鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

映画痴れ者/ライター済東鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

Eldar Quliyev&"Burulğan"/カスピ海、荒れ狂う若き心

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ムラド(Məmməd Məmmədov マンマド・マンマドフ)、ルスラン(Eldar Tağıyev エルダル・タグイェフ)、ナタ(Eqle Qabrenayte, リトアニア人だがアゼリー語綴り・読みでエグレ・ガブレナイテ)、タマラ(Həmidə Ömərova ハミダ・エマロヴァ)はバクーに生きる順風満帆な若者たちだ。ある日彼らはカスピ海の砂浜へと赴き、束の間の休息を楽しむことになる。最初は陽気な雰囲気に包まれていたのだが、そこにアディル(Vidadi Həsənov ヴィダディ・ハサノフ)という男が現れた時から状況は一転する。彼の登場に動転した1人が海で溺れてしまい、ここから彼らは衝突を始める。

"Burulğan"("渦"、1986)において、この衝突の風景というものがなかなか凄い。日本映画の予告編よりも喧しい騒音をあげながら、若者たちが自身の剥き出しの感情をぶつけていく。時には身体的暴力にまで至ることすらあり、殴りあいすらも辞さない。更にこの間に感情の衝突が惑乱の末にセックスにまで発展していき、観客はその劇的なうねりの数々に置いてけぼりになるしかない。

ここで描かれるのは若さの不毛、愛の不毛ともいうべき状況だ。それは正にアゼルバイジャンの海岸線にアントニオーニが現れたというべき様相だが、その感情の支離滅裂さたるや彼の追随すら許すことがない。だが最初はこの滅裂さが虚構的自由の爆裂なのか、監督の手腕が貧相ゆえの混乱なのかは分からない。

それでも物語は私たちの意志など些かも気にすることなく、若者たちの感情を煽りたてる。演出や編集なども強烈だが、特に際立つのはMüslüm Maqomayev ミュスリュム・マゴマイェフによるエレクトロの響きだ。その音はまるで水のなかの無数の分子さながら弾けていき、主人公たちの感情に激熱を齎していく。例えば東側諸国においてはエレクトロ・ミュージックが独特の進化を遂げ、ルーマニアではこの流れを汲んだAdrian Enescu アドリアン・エネスクという人物が映画作曲家として名声を博したが、Maqomayevの音楽もまた彼と共鳴するような激烈さを持ちあわせている印象だ。

だが徐々に前景に現れてくるのはRafiq Qəmbərov ラフィグ・ガンバロフによる撮影だ。表面的には凪に満ちた海面、官能的な起伏を宿した砂浜、完全に朽ち果て骨組みだけが残る灯台。彼が切り取っていくカスピ海沿岸の風景は異様な叙情性を湛えており、観客の網膜には濃密な潮風すらも強かに吹きつけてくるほどだ。そんなカスピ海の美に誇張された感情たちが乱舞する様は、唖然とするような衝撃を伴っている。

正直言って、若者たちのこの感情の発露は若さの阿呆なまでに稚拙な衝動性に見えることだろう。だが今作はこれを90分間壮絶な意志を以て貫き通すことによって、実存主義的な自暴自棄さへと高めていく。ここにおいて若者たちの感情はあまりに切実で、温い共感を越えていくような魂の激突がその発露には見えてくるのだ。これが"Burulğan"を忘れ難い芸術作品と変貌させているのだ。

私が初めて観たアゼルバイジャン映画は2019年のロッテルダム映画祭に選出されたElmar Imanov エルマル・イマノフ監督作"End of Season"だった。ここにおいてカスピ海が重要な役割を果たし、その不穏な美によって観客を魅了していった。私もまた魅了された1人であり、ここから1年が経ちアゼルバイジャン映画を鯨飲するようになって、時おりカスピ海の風景と巡りあうようになった。そんな作品はいつだって忘れられない風景を見せてくれた。カスピ海が現れるアゼリー映画は注目すべきものが多い、そして"Burulğan"は正にそんな1作である。

監督のEldar Quliyev エルダル・ギリイェフは言わずと知れたアゼルバイジャン映画界の巨匠である。1941年生まれのQuliyevはモスクワで映画製作を学んだ後、60年代後半からアゼリー映画界で活動を始める。1969年に制作した"Bir cənub şəhərində"("南の町で")が評判を博し、今でも今作はアゼリー映画を新たなステージへ押しあげたと評価されている。

彼が巨匠としての名を確立した作品が1979年制作の"Bəbək"と1982年制作の"Nizami"だ。アゼルバイジャン国の父と呼ばれる人物Babək Xürrəmdin ババク・ヒュッラムディンと、この国を代表する偉大な詩人Nizami Gəncəvi ニザミ・ギャンジャヴィ、それぞれ国民的英雄である人物の伝記映画を製作、成功に導いたQuliyevの名はアゼルバイジャン映画史に刻まれた訳である。

この後も旺盛に作品を制作し続けるがそのクオリティは正に玉石混交、だがそれが翻って彼が安全圏から出なかった大作作家ではないという証明になっており興味深い。"Burulğan"などは彼の異様な作家性が存分に発揮された問題作として面白いし、2005年制作の"Girov"("並列の")は、ナゴルノ・カラバフ紛争を題材とする作品の多くががアルメニア人への単純すぎる憎悪を基とした国威発揚映画であるのに対し、むしろアゼリー人の頑なさこそを否定し、憎悪を乗り越えんとする意志のある作品として際立っている。もちろん失敗作も存在する。1999年制作の"Nə gözəldir bu dünya..."("何て美しいこの世界")は精神病院を舞台としたコメディ映画だがクストリツァ作品に比肩する可能性をむざむざと捨てた駄作という印象を拭いされない。とは言えまだ彼の膨大なフィルモグラフィを総覧できたとは言えないので、今後も彼の作品を観続けたいところだ。

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Hüseyn Mehdiyev&"Süd dişinin ağrısı"/ぼくは生まれるべきじゃなかった

