鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

映画痴れ者/ライター済東鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

Ahmad Bahrami&"The Wasteland"/イラン、変わらぬものなど何もない

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何事も、永遠に続くことはない。どんなに頑強に建てられた家も、どんなに密な関係性を持つ共同体も、どんなに強靭な生命力を持つ生命も。この世界に在る限り、終りを持たないものというのは存在するはずもないのである。この至極自然な、しかしいつだって目を背けたくなる事実を固く見据える映画が、今回紹介するAhmad Bahrami監督作"The Wasteland"だ。

今作の主人公はロトフォラー(Ali Bagheri)という中年男性である。彼は生まれてから40年間、ずっと煉瓦工場を中心とした共同体で生きている。常に工場長(Farrokh Nemati)に従いながら、毎日労働をこなし日々を過ごしている。彼はこの地に自身の骨を埋めることにも疑問を持っていないかのようだった。

序盤、映画はそんなロトフォラーが生きる過酷な現実を真正面から映しだしていく。どこまでも灰色の荒廃が広がる世界、もはや廃墟と見分けがつかない工場で彼と同僚たちは粉塵を吸いこみながら労働に精を出す。単純労働ながら身体を酷使するゆえに、ロトフォラーたちの身体は少しずつ朽ちていく。その様は私たちは目撃することになる。

しかしこの鬱屈に反して、撮影は奇妙なまでの優雅さすら持っている。撮影監督のMasoud Amini Tirani長回しを基調としながら、目前の光景を見据える。そしてカメラはある種の優雅さをも伴いながら、登場人物たちの動きを追っていくのだ。そして荒涼たる風景からは崇高さすらも漲ることになる。さらに厳然たる濃淡を伴ったモノクロ撮影はこの印象を高めるのである。

ある日、工場長は工員たちに対して信じられない通告を行う。煉瓦製作にもとうとう限界が来てしまった、ゆえにこの工場を閉鎖すると。突然の言葉に動揺を隠しきれない工員たちだが、ロトフォラーは意外と冷静だ。だがそんな彼にも心配があった。最愛の女性であるサルヴァル(Mahdieh Nassaj)の未来だ。

今作は度重なる反復によって構成されている。工場での作業、工場長と工員の会話、工員たちそれぞれの家での日常、そして工場長の最後通告。これらが淡々とかつ延々と繰り返されることによって、果てしない徒労感や虚無感が今作には積みあがっていくのである。

そして個人の行動にも反復が見られる。労働の後、工員たちは家族とともに食事を取る。それが終わると、彼らは床に横たわり、身体に白い大きなシーツをかけ、眠りに就くのである。監督はこの光景を何人もの工員たちの日常において反復するのである。頗る奇妙な光景ながら、何か過酷なる現実を忘れたいという工員たちの切実さがここからは浮かぶようだ。

さらにこの反復のなかには工員同士の複雑な力関係が見えてくる。例えばクルド人であるシャフをめぐる状況である。彼はイランでは少数民族に属する人物であり、他の人物からはよく思われていない。この緊張感が高まることで、諍いが起こることも珍しくないのだ。ロトフォラーはこういった争いの調停役をも務める必要があるのである。

だがそんなロトフォラーに対して運命は残酷である。問題を起こした工員たちは工場長と話すことになるのだが、彼らは口々にロトフォラーに関して密告を行うのだ。例えば夜にクルド人たちと酒を飲みすぎて泥酔している、サルヴァルと密会を行っている。彼は工員たちから軽蔑される対象なのだ。物語が進むにつれ、その悲哀は濃厚なものになっていく。

今年のヴェネチア国際映画祭には2本のイラン映画が出品されたが、それらは2020年代におけるイラン映画の新たな局面を予告しているように思われる。以前はアスガー・ファルハーディ諸作を模倣するような饒舌なリアリズム作品が多かったが、そのリアリズムが多様化しているのを感じるのだ。例えばShahram Mokri監督作"Careless Crime"(紹介記事はこちら)はそのリアリズムを窒息するほどに濃密にすることで、映画館を放火しようとする男たちの姿を凄まじく不穏に描きだしていた。今作ではそのリアリズムは高貴なる芸術性に接近していき、例えばタル・ベーラ作品を彷彿とさせる荒涼の詩を感じさせる作品となっている。前年の傑作であるSaeed Roustaee監督作"Just 6.5"(紹介記事はこちら)における狂熱の社会派リアリズムも合わせ、イラン映画のリアリズムは新たなフェイズへ突入したと言ってもいいかもしれない。

そして工場閉鎖の日がやってくる。工員たちがこの地から出ていくなかで、ロトフォラーは粛々と工場の後始末を行っていく。そしてサルヴァルと最後の会話を繰り広げるうち、彼はある真実を知るのだが、その後にも彼は厳粛な面持ちで以て後始末を続けるのだ。終盤はそんな光景が延々と描きだされる。この悲壮なる最後に私たちの心は締めつけられる他ない。

今作の核はもちろんロトフォラーを演じたAli Bagheriだろう。彼は表立って感情を露にすることはない。果てしのない過酷さにおいても、彼は己の職務を静かに全うしていく。ロトフォラーにはそんな繊細なしなやかさが存在している。彼にとってはこの工場地帯が唯一の世界なのである。Bagheriはこの救いがたい悲愴感を静謐によって体現していき、私たちの網膜に底なしの絶望感を叩きつけるのだ。"The Wasteland"は"変わらないものなどない"という諸行無常の感覚を静かに、しかし壮絶に描きだした作品だ。そして私たちはロトフォラーの至る最後に言葉すら失うだろう。

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その408 Isabel Sandoval&"Lingua Franca"/アメリカ、希望とも絶望ともつかぬ場所
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その410 Oliver Hermanus&"Moffie"/南アフリカ、その寂しげな視線
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その412 Octav Chelaru&"Statul paralel"/ルーマニア、何者かになるために
その413 Shahram Mokri&"Careless Crime"/イラン、炎上するスクリーンに
その414 Ahmad Bahrami&"The Wasteland"/イラン、変わらぬものなど何もない

ジョージ・アーミテイジ論~のらりくらりと中指突き立て

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さて、皆さんはジョージ・アーミテイジという映画作家を知っているだろうか。正直、彼を知っている人はそう多くないだろう。唯一彼の監督作「マイアミ・ブルース」は日本でカルト的な人気を誇っているゆえに、今作の監督として記憶に残っている方はいるかもしれない。それからほとんど目立たない「ポイント・ブランク」「ビッグ・バウンス」の監督としても。私はこの現状が悲しくてしょうがない。ジョージ・アーミテイジはたった7作の監督作しかないながら、アメリカジャンル映画界で異様なる光を放つ偉大な作家なのだから。ということで"私が書かなければ誰が書く?!"とばかりに彼のキャリアと作家論を合わせた10000字にも渡る論考を執筆した。物好きな方、ぜひこの力作を読んでほしい。

まずはジョージ・アーミテイジ監督の経歴について記していこう。1942年、コネチカット州ハートフォード生まれ。母は作家で幾つか戯曲も執筆するほどだったが、映画業界で働きたいという夢があり、彼女についてアーミテイジはロサンゼルスへ引っ越す。住んでいたボールドウィンヒルズは様々な人種の住民がおり、さらに学校は自分以外の皆の親が俳優という特殊な状況で、ここでの経験は後の映画製作に大いに影響を与えたそうだ。

コネチカット州に住んでいた頃からアーミテイジは映画にも親しみ始める。最初は両親とともに、後には兄弟とともに映画館へ映画を観にいっていたそうだ。最初に観にいった作品は、叔父に連れられて観た「彼奴は顔役だ!」だそう。若い頃に衝撃を受けた作品はジョセフ・ロージー「緑色の髪の少年」スタンリー・キューブリック博士の異常な愛情だという。そしてロサンゼルスに引っ越した後は、映画に加えてサーフィンやレースにも親しみ(後者への愛情は後に第4長編「ホット・ロッド」として結実する)、青春を謳歌していた。

だが10代の頃には映画監督になろうという気はあまりなく、カリフォルニア大学ロサンゼルス校では政治科学と経済について学ぶ。それでも卒業後、彼は20世紀フォックスの郵便室に就職する。しばらくここで勤務するがフォックスがクレオパトラ(1963)の失敗で大打撃を受け、映画製作部が閉鎖、アーミテイジはTV制作部に行くことになる。そしてここで制作補としてソープオペラペイトンプレイス物語に参加する。彼はここで映像制作を学ぶとともに、後にアーミテイジのデビュー長編「あぶない看護婦」を製作するEverett Chambers エヴァレット・チャンバースというプロデューサーと親交を深める。

だが最も重要な出会いはあのロジャー・コーマンとの出会いだ。コーマンは監督作「聖バレンタインの虐殺/マシンガン・シティ」の製作途中だったが、アーミテイジはフォックスの上層部にあしらわれる彼の姿を目にし(アーミテイジは元々コーマン作品のファンだったという)、それでも映画の製作を続けるコーマンの元に赴き、将来について相談することになる。

1967年にフォックスを離れたアーミテイジは"A Christmas Carrot"という作品の脚本を執筆、これをコーマンの弟であるジーンが読むことになる。彼は脚本を気に入り企画を進めようとするのだが、企画は結局頓挫、それでも他の作品を一緒に作ろうとアーミテイジはある作品の脚本執筆を任される。それが彼にとっての脚本家デビュー作「ガス!」だった。ロジャー・コーマンの監督術を間近で学んだ後、ピーター・ボクダノヴィッチフランシス・フォード・コッポラがコーマン傘下から卒業することもあり、アーミテイジは彼らの後釜に収まることになる。"看護師の映画とスチュワーデスの映画、どっちが撮りたい?"とコーマンに聞かれ、アーミテージが"スチュワーデスの映画"と答えると、彼は"じゃあ、まあ看護師の映画撮っていいぞ"と言うので、こうしてアーミテイジのデビュー長編「あぶな「あぶない看護婦」い看護婦」の制作が始まる。彼は先述のチャンバースと再会、彼やFouad SaidというTV制作部のスタッフとともに15日で撮影を終わらせを完成させた。

この後、彼はさらにジーン・コーマンからMGMが死蔵していたらしい脚本を受け取り、彼の命令の元で黒人の暗殺者が主人公の、いわゆるブラックスプロイテーション映画脚本を完成させる。紆余曲折あり、今作の監督の座がアーミテイジに回ってきたことで、彼の第2長編"Hit Man"が生まれた(そしてこの脚本というのは後にマイク・ホッジス「狙撃者」のオリジナル脚本というのが発覚、後にホッジスの仕事仲間から"あいつは俺の作品をパクった!"というホッジスの悪口を伝えられたそうだ)

1975年、アーミテイジは再びのブラックスプロイテーション映画「ファンキー・モンキー・ベイビー」の脚本を執筆、この時は2つの警察機関が戦争を繰り広げるという内容の映画作品"Trophy"(脚本も彼が執筆)を手掛ける予定だったので監督はしなかったのだが、"Trophy"の企画が頓挫したことから提示されたアーミテイジは別の計画に着手、これが第3長編「恐怖の暴力自警団」として結実した。数年後、彼はTV局ABCの映画製作部から仕事を依頼され、タイトルだけを提示された後に10代に熱狂したストリート・レースについての物語を提案、そして1979年には第4長編「ホット・ロッド/0→400m 勝利への疾走」を完成させた。

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だがここから約10年の間、アーミテイジはスランプに陥ることとなる。彼曰く100の脚本と500のドラフトを執筆しながら、そのどれも映画として結実することはなかった。そんな中である1本の映画の計画が動きはじめる。Bill Horberg ビル・ホーバーグというプロデューサーが目をつけていたチャールズ・ウィルフォード執筆の犯罪小説を、俳優のフレッド・ウォードに見せたところ、彼は気に入り映画化権を所有することになる。彼は今作を監督してもらおうと映画作家ジョナサン・デミの元へ行くのだが「愛されちゃって、マフィア」の完成直後だった彼は、ウォードにアーミテイジを勧める。彼も乗り気になり映画監督に復帰、彼は第5長編「マイアミ・ブルース」を完成させた。

