)
Freestyle to Montenegro (Ardit Sadiku、2021、アルバニア)
Hive (Blerta Basholli、2021、コソボ)
「不思議なクミコ」(クリス・マルケル、1965、フランス)
Letter to the Editor (Alan Berliner、2019、アメリカ)
Little Palestine (Diary of a Siege) (Abdallah Al-Khatib、2021、レバノン/フランス/カタール)
「メニルモンタン」(ディミトリ・キルサノフ、1926、フランス)
Three Crowns of the Sailor (ラウル・ルイス、1983、フランス)
Terra Femme (Courtney Stephens、2021、アメリカ)

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Jurgis Matulevičius ユルギス・マトゥレヴィチウス (リトアニア, “Izaokas”監督)

1. ギャスパー・ノエ - “Vortex”
2. ヴィタリー・マンスキー -「太陽の下で -真実の北朝鮮-」
3. アンドレア・アーノルド -「アメリカン・ハニー」
4. ツァイ・ミンリャン -「日子」
5. クロエ・ジャオ -「ノマドランド」
6. Juri Rechinsky – “Sick fuck people”
7. Saulė Bliuvaitė – “Limousine”
8. ヤスミラ・ジュバニッチ -「アイダよ、何処へ?」
9. モハマド・ラスロフ -「悪は存在せず」
10. Wojciech Smarzowski – Clergy

これが私の2021年のベスト10です。皆が、時間を取ってこの美しい映画たちを観てくれたらと思います。解説は批評家に任せます。

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Andrjia Mugoša アンドリヤ・ムゴシャ (モンテネグロ、"Ječam žela"監督)

これが2021年のベスト映画です。良かった悪かったという順番ではなく、頭に浮かんだ順番です……

2021年を振り返るにあたって、まず最初にお勧めしたいのはキャリー・ジョージ・フクナガ監督のビースト・オブ・ノー・ネーション(2015)ですね。なぜ今年まで私がこれを観てなかったのか、神のみぞ知るですね。しかし新しい007を観る準備としてその作品に親しむため、今作も観たんです。まるで現代の「炎628」(エレン・クリモフ)を観たようで、"何てこった!"といった感じでした。

2作目は今年制作の"Pig"ですね。Michael Sarnoskiのデビュー長編ですが、映画界への何という登場の仕方でしょうか。ニコラス・ケイジは今もやはり巧みな演技を魅せてくれますね。そしてこのSarnoskiという監督は今後も作品を追っていくべき才能ですね。

3作目はクリスティアン・ペッツォルト「未来を乗り換えた男」です。今年初め、彼の作品を発見したんですが、今作は私にとって現代のカサブランカですね。今作の後にペッツォルトの作品群を観ていって、映像も語りも頗る興味深いスタイルを持っていると感じました。彼の作品を観れば間違いはないですね。それでも1本選ぶなら「未来を乗り換えた男」です。

4作目はValdimar Jóhannsson"Lamb"ですね。このリストにおけるもう1本のデビュー長編ですね。2021年でも特にユニークな映画でした。親であるということにまつわる、とても勇敢で、驚くほど奇妙な1作なんです。それ以上のものでもあるでしょうね。

5作目は今年のベストドキュメンタリーであるFirouzeh Khosrovani"Radiograph of a Family"です。2020年のIDFAで作品賞を獲得しており、写真とアーカイブのみでこんなにも力強い物語を描けるなんてと本当に驚きです。

6作目はパオロ・ソレンティー「The Hand of God」です。ソレンティーノについて語る時は客観的になれません。何故って私はおそらく「ヤング・ポープ 美しき異端児」の最も熱烈なファンの1人、それから彼の演出スタイルについてもです。なので「パワー・オブ・ザ・ドッグ」とともに今作は私のために作られたような映画です。そして今までもベストのNetflix制作映画でしょうね。

そして今年観た古典に移りましょう。

「火葬人」(ユライ・ヘルツ 1969)
第2次世界大戦時の中欧、ある狂った火葬人が、火葬は現世の苦痛を和らげるものと信じ、世界を救おうと試みる、そんな1作です。ドイツの表現主義や、シュヴァンクマイエルを思わすゴシック建築の不条理性に明確に影響を受けている作品で、どのイメージも丹念に組み立てられ、目に突き立てられる刃のようでもあります。クエイ兄弟の作品も思いだしました。映画史において最も印象に残る編集でもあります。

アメリカの影」(ジョン・カサヴェテス 1958)
言葉では今作を表現できません。そして映画ではなく、あらゆる意味においてジャズなんです。

そしてここからはバルカンの映画を紹介しましょう。

「アイダよ何処へ」(ヤスミラ・ジュバニッチ 2020)
殺人を直接見せることなく、虐殺というものの感覚を描いています。

"Ples v dezju" (Bostjan Hladik 1961)
間違いなくスロヴェニアで最も素晴らしい映画ですね。

そしてモンテネグロ映画ですが、1本だけは選べべず2本選ばざるを得ませんでした。2作とも長編デビュー作です。
"Elegy of laurel" (Dušan Kasalica 2021)
"After Winter" (Ivan Bakrač 2021)

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Jaume Claret Muxart ジャウメ・クラレ・ムシャルト (スペイン、"Ella i jo"監督)

ベスト10
1. クリスティアン・ペッツォルト監督の作品群
2. マニ・カウル監督の作品群
3.「ザ・デッド/『ダブリン市民』より」(ジョン・ヒューストン 1987)
4. ギイ・ジル監督の作品群
5. "Bergman Island" (ミア・ハンセン=ラヴ 2021)
6. "Benediction" (テレンス・デイヴィス 2021)
7. "The Souvenir II"(ジョアンナ・ホッグ 2021)
8. "If It Were Love" (Patric Chiha 2020)
9.「ホーム/我が家」(ウルスラ・メイヤー 2008) & "La maison de la radio" (ニコラ・フィリベール 2013)
10. "Tre Piani" (ナンニ・モレッティ 2021)

  1. α「あなたが欲しいのはわたしだけ」(クレール・シモン 2021)

このリストにおいて、2021年に発見した映画作家に関して1本だけ選ぶというのは無理というものでした。彼らの映画を1本に、彼らの成した仕事をたった1本に集約するなんて考えられません。そうして、クリスティアン・ペッツォルトマニ・カウルギイ・ジルといった映画作家たちの作品をこの12か月のうちに総覧したという訳です。