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"Süd dişinin ağrısı"("乳歯の痛み", 1987)の主人公はカリム(Pərviz Hüseynov パルヴィズ・ヒュセイノフ)という7歳の少年だ。彼を出産する際に母親が亡くなってしまった故にカリムは深い罪悪感を抱いており、それ故か家に彼女の写真を飾ってまるで女神のように崇拝している。その一方で父(Əlican Əzizov アリジャン・アジゾフ)や兄サリム(Fuad Dadaşov フアド・ダダショフ)はまるで彼女を忘れてしまいたいかのように振舞っており、この態度にカリムは哀しみと怒りを同時に覚えることとなる。

今作はそんなカリムの毎日を描きだそうとするが、この風景は痛ましいまでの残酷に満ちている。先述した理由でカリムと家族の仲は悪く、そこに彼の居場所は存在しない。だがカリムの頑固な性格は学校でも受け入れられることはなく、同級生たちから嘲笑われては虐められる。カリムの人生は苦痛に満ちていた。

撮影監督のAmin Novruzov アミン・ノヴルゾフはこの光景を息を呑むような痛みの詩情とともに綴っていく。ある時海岸線に立った1本の樹木が映しだされる。そこに鳥たちが集まるのだが、実はそこに子供たちが罠を設置しており、これにかかった鳥たちは次々と死んでいく。子供たちが下卑た喜びから歓声をあげる一方、カリムだけは無言を貫く。この世界では余りにも命が軽い、この事実こそが映画に詩を齎す、死と生にまつわる壮絶な詩を。

この詩情が明らかにしていくのは家族間における救いがたい意識の差だ。カリムは片時も母親を忘れることがなく、もはや崇拝の域にまで至っている。だが兄のサリムは恋人に形見のネックレスを贈ってしまったり、父はカリムの学校に勤める若い教師と関係を持っている。この意識の差が、カリムの心に家族への、ひいては世界それ自体への憎しみを宿すのだ。

そしてNovruzovの撮影には物語が進んでいくにつれて闇が満ちていくことになる。当初からその撮影の核には世界に蟠る陰影への尖鋭な意識があるのだが、カリムが置かれる悲壮な雰囲気のなかでこれが深淵の絶望へと繋がっていくのだ。それが最高潮を迎える瞬間がある。カリムの母親への執着に不快感を抱いた父は、彼女の思い出の品が詰まった棚を燃やし尽くすのだ。この灼熱に消えていく母を見据えながら、カリムの絶望もまた頂点へと至る。

今、いわゆる反出生主義という思想が世界でも日本でも話題だ。子供がこの世に生まれるという現象を悪しき災厄として否定し、この世に生まれたことの絶望を綴る思想は、古くはショーペンハウアーからシオラン、最近ではデイヴィッド・ベネターらが提唱している。私自身、ルーマニアの反哲学者であるシオランには深く影響を受けており、反出生主義者を自認している。そしてこの思想を自身の作品に反映させる人物もおり、最近「TRUE DETECTIVE/トゥルー・ディテクティヴ」においてショーランナーのニック・ピゾラットが現代における反出生主義の大家ベネターの著作からの影響を公言したことが話題になった。

意図的にしろそうでないにしろ、今作もまた反出生主義という思想を濃厚に反映した作品の1本と言える。出産が原因で亡くなった母へのカリムの執着は"生まれてこなければ母が死ぬことはなかった"という罪の意識と共鳴する。そして周囲の人間が母を忘れていくという状況に、彼は怒りを抱き、全ての原因が自分にあるという帰結へと至るのだ。こうして彼は7歳にして自殺を、自分の意志で自分の人生を終らせるという選択肢を選ぶのだ。

だが世の作品に私が不満を抱くのは、反出生主義を生半可な"それでも生きていかなくては"という感傷を描くためだけに利用することだ。結局「TRUE DETECTIVE」もそういった温い結末を選んだ。しかしこの"Süd dişinin ağrısı"は違う。家族はカリムを止めようとしながらも、最後には生まれたことの絶望に打ちひしがれたまま、彼は自身の腹部をショットガンでブチ抜くのだ。自殺は恙なく遂行される訳である。

自殺後、私たちは黒い闇のなかに1つの小さな光を見るだろう。その光は徐々に大きくなっていき、最後にはそれが外部からの光を反射したカリム自身の顔だと分かる。その手にはサリムが恋人に贈ってしまったネックレスが握られている。生まれるべきではなかった、だからこそ生を否定する死のなかでこそ、カリムは初めて安らぎを得たのだ。この反出生主義的な傑作"Süd dişinin ağrısı"を誰も救うことはできない、救済はただ死によってこそ成されるのだ。

最後に今作の著名なスタッフを何人か紹介しよう。今作の原作者で且つ脚本を手掛けたのはRamiz Rövşən ラミズ・レヴシャンという人物だ。1946年生まれの彼はソ連時代から脚本家・詩人・小説家として活動しており、今ではその作品は英語やドイツ語、ブルガリア語やトルコ語にも訳されるほどだ。現在でもその作品は人気があり、私の友人であるShovkat Fikratgizi ショヴカット・フィクラトギジは彼の作品を原作に短編"Qadari 06:45"("6時45分到着の列車")を製作している。ネットで検索すれば英語に翻訳された彼の詩が読めるので、ぜひとも読んでほしいところだ。

そして監督はHüseyn Mehdiyev ヒュセイン・メフディイェフ、彼はアゼルバイジャン独立前後に主に活動したが、私としてはそんな監督陣のなかで最も独創的な人物だと言いたい。最初は撮影監督として活動し世界各地の映画祭でその芸術性が高く評価された後、映画監督としてのキャリアを始める。その初期作の1本がこの傑作"Süd dişinin ağrısı"だった。この後にも"Şahid qız"("目撃者の女", 1990)や"Özgə vaxt"("もう1つの時", 1996)などを監督するが、ネットを見る限り2004年制作の"Məkanın melodiyası"("ある場所の旋律")を最後に監督業はしていない。何とも残念だが彼の作品、特に"Özgə vaxt"は相当な1作なので今後ぜひ紹介したい。

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インドネシア映画界の明日~Interview with Umi Lestari