その後はジョン・キューザックが脚本と主演を務めた作品「ポイント・ブランク」を監督(アーミテイジが脚本にクレジットされていないが、キューザック以下脚本家が無能だったため大規模なリライトをノンクレジットで行ったらしい)し、2004年にはエルモア・レナードの原作を映画化した第7長編「ビッグ・バウンス」を監督する。だがプレプロ中の不慮の怪我、プロデューサーによる作品のPG-13指定など様々な要因が積み重なり、アーミテイジは完成前に映画から離脱する結果となる。それゆえか共同で脚本のリライトを担当したレナードも今作より1969年に制作された同原作の「悪女のたわむれ」の方がいいと公言するなど、評価は散々だった(なのでアーミテイジは本作を観たいという人物には彼だけが持っているディレクターズカット版を見せるという)

この後、今のところ彼は映画を監督していない。だが2015年時点、スクリプト・ドクターとして脚本家たちをサポートする一方で、2作の計画を進めている。まずは地球侵略を描いた映画を作る最中、本当にエイリアンが現れ拉致される映画スタッフたちを描いた"Hollywood"の脚本を映画化しようと奔走している。そしてもう1つ、アグノトロジー(無知学)という論をめぐる物語を準備しているそうだ。だが現在、その計画が進展したという話は伝わってこない。今はとにかく待つしかないのだろうが、コーマンもボグダノヴィチもコッポラも現役なのだから、ぜひとも新作を撮ってほしいところである。

ということでここからは作家論に入っていこう。アーミテイジ作品は常にアウトサイダーがとある町(もしくは共同体と呼称するべきかもしれない)へとやってくるところから始まる。例えば"Hit Man"では主人公が故郷のロサンゼルスへ帰り、「ホット・ロッド」は旅の途中にある主人公がある町に立ち寄り、「マイアミ・ブルース」では犯罪を繰り返した挙句にマイアミへとやってくる。この始まりを最も絶妙な形で表現するのがアーミテイジの長編デビュー作「あぶない看護婦」のオープニングだ。3人の看護師がサウスベイへと移住、彼女たちはこの町を彷徨う。郷愁そのもののような橙色に包まれた町は、切ないほどの輝きを放つ。そして看護師たちはそのなかをまるで妖精のように漂うのだ。そして主人公たちはこの共同体での生活を始める訳である。

ちなみにここにおいて主人公のタイプは2つに分けられる。1つは完全なる部外者である主人公がある町へ辿りつく(「あぶない看護婦」「ホット・ロッド」「マイアミ・ブルース」「ビッグ・バウンス」)そしてもう1つは元は共同体の構成員だった人物が故郷へ戻ってくるというパターンだ("Hit Man"「恐怖の暴力自警団」「ポイント・ブランク」)そもそもアーミテイジ監督作は7作と寡作だが、リストに入らない例外が存在しないのは興味深い。

そして監督はこの共同体内で主人公たちが遭遇する出来事を描きだすのだが、彼はこれらを一本芯の通った連続的な事象として描くことはしない。それぞれの出来事には明確な繋がりが存在しない、つまり無数の点の集積として物語を描きだしていく。「あぶない看護婦」は主人公である3人の物語が緩やかな断片として描かれる。その様は3本の独立した短編作品を目撃しているかのようだ。そして「ポイント・ブランク」は故郷で次々と幼馴染に会い、主人公が彼らと関係していく様を取り留めもなく描きだしていく。

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それ故にアーミテイジ作品を観る者は締まらなさを感じるかもしれない。物語に緊張感はほとんど存在しない。共同体の雰囲気は牧歌的なものであり、頗る緩やかな時間ばかりが流れている。これを魅力と取るか退屈さと取るかは観客次第だが、アーミテイジ自身はこれを映画文法として駆使する。例えば「ホット・ロッド」はこの緩慢さを在りし日のアメリカ、詳細に言えば50年代への郷愁へと接続する。そして私たちもまた50年代という名の憧憬へ身体を埋めることになる。ここにおいては50年代の音楽の数々も、その楽天主義的な響きで作品に作用していく。この方法論は「ポイント・ブランク」にも引き継がれる。意図的に引き延ばされた時間の中にザ・キュア"In Between Days"ヴァイオレント・ファムズ"Blister in the Sun"デヴィッド・ボウイ&クイーン"Under Pressure"など主に80年代を彩った楽曲群が放りこまれる。そうして映画は在りし時代への郷愁それ自体へと変容していくのである。

そしてこの牧歌性や緩やかさに寄与している要素がもう1つある。それは俳優のアドリブを重視するアーミテイジの演出法だ。映画に使われる脚本はあくまでアウトラインであり、それを基に俳優たちに登場人物の言葉ひいては性格を作らせるのだ。特に「あぶない看護婦」では主演の女性たちにアドリブを行わせることで自分の知らない女性にまつわる事象を映画に反映させ、さらに"Hit Man"では俳優たちの力を借りやはり彼にとって未知である黒人文化を作品に取りこんでいった訳である。この風通しの良さがアーミテイジ作品の緩やかな自由さを生みだしているのだ。

映画にはもちろん主人公となる人物が存在する。だがアーミテイジ作品は作品の規模の割に、登場人物がすこぶる多く登場する。彼ら脇役への書きこみも詳細であり、その存在感は主人公を喰ってしまうほどだ。一瞬登場しただけなのに鮮明に思いだせる人物が、アーミテイジ作品には少なくない。「あぶない看護婦」の妙にヘラヘラした大家、「マイアミ・ブルース」の指を折られてショック死するクリシュナ教徒や主人公の指を肉斬り包丁でブッた切る質屋の主人、「ポイント・ブランク」の町民たち(私はゲームに夢中で後ろの銃撃戦に気づかない店員がお気に入りだ)などなど。

彼らはいわばアーミテイジ映画における共同体の構成員として登場する訳である。その様はロバート・アルトマンの群像劇、例えばナッシュビル「ショートカッツ」といった作品を彷彿とさせる。これを象徴するのが「ポイント・ブランク」の同窓会だ。会の受付係の妙なキャラの立ち具合からかつてのいじめっ子、赤ちゃんを連れてきた女性など彼らの言葉からはそれぞれの人生が浮かびあがるが、それ以上に共同体の風景をも浮かびあがるのだ。こうして登場人物たちの行動や言葉が有機的に結びつくことで、共同体という概念それ自体が浮かぶのである。そして「恐怖の暴力自警団」ではラストで暴君と化した自警団リーダーの兄を倒した後、町民たちは総出で主人公を迎える。その時、星条旗のスーツを着た少女がやってきて、主人公は彼女を抱きしめるのである。ある意味でこの共同体意識はアーミテイジのアメリカを描きだすという野心の現れなのかもしれない。

そしてここにおいて注目すべきはアーミテイジの初脚本作品「ガス!」(1970)である。今作は、兵器ガスの流出によって25歳以上の大人が全滅した世界で旅を続けるヒッピーカップルを描いた作品だ。彼らは旅をして定住の地を探し、最後には自分たちの共同体を作りあげる。共同体への先鋭な意識はキャリアの最初期から存在していたのだと分かる1作であり、今後のアーミテイジ作品の雛形がここには存在している。

そしてアーミテイジ映画の主人公となるのは既存の体制への反抗者が多い。例えばクールな暗殺者、チンケな小悪党、剽軽な詐欺師などだ。立ち位置が法に背く者でなくとも、反抗心は変わらない。例えば「ホット・ロッド」の主人公であるレーサーは別に犯罪を起こさないが、警察に対して飄々とした反抗の心を見せ続ける。そして「恐怖の暴力自警団」の主人公は最初ただの心優しい好青年だが、兄が反抗者から新たな権威へと堕した時、彼を倒して町に平和を取り戻す。

これに関連してアーミテイジ映画には特に警察への圧倒的な不信感が存在している。脚本執筆作「ファンキー・モンキー・ベイビー」では冒頭10分で2回も警察に職務質問をされ、2回とも主人公である黒人女性バイカー集団が彼らをボコボコにする。「ホット・ロッド」では主人公が車に乗っている時、異様なまでに警察に喧嘩を売られる(おそらく10回は下らない)が、持ち前の飄々ぶりで彼らの追跡を躱していく。

さらにアーミテイジはアメリカで生きることそれ自体がサバイバルに繋がらざるを得ない、アウトサイダーとしての黒人たちへの共感を隠さない。まずデビュー長編「あぶない看護婦」から黒人女性を主人公に据え、"Hit Man"「ファンキー・モンキー・ベイビー」ではブラックスプロイテーション映画に真正面から挑戦している。特に後者ではアメリカにおける黒人差別(そしてその原因となる白人特権)について痛烈に批判している。ある時、白人の中年男性が人気者になるため"黒人のおかま"に変装、そして彼は白人の武装警官によって射殺される。この光景はトランスの黒人女性が多く殺害されている現在のアメリカを思うと戦慄するほどの今日性に溢れている。さらに今作の悪役はコーネル・サンダースを模した白髭の男性だが、彼の目的は黒人リーダーのクローンを作り、人種差別的な白人リーダーに投票させ、黒人たちに追随させることだという。何とも迂遠な計画にも思えるが、選挙という国民の権利を根本から強奪しようとする作戦は長い目で見て致命的、かつ先見性に満ちているように思われてならない。

これはアーミテイジ作品の主人公に反抗者が多いことに関連するが、彼の作品には犯罪映画や犯罪小説への傾倒が見られる。彼は一貫して暴力と犯罪を描きだしている映画作家なのだ。特に小説家チャールズ・ウィルフォードエルモア・レナードへの傾倒は興味深い。この傾倒が後に彼らの原作の映画化、ウィルフォードの「マイアミ・ブルース」とレナードの「ビッグ・バウンス」の映画化へ繋がる訳である。

そして彼の犯罪ものへの傾倒を語るうえでは欠かせない人物がいる。それが映画作家クエンティン・タランティーノである。アーミテイジはタランティーノが勤めていたレンタルビデオ店の常連であったという繋がりがあるのだが、それ故かアーミテイジの脚本作「ファンキー・モンキー・ベイビー」に"荒唐無稽なる風刺劇"という讃辞を送っている。さらに興味深いことにタランティーノ「マイアミ・ブルース」の原作をパルプ・フィクションの元ネタの1作と公言しているのである。アーミテイジ作品の核は本筋がほとんど存在しない、無数の点の集積で構成された、脇道に逸れつづける語りだということは先述したが、この語りの方法論はタランティーノに影響を与えているのではないかと私は密かに思っている(少なくとも「ファンキー・モンキー・ベイビー」などでアーミテイジの作品に触れていたことは確かだ)

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だが面白いのはアーミテイジも逆にタランティーノの影響を濃厚に受けていることだ。アーミテイジ作品では会話劇がそこまで主体になることはなかったが、後期の2作「ポイント・ブランク」「ビッグ・バウンス」(後者はタランティーノジャッキー・ブラウンと同じくエルモア・レナード原作であることも興味深い)は会話劇主体の犯罪映画となっており、この作劇法はタランティーノ以降の犯罪映画の作劇に則っている感触がある。特に「ポイント・ブランク」には双方向的な影響が顕著だ。

そしてアーミテイジ作品の主人公に特徴的なのは、彼らがマッチョイズムを巧妙に回避していることだ。"Hit Man"「ホット・ロッド」「ビッグ・バウンス」といった作品の主人公たちは反抗的ながらしなやかで、飄々たる存在感を持っている。そして「マイアミ・ブルース」では原作に存在した女性差別的な言動をわざわざ排除した上で、主人公のキャラを構築し直しているのだ。「恐怖の暴力自警団」ではマッチョイズムの権化と化してしまった兄クリス・クリストファーソンを。お世辞にも男らしいとは言えない痩身の青年ジャン=マイケル・ヴィンセントが打ち倒す。そして兄と彼を蝕む有害な男性性はまるで「白熱」ジェームズ・キャグニーのような死を遂げるのである。