ペッツォルトに関して、これらの映画はもう既に観ていました。「水を抱く女」(2020)、「あの日のように抱きしめて」(2014)、「東ベルリンから来た女」(2012)の3作です。しかし今年その前の作品をとうとう観ることができ、更に上述の3作も再見しました。そんな時は時々起こることですが、1人の監督が私が作る映画にとって本当に重要であったと再認識することとなりました。振り返れば去年、そんな人物はペッツォルトと同じベルリン派のアンゲラ・シャーネレクでしたね。「イェラ」(2007)や「幻影」(2005)、「治安」(2000)を観るのはどんな映画監督においても、素晴らしいレッスンになるでしょう。個人的には映画的な身振り手振り、登場人物それぞれの動きや視点を彼がどう描いているかに、特に興味があります。そしてもう1つが古典的な物語構成を持ちながら、望むならそこから自由になる、その絶妙さです。

もう1つの素晴らしい発見は2021年の最初に起こりました。 外出許可証をごまかし、コロナの外出禁止令を避けてバルセロナに行ったんですが、Filmoteca de Catalunyaがその時に、羨むほどの詩情と自由を持つインドの映画作家マニ・カウルの回顧上映をしていたんです。Revista LumiéreのFrancisco AlgarinCarlos Saldañaのおかげでプリントの保存状態は全てとても良好で、上映は生演奏つきでした。この旅路は魅力的な"Uski roti"(1970)、その白と黒、そして霧のコントラストから始まったんです。

他方、今年でも随一に素晴らしかった上映は同じくFilmoteca de Catalunyaで行われたジョン・ヒューストン「ザ・デッド」(1978)でした。ここにおいては言葉と感情が全てなんです。35mmプリントの美しさ、色彩、映画から現れるクリスマスの雰囲気は全て驚異的で、映画館から出て歩いている時も、自分たちは映画のなかにいるのでは?と錯覚してしまうほどでした。

ギイ・ジルに関しては予期せぬ出会いでしたね。ヌーヴェルヴァーグから遥か隔たった、全く未知の映画作家で、今やっと光が当たり始めている人物です。Filmoteca de Catalunyaは2月に作品の回顧上映を行ったんですが、同時代の作家に比べ活力に満ち、自由で、よりエモーションに溢れた、恐るべき子供による映画だと思いました。編集は衒学的で大袈裟ながら、それにも関わらず深遠で輝かしいんです。

2021年はとても良い映画が何本もありましたが、ここでは長い間敬愛していた6人の映画作家による6本の映画を挙げたいと思います。ミア・ハンセン=ラブの内省的な"Bergman Island"テレンス・デイヴィスの悲しく繊細な"Benediction"ジョアンナ・ホッグの自伝的な"The Souvenir Ⅱ"Patric Chihaのダンス映画"If it were love"ナンニ・モレッティの過小評価されている"Tre Piani"、そしてクレール・シモンの驚くべき1作「あなたが欲しいのはわたしだけ」です。この全てが、現代の映画において恐ろしい流行と化した冷笑主義、その跡すらない意図して人間性に溢れた作品なんです。

また1人の過小評価されている映画監督であるウルスラ・メイヤー「ホーム/我が家」には、最初から最後まで魅了されていました。この映画は公共・私的空間における習慣性を描いていますが、私が建築学校で授業をする際は今作から始めました。ニコラ・フィリベール"La Maison de la radio"は私にとって"Ella i jo"に続く、ラジオがテーマの第2、第3短編にとってとても重要な1作になるでしょう。

スペイン映画
"Zehn Minuten vor Mitternacht"(Mario Sanz 2021)
"The noise of the universe" (Gabriel Azorín 2021)
スペイン映画には偉大な未来があるでしょう。サン・セバスチャンのElías Querejeta Zine Eskolaで学んだ世代の映画監督が輝かしく活動を始め、近い将来には世界的な結果を残すでしょう。最初の世代はとても特別で、例えば"I don't sleep anymore"(Marina Palacio 2020)や、私の"Ella i jo"(2020)、Julieta Juncadella"Prophecy"(2020)、"Blood is white"(Óscar Vincentelli 2020)などは世界的な映画祭で上映され、他にも"I'm vertical but I'd like to be horizontal" (Maria Antón Cabot 2022)や"For us pain is tender"(Patxi Burillo 2022)などが上映を待っています。この中でも"Zehn Minuten vor Mitternacht""The noise of the universe"、そして"What are our years?" (Clara Rus 2022)は特に素晴らしい作品です。

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Knights of Odessa (日本、東欧映画愛好家)

1. 無限 (マルレン・フツィエフ、1992)

ソ連崩壊直後に公開されたフツィエフ版永遠と一日のような遺作。"伝統を失ってしまった"という台詞とともに物質的記憶を奪われた老人は、過去の自分を案内人として街に残った精神的記憶を探し歩き、時空を逆走していく。世紀/人生/ソ連の終焉を重ね合わせつつも過度なノスタルジーに溺れず、ロシアがソ連崩壊で失ったものとソ連帝政ロシア崩壊で失ったものを重ね合わせて新たな国家の誕生に希望を託す。今のロシアはフツィエフが思い描いた国になったのだろうか。

2. Love Massacre (パトリック・タム, 1981)

徹頭徹尾不気味で異様な映画。貧血でも起こしそうな青白い画面の中で、異様に目立つ真っ白な服を着たブリジット・リンの存在感が凄まじい。今年はパトリック・タムに出会った年だと胸を張って言える。

3. The Strange Little Cat (Ramon Zürcher, 2013)
3. The Girl and the Spider (Ramon&Silvan Zürcher, 2021)

昨年がソフィア・ボーダノヴィッチとカナダ新世代に出会った年だとすると、今年はツュルヒャー兄弟に出会った年だと言える。初長編『The Strange Little Cat』では、狭いアパートに集まった親戚一同が同時並行的に様々なタスクをこなしながら、言葉や行動が徹底的に繰り返される。一見カオスに見えるが、厳格な交通整理がなされてきれいに舗装されている危うさと精巧さは、他の追随を許さない。次作『The Girl and the Spider』は前作から人数も場所も会話も小道具も犬猫も倍増し、とても100分とは思えないほどカオスが広がっている。映像は会話するABとそれを観ていたCの切り返しというワンパターンをシステマチックにひたすら繰り返すだけだが、表情やタイミング、ABCの関係によって無限とも言える分岐が生まれていくのが凄まじい。このシステマチックな緊張感とライブ感の中に危ういバランスで保たれた精巧な美しさがある感じ、ジャルジャルの"ピンポンパンゲーム"を思い出した。

