2021年、ただでさえ凄まじいルーマニア映画界が更なる躍進を遂げている。まずベルリンでRadu Jude ラドゥ・ジュデの最新作"Babardeală cu bucluc sau porno balamuc"が金熊賞を獲得、カンヌには5作のルーマニア映画が出品され、ヴェネチアでは新人監督Monica Stan モニカ・スタンのデビュー長編"Imaculat"がヴェニス・デイズ部門の作品賞を獲得した。そして先日開催のサン・セバスティアン映画祭でもまたルーマニア映画がコンペティション部門で作品賞を獲得してしまった。ということで今回はそんな1作、Alina Grigore アリナ・グリゴレ監督作"Blue Moon"を紹介していこう。
今作の主人公はイリーナ(Ioana Chițu ヨアナ・キツ)という少女だ。彼女はよりよい教育を受けるため、そして離れて暮らす父親の許に行くため、ブカレストへの移住ひいてはロンドンへの留学を目指していた。だが家族はそれをよく思っていない。特に彼女を庇護下に置いているいとこリヴィユ(Mircea Postelnicu ミルチャ・ポステルニク)の反感は相当なものであり、イリーナに対し暴君さながらに振舞う。反発を繰り返しながら、彼女は留学への道を探し求めるが……
今作の基調はルーマニア映画の伝統を受け継いだかのごとき手振れを伴う長回しと濃密なリアリズムである。まず冒頭に置かれた大家族の食卓場面から、この手法が顕著だ。撮影監督Adrian Pădurețu アドリアン・パドゥレツはテーブルを囲む人々をまるで招かれざる客のような視線で見つめ、それが場に波紋を齎したとでもいう風に、空気は緊迫したものとなる。和気藹藹から程遠い雰囲気のなかで、彼らは言い争いを始め、怒号と唾が飛び散りまくる。ルーマニア語の響きが持つ異様さ、暴力性を提示すると共に、このシークエンスは今作が進む未来をも仄めかすこととなる。
ある日イリーナはパーティに参加するのだったが、翌朝起きると自身の性器から血が流れているのを発見する。だが泥酔していた故にセックスをした記憶はない。彼女は自分をレイプしただろう男性トゥドル(Mircea Silaghi ミルチャ・シラギ)の許へ赴く。問い詰めるなかで、彼はブカレストに住む妻子持ちの俳優であることが分かるのだが、ここから2人の関係性は奇妙な進展を見せ始める。
イリーナの置かれた境遇は凄まじいまでの被害者という立ち位置である。家族はイリーナの留学に理解がなく"どうしてそんなことしようとするのか?ここにずっと住んでればいいのに!"と疑問を隠さない。特にリヴィユの反感は壮絶なもので、彼女が生きられるのは自分のおかげだと常に恩着せがましく迫り、反抗するなら罵詈雑言など精神的暴力も辞さない。そしてトゥドルのレイプという肉体的暴力をも被ることとなる。肉体と精神、両方の面からイリーナは窮地に追いやられ、深く憔悴していく。
だが今作はそこで終ることなく、イリーナの生存がための闘争をも描きだす。幾らリヴィユに反撃されようとも、彼女の反抗心は潰えることがない。そしてレイプ犯であるトゥドルに対しては、家族がいるのに自分とセックスした、自分をレイプしたという事実を突きつけた後、彼の罪悪感に取り入り親密な関係を築いたかと思うと、彼の住むブカレストへ行くために利用を始める。被害者であったイリーナは加害者としても振舞うこととなり、実際にある面では加害者ともなるのだ。
現代のルーマニア映画にはモラルを描きだす濃密な映画が多い。例えばCristi Puiu クリスティ・プイユの大いなる1作"Aurora"(レビュー記事)はある平凡な中年男性が殺人を犯すまでを、長大な長回しを基調とした3時間にも渡る時間の流れによって描きださんとする。そしてCorneliu Porumboiu コルネリュ・ポルンボイユの2009年の1作"Polițist adjectiv"はルーマニアのEU加入前夜、マリファナの密売を行う高校生を逮捕するか否かに苦悩する警察官の姿を描いていた。ルーマニアほど、モラルにおける限りなく黒に近いグレーの、曖昧な領域を描くことの上手い国はないだろう。