男性描写に関連して、アーミテイジの作品にはジャンル映画には珍しい女性キャラの深みがある。そもそも彼のデビュー長編は異なる性格の3人の看護師を描いた「あぶない看護婦」だった。前作「もっともあぶない看護婦」において、女性監督であるステファニー・ロスマンは作品にフェミニズムの精神を込めた。全てではないにしろ、アーミテイジは彼女からフェミニズムを継承し、強さや脆さを併せもつ複雑な女性キャラを作りあげた。そしてファンキー・モンキー・ベイビーズのパワー漲る黒人女性たち、「マイアミ・ブルース」「ポイント・ブランク」において物語が展開するにつれ更に複雑になっていく複層的なヒロインたちへと繋がっていくのである。

このアーミテイジ作品におけるジェンダー描写に関して、比較検討したい興味深い1作が存在する。それが彼が脚本執筆に参加した1990年制作の「ブルーヒート」である。今作は4人の麻薬捜査官が取引の裏側に広がる国家的な陰謀を食い止めんとする姿を追った作品である。今作は80年代90年代に典型的だったマッチョな警察映画の1種であり、冒頭のアメフト描写や主人公たちの会話内容からホモソーシャル的な価値観が濃厚なのは明らかである。そこで女性キャラはほぼ警察官の妻たちしか存在せず、彼らは殉職した夫のために泣くか、サスペンスの駒として悪役に襲撃されるかしか役割はない。監督ジョン・マッケンジーは50年に渡って、例えば「長く熱い週末」など男臭いジャンル映画を作ってきた職人監督だが、本作は彼の作家性に支配され、アーミテイジの筆致は微塵も存在しない。実際、アーミテイジの仕事は常に雇われ仕事であったが、今作ほどに雇われ感が露骨な作品はない。そもそも主人公が警察官など、彼の監督作品では全く有り得ないだろう。

さて何度か説明してきた通り、彼の作品は緩やかさや遅さが持ち味である。ハリウッド映画やジャンル映画の駆け足な展開に反旗を翻すような意志がここには存在している。それ故に彼の作品はダラダラと弛緩しているという誹りを受けることもある。例えば「あぶない看護婦」はいわゆるセクスプロイテーション映画を期待したジャンル映画の好事家にはかなり酷評されている。だがそれは意図的なものだろう。アーミテイジはジャンル映画を作りながらも、あえて即物的な快楽に背を向けるような緩慢さを演出している。その中でしか描けないもの――それは今まで長々と書いてきた要素たち――があるからだろう。そして彼の作劇はある意味で現代においてスローシネマと呼ばれる作品群とも呼応するような感触すらあるのだ。

だがスローシネマになくて、アーミテイジ作品には存在するもの、それこそが湧きあがるような多幸感だ。彼の作品のなかには緩慢な時間のなかに生きることの煌めきと喜びが現れる瞬間が多く存在する、彼の作品のほとんどが犯罪映画であるというのに。例えば「ホット・ロッド」で主人公が夜の闇を愛車で疾走する瞬間、「ポイント・ブランク」冒頭の奇妙にスラップスティックな暗殺場面、「ビッグ・バウンス」で傲慢な男の顔面を主人公がバットでブチのめす瞬間……「ビッグ・バウンス」などはこの多幸感の手癖だけで作られた、多幸感以外は何も存在しない映画と言えるほどだ。

そしてこういった意味で私たちは、彼の映画作家としての全ての始まりである「あぶない看護婦」のオープニングへ立ち戻ることになる。私はSkyの鮮烈で胸を締めつけるような旋律のなか、郷愁がそのまま色彩を得たかのような黄昏のなか、3人の主人公がただ気ままに街を歩きつづける光景を見るだけで涙が出てくる。私はジョージ・アーミテイジという偉大なる映画作家に出会えてよかったと思う。そんな魅惑的な力が彼の作品には存在しているのだ。

さて最後に私はジョージ・アーミテイジを、世界の最先端に生きる映画作家と繋げてみたい。"Hit Man"や第4長編「ホット・ロッド」のある種異様な遅さに触れ、頭に思い浮かんだのは"もしかしたらジョージ・アーミテイジS.クレイグ・ザラーの先駆者だったのかもしれない"という仮説だ。そのミニマルな遅さを以て、共同体や世界そのものを描く手捌き。何か似たものを感じさせるのだ。

アーミテイジもクレイグ・ザラーもジャンル映画の制作に精魂を注ぎながら、他の作品とは一線を画す作風、詳しく言えばジャンル映画の即物的な快楽に背を向けるような大局的緩慢さを作品の核に据えている。それはまるでそこにこそ豊穣さが宿ると、巨大なる世界が浮かびあがると熟知しているようだ。

そんな中で2人の違いといえば、アーミテイジの暴力描写は割と軽い一方で、ザラーの暴力描写は凄まじく血腥いことだ。そしてそれは人間の尊厳というものへの考えの違いを浮き彫りにしている印象を受ける。アーミテイジは人間の尊厳が貫かれる様を見据え、ザラーは人間の尊厳が踏みにじられる様を見据える作家と。ここで思うのはアーミテイジの「マイアミ・ブルース」で、もし彼がチャールズ・ウィルフォードの原作から女性差別的な要素を排さなければ、ザラー作品のようになっていたのではないかということだ。ザラー作品においては、日常に根付く強烈な差別意識アメリカという世界を浮かびあがらせる鍵だからだ。

ジョージ・アーミテイジS.クレイグ・ザラーの作品には似通った雰囲気がある。だがむしろそれは2人の違いを際立たせるために存在しているようにも思われる。「マイアミ・ブルース」と例えば「ブルータル・ジャスティス」の違いこそが、この2人のアメリカ人映画作家に線を引いているのだと。

ということで長くなったが、ここでジョージ・アーミテイジ論を終えたいと思う。アーミテイジ作品は、日本では「マイアミ・ブルース」がカルト的な人気を誇っているが、私はシネフィルたちにそこで止まるなと言いたい。カルト的な人気があるから観て"あー面白かった"とただ消費するだけでは先には進めないのだ。せめてIMDBを通じて監督ページに飛び、そのフィルモグラフィを読むくらいはしろと。私としてはそんな人物が1人でも多く増えてほしいとこの論考を執筆した訳である。皆さんもぜひジョージ・アーミテイジの作品を楽しんでほしい。それでは。

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集まれ、あぶない看護婦たち!~めくるめくNurseploitationの世界

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エクスプロイテーション映画、セクスプロイテーション映画、ブラックスプロイテーション映画、そういったジャンル名に聞き覚えのある方は多いかもしれない。だがNurseploitation ナースプロイテーション映画という名前を聞いたことがあるだろうか。その名の通り今作は看護師を主人公としたエロ映画を指し示すジャンル名であり、アメリB級映画界の巨匠であるロジャー・コーマンが金を稼ぐためにこのジャンル作品を作りあげたのである。そしてあまりの人気ゆえにこのシリーズは5作作られることになる。だがこういったB級映画の常として、これらは映画史の闇に消えてしまった。だがマイナー映画が好きな私としては、こういった作品群にこそ隠された映画史があるのではないかとワクワクが抑えられなくなる。という訳で私はこの5作全てを鑑賞、70年代前半に綺羅星のごとく輝いたNurseploitation作品の歴史を今から語りたいと思う。そんなん知りたい奴はそんなにいないと思うが、この記事を読んで1人でもNurseploitation映画に興味を持った物好きがいればそれほど嬉しいことはない。それではめくるめくNurseploitation映画の世界へ。

とはいえ、まず書くべきなことが1つある。このNurseploitation映画は全てが日本でVHS化されているのだが、この邦題がかなりの問題だ。先述通りこのシリーズは5作まで続いたのだが、日本では受容がバラバラであった故に邦題がおかしなことになっている。ここでそれを並べてみよう。

1作目"The Student Nurses"→「またまたあぶない看護婦」
2作目"Private Duty Nurses"→「あぶない看護婦」
3作目"Night Call Nurses"→「もっともあぶない看護婦」
4作目"The Young Nurses"→「もっとあぶない看護婦」
5作目"Candy Stripe Nurses"→「帰ってきたあぶない看護婦」

おそらく「あぶない刑事」シリーズに便乗したのだろうが、全く紛らわしいことこの上ない訳である。この5作はコンセプトだけが一緒で全てが独立しているので、どう並べてもいいだろうが、正直気持ちが悪い(とはいえおそらくアメリカ人もこの題名でシリーズ順に並べろと言われても無理だろう)なので、この後からは全て原題で紹介していくことをご了承いただきたい。

さて、早速Nurseploitationの1作目である"The Student Nurses"(「またまたあぶない看護婦」)の成立までを見ていこう。監督としてもプロデューサーとしても大いに活躍していたロジャー・コーマンは、弟であるジーン・コーマンとともにAIPを離脱、自分たちの制作・配給会社New World Picturesを設立する。彼らがまず最初に制作したのがリチャード・コンプトン監督作"Angels Die Hard"(1970)だった。炭鉱街に生きるバイカー集団の姿を描きだした今作は予算12万5000ドルのところ、70万ドルを稼ぎだし大成功を収めた。ちなみにコンプトンは後に"Macon County Line"という異形のジャンル映画を作る、注目すべき映画作家であるので名前を覚えていて損はない。

そしてコーマンたちは2作目の制作に入ろうとするのだが、そのアイデアを齎したのはNew World Pictures設立の立役者Larry Woolner ラリー・ウールナーだった。看護師を主人公としたセクスプロイテーション映画を作るべきだと提案したのだ。看護婦は男性たちにとって人気のファンタジーであり、それで彼らの妄想を満たそうと考えたのである。彼らは出せるだけの裸を出せるR-rated映画の計画を立て、それに適任の監督を探しだそうとする。そこで白羽の矢が立ったのがStephanie Rothman ステファニー・ロスマンという女性だった。

ここで彼女の経歴について紹介しよう。1936年ニュージャージーに生まれた彼女は、ロサンゼルスで子供時代を過ごすが、映画制作に興味を持ったきっかけはイングマール・ベルイマン「第七の封印」を観たことだった。カリフォルニア大学バークレー社会学を学んだ後、彼女は南カリフォルニア大学で映画製作を学びはじめる。そして卒業後、彼女はコーマンから仕事のオファーをもらい、彼のアシスタントとして働くこととなる。「踊る太陽」や「原始惑星への旅」といった作品の現場で働き、1966年には彼女が大部分の再撮を行ったことで"Blood Bath"の監督としてロスマンの名が冠されることになる(共同監督はあの「コフィー」「スウィッチブレイド・シスターズ」を作ったジャック・ヒルである)

これらの仕事に大いに満足したコーマンは、ロスマンの初の単独監督作を任せることになる。それが"It's a Bikini World"だった。今作は先述の「踊る太陽」に代表されるBeach partyというジャンルに属する1作で、海岸を根城とするモテ男がフェミニストの少女と出会い変わってゆく姿を描いた作品だった。だが今作の撮影は困難を極めたようで、ロスマンは自分が映画監督を続けられるか疑問に駆られ、しばらく映画制作から離れることになる。しかし映画監督として活躍する夢を再確認した後、映画界に復帰、再びコーマンの元で「ガス!」(1970)のプロダクション・アシスタントを務めることになる。ここでコーマンから任されることになった仕事が"The Student Nurses"だった。コーマンから創作的な自由を与えられ、彼女は時代の空気感を反映した意欲的作品を完成させることになる。