4. Petite Maman (セリーヌ・シアマ, 2021)

今年のベルリン映画祭コンペは例年と少々異なり、中々レベルの高い布陣だった。セリーヌ・シアマの新作はそんな中でも一際輝いていた。本作品は72分の短尺の中で、祖母を亡くした少女が母親の生家で少女時代の母親と出会う物語である。実際の双子姉妹が演じたことで、過去と現在がシームレスに繋ぎ合わされているのが上手い。一つの家に流れる二つの時間をマジカルに飛び越える瞬間が素晴らしい。

5. The Stone Wedding (Dan Pița & Mircea Veroiu, 1973)

本作品は二部構成になっている。第一部は採石場で働く老女とその病弱な末娘の寡黙な物語、第二部は結婚式に招かれた音楽家と花嫁の物語である。全編を通して、真っ白な石、真っ白なロバ、ウェディングドレスなど白いものに"死"のイメージが、逆に夜の闇に"希望"のイメージが宿っており、その逆転した構造の中に抗えない運命のようなものを感じる。第二部の野外結婚式会場は新郎の目の前に柱があって、音楽家からは新郎だけが見えないというショットが上手すぎる。普通はそんな席配置にせんよ。

6. 見上げた空に何が見える? (アレクサンドレ・コベリゼ, 2021)

足しか映らない一目惚れ、広角で顔すら判別できない真夜中の再会、そして悪魔によって変えられた容姿。物語と映像が乖離していく描写の中に、出会いの奇跡が散りばめられるマジカルな一作。ちなみに、フィルメックス前に色々な人に紹介しまくったら感謝と苦情がたくさん届いて楽しかった。

7. Forest: I See You Everywhere (フリーガウフ・ベネデク, 2021)

映画学校に落ちたフリーガウフが完全自主映画として撮った初長編『Forest』の精神的続編。同作では顔が画面からはみ出るほどのクローズアップだったが、本作品ではそのスタイルを踏襲しながらも少しだけ控えめになり、代わりに"何を映して何を映さないか"という選別が明白になった。それによって、物語と空間を徐々に広がっていき、感情的な罵り合いは予期せぬ方向へと飛んでいくことになる。そして、明けない夜に変えられない出来事を語る絶望的な時間は、予期せぬ希望で回収される。

8. 牡蠣の王女 (エルンスト・ルビッチ, 1919)
8. ハタリ! (ハワード・ホークス, 1962)

ルビッチxオスヴァルダは『花嫁人形』を昨年のベストに入れたが、同作がオスヴァルダ劇場だったのに対して、『牡蠣の王女』は物量戦である。大量の執事が玄関ホールを埋め尽くし、大量のメイドがオスヴァルダの身体を洗い、大量の給仕係が料理を運ぶ。ずっとイカれた映像が続くが、ラストが一番イカれているという期待を超え続ける凄まじい一作。『ハタリ!』『コンドル』のセルフリメイクなのではないかというほどの社畜系お仕事映画。動物を追いかけるシーンは回を重ねても鮮度が落ちず、ジョン・ウェインはひたすら転びまくる。1年を通して何度も元気を貰った一作。

9. Hello, It's Me! (Frunze Dovlatyan, 1966)

戦争に行ったまま戻ってこなかった恋人の最後の言葉は期せずして"待たなくていいよ"だった。しかし、遺された人々は立ち止まることしか出来なかった。スターリン時代もフルシチョフ時代も感じさせないような隔絶された研究所で戦後の20年を過ごしたアルメニア人物理学者の"時間"は、アルメニアがモスクワ中心的な構造から転換を始めた60年代中盤に再び動き始める。"迷ってない、私はこの土地を良く知っている"という感傷的な締めくくりに目頭が熱くなる。

10. 魅せられたデズナ河 (ユリア・ソーンツェワ, 1964)

血のような赤で水面を染めながら顔を出す太陽、そして地上1mで花火をやっとんのかというくらいの爆発と黒煙に爆走する戦車。開始1分で純度100%のソーンツェワ世界が目に飛び込んでくる。真っ暗で俳優の顔も判別できないような暗闇の中でも背景の黒煙だけはきちんと映えさせる狂いっぷりに感動。ソーンツェワはドキュメンタリーですらそんな感じだが、映像の美しさとしては現状これがベスト。

今年の日本映画 『春原さんのうた』(杉田協士, 2021)

自分のオールタイムベストが様々融合した作品とでも呼べば良いのか、人生とリンクしすぎて一回観ただけでは支えきれなかった。一つだけ言えることは、叔母と買ったどら焼きが当たり前のように三つ並び、偶然現れた伯父があんぱんを三つ並べたあの瞬間、春原さんはそこに存在していたということ。私はあの開け放たれた玄関の可能性を信じたい。尚、こちらに選出したので敢えて全体のベストからは外した。

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Héctor Oyarzún エクトル・オヤルスン (チリ、映画批評家)

新作:

1. El gran movimiento / The Big Movement (Kiro Russo)
2.「見上げた空に何が見える?」(アレクサンドレ・コベリゼ)
3. Esquirlas / Splinters (Natalia Garayalde)
4. Sol de Campinas (Jessica Sarah Rinland)
5. 「マリグナント 狂暴な悪夢」 (ジェームズ・ワン)

旧作&初鑑賞作:

1.「女たち」(ジョージ・キューカー、1939)
2. El dependiente / The Dependent (Leonardo Favio レオナルド・ファビオ、1969)
3. Cecilia Mangini チェチリア・マンジーの短編群 (Another Gazeありがとう!)
4. 「ヴィンニー=プーフ」 (フョードル・ヒトルーク、1969)
5. 「マリアの本」 (アンヌ=マリー・ミエヴィル、1985)

チリ映画の1本:Al amparo del cielo / Under the Sky Shelter (Diego Acosta)