監督のAlina Grigore アリナ・グリゴレは今作がデビュー作とは信じられない、稠密な緊迫感とモラルへの鬼気迫る問いをスクリーンを通じて提示するが、この新人離れした手腕は以前のキャリアによって培われたものだろう。彼女は元々俳優としての活動が主だったが、その最中の2018年にAdrian Sitaru アドリアン・シタル監督作"Ilegitim"に主演を果たすと同時に、脚本家としてもデビューを果たす。今作は自身の娘と息子が近親相姦という関係にあり、しかも娘が妊娠してしまったと知った父の苦悩を描きだすといった作品だった。シタル監督はルーマニアにおける生命倫理や職業倫理の行く末を常に見据える人物であり、彼のモラルへの洞察やその方法論を苛烈に推し進めた1作がこの"Blue Moon"と言えるかもしれない。
今作においてもう1つの核となるのがイリーナを演じるIoana Chițuだ。彼女は幼い、不安定な雰囲気を宿しながら、しかし私たちは老いそのもののような陰が顔に深く兆している様をも目撃するだろう。彼女は若さと老いの狭間に在るゆえの曖昧さを持ち、それは被害者と加害者の狭間に在ることをも象徴しているのだ。そしてこの曖昧さは不穏な方向へと突き抜けていくこととなる。
この"Blue Moon"というルーマニア映画には"iad"というルーマニア語が似合う。つまり"地獄"という意味を持つ言葉だ。徹底的に被害者として虐げられてきた女性が、この抑圧的社会で生存するがため、加害者として振舞う。そして実際に加害者ともなり、この2つの概念の狭間、凄まじく危うい領域に迷うことになる。私たちは問わざるを得なくなる、こうしてしか弱者は生きられないのか?と。そんな絶対的な絶望がここにはある。
ルーマニア映画界を旅する
その1 Corneliu Porumboiu & "A fost sau n-a fost?"/1989年12月22日、あなたは何をしていた?
その2 Radu Jude & "Aferim!"/ルーマニア、差別の歴史をめぐる旅
その3 Corneliu Porumboiu & "Când se lasă seara peste Bucureşti sau Metabolism"/監督と女優、虚構と真実
その4 Corneliu Porumboiu &"Comoara"/ルーマニア、お宝探して掘れよ掘れ掘れ
その5 Andrei Ujică&"Autobiografia lui Nicolae Ceausescu"/チャウシェスクとは一体何者だったのか?
その6 イリンカ・カルガレアヌ&「チャック・ノリスVS共産主義」/チャック・ノリスはルーマニアを救う!
その7 トゥドール・クリスチャン・ジュルギウ&「日本からの贈り物」/父と息子、ルーマニアと日本
その8 クリスティ・プイウ&"Marfa şi Banii"/ルーマニアの新たなる波、その起源
その9 クリスティ・プイウ&「ラザレスク氏の最期」/それは命の終りであり、世界の終りであり
その10 ラドゥー・ムンテアン&"Hîrtia va fi albastrã"/革命前夜、闇の中で踏み躙られる者たち
その11 ラドゥー・ムンテアン&"Boogie"/大人になれない、子供でもいられない
その12 ラドゥー・ムンテアン&「不倫期限」/クリスマスの後、繋がりの終り
その13 クリスティ・プイウ&"Aurora"/ある平凡な殺人者についての記録
その14 Radu Jude&"Toată lumea din familia noastră"/黙って俺に娘を渡しやがれ!
その15 Paul Negoescu&"O lună în Thailandă"/今の幸せと、ありえたかもしれない幸せと
その16 Paul Negoescu&"Două lozuri"/町が朽ち お金は無くなり 年も取り
その17 Lucian Pintilie&"Duminică la ora 6"/忌まわしき40年代、来たるべき60年代
その18 Mircea Daneliuc&"Croaziera"/若者たちよ、ドナウ川で輝け!
その19 Lucian Pintilie&"Reconstituirea"/アクション、何で俺を殴ったんだよぉ、アクション、何で俺を……
その20 Lucian Pintilie&"De ce trag clopotele, Mitică?"/死と生、対話と祝祭
その21 Lucian Pintilie&"Balanța"/ああ、狂騒と不条理のチャウシェスク時代よ
その22 Ion Popescu-Gopo&"S-a furat o bombă"/ルーマニアにも核の恐怖がやってきた!