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"The Student Nurses"のレビューに入る前に、まずNurseploitationの伝統について記そう。主人公はもちろん必ず看護婦である、しかも複数。"The Student Nurses"は例外的に主人公の看護婦は4人だが、これ以後は最終作まで3人が続く。そして彼女たちがそれぞれ別々の事件に遭遇することになる。コーマンの言葉によれば"コメディ的な事件、エロい事件、政治的な事件"である。"The Student Nurses"は4人なので重複があるが、2作目"Private Duty Nurses"からはこの3つの事件がそれぞれに割り振られる(が、最終作"Candy Stripe Nurses"では面倒臭くなったのか放棄されている)そして2作目から看護師の1人が黒人もしくはヒスパニックといわゆるPoCがあてがわれるのだが、彼女たちにはかならず"政治的な事件"が割り振られる。例えば黒人差別やブラックパワーなどだ。そして例えどんな暗い展開があろうと、基本的に最後は大団円である。まあエクスプロイテーション映画を観にきて、最後に暗い気持ちで劇場を去りたい人間はいないだろう。そういうのは文芸映画に任せておけと。という訳でNurseploitation映画のお決まりについて書いてきたが、もちろん作品ごとにその取り組み方は微妙に変わってくるので、そこはぜひレビューを参考にしてほしい。

ここからは"The Student Nurses"のレビューに入っていこう。今作の主人公は同じ病院で働き、住む家も共有している4人の看護婦フレッド(Karen Carlson)、プリシラ(Barbara Leigh)、シャロン(Elaine Giftos)、リン(Brioni Farrell)だ。彼女らは病院で勤勉に働きながら、若さを謳歌している。だがある時、4人はそれぞれ人生の試練に直面することになる。

その試練というのがこれだ。フレッドは病院のセクシーな医師ジム(Lawrence P. Casey)に恋をして、騒動を巻きおこすことになる。プリシラは麻薬の密売人と恋人同士になるのだが、妊娠した直後に彼は逃走、中絶を決意することになる。シャロンは末期患者である青年を担当するのだが、彼の運命を知りながら愛を育みはじめる。そしてリンはヒスパニックの革命論者ビクトル(Reni Santoni)と出会い、ヒスパニック社会の苦しい現実を知る。

ロスマンはこの4人の看護師をめぐる群像劇を、職人的な手捌きによって捌いていく。序盤においてそれは悪く言えば無難なものであり、特筆すべきものはあまりない。乳房やお尻が時々現れる、普通のエクスプロイテーション映画といった印象を抱く訳である。

それでも物語が進むにつれて、監督の手腕が少しずつ解放されていく様を私たちは目撃するはずだ。例えば普通の劇映画的な撮影のなかに、ふと異物が現れる瞬間がある。例えばヒッピーたちの公園での会合が描かれる時、今作は限りなくドキュメンタリーに肉薄する。はしゃぐ子供たち、ギターを掻きならす青年、ただただ芝生のうえで休む女性、そしてその光景を見ながら笑みを浮かべるプリシラ。そんなドキュメンタリー的映像が劇映画に挿入される瞬間、今作は時代の空気感というものを反映するのである。

そして今作はどちらかと言えばリアリズム重視の演出が成されているが、先述のやり方でふと魔術的リアリズムを彷彿とさせる演出が現れる瞬間がある。例えばプリシラが砂浜で幻視する光景、いるはずのない医師や看護師たちが恋人と肌を重ねる彼女を酷薄な視線で眺める。そしてこの光景は彼女が中絶を行う際にも反復されるのだ。彼らの視線は、まるで社会にそぐわない行為を行うプリシラを罰するようだ。ロスマンはこうして不満や悲しみを抱く4人とそれを取り巻く社会を描きだす訳である。

そして今作はその精神において、少しずつ真価を発揮していく。ロスマンはメインストリームの映画において女性の描かれ方が画一的なこと、注目されるべき社会問題が描かれないことに不満を持っていた。それ故に彼女は問題意識を以て脚本を執筆する。今作の物語はそんなロスマンの抵抗の記録でもある。彼女が描く女性たちは思想においても実際の行動においても独立したものであり、そんな彼女たちが深い問題と対峙していく。フレッドは愛の複雑に苦悩し、シャロンは愛と命のタイムリミットに苦しみ、リンはアメリカが弱者を抑圧する現実に衝撃を受ける。その懊悩は全て同じところが存在しない。彼女がアメリカにおけるフェミニスト映画作家のはしりと呼ばれるのはそういった姿勢が基だろう。

そしてこの精神が最も如実に現れているのはプリシラの物語である。当時アメリカにおいて中絶は違法行為であり、様々な意味で命を懸けざるを得なかった。だが映画は時代の影に隠れた女性たちの苦しみに目を向けてこなかった。それ故に今作は当時における中絶を真正面から描いた貴重な作品という訳である。

上述したプリシラの物語と同じように、看護師たち皆の物語の結末は苦い。フレッドはジムとの恋に破れ、傷心に打ちひしがれる。シャロンは運命づけられていた患者の死に直面し、失われた愛への悲しみに暮れる。そしてリンはビクトルが警察に襲撃されたことを受け、彼と逃亡することを決意する。しかしロスマンは彼らの人生に祝福を与える。題名の通り4人は看護師学校の生徒であり、卒業する時がやってくる。その時、彼女たちの顔に悲壮感は全くない。苦悩の後の不確定な未来に向かって、4人は笑顔で進んでいくのである。

最後にロスマン自身の言葉を引用しよう。"ステファニー・ロスマンの映画は自己決定にまつわる問題と対峙しています。私が描く登場人物は人間存在の移り変わりにおける、人道的で合理的なやり方を築きあげようとしています。私の映画はいつもその続きを描いている訳ではありませんが、良き戦いを戦うということにいつだって関心があるんです"

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さてここからは少しロスマンの今後について見ていこう。彼女は今作を作り終えた時、何とエクスプロイテーションという概念を知らなかったそうだ。批評家に指摘されて、初めてこういった映画が存在するのを知ったのだ。困惑しながらもロスマンは今後エクスプロイテーション映画を作り続けることを決意する。彼女は今作の続編(つまり"Private Duty Nurses"だ)やいわゆる女囚映画の1つである「残酷女刑務所」の監督仕事を持ちかけられるが、自分の作りたい映画のために就任を固辞し(結局後者の監督には先述のジャック・ヒルが就任する)、1974年には第3長編「ベルベット・バンパイア」を監督する。今作は将来カルト的な人気を博するが、当時は興行的に失敗してしまった。

これを機に金に関してケチ臭いロジャー・コーマンを見限り、公私におけるパートナーであるCharles S. Swartz チャールズ・S・シュワルツとともにNew World ProductionからDimension Picturesに移籍する。ここで彼女は"Group Marriage""Terminal Island"といったB級映画群を作るのだが、エクスプロイテーション映画を作ることに限界を感じ、Dimension Picturesを去ることを決意する。だが過去に作った作品が仇となり、まともに仕事にありつけない状況に陥ってしまう。それでももっと革新的な映画を作ろうと彼女は奔走するのだが、最後には諦め、映画界を去ってしまった。

だが後年、彼女の作品は"男性のファンタジーで構成されたエクスプロイテーション映画というジャンルを転覆した"と再評価され、特に"The Student Nurses"フェミニズムという文脈から高く評価されてカルト的な人気を博することになる。その人気は"Stephanie Rothman: R-Rated Feminist"という研究本が発売されるほどだ。彼女は"エクスプロイテーション映画界のアイダ・ルピノ"という偉大なる評価を獲得した訳である。そしてその出発点が"The Student Nurses"だったのだ。

という訳で本筋に戻ろう。そして"The Student Nurses"が好評だったことで、すぐさま2作目の計画が立ちあがる。コーマンは1作目に激怒した付添い看護師協会(Private Duty Nurses Association)から抗議の手紙を受け取り、これを2作目の構想に利用したのである。そしていざ映画を製作しようという段階になるのだが、この時期、ピーター・ボグダノヴィチフランシス・フォード・コッポラといった才能がコーマンの元から巣立っていったことによって、コーマンは新たな人材を探していた。そこで目をつけたのがジョージ・アーミテイジだった。彼はコーマンの監督作「ガス!」の脚本を執筆、ちょうど映画監督としてデビューしたいという野心を持っていた。コーマンは彼に"看護師の映画とCAの映画、どっちが撮りたい"尋ねる。アーミテイジは"CAの映画が良いです"と答えながら、コーマンは"じゃあ、まあ看護師の映画なら作っていいぞ"とだまくらかし、アーミテイジは初監督作として"Private Duty Nurses"(「あぶない看護婦」)を手掛けることになる。

主人公はスプリング(Katherine Cannon)、ローラ(Joyce Williams)、リン(Pegi Boucher)という3人の女性だ。彼女たちはサウスベイに引っ越してきたばかりなのだが、付添い看護師として近隣の病院で働きはじめる。そんな中で3人はそれぞれに試練と直面することになる。

まず観客の目を奪うのはOPの息を呑む美しさだ。70年代初頭に活躍したロックバンドSkyの叙情的な音楽を背景に、カメラはサウスベイを彷徨う3人の姿を見据える。砂浜に愛撫する波、その傍らをのほほんと歩くカモメたち。3人は笑顔を交わしながら、海岸から街中へと向かう。車の群れが穏やかに走り、人々が能天気に道を歩くとそんな光景は、橙色の優しい色彩に包まれている。その中をフラフラと彷徨う3人の姿はまるで無邪気な妖精だ。

ここにおいて先述のロックバンドSkyの存在感も重要だ。アーミテイジは彼らが高校で演奏をしているところに立ちあい、映画に起用したのだという。彼らの紡ぐ切ない音楽は黄昏の彩りと共鳴することで、私たちを在りし日のアメリカへの郷愁に誘う。観客は、まるで自身も70年代初頭のサウスベイにいたという錯覚を覚えるはずだ。この言葉を越えた切なさは映画全体の雰囲気をも予告している。

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病院で働くなか、3人は騒動に巻きこまれることになる。スプリングは部屋の大家と懇意になるのだが、彼が麻薬組織と繋がっていたことから泥沼に嵌ってしまう。リンはサウスベイのゲットーで働く黒人医師エルトンと出会い、彼と働くうちに黒人差別の実態を知る。そしてリンはベトナム帰還兵であるドミノの担当を任されるが、仕事を越えて彼に恋をしてしまう。

当然だが、前作に続いて今作は直球のセクスプロイテーションとして展開する。女性たちの日常を描きだしながら、セックスを通じて気軽に乳房や裸が露になり、観客の目を楽しませていく。が実際鑑賞するとそういったエロ描写は少ないので、好事家は不満に思う面もあるかもしれない。

だが今作を、後に「恐怖の暴力自警団」「マイアミ・ブルース」を完成させるアメリカ・ジャンル映画界の異才ジョージ・アーミテイジ作品として見ると、彼の刻印が濃厚に焼きついていることに驚くだろう。彼の持ち味はジャンル映画の即物的快楽から遠ざかった緩慢なるリズムだが、これが正に息づいており、頗るゆっくりとしたペースで物語が紡がれていく。

さらに形式上の主人公は存在しながらも、実際の主人公は彼女たちが住む街、もしくは共同体それ自体というのも一貫している。これは"サウスベイを行く主人公たち"というより、むしろ"主人公たちが行くサウスベイ"に撮影の比重が置かれたOPからも明らかだ。そして撮影監督John McNicholはオープニング以後もサウスベイを魅力的に映しとる。自転車に乗った人々が爽やかに走る海岸沿いの道、潔癖的で硬質な威圧感を伴った病院の廊下、Skyが演奏をするクラブの鮮烈な赤の色彩……

さらに彼の脚本には芯の通った物語が存在する訳ではない。アーミテイジは主人公たちの日常を無数の断片として素描することで、幾つもの人生が息づく街それ自体を描く野心を持っている。この試みがデビュー長編から貫かれているのである。そして見逃せないのは前作"The Student Nurses"とは違い、看護師の1人が黒人になっていることである。アーミテイジは第2長編"Hit Man"や脚本執筆作ファンキー・モンキー・ベイビーズなど黒人文化への深い傾倒が見られるのだが、今作で彼は看護師の1人を黒人に変え、この伝統は4作目の"The Young Nurses"まで続くことになる(そして5作目の"Candy Stripe Nurses"も看護師の1人はヒスパニックである)