コロナの時代にこういったリストを作るにあたり、何度も現れる問題の1つは、家での映画鑑賞を映画館での体験と比べてしまうことです。今年は映画館での上映がまた始まったゆえに、去年よりもより多くこれを感じました。そしてこれも去年以上の規模でですが、問題にまつわる議論は、デジタルは全て“本物”とは対極にあるという保守的な道を進んでいるように思います。Roger KozaのInternacional Cinéfilaにおいて、批評家のRodrigo Morenoはこんなことを書いています。ある映画をもう既に観ていたのに、それを忘れてしまっていたのは、その映画をパソコンで観ていたからだと。私が思うに、パソコンでにしろ他の方法でにしろ、そんな集中力で映画を観ているとしたら、わざわざ映画を観る必要などあるでしょうか? 今年最も美しい映画体験は家でのことです。キューカーの「女たち」のなかで幾つもの小さな驚きを目撃しました、クレジットシーンは今まででも1番のお気に入りです。そして他の素晴らしい映画たちとの思い出は、バルディビア映画祭にまた来訪し、映画館に戻ってきたと、そんな美しい体験と切り離せません。それでも家での映画鑑賞を除外したり、敵視せんとする議論は還元主義的であり、無意味に思えるんです。「女たち」や、Leonardo Favioのように重要で興味深い映画作家の作品に触れるには、インターネットを通じてでしかあり得ず、もっと詳しく言うならpiracy、違法配信でした。これは消えゆく映画を保存する1つの方法であり、シネフィルとしての私の経験の要となっています、コロナ禍前よりもずっと。

ボーナストラック:チリのインターネットにおける視聴覚的アジテーション、“La granja de Boric” https://twitter.com/i/status/1468266456358002694

伝統的な左翼には気づいていない者もいますが、インターネット・ミームや素人のビデオ作品はガブリエル・ボリッチの大統領選において基礎的な役割を果たしていました。序盤はナチ的な候補者が誰よりもリードする憂鬱なものでしたが、これらのミームアジテーションが人々を再び奮い立ててくれたんです。素晴らしい作品は多くありましたが、私にとってのベストは、この奇妙で信じられないくらい笑える、ハイパーデジタルな動画作品です。曲自体も素晴らしいながら、デジタル・グロテスクとも言うべき造型の動物たちが今作を反ファシストプロパガンダでも最も創造的な1本へと高めてくれているんです。楽しんで!

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Yoana Pavlova ヨアナ・パヴロヴァ (ブルガリア/フランス、映画批評家)

A RIVER RUNS, TURNS, ERASES, REPLACES - Shengze Zhu
GERMAN LESSONS - Pavel Vesnakov
KHTOBTOGONE - Sara Sadik (short)
LOOKING FOR HORSES - Stefan Pavlović
LOS HUESOS - Joaquín Cociña & Cristóbal León (short)
MAYOR, SHEPHERD, WIDOW, DRAGON - Eliza Petkova
PETROV'S FLU - キリル・セレンブレニコフ
「スペース・スウィーパーズ」 - チョ・ソンヒ
TITANE - ジュリア・デュクルノー
WRAPPING L'Arc de Triomphe - Christo & Jeanne-Claude (YouTube live)

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Alex Pintică アレックス・ピンティカ (ルーマニア, “No Singing after Eight”監督)

1.「ベルエポックでもう一度」/ニコラ・ブドス (映画館で3回観た唯一の映画です)
2.「ボー・バーナムの明けても暮れても巣ごもり」/ボー・バーナム (今年一番ブチかまされた1作で、アルバムも今年一番聞きました)
3.「アネット」/レオス・カラックス (今後何度も立ち返りたくなるだろう作品です。これもサントラをずっと聞いてます)
4. “Aviva” / ボアズ・イェーキン (心躍るような驚きでした)
5.ル・バル」/エットーレ・スコラ (9年が経ってからの再見です。未だに素晴らしさは色褪せません)

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Tahmina Rafaella タフミナ・ラファエッラ (アゼルバイジャン、“Woman”監督)

5.「最後の決闘裁判」(リドリー・スコット、2021)
心臓の弱い方には勧めませんが、3つの異なる視点から“真実”というものを描きだす巧みな映画でした。登場人物が持つ深み、そして映画で描くのは簡単でないテーマ性についても感銘を受けました。

4.「ドライブ・マイ・カー」(濱口竜介、2021)
観客が登場人物たちとともに旅路を歩むことになる、そんな1作です。映画というのは目的地を描く必要は必ずしもなくて、旅路それ自体を描けばいいのだと今作は教えてくれるんです。チェーホフのいちファンとして、物語に平行するように「ワーニャ叔父さん」が現れるのも良かったですね。

3.「パワー・オブ・ザ・ドッグ」(ジェーン・カンピオン、2021)
ジェーン・カンピオンはその作品でトーンや雰囲気を素晴らしい形で築いていっていましたが、今作も例外ではないです。構成において見慣れた作品ではないですが、それを疑問に思わず描かれる物に身を委ねるなら、特に複雑微妙さやニュアンスといった、今作の美を体感できるでしょう。

2.「ナイトメア・アリー」 (ギレルモ・デル・トロ、2021)
ギレルモ・デル・トロはカンピオンと同様、トーンや雰囲気を巧みに築いていく映画作家です。そして今作でも彼のあの想像力が野性味溢れる形で突走っていますね。コミカルではない、地に足ついていない、ジャンル映画を作るとそうならないのが難しいですが「ナイトメア・アリー」は違いました。別世界のような感触を持ちながら、核においては現実味があり普遍的なんです。演技もまた素晴らしいものでした。

1.「スペンサー」(パブロ・ラライン、2021)

伝記映画というのは陳腐なガイドライン的になり、先が予想できるくらい退屈になることがよくありますが、その型に嵌まっていない作品を観ると感銘を受けてしまいます。今作ではその陳腐さの代わり、素晴らしい撮影、ダイアログ、音楽、そして演技によって、私たちは主人公の内的世界へと導かれていくんです。今作の美を堪能するために、今作の基となったダイアナ王妃の人生について関心を持っている必要もないほどです。最後の場面は私の心に長く残り続けるでしょう。

アゼルバイジャン映画
残念ですが2021年は1本もアゼルバイジャン映画を観ることがありませんでした。それでも今年撮影した、私が主演であるElchin Musaogluの長編作品が上映されるのを心待ちにしています。ぜひ注目していてください!