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さて、日本の映画批評において不満なことはそれこそ塵の数ほど存在しているが、大きな不満の1つは批評界がいかにフランスに偏っているかである。蓮實御大を筆頭として、映画批評はフランスにしかないのかというほどに日本はフランス中心主義的であり、フランス語から翻訳された批評本やフランスで勉強した批評家の本には簡単に出会えるが、その他の国の批評については全く窺い知ることができない。よくてアメリカは英語だから知ることはできるが、それもまた英語中心主義的な陥穽におちいってしまう訳である(そのせいもあるだろうが、いわゆる日本未公開映画も、何とか日本で上映されることになった幸運な作品の数々はほぼフランス語か英語作品である)

この現状に"本当つまんねえ奴らだな、お前ら"と思うのだ。そして私は常に欲している。フランスや英語圏だけではない、例えばインドネシアブルガリア、アルゼンチンやエジプト、そういった周縁の国々に根づいた批評を紹介できる日本人はいないのか?と。そう言うと、こう言ってくる人もいるだろう。"じゃあお前がやれ"と。ということで今回の記事はその1つの達成である。

今回インタビューしたのはインドネシア映画批評家Umi Lestari ウミ・レスタリである。この国でも有名な映画批評家の1人であり、自身のブログを中心として、様々な媒体に批評を執筆している。特に映画史に埋もれたインドネシア映画の紹介に奔走しているそうだ。インドネシア映画史について問う人物としてはこれ以上にない存在だ。ということで今回は彼女に映画批評に携わるまでの道、インドネシア映画史における重要作品、Usmar Ismail ウスマル・イスマイルといった巨匠たちへの現在の評価などについてインタビューを行った。それでは宏大なるインドネシア映画史への旅へ!

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済藤鉄腸(TS):まずどうして映画批評家になりたいと思いましたか? どのようにしてそれを成し遂げましたか?

ウミ・レスタリ(UL):20代の初め頃は文芸批評家としての道を歩んでいました。Media Sastraという勉強会兼オンラインの文芸メディアに所属していました。しかし2010年代中盤、私たちはまた新しい旅をすることに決めたんです。「ワンピース」を真似たんですよね、ルフィが強くなるために仲間たちと数年間別れざるを得なかったように。私もまた自分自身の旅を始め、あるアートシーンから別の場所へ行きました。この時、Garasiという前衛演劇団体に参加したんです。それからインドネシア視覚芸術アーカイブでも働き、ここで芸術批評の書き方を学びましたね。この後、Jurnal Footageという映画史と映画批評について議論するオンライン雑誌を読み始めました。そうしてForum Lentengという施設で映画をもっと学ぶため、故郷であるジョグジャカルタを離れてジャカルタに移住しました。2015年から16年にかけてはArkipel、別名ジャカルタ国際ドキュメンタリー・実験映画祭にも参加しました。この過程を通じて、映画への好奇心はどんどん膨らんでいった訳です。私にとって映画について執筆することは自分が何が好きで、何が好きではないかを語るだけのことではありません。映画について執筆するということは私の文化と世界的な状況に対する反射的な活動なんです。さらに執筆を行っている時、前々から培ってきて私のなかに宿っていた知識を呼び起こせることが分かりました。私にとっては文学や演劇、視覚芸術や音響芸術、そして技術の歴史の交差点、それが映画なんです。これが芸術としての映画をより深く探求していきたいと2018年に映画批評家となった理由なんです。2年間映画に焦点を当ててきて、インドネシアの映画のナラティヴの歴史にはとても多くの穴があると分かりました。今はこの空白を私自身の声で埋めようとしている過渡にあり、これが忘れられたインドネシア映画や映画作家たちを再発掘するという執筆計画を用意したんです。そして同じく分かったことはインドネシア映画にまつわる以前の文章は殆どが男性によって書かれていたということです。女性として映画批評を執筆することはインドネシア映画に関する議論を解体していく1つの方法な訳です。

TS:映画に興味を持ち始めた頃、どういった作品を観ていましたか? そして当時のインドネシアではどういった映画を観ることができましたか?

UL:私は首都ジャカルタから550km離れた小さな町で育ちました。スレマンというジョグジャカルタに近い田舎の地域には映写機や映画館が全くありませんでした。なので映画を観るのはもっぱらTVで、例えば"Boboho"というコメディシリーズや吸血鬼映画、Suzzanna スザンナ(インドネシア映画界のホラーの女王です)が出演した作品、それにWarkop DKI ワルコプDKIBenyamin ベンジャミンなどを楽しんでいましたね。10代の頃はインドネシア映画のリバイバル上映を観ていました。ジョグジャカルタで勉強をする機会に恵まれ、そこで映画館に行くという文化が発展していくのを感じ、故郷でもDVDレンタルのダイナミクスというものを経験しました。こういう訳で映画館でインドネシア映画の数々を観ることができたんですが、同時にレンタルにも通いましたね。2000年代中盤に関してはUniversal、その少し後はRumah Filmというジョグジャカルタでシネフィルたちが経営していたレンタル店について言及するべきで、特に後者で多くの映画を知りました。さらにドクメンタル映画祭(Festival Film Dokumenter)という映画祭が2002年に開設され、そこではドキュメンタリー映画を作ることの芸術性を学びました。そして2006年に開設されたジョグジャ・ネットパック・アジア映画祭(Jogja-Netpac Asian Film Festival)ではアジアの様々な映画を観ることができました。そして2010年代中盤、先に言及したジャカルタのForum Lentegが経営するオンライン雑誌Jurnal Footageは実験映画に関する私の興味を膨らませてくれました。こうして私は芸術と映画、映画の趨勢、遊び心の大切さ、映画製作における実験を学び、Arkipelに上映作のプロフラマーとして参加した時には未だ過小評価されている映画作家たちと出会いました。

TS:あなたが初めて観たインドネシア映画は何でしょう? その感想もぜひ聞きたいです。

UL:先述した通り、私はSuzzannaが出演するインドネシアのホラー映画を観ながら育ちました。"Sundel Bolong"(1981)や"Nyi Blorong"(1983)、"Malam Jumat Kliwon"(1986)といったSisworo Gautama Putra シスウォロ・ガウタマ・プテラ監督のホラーをTVで観るのは、子供ながらに怖かったですね。ジャワ島における神秘を思わず信じてしまいましたね。"Nyi Roro Kidul"シリーズにおけるSuzzannaのスーパーパワーを見た時には、ジャワ島の民話における人気の神である、この南海の女王Nyi Roro Kidul ニャイ・ロロ・キドゥルのファンになってしまいました。今振り返って思うのは、子供時代の経験は装置論的映画がいかに機能するかの完璧な例だったということです。映画は観客にスクリーンに描かれたものを信じさせるんです。

TS:あなたにとってインドネシア映画の最も際立った特徴とは何でしょう? 例えばフランス映画は愛の哲学、ルーマニア映画は徹底的なリアリズムと黒いユーモアなどです。ではインドネシア映画においては一体何でしょう?