"Private Duty Nurses"はジャンクフード的な快楽を提供するべきセクスプロイテーションとしては少し退屈かもしれない。だがジョージ・アーミテイジという偉大なる映画作家の作品として観るなら、"デビュー作には作家の全てが詰まっている"という言葉がこれほど当て嵌る作品はないと思われる。この緩慢なるリズムのなかに宿る切ない多幸感をぜひ味わってほしい。

そして第3作目"Night Call Nurses"(「もっともあぶない看護婦」)である。3作目の計画に乗りだした。コーマンが適任の監督を探していたところ「明日に処刑を…」を完成させたばかりのマーティン・スコセッシにある人物を勧められる。その人物ジョナサン・カプランニューヨーク大学でのスコセッシの教え子で、短編"Stanley"が学生映画祭で賞を獲ったばかりだった。コーマンは、ニューヨークで編集技師として活動しているカプランを呼びだし、監督に就任させる。カプランはNurseploitation映画を1本も観ていない状態で、今作の伝統である"複数の看護婦を出す"という条件とともに、"ディック・ミラーに役を用意する"、"ブローバの時計を宣伝する"、"ジェンセン・モーターズの車を活躍させる"など様々な注文をつけられながら、友人であるJon DavisonDanny Opatoshuと脚本を執筆、そして15日間で初長編を完成させる。これが"Night Call Nurses"制作の顛末である。

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さて今回も前回に続いて3人の看護師バーバラ(Patty Byrne)、ジャニス(Alana Hamilton)、サンドラ(Mittie Lawrence)が主人公である。彼女たちが勤めるのはとある精神病棟だ。ここには相当な問題を抱える患者たちが多くいて、3人は手を焼いている。更に彼女たちは奇妙なヒッピー集団、ストーカー、黒人革命家と遭遇し、騒動は更に複雑なものになっていく。

私は前作"Private Duty Nurses"を激賞したのだが、そこにあったアーミテイジの野心はジョナサン・キャプランに監督が代わるにあたって消滅していると言っていい。アーミテイジに比べるとキャプランの手腕は新人監督相応に未成熟なものだ。彼はコーマンの制作条件に職人として応答しながら、そこに彼独自の刻印を焼きつけることはできなかった風に思える。今作はかなり無難な出来だ。

この記事を書く前にアーミテイジ論を執筆していた故、彼の痕跡に注目してしまうのだが、今作で彼は脚本を担当している(共同執筆は「ハリウッド・ブルバード」も手掛けたDanny Opatoshu)強引にアーミテイジの作家性を探すと、彼の作品は妙にキャラの濃い脇役が多く登場、この無数の声を作品の複層性へ昇華していくのだが、今回は舞台が精神病棟ということで序盤には奇妙な患者が多く登場する。が、物語が展開するにつれ彼らはほぼ出番なしになるので作品の完成度に寄与することはない。

それでもこのNurseploitationの特色は70年代前半という時代の空気を濃厚に反映している点だ。例えばバーバラはヒッピーの自己啓発セラピーに参加し、リーダーの言葉に従って参加者たちが次々全裸になっていく姿を目撃する。最初はこの自己解放に反感を抱くバーバラだったが、徐々にリーダーに深く魅了され、彼と肌を重ねあわせることになる。1972年といえばヒッピー文化が退潮の兆しを見せていた時期だが、未だにこういう出来事は起こっていたのだろう。

そんな本作、最後には3つのプロットが乱雑に1つになって妙なアクション絵巻が繰り広げられることになる。銃撃戦、トリップ状態でへっぽこドライブ、ダイナマイト炸裂などなどやりたい放題である。セクスプロイテーション映画としての枠を出ることはないが、このご機嫌なラストを体感するためだけでも今作を観る価値はあるかもしれない。

今作は大ヒットを果たし、ここからカプランはNurseploitationの便乗作である、女性教師を主人公とした作品「いけない女教師」「爆走トラック'76」など着実にキャリアを重ね、果ては告発の行方を監督し、今作において主演のジョディ・フォスターがオスカー主演女優賞を獲得するまでになる。おそらくNurseploitation映画では最も出世した監督ということになる。が、もちろんここにおいて深堀りはしない。

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そして4作目"The Young Nurses"(「もっとあぶない看護婦」)である。まずは監督のClint Kimbrough クリント・キンブロウについて語ろう。1933年にオクラホマ・シティで生まれたキンブロウは学生時代から舞台にのめりこみ、演出家や戯曲家として活動する。兵役後、20歳でプロデビューを果たし、アメリカン・アカデミー・オブ・ドラマティック・アーツやリー・ストラスバーグアクターズ・スタジオで学びながら俳優として活躍する。彼は舞台から映画、テレビドラマにまで手を広げるのだが、1960年代後半、ニューヨークから新天地ハリウッドへ移住を果たす。ここで彼はロジャー・コーマンと出会い「血まみれギャングママ」レッドバロン(実は今作には俳優として先述のジョージ・アーミテイジが参加している)そして"Night Call Nurses"に出演した後、監督として抜擢され1973年に"The Young Nurses"で監督デビューを果たすことになる。

今回の3人はキティ(Jeane Manson)、ジョアン(Ashley Porter)、ミシェル(Angela Elayne Gibbs)である。キティはドナヒュー(Zack Taylor)という患者と恋仲になるのだが、彼の傲慢な父親(William Joyce)がその障壁となる。ジョアンは病院の劣悪な状況に義憤を抱き、その状況を変えるために奔走を始める。そしてミシェルは病院内で麻薬が横行しているという事実を知り、その真相を突き止めようと試みるのだった。

今作はいわゆるセクスプロイテーション映画として圧倒的に正しい作劇となっている。冒頭オープニング直後のショットからいきなり登場人物の全裸が現れ、黄色のビキニ姿で事故にあった人物を助けたキティはその格好のまま病院を走り、婦長に叱責される。その後も3人は無意味に裸になり、セックスにかまけ、乳房を露にする。前作はコーマンの要請で仕方なくエロ描写を重ねていた印象があるが、今作はそのエロ描写の演出を楽しんでいる節がある。

そしてシリーズの中でも今作は完成度が高い(とは言えB級映画の枠内においてだが)例えばロスマンやアーミテイジらと同じく、キンブロウも新人監督であるのだが、演出に腰が据わっている印象を受けるのだ。もしかすると舞台演出家としての経験がこの盤石ぶりに貢献しているのかもしれない。

Nurseploitation映画には様々な要素が箱のなかの玩具のように犇めいているが、この捌き方もなかなか優れている。先述の大盤振る舞いのエロ描写、キティとドナヒューが繰り広げる甘ったるいメロドラマ、麻薬組織と勇敢に戦うミシェルのアクション、病院の腐敗を変えようとするジョアンの社会派ドラマ、こういった要素の数々が無駄なく同居しているのだ。

さらに本筋からは外れるが驚きなのは今作にあの映画監督サミュエル・フラーが出演していることである。出演場面は極端に少ないが、悪役医師として印象的な姿を見せてくれる。そして劇中でまで葉巻を咥えているのである。70年代は映画作家としての活動はほぼなかったが、一体何ゆえにフラーは今作に出演したのか、その真相が知りたいところである。

もしNurseploitation映画を1本だけ観てみたいという奇特な方がいるとするなら、私はこの"The Young Nurses"をオススメしたい。監督の特色を感じさせない職人性に溢れるとともに(1作目と2作目は監督らの作家性を理解した後の方が十全に楽しめる)、Nurseploitationの神髄が理想的な形で成就しているからである。という訳で"The Young Nurses"はNurseploitationの枠内においてなかなかの佳作である。

キンブロウはこの後には映画を監督していない。そしてジョナサン・デミ監督作クレイジー・ママに出演、原案を担当したFrances Doel フランシス・ドール(彼女も興味深い経歴を持っている。アーミテイジが脚本担当の「ガス!」で制作のアシスタント、"The Young Nurses"ではスクリプト・スーパーバイザー、そしてあの「スターシップ・トルーパーズ」では共同製作を務めている)と結婚、これを機に映画界から姿を消し、1966年には63歳でこの世を去った。

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さてとうとうNurseploitation5作目にして最新作である"Candy Stripes Nurses"(「帰ってきたあぶない看護婦」)だ。今回コーマン一派が目をつけた新人作家はAllan Horeb アラン・ホレブである。ニューヨーク大学を卒業したばかりの彼に、その短編に感銘を受けたジュリー・コーマン(コーマンのパートナー)が仕事をオファーしたのである。そして彼は初監督作として"Candy Stripes Nurses"の制作に取り組むのだが様々な困難が付きまとった。制作側は今作の題名を"Angels of Mercy"と偽り撮影を続けていたが、病院が繁忙期だったゆえにスタッフと病院側の間では諍いが絶えなかった。さらに裸の場面を撮影している時、それを病院側の人物に見られ、さらに脚本のコピーが流出してしまう。これが問題になり病院を追いだされたHorebたちはかつて病院として使われていた建物を借り、撮影を再開することになる。こうした紆余曲折を経て"Candy Stripes Nurses"は完成したのだった。

今回の3人はサンディ(Candice Rialson)、ダイアン(Robin Mattson)、そしてマリサ(Maria Rojo)である。マリサは大学で教授に暴行を働いたことから、ボランティアの看護師として病院で働くことになる。サンディはイケメンの恋人がいながら、ある患者に恋に落ちてしまう。そしてダイアンは恋の相手であるバスケットボール選手クリフ(Rod Hasse)に麻薬を止めてもらおうと奔走しはじめる。

今作は前作に続いてなかなかテンポが良い。そして看護師学校の生徒だった1作目"The Student Nurses"以上に今作は青春映画的な感触を伴っている。社会問題などに主眼を置いていた過去作に比べ、内容が全体として恋愛に寄っているのだ。マリサは患者の1人カルロス(Roger Cruz)に恋をするし、サンディの物語は恋愛における倦怠期と浮気について物語だ。特にダイアンの物語はこの雰囲気を最も顕著に表している。彼女とバスケ選手の青年の恋の描かれ方はとても瑞々しく、今までにはなかったものだ。彼女らのセックスシーンにも爽やかさが宿っている。これが作品のテンポの良さにも寄与しているように思われる。

そして興味深いのは5作目にして"The Student Nurses"において登場したヒスパニック文化が再び現れるのだ。2~4作目はアーミテイジが規定した黒人文化が多く描かれることになるが、今作は原点に立ち戻る。マリサとカルロスがヒスパニックであり、彼女はカルロスの願いを聞くためにヒスパニック居住区へ赴く。そこにはスペイン語の響きや極彩色の落書きが存在している。ここには彼らの人生や文化が宿っているのだ。今作はこれを強みとして取りこんでいる。

過去4作は主人公たちが積極的に交錯しあい、物語は群像劇的な様相を呈していたが、徐々にその繋がりは薄れはじめ、今作ではほとんど看護師たちは関係しあわない。ゆえにこの映画は3つの短編映画が絡みあっているといった方が正しい。5作続けて観ていくと、良きにしろ悪きにしろこの流れが興味深く思える訳である。とは言え出来は特に良いとはいえない。エクスプロイテーション映画として及第点といったところだろうか。最終作がこんな感じで悲しいところだが、この一気見を通じて"Private Duty Nurses"がいかに傑作かを知れたので良しとしよう。

ということで最後にNurseploitation個人的トップ5を紹介したい。

1. "Private Duty Nurses" ("あぶない看護婦")
2. "The Student Nurses" ("またまたあぶない看護婦")
3. "The Young Nurses" ("もっとあぶない看護婦")
4. "Candy Stripe Nurses" ("帰ってきたあぶない看護婦")
5. "Night Call Nurses" ("もっともあぶない看護婦")