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済藤鉄腸 (日本、映画痴れ者・ルーマニア語小説家)

1. "Dzīvīte" (Aivars Freimanis, ラトビア, 1989)
ラトビアの民謡ダイナスを広めた人物クリシュヤーニス・バローンスの伝記映画。彼の人生、思想、心に浮かぶ風景が取り留めもなく浮かんでは消えて、1つの大いなる詩を紡ぎだす。人間の生を描きだした最も美しい映画の1つが"人生"というタイトルなどできすぎではないか、そう思える忘れ難い輝き。

2.「レミニセンス」(リサ・ジョイアメリカ、2021)
これは詩だな。いや、映像詩とかではない。これは声に裏切られ、声に打ち負かされながら、声を信じ愛しつづけた者だけが書くことのできる、ただひたすら、声を求める朗読詩だ。自らが書いた言葉をどうすればここまで誰かに託せるのか?その悲壮な信頼だけが辿りつける詩。

3. "A Safe Place" (Henry Jaglom, アメリカ, 1971)
あの時、私は空を飛べた、本当に空を飛んでいたんだ。失われた子供時代への郷愁に囚われ心は今にいないのに、どうして"私"は今を生きているの。消えよう、消えていこう、心安らげる場所へ……こんな、こんなにも残酷で、こんなにも切ない映画がこの世界に存在していたのかと。

4. "98 segundos sin sombra" (Juan Pablo Richter, ボリビア、2021)
必死にならなければ世界を生きられない子供たちがいる、抱えるには重すぎる“生まれたことの絶望”に押潰される子供たちがいる。しかし確かに、彼らの心に何とか寄り添おうとする大人たちもいる。今作は、そんな切実さそのものだ。この映画を観れて、本当によかった。

5.新機動戦記ガンダムW Endless Waltz(青木康直、日本、1997)
アニメ49話を懸けて平和という概念を思考し、思考し続けた後、この作品で1つの答えが出された。極論と極論、感情と感情の壮絶な衝突によって形を成す平和という綺麗事の何て崇高なことか。アニメシリーズを見返した後にこの完結編を観て、私は本当にガンダムWに深く影響を受けているなと改めて。

6.「動き出すかつての夢」(アラン・ギロディ、フランス、2001)
アラン・ギロディ、2001年の中編。閉鎖寸前の工場、機械を黙々と解体する青年技師と彼を取り巻くくたびれた工員たち。互いの体臭や息遣いを感じながら近づいては遠ざかり、男たちは愛とも悲しみとも知れない何かを紡ぎあう。切なくも、何て優しい映画なんだろう。

7."Kom hier" (Marieke Elzerman、ベルギー、2021)
今作が描きだしているのは、ペットシェルターで働く女性の日常だ。そこに現れるのは、ペットと共に生きる、誰かと共に生きる、つまりは自分とは違う他者と生きていくことへの苦悩に他ならない。しかし、とある2人の女性の視線がぎこちなく交錯していき、苦悩は少しずつほどけていく。私たちはこの光景に"それでも、誰かと一緒に私たちは生きていきたい"という想いを聞くだろう。そして切ないまでの暖かさに包まれながら、2人の手が繋がれていく。“Kom hier”という作品は真摯な、真摯な愛の映画だった。

8. "Сестра моя Люся / My Sister Lucy" (Yermek Shinarbayev, カザフスタン、1985)
WW2終結後、父を失った少年の現実と初恋を描きだすカザフスタン映画。どこまでも色褪せた荒涼と荒廃に心が徐々に擦り減っていき、一瞬現れた生の歓びもすぐに埋没していく。美しさ、切なさ、そして絶望の見分けが最早つかない1つの極致がここにはある。凄まじい1作。

9. “The Half-Blood”(アラン・ドワンアメリカ、1917)
アラン・ドワン、1917年の1作。ネイティブ・アメリカンへの激烈な差別、白人が盲信する己の優越性、人種の交わりが呼びこむ新たなる憎悪、西部時代のアメリカにこそ根づいた宿痾。それらをメロドラマ西部劇として丹念に、相当な入れ込みで描きながら最後には全て焼き尽くす。呆然、弩迫。

10. "Les petites fugues" (Yves Yersin、スイス、1979)
リタイア間近のおじいちゃん農夫が初めて買ったバイクで村を爆走したり、もらったカメラで写真を撮ったりする。ただそれだけの映画なのに、ささやかな生が奇跡にも似た、超越的な何かへと近づくとそんな息を呑む瞬間が何度も瞬く。あまりにも豊穣なスイス映画

11. "Interfon 15" (Andrei Epureルーマニア、2021)
2021年はルーマニア映画界にとって、再びの躍進の年だったがそんな豊作の2021年において、私が最も感銘を受けたルーマニア映画が、この“Interfon 15”だった。人間存在の虚しさにまつわるこの1作は、仏教における“諸行無常”という感覚を濃厚に湛えており、そこに静かなる感動を覚えた。もし私がルーマニア語で執筆した小説を映画化するなら、監督はこのAndrei Epureしかいない。それほどまでに惚れこんでしまった。

12.科捜研の女 劇場版」(兼崎涼介、日本、2021)
落下で始まり、落下で終るOPから、この落下の倫理をめぐる映画に、襟を正すことになった。落下するが、落下させられるとして、悪に歪められながら、マリコによって、それが落下するへ今再び回帰する。何よりその回帰の核が極端なまでに直球な、映画であろうとする意志であること。これに心打たれた。

13. "Ladybug Ladybug" (フランク・ペリー、イギリス、1963)
"核戦争が来る!焼け死にたくない!"という叫びを親に馬鹿にされ、金魚鉢を抱えベッドの下に隠れる少女の恐怖、心細さ。この世界に新たな命が生まれてくる事実が信じられぬまま「あなたは最高の生徒だった」としか言えない中年女性の絶望。核の時代の壮絶なやるせなさ。

14. "Loos Ornamental" (Heinz Emigholz、ドイツ、2008)
オーストリアの建築家アドルフ・ロースによる作品群をめぐるドキュメンタリー。装飾を削ぎ落とした荒涼の外観と、内部から入り口を見据えた時に現れる凍てついた薄暗さ。風に揺れる枝と対比し顕著だが、ロースの建築は厳として在り、他存在を拒絶する孤高の感覚がある。

15. "Derborence" (Francis Reusser、スイス、1985)
ラミュ原作、険々たるアルプスを舞台として紡がれる愛の物語ですが、80年代の映画というより50年代テクニカラー映画の威風堂々たる色彩と圧、広がりを以て、愛の神話へと高められていく様に脱帽。スイス映画史の愛と生と死、そして厄災、その交錯の1つの極み。圧倒された。

16.「魔の谷」(モンテ・ヘルマンアメリカ、1959)
モンテ・ヘルマン、デビュー長編。内容はコーマン印の巨大蜘蛛映画ですが、この異様な倦怠は何だ?もはや物語を綴る気もなく、蜘蛛の犠牲者になるのかもしれない人々の虚無的生が描かれる描かれ続ける終わらない。そこに宿る致命的なメランコリー、これが映画の魔なのか。呆然としてしまう。