UL:アマチュア性と文化変容ですね。The Teng Chun テ・テン・クヌ(1902-1977)という無声映画時代からインドネシア独立までに活躍したパイオニア的な映画作家・プロデューサーは、インドネシアシネマテーク(Sinematek Indonesia)の設立者であるMisbach Yusa Biran ミスバク・ユサ・ビランにインタビューされた時こう答えました。"当時プロフェッショナルと呼べる人物は誰もいなかった"と。そしてこのインタビューの際にMisbachは、メッセージとしてのナショナリズムのためでなく、商業的目的のためだけに映画を作っていたと彼を非難しました。しかしTheの答えから私が認識したのは、もし私たちがインドネシア映画の美学に注目するなら、南国の大地出身の人々が現代の技術からいかに自身のナラティヴを発展させたかというアマチュア性の側面に注目するべきだということでした。The Teng Chunはハリウッドや上海で映画産業が発達するのを目撃した後、初めての映画を作りました。1930年代には自分でトーキー映画用のカメラを作り"Boenga Roos dari Tjikembang"(1931)を作ったんです。そしてこれがインドネシア映画発達の基礎となった訳です。

これに加えて1950年代初期、思想家で執筆家Armijn Pane アルミヌ・パネ(1908-1970)という人物が、もしインドネシア映画に目を向けるなら、私たちはその文化適合的な側面を考える必要があると提唱しました。Paneはインドネシア映画は文化適合のプロセスそのものであり、東洋のストーリーテリングと西洋の技術を組み合わせたものと見做していました。インドネシアにおける映画製作は文化の交錯のプロセスという訳です。このアマチュア性と文化適合という2つのコンセプトを組み合わせた時、インドネシア映画の多様な側面が見えてくるでしょう。そしてこれは今でも続いています。例えば北スマトラのメダンは映画上映において長い歴史がある地域なのですが、ここの映画作家たちは殆どがアマチュアであり、DIYで自身の作品を作り、配給しているんです。さらに同様の考えはシンカワンやパプアで制作される映画にも見られます。アマチュアたちは映画への愛を基に自分たちだけで映画を作り、彼らの過ごす日常のナラティヴと安価な技術を合体させているんです。

TS:あなたの意見として、インドネシア映画史において最も重要な映画は何でしょう? その理由もお聞きしたいです。

UL:まずMannus Franken マヌス・フランケンAlbert Balink アルバート・バリンクが監督した"Pareh"(1936)ですね。撮影はJoshuaOthniel Wongが担当しています。今作は独立前のインドネシアにおける国を越えた映画製作の例でもあります。物語としては地方の迷信によってその愛を禁じられた恋人たちを描いています。山から海まで様々な場所で撮影が行われており、インドネシアの美(mooi indie)を体現した完璧な例となっています。

もし特集効果を使った初期の映画を探しているなら、 The Teng Chun"Tie Pat Kai Kawin"(1935)を観るべきでしょう。彼は先述通りインドネシア独立前における映画スタジオのパイオニアです。技術的制限のため、彼は1930年代にトーキー用のカメラを開発しました。"Terang Boelan"(Albert Balink, 1937)が興行的に成功した後、Theの制作作品は中国の民話を描くものからナショナリズムの台頭を描きだすものに変わっていきました。"Tie Pat Kai Kawin"は低予算での特集効果を駆使しており、主人公Tie Pat Kaiの駆け抜ける魂を表現するためにセルロイドを引っかいたんです。

"Terimalah Laguku"(1952)はDjadoeg Djajakusuma ジャドゥク・ジャヤクスマの監督作です。もしざくろの色」(セルゲイ・パラジャーノフ、1969)のミザンセーヌの1つ、登場人物たちが原稿に覆われた壁の前に立つ場面に親しんでいるとしたら、この作品には驚かされるでしょう。私にとっては、インドネシア国立映画会社(Perfini)の初期作で芸術監督を担当していたBasuki Resobowo バスキ・レソボウォが今作のミザンセーヌ芸術を高めたと思っています。今作においてRosobowoは壁を竹で埋めつくしましたが、これは当時のインドネシアで流行していたファイン・アートにおけるリアリズムの潮流に影響されていました。さらに"Terimalah Laguku""Si Tjonat"(Nelson Wong ネルソン・ウォン, 1929)という盗賊を描いた、インドネシア独立前に作られたサイレント映画へのオマージュ的作品ともなっていました。この作品でマーシャル・アーツが披露される場面を催しの一環として子供たちが観ているというシークエンスが描かれるんです。

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"Apa Jang Kau Tjari, Palupi?"(1969)はAsrul Sani アスルル・サニによって監督された1作で、1960年代における映画業界の闇を描きだしています。Palupiという女性は舞台演出家の夫の元から去り俳優になろうとしますが、出資者の愛人として囚われてしまうんです。彼女が映画監督から拒まれた時、1軒の家(Palupiの新しい映画のセットです)が崩壊していき、それが彼女の心の傷を表現しているとそんな場面には驚かされました。

クルドサック」("Kuldesak", 1999)はオムニバス映画であり、Nan Achnas ナン・アクナスMira Lesmana ミラ・レスマナRiri Riza リリ・リザRizal Mantovani リザル・マントヴァニといった映画作家たちがここからデビューを果たしました。クルドサック」スハルト体制における新体制(Orde Baru)とインドネシアの改革、映画制作と美学的戦略の間に架かる残酷な橋を表現してもいます。MVやポップ・カルチャーからの影響が見られるとともに、映画内ではそれが若者たちの都市生活と組み合わされている訳です。

女性たちも映画を作っていますが、それは1950年代に2人のRatna(Ratna Asmara ラトナ・アスマラRatna Suska ラトナ・ススカ)によって始められ、新体制時代には他の女性作家たちSofia W.D ソフィアW.DChitra Dewi キトラ・デウィIda Farida イダ・ファリダが続きました。しかしNan Achnas"Pasir Berbisik"(2001)は革命以後における映画製作のフェミニスト的側面、その明確な例です。新体制のジェンダー固定的な政権に挑戦しながら、その語りは女性的なイメージによって強い女性キャラクターたちを祝福しているんです。

TS:もし1本だけお気に入りのインドネシア映画を選ぶなら、それは何でしょう? その理由もお聞きしたいです。そこには個人的な思い出がありますか?