興味が湧いたらどれでも良いのでぜひともNurseploitation映画の世界に触れてほしい。ここにはアメリカジャンル映画史の秘められた歴史があるのだから。2020年にもなってNurseploitation映画なんか振り返ってる馬鹿は自分くらいだろうな。まあ楽しかったから良しとしようか。

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Shahram Mokri&"Careless Crime"/イラン、炎上するスクリーンに

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1978年、イランにおいて勃発したイスラム革命は西欧化や世俗化という風潮を転覆させ、今に繋がる保守的なイスラム文化を作りあげた。この革命の最中、怒りに燃える民衆たちは、革命前に活躍していた映画作家Masoud Kimiai監督作"The Deer"が上映されるCinema Rexという映画館へ押しかけ、そこに火をつけた。西欧化の象徴と見做された故である。そしてこの火災によって400人以上の命が失われ、イランの忌まわしき歴史の一部として今でも思い出されることになる。そしてこの歴史を今に蘇らせようとする驚くべき1作が、Shahram Mokri監督の第4長編"Careless Crime"である。

まず今作はある名もなき男(Babak Kirimi)の日常を追っていく。彼はある薬を買うために薬局へと赴くのだが、目当てとなる薬はそこにはなかった。彼は薬のために街を彷徨い、紆余曲折あった後に3人の男たちと出会う。彼らはある目的を達成するために、映画館へと向かうのだった。

Mokriと撮影監督であるAlireza Barazandehは、例えばミクローシュ・ヤンチョークリスティ・プイユ作品を彷彿とさせる息の長い亡霊的長回しで以て現実を映しだしていく。男が薬のために薬剤師と会話をする、男が映画の博物館を歩き回る、3人が映画館のなかで何かを相談する、そういった光景の数々が怜悧な視線によって観察されていくのだ。

この演出に代表されるように、Mokriの監督作は徹底的なリアリズムを特徴としている。例えば彼の第2長編である"Fish & Cat"は人肉を料理に使う殺人コックの手で殺されていく大学生の姿を、130分ワンカットで描かれる野心的な作品だった。そして2013年のヴェネチア映画祭オリゾンティ部門で特別賞を獲得している。さらに第3長編"Invation"もまた前作の長回しを継承し、黙示録的な犯罪映画として屹立する出来となっている。そしてやはり今作も長回しを主体にした作品であり、窒息するようなリアリズムは更に深化していると言える。

さらにこの長回しに加わるのが精密な音の響きだ。例えば男の足音、道路を走る車の音、火を点ける時にライターで炸裂する音、スクリーンから流れてくる映画の効果音、そういった多様な音の数々が不気味な存在感を以て、私たちの鼓膜に迫ってくるのだ。時に亡霊のように、時にうねる洪水のように。そして音楽についても忘れるべきではない。Ehsan Sedighの作りあげた実験的音楽は不穏な不協和音によって構成されており、上述の響きとともに私たちの鼓膜を不穏に震わせるのだ。

そして映画館へと向かった4人は満杯の部屋のなかで最初は映画を観ているのだが、男がそこを出ていくことになる。トイレに行くと、彼が取りだしたのはライターだ。壁を確認しながらその火を掲げる。彼は明らかに壁に火をつけようとしている。つまり革命の40年後、映画館を炎上させようとしている人物はこの男たちなのだ。

監督は彼らの犯行の軌跡を淡々と追いつづける。放火に失敗した4人は映画館を出て、また別の映画館へと赴く。これを繰り返しながら、放火が成就する瞬間を待ちつづける。物語が展開するにつれ、長回しの精度は先鋭となっていき、空気感は吐き気を催すほどに窒息的なものとなっていく。彼らは何故、映画館を燃やしつくそうとするのか。それは説明されない。そして謎めいた暗黒物質テヘランを這いずり回るのである。

だが今作は奇妙なリズムを持つ犯罪映画以上のものを持っている。4人が赴く映画館ではある1作の映画が上映されている。それはShahram Mokri監督作"Careless Crime"である。しかしその内容は今作とは異なっている。ある軍人たちが不発弾を探しだすために山奥へと赴くのだが、彼らはここで映画を野外上映しようとする集団に出会う。この映画内映画も長回しを主体としながら、本編にはない解放感が存在している。そして放火を目論む男たちと不発弾を探す軍隊の物語が並行して語られるのである。

コロナウイルスによってたやすく映画館に行けない状況が続いているが、そんな私たちの網膜に印象的に映るのは満杯になった映画館だ。本当に立錐の余地がないほどに人が詰めかけ、同じ映画を観ている。中には煙草まで吸っている人物までいるのだ。だがこの微笑ましいはずの風景は、容易に映画館への郷愁へは結びつかない。むしろスクリーンの裏側に異様なる悪意が蠢いているようにすら思われる。

"Careless Crime"は映画にまつわる映画である。だが映画への愛を描いている訳ではない。私たちはこの作品を通じて、イランと映画の間に横たわる忌まわしき闇を直視させられることになる。まるで映画館にまつわるコロナ禍の絶望を更に炎上させるような凄まじい力を持ちあわせている。正直、この映画をどう解釈していいか今でも私は分からないでいる。そんな激しくも未分化な感情を観客に齎す作品が、この"Careless Crime"なのだ。

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私の好きな監督・俳優シリーズ
その391 Arun Karthick&"Nasir"/インド、この地に広がる脅威
その392 Davit Pirtskhalava&"Sashleli"/ジョージア、現実を映す詩情
その393 Salomón Pérez&"En medio del laberinto"/ペルー、スケボー少年たちの青春
その394 Iris Elezi&"Bota"/アルバニア、世界の果てのカフェで
その395 Camilo Restrepo&"Los conductos"/コロンビア、その悍ましき黙示録
その396 José Luis Valle&"Uzi"/メキシコ、黄金時代はどこへ?
その397 Florenc Papas&"Derë e hapur"/アルバニア、姉妹の絆と家父長制
その398 Burak Çevik&"Aidiyet"/トルコ、過ぎ去りし夜に捧ぐ
その399 Radu Jude&"Tipografic majuscul"/ルーマニアに正義を、自由を!
その400 Radu Jude&"Iesirea trenurilor din gară"/ルーマニアより行く死の列車
その401 Jodie Mack&"The Grand Bizarre"/極彩色とともに旅をする
その402 Asli Özge&"Auf einmal"/悍ましき男性性の行く末
その403 Luciana Mazeto&"Irmã"/姉と妹、世界の果てで
その404 Savaş Cevi&"Kopfplatzen"/私の生が誰かを傷つける時
その405 Ismet Sijarina&"Nëntor i ftohtë"/コソボに生きる、この苦難
その406 Lachezar Avramov&"A Picture with Yuki"/交わる日本とブルガリア
その407 Martin Turk&"Ne pozabi dihati"/この切なさに、息をするのを忘れないように
その408 Isabel Sandoval&"Lingua Franca"/アメリカ、希望とも絶望ともつかぬ場所
その409 Nicolás Pereda&"Fauna"/2つの物語が重なりあって
その410 Oliver Hermanus&"Moffie"/南アフリカ、その寂しげな視線
その411 ロカルノ2020、Neo Soraと平井敦士
その412 Octav Chelaru&"Statul paralel"/ルーマニア、何者かになるために
その413 Shahram Mokri&"Careless Crime"/イラン、炎上するスクリーンに

ザグレブ、荒涼たる暴力の詩~Interview with Tin Žanić

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さて、このサイトでは2010年代に頭角を表し、華麗に映画界へと巣出っていった才能たちを何百人も紹介してきた(もし私の記事に親しんでいないなら、この済藤鉄腸オリジナル、2010年代注目の映画監督ベスト100!!!!!をぜひ読んで欲しい)だが今2010年代は終わりを迎え、2020年代が始まろうとしている。そんな時、私は思った。2020年代にはどんな未来の巨匠が現れるのだろう。その問いは新しいもの好きの私の脳みそを刺激する。2010年代のその先を一刻も早く知りたいとそう思ったのだ。

そんな私は、2010年代に作られた短編作品を多く見始めた。いまだ長編を作る前の、いわば大人になる前の雛のような映画作家の中に未来の巨匠は必ず存在すると思ったのだ。そして作品を観るうち、そんな彼らと今のうちから友人関係になれたらどれだけ素敵なことだろうと思いついた。私は観た短編の監督にFacebookを通じて感想メッセージを毎回送った。無視されるかと思いきや、多くの監督たちがメッセージに返信し、友達申請を受理してくれた。その中には、自国の名作について教えてくれたり、逆に日本の最新映画を教えて欲しいと言ってきた人物もいた。こうして何人かとはかなり親密な関係になった。そこである名案が舞い降りてきた。彼らにインタビューして、日本の皆に彼らの存在、そして彼らが作った映画の存在を伝えるのはどうだろう。そう思った瞬間、躊躇っていたら話は終わってしまうと、私は動き出した。つまり、この記事はその結果である。

今回インタビューしたのはクロアチア映画作家Tin Žanić ティン・ジャニチである。2020年のサラエボ映画祭でプレミア上映された最新短編"Antiotpad"は、亡霊と化したザグレブの街を彷徨う少年の物語だ。ある日、凄惨な暴力に晒され携帯を奪われた少年は、それを取り戻すために自身も暴力の渦へと身を浸すことになる。まるで広大なる砂漠のような荒涼たる詩情を抱えた本作は、私にとってサラエボ映画祭でも1、2を争うお気に入りとなった、なので監督にインタビューしない手がない。ということで今回は"Antiotpad"の荒涼たる詩情の源泉について直撃してみた。それではどうぞ。

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済藤鉄腸(TS):まずどうして映画監督になりたいと思ったのですか? それをどのように成し遂げましたか?

ティン・ジェニチ(TZ):その考えは高校で停学になっている時、一種の啓示のように舞い降りてきました。それ以前の子供時代は本をたくさん読んでいて、様々な物語を考えながら眠りについていたことを覚えています。それが映画監督になるという未来に繋がったんだと思いますね。

TS:映画に興味を持ちはじめた頃、どういった映画を観ていましたか? 当時のクロアチアではどういった映画を観ることができましたか?

TZ:もう観れるだけ映画を観ていましたね。それでも自分をシネフィルと思ったことはないです。自分は映画の作り手なんです。もし監督の名を上げるとするならミヒャエル・ハネケに初期のペドロ・アルモドバルアンドレイ・ズビャギンツェフ、レイガダス、ポン・ジュノ、三池崇、フランシス・フォード・コッポラジョン・カーペンターデヴィッド・フィンチャーなどなどです。私がもっと若かった頃にはザグレブに多くのミニシアターがあり、ハリウッドというメインストリーム以外の作品に触れるのも難しくありませんでした。そして観れない作品はネットからダウンロードした訳です。まあそれで色々と決めつけて欲しくはないです。

TS:あなたの短編作品"Antiotpad"の始まりは一体何でしょう? 自分の経験、クロアチアのニュース、もしくは他の何かでしょうか?

TZ:今作の始まりはFilip Rimac フィリップ・リマツ(今作の撮影監督であり脚本家の1人でもある人物です)が私のもとにやってきて、ある夏の日にザグレブで起こった出来事について話してくれた時でした。主人公が友人と家に侵入するという映画の一場面が正にこの話に則っています。私たちは2人ともクロアチアの首都であるザグレブに住んでいます。この国は美しい砂浜や生命力に溢れた夏で有名ですが、ザグレブの夏は全く違いました、特に私たちが子供の頃には。夏の間、このクロアチアで最も大きい都市はゴーストタウンのようになります。多くの人々が海へ休暇を過ごしにいくからです。私たちはそんな"ゴーストタウン"での生活を経験していて、その時に独特だと感じていた、押し潰されるような黙示録後の雰囲気を映画に反映させたかったんです。ある時期、私たちはスケートに明け暮れながら街を彷徨い、夜寝る時にだけ家に帰るという生活を送っていました。多くの時間を外で過ごすことで多様な人物たち、多様な出来事、そして多様な物語に出会います。つまり物語や舞台など、この映画にまつわる全ては私たち自身の人生へのオマージュなんです。

TS:今作は力強いファーストショットで幕を開けます。闇のなかで車が炎に焼かれるあの光景は、今作が今後不穏なまでに恐ろしい形で展開していく未来を反映しているようです。どのようにこのショットをファーストショットに決めようと思いましたか?