17."The Red Kimono" (Walter Lang&Dorothy Davenport, アメリカ、1925)
愛憎に翻弄されて殺人を犯した女性の贖罪を描きだす、1925年制作のサイレント映画。「緋文字」最初期の映画化で物語は王道メロドラマながら、主演プリシラ・ボナーの存在感が尋常でなく、愛人殺害の、壮絶なまでの遅さの聖性が今作を濃密なまでに高める。瞠目の厳粛。

18.「受取人不明」(ウィリアム・キャメロン・メンジーアメリカ、1944)
ナチスに感化された男の元に送られる謎の手紙。アメリカとドイツ、ギャラリーの入り口と裏口のドア、扉で別たれる中と外、距離というものの残酷さが徹頭徹尾意識された濃密なフィルムノワールで、遠近の躍動に眩暈を起こす、正に距離感の芸術、距離感による壮絶な復讐。

19.「ザ・ハウス/襲われた妻と娘」(ジョン・リュウェリン・モクシーアメリカ、1974)
“悪い建築は闇に消える。だが優れた建築は闇のなかでこそ見える”とは建築家ブーレーの言葉ですが、“家のなかに誰かいる”スリラーも本作においては、監督の冷徹な視線によって、アメリカ郊外の邸宅という没個性の建築が、そんな優れた建築へ高められる。絶品。

20. “Përdhunuesit” (Spartak Pecani, アルバニア、1995)
レイプ・リベンジ、そしてコーマン製作のバイカーものというジャンルの鋳型に映画祭映画の趣を流しこんだかのような、野心的アルバニア映画。ジャンルを踏み台として、共産政権崩壊後の騒擾を描きだし、聖なる暴力によって全てが断絶させられる。かなり異様で面喰らわされた。


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Szöllősi Anna セッレーシ・アンナ (ハンガリー、"Helfer"監督)

1.「モーヴァン」(リン・ラムジー、2002)
深く忘れ難い、独特の雰囲気を持った1作ですね。主なテーマは現実逃避と、現実から隔たっているという感覚であり、これが素晴らしい撮影や興味深く不安定な登場人物たちとともに描かれるんです。その感情を暴力的に揺さぶるトーンに驚かされました。サウンドトラックも素晴らしいんです。「モーヴァン」には大きな衝撃を受けましたね。バレンシアのCinema Jove映画祭での深夜上映で初めて観ることができました。

2."ÆON" (Emmanuel Fraisse, 2021)
息を呑む映像詩に満ちた素晴らしい映画です。内容としてはある若い女性が過去に出会った謎めいた少女の記憶と対峙し、ギリシャ神話やアトランティスという失われた神話都市に思いを馳せるといったものです。ほぼ固定されたショットの数々によって魅力的な映像が作られ、都市と海の関係性が現れるんです。

3."Yndlingsdatter" (Susi Haaning, 2021)
今年最も気に入ったアニメーションです。父と娘の関係性を描きだした1作です。父は愛すべき笑いの絶えない人物なんですが、双極性障害にも苦しんでいるんです。深くこの映画に共感しました。父がベッドで泣いている娘に対して感情をこめて会話するという場面があるんですが、彼はこんなことを言います。"何故か分からないまま、ただ悲しい時がある。そういう時があるんだ"と。

4.「バーニング」(イ・チャンドン、2018)
ある女性と2人の男性の間で紡がれる奇妙で謎めいた関係性のダイナミズムを描いた、美しい韓国映画です。とても複雑で優雅、撮影も美しいんです。

5.脳内ニューヨーク(チャーリー・カウフマン、2008)
フィクションと現実の境界を曖昧にするようなポストモダン心理的ドラマです。その実存主義的テーマはとても憂鬱なもので、鬱病というものが共感を以て描かれるんです。

6.「アナザーラウンド」(トマス・ヴィンターベア、2020)
雄弁でタブーを打ち破るような映画で、アルコールやアルコール中毒と社会との関係性というテーマにはかなり興味を抱きました。

7."I Am Afraid to Forget Your Face" (Sameh Alaa, 2020)
ある男が愛する者と再会するため禁じられた旅路を行くという、魅力的なトーンを持った謎めいた1作です。左右対称のロングテイクを駆使しながら、第4の壁を美しい形で壊していくんです。最良のエジプト映画でもあります。

8."Icemeltland Park" (Liliana Colombo, 2020)
環境破壊への人間の無関心を描いた、頗るオリジナルで不快なほど実験的なドキュメンタリーですね。映画で使われるアーカイヴ映像、観光客が氷山の崩れるのを見て笑っているなんて映像は本物なので、今作を観るのは辛いところです。不条理としか言いようがないです。監督はこのテーマを描くに完璧な方法を使った訳ですね。

9.「燃ゆる女の肖像」(セリーヌ・シアマ、2019)
ある女性画家が肖像画を描くためにある若い女性と出会う、そんな18世紀を舞台とした美しく、心を打つようなラブストーリーです。素晴らしい演技、女性たちの間の性的なテンションはとても激しいものでありながら、その時代においては禁じられていたという面で観るのはとてもメランコリックなものでしたが。

10."Grab Them" (Morgane Dziurla-Petit, 2020)
ドナルド・トランプに顔が似ているという女性が、人生を滅茶苦茶にされながら、幸せと愛を探そうとするという物語です。今年1番のコメディ映画でしたね。

今年のハンガリー映画
"Rengeteg - Mindenhol Látlak" (Fliegauf Bence, 2021)

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髙橋佑弥 (日本、映画文筆)

 以下に提示するのは、わたしが今年(便宜上2021年をこう記す)見た映画に関するふたつのベストリストである。まずひとつは〈初見劇場新作ベスト〉で、文字通り──あいもかわらず、こんな状況ではあるが──映画館という空間で初見を迎えた新作のみを対象とする。いうまでもなく、劇場で見た旧作も、自宅で見た初見の新作も、本邦において“新作”として封切られたが既に別の手段で見ていた作品も含めることはできない。そして、ふたつめが〈初見旧作ベスト〉で、呼称を便宜上 “旧作”としているが、“初見”である限りにおいて、〈初見劇場新作ベスト〉範囲外のすべての映画を対象としている。

ではまずひとつめから。

〈初見劇場新作ベスト10〉
1. 『クーリエ:最高機密の運び屋』ドミニク・クック、2020年)
2. 『ミッドナイト・ファミリー』ルーク・ローレンツェン、2019年)
3. 『イン・ザ・ハイツ』ジョン・チュウ、2021年)
4. 『フレンチ・ディスパッチ』ウェス・アンダーソン、2021年)
5. 『見上げた空に何が見える?』アレクサンドレ・コベリゼ、2021年)
6. 『アイス・ロード』ジョナサン・ヘンズリー、2021年)
7. 『きみが死んだあとで』代島治彦、2021年)
8. 『ビーチ・バム』ハーモニー・コリン、2019年)
9. 『砂利道』パナー・パナヒ、2021年)
10. 『パーム・スプリングス』マックス・バーバコウ、2020年)