UL:"Apa Jang Kau Tjari, Palupi"(1969)ですね。、特定の理由はありません。ただ愛してるんです。

TS:海外において最も有名なインドネシア人監督の1人は間違いなくUsmar Ismailでしょう。彼の長編"Lewat djam malam"マーティン・スコセッシのWorld Cinema Projectによってレストアされ、そのおかげで私を含め世界のシネフィルが今作を観て、魅了されています。そこでぜひ彼の生涯やその作品群についてお聞きしたいです。現在彼はインドネシアでどのように評価されているでしょう?

UL:この約50年間、インドネシアの(男性)批評家によって書かれてきたインドネシア映画にまつわる文章においては、常に映画のエコシステムを発展させてきた父的存在がいると想像されてきました。まず私たちにはNja Abbas Akup ニャ・アッバス・アクプ(1932-1991)というコメディの父がおり、Djamaluddin Malik ジャマルディヌ・マリク(1917-1970)は映画産業の父と呼ばれています。新体制時代(1965-1998)にはこの議論が正当化され、今でも続いているんです。もし今後インドネシア映画の新たな語りについて批評され書かれない限り、Usmar Ismailインドネシア映画の父としての存在を欲しいままにするでしょう。彼が"Darah dan Doa"(1950)を撮影した最初の日である3月30日は、インドネシアにおいて全国映画記念日(Hari Film Nasional)として常に祝われていますし、これからもそうなるでしょう。

"Lewat Djam Malam"の話題に移りますと、今作がIsmailが理想的・国家主義的映画を作る事を目的として設立した映画スタジオPerfiniと、Djamaluddin Malikが所有していたスタジオPersariの共同制作ということを人々は忘れてしまっています。彼らは作家的側面についてだけ、つまりIsmailは今作の映画的構造をどのように創造したのかについてだけ語るんです。まあ実際、おそらくですが彼はPerfiniの同僚たちが居なければ面白い映画を作ることはできなかったんです。"Harta Karun"(1949)や"Darah dan Doa"(1950)といった彼の初期作品に目を向けると、際立った違いが存在します。Usmalが自身の作風を持っていた、例えばパフォーミング・アートという観点から彼がカメラについて考えていたなどです。彼のキャリアの背景には舞台監督としての過去がありました。しかし"Darah dan Doa"に関しては、Usmarは左翼芸術家Basuki Resobowo(1916-1999)を芸術監督として起用し、共同制作を行いました。RosobowoのおかげでPerfiniが制作する映画のクオリティはより成熟したものになったんです。先述通り、彼はざくろの色」を彷彿とさせるミザンセーヌを創造する力があった訳です。それに加えて、Rosobowoは画家や舞台監督であったことを生かし、映画のメッセージを映像言語に翻訳することもできました。彼がミザンセーヌを創造する方法論は"Kafedo"(Usmar Ismail, 1953)や"Lewet Djam Malam"といった作品でアシスタントを務めたChalid Arifin カリド・アリフィヌに引き継がれました。私の研究を読めば、"Lewet Djam Malam"という映画は"Enam Djam di Djogja"(Usmar Ismail, 1951)や"Terimalah Laguku"(Djaboeg Djajakusuma, 1952)といった作品の技術の発展版、そして物語という意味では革命兵士たちの孤独を描きだした"Embun"(Djaboeg Djajakusuma, 1952)の発展と分かるでしょう。

さらに"Lewat Djam Malam"へのPersariの貢献も言及するべきでしょう。制作会社として商業的成功を収める作品が作れるようになるまで、Persariは様々な探求を行っていました。1952年、Djamaluddin MalikはPersariのプロデューサーとしてクルーや技術者、芸術家たちをフィリピンで最も規模の大きかったスタジオ、そして東南アジアで最も成功していた制作会社であるLVN Manilaへと連れていきました。例えば"Rodrigo de Villa"(1952)という作品を制作していましたね。Malikはスペクタクルを提供すること、観客の求めるものを提供することにこだわっており、製作者とPersariにおける熟練の芸術家としての彼がいなければ"Lewat Djam Malam"は今日私たちが観ているように面白いものではなかったでしょう。

TS:そして私の好きなインドネシア人監督の1人はDjaboeg Djajakusumaです。"Embun""Harimau Tjampa"といった作品に代表される、偉大で洗練された、時には大胆な手腕が好きです。しかし今のインドネシアにおいて彼はどれほど人気で有名なのでしょう? 彼とその作品はどのようにインドネシアの人々に受容されているのでしょう?

UL:Djaboeg Djajakusumaは伝統的なストーリーテリングとパフォーミング・アートを探求した映画監督として知られています。例えばワヤンという人形劇における伝統的音楽を基とした作品を作るなどしています。"Embun"において観客は人々が雨乞いの儀式を行う場面などから、彼がいかにジャワ島の神秘主義アニミズムを描きだしているかを見ることができるでしょう。"Harimau Tjampa"において、彼はシラットの哲学を探求し、ミナン人たちの音楽様式をストーリーテリングの1つとして利用しています。Usmar IsmailUCLAで脚本執筆を学ぶためインドネシアを離れた時、Djajakusumaは"Terimalah Laguku"を監督しました。彼は女性たちを男性たちよりも強く描いたのですが、不幸なことにそういった場面は検閲によってカットされてしまったんです。1980年代にはジャカルタ芸術大学(Institut Kesenian Jakarta)で教鞭を取っていました。おそらくGarin Nugroho ガリン・ヌグロホは彼の生徒の1人でした。

TS:"Harimau Tjampa"を鑑賞した時に驚いたのは、インドネシアにおける伝統的護身術であるシラットが現代のアクション映画、例えばザ・レイドなどでIko Uwais イコ・ウワイスYayan Ruhian ヤヤン・ルヒアンといった武術家が体現するものとは全く違っていたことです。この劇的な変貌はインドネシア映画において、50年代の"Harimau Tjampa"から2010年代のアクション映画までシラットの描かれ方はどのように変わっていったかへの興味をそそります。インドネシア映画においてシラットは頻繁に描かれてきたのでしょうか?