TZ:まず最初に今作を完成させた時、冒頭が気に入りませんでした。インパクトが足りなかったんです。そして主人公の心象風景をもっと掘り下げていきたいということで、この風景に辿りつきました。私たちは観客を催眠にかけ、主人公の心理に興味を抱いてほしかった訳です。今作の編集を担当するJan Klemschが炎から映画が始まるというアイデアを持っていて、そのアイデアからシーンを構築していきました。

TS:今作で最も印象的な要素の1つはFilip Romacの撮影です。ザグレブは亡霊に憑りつかれた廃墟の街のように見えます。そこにおいて、日常に根差した暴力は、観客が今まで観たことのないような、荒涼として破壊的な詩へと変貌していきます。Romacとともに、どのようにしてこの力強い撮影スタイルを築いていったのでしょうか?

TZ:前に語ったように、夏のザグレブは全く異なる都市になるんです。特に私たちが若かった頃は亡霊そのものでした。楽しみは全て海辺にあったんです。私たちにとってこの雰囲気を捉えるのが大切なことでした。何度もロケハンを行い、可能な限り準備をしておきたかったんです。俳優たち、もしくは代役とともにセットでは何度も何度もリハーサルを行い、その上で準備した計画を行う際、セットでは即興を行いました。

TS:"Antiotpad"の鍵となる要素として突発的で、衝撃的な暴力がありますね。これが映画の持つ荒廃や乾きをより深いものとします。そこで聞きたいのは、セットで暴力を演出する際、最も重要だったことは何かということです。

TZ:思うに暴力が有機的で自然であることは、何が主人公を動かすのか、何が主人公を恐れさせるのかといった彼の心理を知るために大切なことでした。そしてそれを脚本を書いたり、俳優たちとリハーサルを行う間に深めていった訳です。それから暴力の身体的、感情的側面に合ったフレーミングを探すこともまた重要でした。

TS:私が感銘を受けたのは主人公を演じるBernard Tomić ベルナルド・トミチの存在感です。彼は表立って感情を露にすることはありませんが、暴力に晒された時、彼は異様なる何かへ変貌していき、これが今作の力強さを更に深めていきます。どのように彼を見出したのでしょう? 彼をこの作品に選んだ最も大きな理由は何でしょう?

TZ:彼はオーディションで見つけました。最初は素人を探していたんですが、何回かリハーサルを行ってからプロの俳優が必要だという結論に至りました。Bernardは学校で演技を学んだ俳優ですが、典型的な演技をする訳ではありません。彼はストリートにいる類の人物で、自然なタフネスを見せてくれました。そしてとても才能があるんです。

TS:クロアチア映画界の現状はどういったものでしょう? 外側からだとそれは良いように思えます。有名な映画祭に新しい才能が多く現れていますからね。例えばベネチアHana Jušić ハナ・ユシチ、ベルリンのAndrea Staka アンドレア・シュタカ、タリンのJure Pavlović ユレ・パヴロヴィチなどです。しかし内側から見ると、現状はどのように見えるでしょう?

TZ:ファンディングが文化省から離れてからは状況は良くなりました。それはつまり政治的な影響から離れることができたということですから。

TS:映画好きがクロアチア映画史を知りたいと思った時、どういった映画を観るべきでしょう? その理由も聞きたいです。

TZ:私はその質問を聞くべき相手ではないですよ。そんなにクロアチア映画を観ていないので、ためになる答えなどは無理です。

TS:もし1本だけ好きなクロアチア映画を選ぶなら、どの映画を選びますか? その理由も知りたいです。何か特別な思い出がありますか?

TZ:選ぶなら"Obrana i zaštita"(2013)、"Crnci"(2009)、"Ne gledaj mi u pijat"(2016)ですね。

TS:新しい短編、もしくは長編を作る予定はありますか? あるなら、ぜひ日本の読者に教えてください。

TZ:今はある実験映画に取り組んでいます。すぐ長編の計画も進められるよう願っています。

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有害な男らしさ、その後に~Interview with Jannis Lenz

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さて、このサイトでは2010年代に頭角を表し、華麗に映画界へと巣出っていった才能たちを何百人も紹介してきた(もし私の記事に親しんでいないなら、この済藤鉄腸オリジナル、2010年代注目の映画監督ベスト100!!!!!をぜひ読んで欲しい)だが今2010年代は終わりを迎え、2020年代が始まろうとしている。そんな時、私は思った。2020年代にはどんな未来の巨匠が現れるのだろう。その問いは新しいもの好きの私の脳みそを刺激する。2010年代のその先を一刻も早く知りたいとそう思ったのだ。

そんな私は、2010年代に作られた短編作品を多く見始めた。いまだ長編を作る前の、いわば大人になる前の雛のような映画作家の中に未来の巨匠は必ず存在すると思ったのだ。そして作品を観るうち、そんな彼らと今のうちから友人関係になれたらどれだけ素敵なことだろうと思いついた。私は観た短編の監督にFacebookを通じて感想メッセージを毎回送った。無視されるかと思いきや、多くの監督たちがメッセージに返信し、友達申請を受理してくれた。その中には、自国の名作について教えてくれたり、逆に日本の最新映画を教えて欲しいと言ってきた人物もいた。こうして何人かとはかなり親密な関係になった。そこである名案が舞い降りてきた。彼らにインタビューして、日本の皆に彼らの存在、そして彼らが作った映画の存在を伝えるのはどうだろう。そう思った瞬間、躊躇っていたら話は終わってしまうと、私は動き出した。つまり、この記事はその結果である。

さて今回インタビューしたのはオーストリア映画作家Jannis Lenz ヤニス・レンツである。彼の最新短編"Battlefield"は軍隊をテーマとしながら頗る異色な作品となっている。彼らは戦争の準備をすることなく、ひたすらガーデニングに精を出すのである。その平和的な光景からは、兵士たちがまるで楽園に生きているような印象を受ける。私としては今作は男性性の未来についての物語である。兵士たちが有害な男らしさから解放された後、そこに広がるユートピアを描きだしているのだと私には思えた。という訳で、素朴ながら知的な今作についてLenz監督に直撃してみた。それではどうぞ。

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済藤鉄腸(TS):まずどうして映画監督になりたいと思いましたか? どのようにそれを成し遂げましたか?

ヤニス・レンツ(JL):10代の頃、パルクールとフリーランニングという流行と出会いました。それは公共の場にある壁や障害物を乗りこえるというものです。実用的な目的、それからYoutubeを通じて他の参加者と意見交換をするため、私は初めてminidvカメラを買い、それから街中で練習する自分や友人の姿を撮るようになりました。そして小さな制作会社でインターンを始め、仕事をした後にはちょっとした動画を作品へと編集できるようになりました。

最終的に、私はちょっとした物語や短編を作るようになり、それを携えてウィーン映画学校に入学しました。幸運なことに1発で入学できましたね。それから良き友人や代えがたい仲間と出会い、今でも一緒に仕事をしています。

TS:映画に興味を持ちはじめた頃、どんな映画を観ていましたか? 当時オーストリアではどんな映画が観られたでしょう?

JL:10代の頃は映画館に行く余裕がなかったので、レンタルストアで借りれるだけ映画を借りていました。かなり安くて、週末を通じて借りたなら2、3本は映画が観れたんです。何度も何度も観た初めての映画の1本はラリー・クラーク「KIDS」ですね。それからハーモニー・コリンデヴィッド・リンチヴェルナー・ヘルツォーク、R・W・ファスビンダーといった映画作家を発見しました。

TS:あなたの短編"Battlefield"の始まりは何でしょう? 自身の経験、オーストリアでのニュース、もしくは別の何かでしょうか?

JL:私の作品"Battlefield"は、もう1つの計画についてリサーチするにあたり偶然生まれたんです。その時は何故だか分かりませんでしたが、私はあのガーデニングをする兵士たちに深く魅了されたんでした。

撮影監督はどうしてこういった画が欲しいのか、何故自分はこう何度も撮影をさせられているのか理解していませんでしたが、そのうちに彼も興味を抱きはじめ、何を求めているか分からないままに映画の材料を集めていったんでした。

編集室において私は初めて、ワイドアングルで撮られた、うるさい機械を毎日動かして雑草を刈る征服の男たちと、彼らを撮影する過程が私にとって魅力的なのかハッキリしてきました。それは社会の構造と、毎日の生活の異なる時間において私が直面する考えを表す完璧なメタファーだと分かったんです。

TS:あなたは監督声明のなかでこう言っていますね。"今作はオーストリア表現主義オスカー・ココシュカの'雑草は庭師による統治に対する自然の反抗だ'という言葉に触発されてできました"と。この発言を軍隊と彼らの生活に重ねあわせたことに感銘を受けました。どのようにしてこの素晴らしい考えを想いついたんでしょうか?

JL:私は好奇心旺盛な人物で、細心の注意を払いながら日々を生きています。なので私のなかには長い間、異なるアイデアや思考が残ることがあるんです。そしてそれらが集合し、新しい、予期せぬ何かが現れるんです。"Battlefield"でも同じことが起こりました。私は人生におけるコントラストや、それらを一緒にしたらどんな効果が起こるかを見るのが好きなんです。この一般的に本能に従ったオープンな過程が私にとって、私の作品にとって重要なんです。何故なら人生とは、私が作ることのできる全てに勝る興奮を持つもので、人々は完成した作品にそのエネルギーやオリジナリティを感じられると信じているからです。

TS:今作の舞台について興味があります。ここは軍の基地に見えますが、同時に青々しい植物と戦車の墓でできた楽園にも見えます。とても奇妙なんです。ここはどこでしょう? オーストリアの有名な場所ですか? どうしてこの場所を"Battlefield"の撮影に使おうと思ったんでしょう?

JL;ここはオーストリアの田舎に位置する、隠された魔術的な場所です。普段は行くこともできない場所なんです。

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TS:そして感銘を受けた要素の1つはJakob Fuhr ヤコブ・フュールの撮影です。彼の眼差しはとても鋭く、それが今作を観察的でありながら絵画的なものとしています。彼とともに、どのように今作における独特の撮影スタイルを確立したのでしょうか?

JL:Jakobとはここ数年、数えきれない短編や実験映画を一緒に作りました。こうして相互的・創造的信頼という関係性を作りあげてきたんです。それは現実の描写についてではなく、物語や人間、場所に内在化した真実についてのことです。どうすればこうしてコミュニケーションを取れるか、どうすれば外側の写真的態度を通じて内在するパーソナルな態度を表現することができるのか?

TS:私にとって"Battlefield"は男性性についての、シンプルながら知的な短編映画です。兵士たちは戦争の準備をすることなく、平和的な雰囲気のなかでガーデニングを続けます。今作に広がる世界は、まるで兵士たちが有害な男性性から解放された後に現れるユートピアです。オーストリアにおける、もしくは世界における男性性をめぐる状況についてどう思われますか? そして男性性の未来とはどのようなものになると思いますか? "Battlefield"はこの問いに対する1つの答えを提供しているように感じられます。

JL:私たちは激動の時代に生きていると信じていますし、それを願ってもいるんです。女性たちが道を指し示し、平等や解放を求める戦いを通じて多くのポジティブな事柄を成し遂げています。そして開かれた、多様で平和的な社会へ一歩進むために、長く存在しながらもはや時代遅れなロールモデルから自由になる、それには男性たちにこそ責任があるんです。

TS:オーストリア映画界の現状はどういったものでしょう? 外側からだと、それは良いように思えます。イェシカ・ハウスナー以後も、多くの才能たちが有名な映画祭に現れています。例えばベルリンのMarie Kreutzer マリー・クロイツァーベネチアLukas Marxt ルカス・マルクストロントMarkus Schleinzer マルクス・シュラインツァーなどです。しかし内側から見ると、現状はどのように見えていますか?