今年は、昨年よりも更に劇場から足が遠のく結果となり、ゆえに選定も困難を極めた。情けなくも正直に告白するならば、例年であれば選ぶことなどないであろう水準の作品も混ざっている。年の終わりに顧みると一年間で見た映画の記憶は朧げで、“印象的”な作品すらごく限られた描写を思い出すことさえ難しい。けれど、今年選んだ10本に関しては、かつてほど“端正さ”を重視しなくなった結果ではあるだろう。作家の“署名”よりも、シームレスで“無個性”な語りを。スタイルの貫徹よりも、不確かな逸脱を。未知の作家/既知の作家などという意識のノイズに煩わされず、目の前の作品を心から楽しめたという印象を。凡そ“上出来”とは言えぬカッティングにも積極的に目を瞑り、これらを今年は支持したい。

では、ふたつめ。

〈初見旧作ベスト10〉
1. 『逮捕命令』アラン・ドワン、1954年)
2. 『アウト・オブ・ブルー』デニス・ホッパー、1980年)
3. 『走り来る男』パトリシア・マズィ、1989年)
4. 『ミシュカ』ジャン=フランソワ・ステヴナン、2002年)
5. 『少女暴行事件 赤い靴』上垣保朗、1983年)
6. 『美しき仕事』クレール・ドニ、1999年)
7. 『ルカじいさんと苗木』レゾ・チヘイーゼ、1973年)
8. 『…YOU…』リチャード・ラッシュ、1970年)
9. 『オフビート』マイケル・ディナー、1986年)
10. あんなに愛しあったのにエットーレ・スコラ、1974年)

こちらのリストについては、とくに書き残しておきたいことはない。いずれも、これまで見ていなかったことを恥じるとともに、今年めぐり合うことができた幸運を喜ばしく感じている掛け値なしの作品である。少しでも多くの人が見てくれたなら嬉しい。昨年に引き続き、こんな状況ではあるけれど、来年もたくさん映画が見たい。

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Emilio Silva Torres エミリオ・シルバ・トレス (ウルグアイ、“Directamente para video”監督)

1.「音楽」(2019, 岩井澤健治)
私が今まで観たなかで最もパンクで、しなやかで、カリスマ性に溢れたアニメーション映画の1本です。「音楽」は思春期という、騒ぎを起こすということがたった1つの存在理由だった時代に観客を引き戻し、テクニックではなく、楽器を弾きたいという情熱こそ大事だと教えてくれるんです。素晴らしいアニメーション、素晴らしい脚本、素晴らしいキャラクター、そしてたくさんの魂がここにはあるんです。

2. “Pig” (2021, Michael Sarnoski)
私は探求者としてのニコラス・ケイジを熱烈に信仰している訳ですが、この“Pig”においては彼のユニークな演技、その中でも一番いい場所が表れているように思います。自然主義的な映画でいっぱい世界において、彼の演技を観るのは新鮮な空気を吸うようなものです。しかし“Pig”の魅力はそれだけではないです。ミニマルなのに壮大な物語、極端なまでの人間味、そして溢れるほどの優しさもまた存在します。これこそが、正に芸術なんです。

3. “The Collector” (2002, Pelin Esmer)
私は子供時代からいわゆるコレクターで、そういう性格は両親に植えつけられた訳なんですが、この物を集めるという行為自体を、ここまでの親密さ、視覚的な輝き、そして感性を以て描き出した作品を観たのは、今作が初めてです。何かを置き去りにするほど何かを集めてしまう執念と物への愛がここにはあります。

4.「ドロステのはてで僕ら」(2020, 山口淳太)
最初はシンプルな設定がどんどん膨らんでいき、映画どころか観客まで取り込んでしまう、そんなイカれたギミックを持った映画が大好きです。今作は正にそういった映画で、私たちを取り囲んだと思えば遊び場へと連れていってくれる、複雑な活劇っぷりは、映画にはこういうことができると観客に思い出させてくれるんです。

5. “The Ancines Woods” (1970, Pedro Olea)
“Pig”でニコラス・ケイジの気取った演技を楽しむと同時に、このスパニッシュ・ホラーの古典である狼男映画においては、José Luis Lopez Vázquezによる自然な演技を楽しみました。どの映画にもそれぞれの語りが存在しますが、今作の語りは全く完璧です。静寂と猥雑、露骨さと迂遠さの狭間で、今作はスペインにおけるフォークホラー、その最良の1本となっています。

6.「鵞鳥湖の夜」(2019, ディアオ・イーナン)
夜の場面があります。雨のなか、LEDライトの点いたスクーターを駆り、ギャングたちが走っていく。検察側の主張はこれにて終了です。

7.「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」(2021, 庵野秀明)
エヴァンゲリオン(そして様々なフォーマットで展開されたその派生作品)がいかにして文化的な現象であるか、私たちに何をもたらしたのか。これに言葉を与えるのはあまりに難しすぎて、この説明不能ぶりを何とか説明しようと今もう30分もかけてしまいましたね。エヴァンゲリオンとはマジックミラーのようなもので、そこに私たち自身が成長していく様が見えるとともに、庵野秀明が私たちとともに成長していく姿まで見えるんです。つまり今作はある男の旅の終わりなんです。

8.「83歳のやさしいスパイ」(2020, マイテ・アルベルディ)
年老いること、私たちはこれをどう見ているのか、どう対処しているのか、そして将来どうこれを生きていくのか。フィルム・ノワールと不条理劇のあいだというべき今作の状況は私たちにこういったものへの考えを促し、和解させてくれるんです。そして同時に今作は生への優しさや熱意に溢れた、愛すべき人物たちをも私たちに紹介してくれます。私たちは映画作家として未だドキュメンタリーの可能性を探求し尽くしていないという大いなる証明ともなっている1作です。

9.「ハネムーン・キラーズ」(1970, レナード・カッスル)
2021年は実在する連続殺人鬼を描いた映画を多く観た年でしたが、この作品に出会えたのは幸運でしたね。極めてドス暗くも人間臭い場所から、私たちの皮膚へと潜航してくるような力に溢れた1作です。恐ろしい正確さで描かれ、この残酷で偏執的な世界を観客に眺めさせながら、まるで前から知っている人にでも会うように、登場人物たちの心理へと近づかせもするんです。完璧な映画でしょう。