UL:1940年代に制作された作品を幾つか観るなら、闘いの場面において俳優たちがシラットを使っているのが分かるでしょう。例えば"Matjan Berbisik"(Tan Tjoe Hock, 1940)や"Si Tjonat"(Nelson Wang, 1929)などがそうであり、後者は"Terimalah Laguku"という作品としてDjajakusumaがリメイクしています。"Harimau Tjampa"を観ると分かるのは、シラットは闘いの場面をより興奮させるものとして描くためには使われていないということです。Djajakusumaはその哲学的な側面を探求していた訳です。ザ・レイドなどにおける表象と全く違うのは確かにそうで、こういった作品におけるシラットはより振付が精緻になされているんです。1970年代から80年代に作られた作品に関しては、ジャワラ(jawara)という地方におけるシラットのチャンピオン、もしくは地方における神話を探求する物語に重点が置かれていることが殆どと分かるでしょう。例えば"Si Pitung"(Nawi Ismail ナウィ・ウスマイル, 1971)や"Singa Betina dari Marunda"(Sofia W.D., 1971)、"Warok Singo Kobra"(Nawi Ismail, 1982)が代表例です。

TS:Usmar IsmailDjaboeg Djajakusumaといった先述の50年代における映画作家たちはインドネシアの映画産業を大きく前進させた人物でしょう。しかし日本において、彼らがいかにインドネシア映画に影響を与えたかにまつわる情報が殆どありません。そこで聞きたいのは彼らの映画は70年代、90年代、2010年代のインドネシア映画とどのように繋がっているか、そして現代の作家たちや作品に彼らからの影響や引用が見られるものはあるか?ということです。

UL:そうですね……Usmar IsmailDjadoeg Djajakusumaはラッキーでした。彼らは右翼の映画作家で、1965年の政治的騒乱の中でも作品は守られたんです。それに加えてPerfiniの構成員の第2世代に属していたMisbach Yusa Biranが1970年代にインドネシアシネマテークを設立し、彼らの作品を所蔵していた訳です。1965年以後、左翼の芸術家や映画作家たちは難民となることを余儀なくされたり、もっと酷い場合は殺害されたり、ブル島に幽閉されたんです。新体制時代、左翼の映画作家たちのスタジオは燃やし尽くされ、作品も消し去られました。おそらくその後に関しては本などをチェックするべきですが、彼らのことはこれ以上語られなくなります。例えば1997年、山形国際ドキュメンタリー映画祭ではDr. Huyung ドクトル・フユンの作品が上映されました。ArkipellやKulturasinemaといった映画祭が毎年上映する作品を眺めれば、アーカイブ映像の中に隠されていた作品群、例えば"Pulang"(Basuki Effendy, 1952)という作品やThe Teng ChunTan Tjoe Hockが制作した映画を観ることができます。

そして彼らの影響について語るなら、日本の影響についても語りましょう……そうですね……知っての通り大日本帝国は1942年から1945年までインドネシアを占領していました。日本軍はromusha(第二次世界大戦期に日本軍が強制的に徴発した非日本人労働者を表す言葉)、もしくは強制労働者たちをかなり広範に搾取し、食べ物のセキュリティを厳重にしたり、戦争の間に軍の施設を建築させたりしました。これに加えてjugun ianfu(従軍慰安婦はそのままインドネシア語に外来語として適用されている)も存在しました。日本軍は村から女性たちを徴用し、軍人たちを喜ばせるために搾取したんです。こういった日本軍の支配下における最悪の状況を描きだした作品はほとんどありません。まず元従軍慰安婦が戦後社会で平和に生きようとする姿を描いた、インドネシア最初の女性監督による映画があります。不幸なことに今作は重要だと思われていません。何故ならインドネシア映画に関する文章の数々は戦時中における女性たちの経験を抹殺してきたからです。そして2つ目の作品である"Romusha"(Max Tera マックス・テラ, 1972)は戦時における日本人の残虐性を描きだしています。こちらも不幸なことに、1970年代におけるインドネシアと日本の関係性の悪化を恐れた政府によって上映禁止の処置がとられてしまいました。

しかしながら明らかになったのは、日本占領下の時代において日本人がオランダの植民地からの自由と解放を叫んでいたインドネシアのインテリ層に恋に落ちたことです。彼らは同じ声を持っていた、つまり西欧による帝国主義を打倒しようとしていたということです。大東亜共栄圏設立のため、日本軍はromushaを搾取するだけでなく、芸術文化を通じてプロパガンダを行いました。そこで設立されたのがKeimin Bunka Shidosoです。IsmailとDjajakusumaはこのメンバーであり、日本文学を翻訳するとともに、それを原作として脚本を執筆しました。Ismailの第3長編"Dosa Tak Berampun"(1951)は菊池寛(1888-1948)の父帰るを原作としています。UsmarはKeiminに属していた際父帰るを翻訳したんです。

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Keimin Bunka Shidosoに加えて、日本軍はNippon Eiga Sha(後にJawa Eiga Koshaとなります)を設立しました。彼らは幾つかのフィクションやプロパガンダ映画を製作し、太平洋における日本の勝利を喧伝していった訳です。Nippon Eiga Shaに所属していたのがDr. Huyung(日夏英太郎、もしくは許泳が使った別名です)でした。彼は朝鮮生まれでありながら日本の協力者となり、しかしその後1945年からはインドネシアの革命をサポートするようになりました。独立後、Nippon Eiga Shaで働いていたインドネシアの技術者たちはBerita Film Indonesia(BFI)を設立し、独立戦争(1945-1949)の間に起きた残虐な事件の数々を記録していきました。Dr. Huyungはジョグジャカルタに赴き、インドネシア最初の映画学校であるCine Drama Instituteを設立しました。さらにキノ・ドラマ・アトリエ Kino Drama Atelierという施設を築き、ここではDjajakusumaが秘書として働いていたんです。そしてUsmar IsmailDr. Huyungの子弟の1人でした。こうして1950年代に映画業界が発展していった時、Dr. Huyungナショナリズムにまつわるメッセージを広めるため「天と地の間」("Frieda", 1951)を製作しました。不幸にも彼は1954年に亡くなってしまいましたが(ぜひDr. Huyungに関する私の研究をご覧ください)