その23 Lucian Pintilie&"O vară de neuitat"/あの美しかった夏、踏みにじられた夏
その24 Lucian Pintilie&"Prea târziu"/石炭に薄汚れ 黒く染まり 闇に墜ちる
その25 Lucian Pintilie&"Terminus paradis"/狂騒の愛がルーマニアを駆ける
その26 Lucian Pintilie&"Dupa-amiaza unui torţionar"/晴れ渡る午後、ある拷問者の告白
その27 Lucian Pintilie&"Niki Ardelean, colonel în rezelva"/ああ、懐かしき社会主義の栄光よ
その28 Sebastian Mihăilescu&"Apartament interbelic, în zona superbă, ultra-centrală"/ルーマニアと日本、奇妙な交わり
その29 ミルチャ・ダネリュク&"Cursa"/ルーマニア、炭坑街に降る雨よ
その30 ルクサンドラ・ゼニデ&「テキールの奇跡」/奇跡は這いずる泥の奥から
その31 ラドゥ・ジュデ&"Cea mai fericită fată din ume"/わたしは世界で一番幸せな少女
その32 Ana Lungu&"Autoportretul unei fete cuminţi"/あなたの大切な娘はどこへ行く?
その33 ラドゥ・ジュデ&"Inimi cicatrizate"/生と死の、飽くなき饗宴
その34 Livia Ungur&"Hotel Dallas"/ダラスとルーマニアの奇妙な愛憎
その35 アドリアン・シタル&"Pescuit sportiv"/倫理の網に絡め取られて
その36 ラドゥー・ムンテアン&"Un etaj mai jos"/罪を暴くか、保身に走るか
その37 Mircea Săucan&"Meandre"/ルーマニア、あらかじめ幻視された荒廃
その38 アドリアン・シタル&"Din dragoste cu cele mai bune intentii"/俺の親だって死ぬかもしれないんだ……
その39 アドリアン・シタル&"Domestic"/ルーマニア人と動物たちの奇妙な関係
その40 Mihaela Popescu&"Plimbare"/老いを見据えて歩き続けて
その41 Dan Pița&"Duhul aurului"/ルーマニア、生は葬られ死は結ばれる
その42 Bogdan Mirică&"Câini"/荒野に希望は潰え、悪が栄える
その43 Szőcs Petra&"Deva"/ルーマニアとハンガリーが交わる場所で
その44 Bogdan Theodor Olteanu&"Câteva conversaţii despre o fată foarte înaltă"/ルーマニア、私たちの愛について
その45 Adina Pintilie&"Touch Me Not"/親密さに触れるその時に
その46 Radu Jude&"Țara moartă"/ルーマニア、反ユダヤ主義の悍ましき系譜
その47 Gabi Virginia Șarga&"Să nu ucizi"/ルーマニア、医療腐敗のその奥へ
その48 Marius Olteanu&"Monștri"/ルーマニア、この国で生きるということ
その49 Ivana Mladenović&"Ivana cea groaznică"/サイテー女イヴァナがゆく!
その50 Radu Dragomir&"Mo"/父の幻想を追い求めて
その51 Mona Nicoară&"Distanța dintre mine și mine"/ルーマニア、孤高として生きる
その52 Radu Jude&"Îmi este indiferent dacă în istorie vom intra ca barbari"/私は歴史の上で野蛮人と見做されようが構わない!
その53 Radu Jude&"Tipografic majuscul"/ルーマニアに正義を、自由を!
その54 Radu Jude&"Iesirea trenurilor din gară"/ルーマニアより行く死の列車
その55 Șerban Creagă&"Căldura"/あの頃、ぼくたちは自由だったのか?
その56 Ada Pistiner&"Stop cadru la masă"/食卓まわりの愛の風景
その57 Andrei Cătălin Băleanu&"Muntele ascuns"/田舎の安らぎ、都市の愛
その58 Octav Chelaru&"Statul paralel"/ルーマニア、何者かになるために
その59 Ruxandra Ghitescu&"Otto barbarul"/ルーマニア、青春のこの悲壮と絶望
その60 Eugen Jebeleanu&"Câmp de maci"/ルーマニア、ゲイとして生きることの絶望
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その411 ロカルノ2020、Neo Soraと平井敦士
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