10. “The Intruder” (2020, Natalia Meta)
当然のように、2021年で最も音響デザインが素晴らしかった映画です。今作は私たちがスクリーンに観るものだけでなく、聞くもの全てに再考を促す作品であり、フレームの中にあるフレーム、音の中にある音、そして私たちの喉の中にいる亡霊たちが宿った世界を描きだしています。

ウルグアイから
“Hilda’s short summer” (2021, Agustín Banchero)
2021年はウルグアイ映画にとって奇妙な年でした。パンデミックのせいで、映画館の再開までに上映が延期されていた国産映画が一気にリリースされたんです。国産映画の上映が1年通じて少ない国においてはそうあることではありません。こういった文脈において今作は上映された訳ですが、ここでは物語が2つの時間で2つの形式で繰り広げられており、主人公の女性は過去の自分に立ち返るとともに、現在においては変化を遂げることになります。繊細な脚本、正確な演出、そしてスクリーンから飛び出してくるのではと思える演技の数々。間違いなく今年最高のウルグアイ映画です。

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Varga Zoltán ヴァルガ・ゾルターン (ハンガリー映画批評家)

3本の新作映画

“Siberia” (アベルフェラーラ 2019)
本物の映像美を持つ1作である“Siberia”は、アベルフェラーラ監督と驚異の俳優ウィレム・デフォーが6度目のタッグを組んだ作品でもありますが、賛否両論を巻き起こした1作といえるでしょう、例えば「ミッドサマー」ライトハウスのように。しかし“Siberia”はより嫌われている(少なくともIMDBのユーザーレビューに拠れば)映画のようです。根本として今作は意識の流れそのものであり、筋の通った物語は存在しておらず、ほとんどデフォーのワンマンショーといった風です。そして彼の最も深い内面とどこまでも広がる現世界への旅路(2つが重なりあっているんです)に焦点が当てられ、そこに時折悍ましいイメージが現れると。シネフィルにとって必見の1作ですね。

「悪なき殺人」(ドミニク・モル 2019)
ドミニク・モルによる知的で、パズルのような1作は一見して魅力的な犯罪ミステリーのようですが、その更に奥底においては欲望、嘘、幻影、そして何より世界を股にかけ、全く異なる人々の人生が繋がってしまうという奇妙な偶然をめぐる物語でもあります。多面的な視点やフラッシュバックによって、プロットには注目すべきサプライズが幾つもあります。それでいて最も大きな仕掛けというのはおそらく、犯罪ドラマのようでいて、その核において今作が人間嫌いのダーク・コメディであるということでしょう。

「マロナの幻想的な物語り」(アンカ・ダミアン 2019)
「ソウルフル・ワールド」ピクサーの全盛期を観客に思い出させ、トム・ムーア「ウルフウォーカー」が全く素晴らしいアニメーション映画として傑出していた一方、私が1番のお気に入り作品として選びたいのはもっと控えめで、しかしより洗練された宝石のような今作です。「マロナの幻想的な物語り」は私たちの罪と美徳、そして生における大いなる問いを、無邪気な子犬の目から描きだす作品でした。可愛らしい子供映画でありながら、苦くて甘い、深遠な1作でもあり、その映像スタイルは本当に素晴らしかったです。

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Mihail Victus ミハイル・ヴィクトゥス (ルーマニア、小説家“Toate păcatele noastre”)

素晴らしかった1作:「パワー・オブ・ザ・ドッグ」
嬉しいサプライズ:“Pig”と主演のニコラス・ケイジ

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東欧映画スペース!第1回~そもそも東欧映画って何だ?備忘録

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Twitterの方で、友人の岡田早由さんとKnights of Odessaさんと東欧映画についてだけ語る“東欧映画スペース!”というのを始めました。上にはアーカイブ。鉄腸マガジンの読者の方も、このゆるゆるなPodcastを聞いてくれたら幸いです。2時間くらい“東欧映画とは何か?”や最近観た東欧映画について話してます。ここに張っておくのは話した内容の捕捉や、それに関するTwitter上の呟きなど。

○中で話した“東欧映画とは何か?”の原稿、というかメモ書き。

東欧スペースで話すこと

個人的には東欧は東側ブロックか共産主義の影響を受けた地域、だからポーランドやらチェコやらからジョージアアゼルバイジャンとかコーカサス地方も入るしこれはあんま納得されないだろうけども中央アジアも個人的に含める(アゼルバイジャンカザフスタンが今一番注目と言ってるけど東欧への興味の派生)
そういえばCalvert Journalっていう最も大きな東欧のカルチャーサイトがあるけどもそこはNew Eastと呼称して中欧と東欧はもちろんバルト三国コーカサス地方中央アジアも含んでいる、個人的にはこの括りが東欧
東欧と中欧問題、東欧の人と話している時に東欧って言っていいのか分からなくなる時がある、例えばハンガリーの人と話していたら中欧及び東欧地域って言い直した方がいいみたいな感じで言われた、バルカンに関してはみんなこれを受け入れている
ポーランドとかチェコとかの中欧という呼称に個人的に複雑な思い、東って本名の一文字だから東に思い入れあるので東欧って呼ばれたくないのは何か何となく寂しい訳で、こっちは東アジアどころか極東でおいおいお前らも俺たちの仲間だろ!と個人的には言いたい感じ
思わぬ援護射撃は中央アジア文化の研究者が中欧という言葉に不満、そこまでしてヨーロッパに含まれたいかとそれは隣接するコーカサス地方中央アジアと自分たちは違うという優越を誇りたいのか?と言っていて個人的にはそうだそうだと言いたい
けども結局は東欧という言葉の持ち主はそこに住む人々であって自分たちはこの呼称を使わせてもらっているという考えでないとはいけないかなと思う、東がいやなのはまあ東欧は西欧のオリエンタリズムを最も近くで味わわされてきたから“東”という言葉に忌避感みたいな、今でも東欧移民とかカス扱いだし(映画に絡めると「マザーズ」って今度未体験ゾーンで上映される映画とか)
あとそこに住んでる人々は東欧がどこからどこを含めているかが単純に分からない、東欧文学がオルタナの教養って話していた際にその東欧ってどこ差してるの?と聞かれたり(ハンガリールーマニアブルガリアユーゴスラビアチェコポーランドは明らかに別格)

○上のメモ書きにもある東欧文化のカルチャーサイト The Calvert Journal
www.calvertjournal.com

○最近観た映画に関する色々

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