Nippon Eiga Shaは1930年代や40年代に活動を始めた映画作家を雇っていきました。まずRd. Ariffin、それからDr. Huyungのアシスタント兼編集技師となったNawi Usmail ナウィ・ウスマイル、彼は1970年代から80年代にかけて政治的内容を伴ったコメディ映画で有名となりました。例えば彼は"Benyamin Tukang Neibul"(1975)という作品を作りましたが、今作はインドネシアの軍隊を超現実的なストーリーテリングで描きだしています。

TS:2010年代も数か月前に終わりました。そこで聞きたいのはあなたの意見として2010年代最も重要なインドネシア映画は一体何でしょう? 例えばYosep Anggi Noen ヨセプ・アンギ・ヌン"Hiruk-Pinuk Si Al-Kisah"Edwin エドウィン「動物園からのポストカード」Maouly Surya モーリー・スルヤ「マルリナの明日」などです。私が挙げたいのはTimo Tjahjanto ティモ・ジャヤント監督の「シャドー・オブ・ナイト」です。今作はインドネシア産アクションの頂点であり、2010年代で最も激烈なアクション映画の1本として数えられるでしょう。

UL:私が挙げたいのはモーリー・スルヤ「愛を語るときに、語らないこと」(2013)です。大きなスクリーンで初めて今作を観た時の経験を今でもハッキリと覚えています。モーリー・スルヤは映画的構築に遊び心を持っているだけでなく、音とイメージの探求も深めており、静謐が全く騒々しい場面へと変貌することだってあるんです。

TS:インドネシア映画界の現状はどういったものでしょう。外側から観るとそれは良いもののように思えます。多くの新しい才能が有名映画祭に現れていますからね。例えばロカルノYosep Anggi Noen、カンヌのモーリー・スルヤ、ベルリンのKamila Andini カミラ・アンディニなどです。しかし内側からだとその現状はどういったように見えるでしょうか?

UL:インドネシア映画界の現状はとても多様なものです。1998年のスハルト政権崩壊後、国の中心はもはやジャカルタではなくなりました。映画祭はジョグジャカルタやプルバリンガといった地で育まれることになり、地方映画が現れ始めたんです。映画のコミュニティも成長していき、観客は娯楽映画から非政治的映画、実験映画まで何でも観られるようになりました。映画作家たちもやはりとても多様です。Joko Anwar ジョコ・アンワルのように1980年代のインドネシア産ホラーを探求する者がいたり、フェミニズムを表現するメディアとして映画を意識的に駆使する作家たちも現れています。さらにいわゆるThird Cinema(植民地主義や資本主義、ハリウッドの映画製作を否定する映画潮流。ラテンアメリカ発祥)の魂を体現しようとする人々もいます。頭を柔らかくして考えると、他の国で映画作家が成し遂げたことを考えずとも、このインドネシアのあちこちで"ローカルな天才"が現れる未来を感じ取ることができるでしょう。彼らにとってはおそらく"国際的に名声を博す"ことはもはや重要ではなくなります。1930年代から50年代までのアートシーンにおいて、インドネシアは国際的でした。そして今、インドネシアの芸術や映画は新しい視点、新しい考え、そして新しい実験性をグローバルなシーンへ提供することができているんです。

TS:そして映画批評の現状はどういったものでしょう? 外側からだとその批評に触れる機会がほとんどありません。そこで内側から見えてくる現状についてお聞きしたいです。

UL:インドネシアにおける芸術批評について話す時、私が思い出すのは画家であるSudjojono スジョヨノが描いた"High Level"(1975)という絵画です。この絵画において、私たちは芸術家が誇りを以て立ち、収集家がその作品を慎重に観察し、画商が微笑みとともに礼をするのが見えるでしょう。しかし左側を見てみると、ある男がしゃがんで困惑しているのが分かります。この男は批評家であり、ギャラリーに展示された芸術を読み解こうとしているんです。ここに私自身の経験を見てしまいます。批評家であることはテキストと対峙することと同時に、孤独と対峙する経験でもあるんです。この仕事はレッドカーペットで瞬くフラッシュには程遠い。なのでインドネシア映画批評家が少ないことに驚きは感じません。

しかし同じく強調したいのは、ここ10年で映画批評家のためのイニシアチヴやワークショップが多く行われたことです。例えばCinema Poeticaドクメンタル映画祭は2017年から共同で映画批評に関するワークショップを開催しています。Arkipelにおいては志願者たちが映画批評の執筆にまつわる知識を学んでいます。2018年にはPeriod Workshopという文芸と映画批評にまつわる連続ワークショップが行われました。

今私が目撃しているのはおそらく過渡だと思うんです。若いライターや映画批評家は近いうちに自身の視点を世に問う勇気を持つことになるはずです。例えばブログやビデオログなど自身のプラットフォームを使ったり、映画批評の団体を作ったり、マス・メディアにおいて映画批評を執筆できる場を獲得したりもするかもしれません。未来のインドネシア映画批評家が語りという側面だけでなく、映画に引用される芸術作品、音響芸術、編集、インドネシア映画の美学などについて書くようになることを願います。

TS:あなたにとって2020年代に有名となると思われる注目すべき才能は誰でしょう? 例えば私が挙げたいのは人間心理への深い洞察という意味でMakbul Mubarak マクブル・ムバラクを、濃密な前衛的傾向という意味でRiar Rizaldi リアル・リザルディを挙げたいです。

UL:はは……MakubulとRiarは友人です。彼らの未来は明るいと賭けられますね。しかし私としてはSarah Adilah サラ・アディラSinekoci Palu シネコチ・パルがその映画製作を一貫し続け、映画への知識を広めてくれることを願いたいです。そしてAsrida Elisabeth アスリダ・エリザベス"Tanah Mama"(2015)というドキュメンタリーの監督ですが、もっと映画が製作してくれることも願います。