JL:今は多くの才能が現れていますが、オーストリアでも他の国と同じように予算のサポートが足りないんです。出資者は映画作家が常日頃から映画に携われるよう保証してくれない訳です。3年から5年の間に作品を1本作るというのはその時点で成功です。なので映画作家の間で予算をめぐって競争が起こるんです。彼らはオーストリアの偉大な作家たち、例えばミヒャエル・ハネケBarbara Albert バルバラ・アルベルトといった人物と競わねばならないんです。なので今現在は、新しい才能のためだけの特別なファンディングを政治的レベルで推し進めるため、彼らが連帯を見せはじめています。これがどう作用するか注視していきましょう。

TS:シネフィルたちがオーストリアの映画史を知りたいと思った時、どのような映画を観るべきでしょう? そしてその理由も知りたいです。

JL:思うに映画とその受け取り方はとても個人的なものなので、それゆえに私はまず最初から魅了され、今でも作品作りにおいて刺激を受けている作家たちの作品をお勧めしたいです。まずはTizza Covi ティッツァ・コヴィRainer Frimmel ライナー・フリンメル、それからイェシカ・ハウスナー、ウルリッヒザイドル、Valeska Griesebach ヴァレスカ・グリーゼバッハ、そしてニコラス・ゲイハルタです。彼らに関して何か特定の映画を勧めるというのはとても難しいです。というのも彼らは複雑な作品群を生み出すことで、私をすこぶる特別な世界に導き、全く新しい視点から現在の世界を眺めることができるようにしてくれるんです。

TS:もし1本だけ好きなオーストリア映画を選ぶなら、どの作品を選びますか? その理由も知りたいですね。何か個人的な思い出がありますか?

JL:1つには絞れませんね。ですがTizza Coviイェシカ・ハウスナーの作品には個人的な繋がりを感じます。イェシカは映画学校で学んでいた時代の恩人で、"Battlefield"も含めた短編作品に素晴らしいアドバイスをくれました。

それからTizzaが現在制作中である、私にとって初の長編作品"Sodat Ahmet"ドラマツルギーコンサルタントをしてくれているのはとても幸運なことでした。彼女はその経験豊富さで私を助けてくれ、少しずつ成長する長期的計画が正しい道を行くように深い共感を見せてくれました。

TS:今、新しい短編か長編を作る計画はありますか? もしあるなら、ぜひ読者にお聞かせください。

JL:今は初めての長編作品"Soldat Ahmet"のポスプロ段階にあります。今作はフィクション的な要素を持ったドキュメンタリー映画です。"Battlefield"と同じスタッフで撮影してますね。今作の主人公はAhmedというプロの兵士・ボクサーであり、13歳から1度も泣いたことがないというんです。自身の感情に対処する必要から、Ahmetは演技のレッスンを受けることになります。毎日の生活と演技への膨れあがる情熱を共存させたい、そんな欲望が周りの人々からの偏見を呼びこみます。厳密な構造を持った親しみ深い環境において、一見彼に広く開かれたリベラルな世界において、Ahmetはそういった状況に陥ります。それから長編2作目の脚本も執筆しています。さらにViennese Production Companyの助けを借りて、主にドイツを舞台にした実験的ドキュメンタリーの制作にも入っています。様々な計画に携われてとても幸せですし、来年に期待を持っています。

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ハンガリーの小さな村で~Interview with Weronika Jurkiewicz

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さて、このサイトでは2010年代に頭角を表し、華麗に映画界へと巣出っていった才能たちを何百人も紹介してきた(もし私の記事に親しんでいないなら、この済藤鉄腸オリジナル、2010年代注目の映画監督ベスト100!!!!!をぜひ読んで欲しい)だが今2010年代は終わりを迎え、2020年代が始まろうとしている。そんな時、私は思った。2020年代にはどんな未来の巨匠が現れるのだろう。その問いは新しいもの好きの私の脳みそを刺激する。2010年代のその先を一刻も早く知りたいとそう思ったのだ。

そんな私は、2010年代に作られた短編作品を多く見始めた。いまだ長編を作る前の、いわば大人になる前の雛のような映画作家の中に未来の巨匠は必ず存在すると思ったのだ。そして作品を観るうち、そんな彼らと今のうちから友人関係になれたらどれだけ素敵なことだろうと思いついた。私は観た短編の監督にFacebookを通じて感想メッセージを毎回送った。無視されるかと思いきや、多くの監督たちがメッセージに返信し、友達申請を受理してくれた。その中には、自国の名作について教えてくれたり、逆に日本の最新映画を教えて欲しいと言ってきた人物もいた。こうして何人かとはかなり親密な関係になった。そこである名案が舞い降りてきた。彼らにインタビューして、日本の皆に彼らの存在、そして彼らが作った映画の存在を伝えるのはどうだろう。そう思った瞬間、躊躇っていたら話は終わってしまうと、私は動き出した。つまり、この記事はその結果である。

さて今回インタビューしたのはポーランド映画作家Weronika Jurkiewicz ヴェロニカ・ユルキェヴィチである。彼女の最新短編"The Vibrant Village"ハンガリーの小さな寒村を舞台にした作品である。雪に覆われたこの村は一見何の変哲もないように見えるが、ここはヨーロッパにおけるいわゆる大人のおもちゃ流通に欠かせない場所となっている。工場において女性たちは真剣に、勤勉に大人のおもちゃを作り続けているのである。この奇妙な光景をウェス・アンダーソン的なユーモアを以て描きだしたのがこの"The Vibrant Village"である。という訳で今回はJurkiewicz監督に今作について色々と質問してみた次第だ。今作は札幌短編映画祭でも上映予定である。それではどうぞ。

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済藤鉄腸(TS);なぜ映画監督になろうと思ったのですか? どのようにそれを成し遂げましたか?

ヴェロニカ・ユルキェヴィチ(JW):私は物語の力を信じています。それは私たちが周りの世界に意味を見出すことを助け、心が変化していく可能性について見据えさせてくれます。時には事実を越えた効果を以てしてです。これが語り手になりたかった理由です。しかし映画製作は偶然の産物です。私は学位のため社会科学とノン・フィクションに関するクリエイティブ・ライティングを学んでいました。その時はジャーナリストになりたいと考えていました。しかし卒業して仕事を探しはじめた時、ビデオ・ジャーナリストの門戸の方がより開かれていると知りました。そこで大学院ではドキュメンタリー制作について学ぼうという思いが湧いてきたんでした。

TS:映画に興味を持ちはじめた頃、どういった映画を観ていましたか? 何か個人的な思い出がありますか?

WJ:正直に言うと、映画学校に行くまでは映画にはそこまで興味がありませんでした。私は観客と言うより読者であり、本はいつでも私の人生にとって大切なものでした。映画について勉強し、初めてアプローチの多様性、語りの技術、一般的にアート映画、特に創造的なドキュメンタリーが持つ声について知ったんです。

TS:あなたの短編作品"The Vibrant Village"の始まりは何でしょう? あなたの経験、ニュース、もしくは他の何かでしょうか?

WJ:数年前、ポーランドの新聞である記事を読みました。ポーランドの小さな村にある革製品のアトリエが、財政危機と高級革製品の需要の低下が理由で、BDSM用のコスチュームを作る会社として再起を図ったんです。このニッチな産業で会社は多大な成功を収めました。私は社の会議において、オーナーが自身の従業員たち、その中には数十年働いてきた方もいるでしょう、彼らに今から全く新しい製品を作らなくてはならないと説明する風景を思い浮かべました。この想像がとても面白いものと感じられ、頭のなかに残っていたんです。そしてブダペストに来て1ヵ月で純粋なまでに観察的な映画を作らなくてはならなかった時、ハンガリーの大人のおもちゃ工場を探しはじめました。

TS:今作を観たなら、観客はこの村がどこにあるか興味を抱くことでしょう。雪に覆われた村は白い楽園のようであり、そこには老人たちの快活な声が溢れる一方、工場における女性たちの勤勉さはこの村を崇高なものに見せてくれます。この村は一体どこにあるのでしょう? この素晴らしい主題をどのように見つけたのでしょう?

WJ:この村はハンガリーの北西部、スロヴァキアとの国境沿いにあります。ハンガリーのメディアを通じてここについて知り、すぐさま電車のチケットを買って訪問した訳です。

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TS:そして観客はなぜこの小さな村で大人のおもちゃが作られるようになったか興味を抱くことでしょう。女性たちはそのおもちゃ作りがとても大切な仕事のように、真剣に勤勉に働いています。この風景はすこぶるシリアスながら笑いをも誘います。日本の読者にこの村における大人のおもちゃにまつわる隠れた歴史を教えてくれませんか? なぜ、どのように女性たちは大人のおもちゃを作りはじめたんでしょう?

WJ;そう魔術的な歴史がある訳ではありません。工場はドイツのメーカーに属しており、製造品をハンガリーに送りはじめたんです。その方が安いし、地理的に近いですからね。私の知る限り、工場を作ったのは女性たちの決断によるものではないです。

TS:私が感銘を受けたのはAndré Cruz アンドレ・クルスの撮影です。彼の眼差しは怜悧かつ観察的であり、村の歴史や意味が静かに、しかし豊穣さを以て全てのショットから滲みでてきます。彼とともに、どのようにこの撮影スタイルを確立していきましたか?

WJ:まず最初から今作は生意気でユーモアのある短編になると分かっていました。なので主なチャレンジはフレーミングによってどのようにユーモアを表現するかでした。ウェス・アンダーソンは分かりやすいレファレンスですね。私は彼に"ウェス・アンダーソンハンガリーにやってきたら?"というコンセプトを伝えました。彼はそれを実行してくれたし、素晴らしい仕事だと私も思いました。

TS:今作において男性たちが酒を飲みお喋りを繰り広げる一方で、女性たちは工場で勤勉に働いています。それは古いタイプの家父長制を表現しているかのようです。このコントラストは今作において興味深い要素の1つでしょう。どのようにこのコントラストを映画に挿入しようと思ったのですか? 男性と女性の間にあるある種のギャップを表現しようとした、もしくは他の理由がありますか?

WJ:これは編集室から生まれたものです。フッテージ映像を見ている時、勤勉な女性たちと"何の役にも立たない"男性たちの間にあるダイナミクスを発見しました。そしてこの状況に内在するユーモアをより強固なものにするため、この関係を利用しようと思いました。私にとってこの場面は古いジェンダーロールに関する皮肉なコメンタリーなんです。もちろん実際はもっと複雑なものであり、男性たちは近くにある他の工場で働いています。

TS:現在のポーランド映画界はどういった状況にあるでしょう? 外側からだといつだって良好に思えます。2010年代にはパヴェル・パヴリコフスキマウゴジャタ・シュモフスカの後にも、新たな才能が有名な映画祭に現れています。例えばベネチアJan Komasa ヤン・コマサKuba Czekaj クバ・チェカイロカルノJan P. Matuszynki ヤン・P・マトゥジンスキなどです。しかし内側からだと、現状はどのように見えるでしょう?

WJ;今のポーランドには素晴らしい才能を持った映画作家たちが多くいますし、たくさんのポーランド映画が世界の映画祭で上映されています。この産業はとても力強いものだと私は信じていますね。

TS:今後新しい短編か長編を作る計画はありますか? もしあるなら、ぜひ読者に教えてください。

WJ:現在いくつかの計画を進めています。まずは"First Date"という短編ドキュメンタリーのポスプロ中で、今作はセクシャル・ハラスメント後においてはどのような恋愛が行われるかについての物語です。2つ目の計画はまだ発達段階なのですが、ポーランド人の移民たちが故郷に戻ってきてから、いかにそこで自身の生活を再建するかを描いています。

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