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アゼルバイジャン、軍隊と男性性~Interview with Ruslan Ağazadə

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さて、このサイトでは2010年代に頭角を表し、華麗に映画界へと巣出っていった才能たちを何百人も紹介してきた(もし私の記事に親しんでいないなら、この済藤鉄腸オリジナル、2010年代注目の映画監督ベスト100!!!!!をぜひ読んで欲しい)だが今2010年代は終わりを迎え、2020年代が始まろうとしている。そんな時、私は思った。2020年代にはどんな未来の巨匠が現れるのだろう。その問いは新しいもの好きの私の脳みそを刺激する。2010年代のその先を一刻も早く知りたいとそう思ったのだ。

そんな私は、2010年代に作られた短編作品を多く見始めた。いまだ長編を作る前の、いわば大人になる前の雛のような映画作家の中に未来の巨匠は必ず存在すると思ったのだ。そして作品を観るうち、そんな彼らと今のうちから友人関係になれたらどれだけ素敵なことだろうと思いついた。私は観た短編の監督にFacebookを通じて感想メッセージを毎回送った。無視されるかと思いきや、多くの監督たちがメッセージに返信し、友達申請を受理してくれた。その中には、自国の名作について教えてくれたり、逆に日本の最新映画を教えて欲しいと言ってきた人物もいた。こうして何人かとはかなり親密な関係になった。そこである名案が舞い降りてきた。彼らにインタビューして、日本の皆に彼らの存在、そして彼らが作った映画の存在を伝えるのはどうだろう。そう思った瞬間、躊躇っていたら話は終わってしまうと、私は動き出した。つまり、この記事はその結果である。

さて今回インタビューしたのはアゼルバイジャン映画界の新鋭Ruslan Ağazadə ルスラン・アガザダである。彼の短編作品"Balaca"("低い")はタイトル通り低身長の青年を描いた作品だ。彼はその身長のせいで軍隊から入隊を断られ、恋人にも結婚を拒否されてしまう。そんな彼が世界に認められるよう必死に苦闘する様を描きだしたのが今作だが、これが浮き彫りにするのがアゼルバイジャンにおける軍隊システムの存在感とそれに影響される男性性である。2020年には領土問題に端を発するナゴルノ=カラバフ紛争が再燃し、アゼルバイジャンは多数の犠牲を払うこととなったが、この驚異が常に存在する故に、アゼルバイジャンにおいては男性の兵役が義務付けられている。今作はこの現状を背景としている訳だ。ということで監督には今作の演出やアゼルバイジャンの現状、アゼルバイジャン映画史における古典作品などについてインタビューした。それではどうぞ。

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済藤鉄腸(TS):まずどうして映画監督になりたいと思いましたか? どうやってそれを成し遂げましたか?

ルスラン・アガザダ(RA):まず言及したいのは私が撮影監督でもあることです。しかしこの"Balaca"という作品においては監督として挑戦したかった。数年前に若い映画作家たちが集まりThe Club of Young Filmmakersというグループを結成しました。彼らは短編の脚本を募集しており"Balaca"の脚本を送ろうと思いました。結論として彼らは今作の制作を決めてくれて、こうして私は映画監督になった訳です。

TS:映画に興味を持ち始めた頃、どういった映画を観ていましたか? 当時のアゼルバイジャンではどういった映画を観ることができましたか?

RA:映画への興味は父から受け継いだものです。彼もまた映画作家で映画という世界へ最初に導いてくれた人物でした。子供の頃は彼とエミール・クストリツァ黒澤明アッバス・キアロスタミフェデリコ・フェリーニといった監督の作品を観ていました。これらの殆どは当時TVでも映画館でも観られませんでした。子供だったので当然全てを理解してはいませんでしたが、映画作家になりたいという夢の基礎となってくれた訳です。

TS:今作"Balaca"の始まりは一体何でしょう? あなた自身の経験、アゼルバイジャンのニュース、もしくはその他の何かでしょうか?

RA:今作のアイデアは私自身の観察と巡りあった出来事の数々です。私は田舎町で育ったのですが、そこで人生を過ごすうち様々な物事を目撃し、この思い出が最後にはアイデアを形作ってくれた訳です。

TS:詳しい質問に入る前に、ぜひ"Balaca"にも関連するアゼルバイジャンにおける軍隊とそのシステムについてお伺いしたいです。私たち、少なくとも日本人はこれについてナゴルノ=カラバフ紛争のニュースを通じてでしか知ることができず、日本においては他にこの情報に触れる機会がありません。そこで日本の読者にアゼルバイジャンの軍隊システム、そしてこれがアゼルバイジャン人、特に"Balaca"の主人公のような若者たちにどういった影響を与えているかを聞きたいです。

RA:南コーカサス地方では常に紛争や戦争が起こっており、これがある種の価値観や人生への視点に影響を与えていることに疑いはありません。不幸なことに今に至るまで私たちは地域における"戦争と平和"というジレンマに対処せねばならず、ナゴルノ・カラバフ紛争はその良い例であるという訳です。この国は70年間ソ連支配下にあり、軍隊勤務は義務となっています。そして第2次世界大戦によって幾つもの世代がソ連の軍事的プロパガンダの中で成長していきました。不幸にもソ連の崩壊後、この地域は騒擾の数々と直面し、この1つこそがナゴルノ・カラバフ紛争なんです。ゆえに男性には義務的な兵役があり、昨今の状況も相まって人々の間で軍隊は大いに尊敬されています。

TS:まず感銘を受けたのはOrxan Ağazadə オルハン・アガザダによる撮影です。特に印象深かったのは先鋭で衝撃を伴った方法論を以て陰影を多く駆使しながら、主人公の言葉を越えた感情、例えば悲しみや自暴自棄といったものを描きだしているところです。それは部屋の壁の前で主人公がポーズを取ったり、基地の隣にある店で眠っている場面などに見られます。この撮影スタイルを彼とともにどのように構築していきましたか?

RA:Orxan Ağazadəは今作の撮影監督であり、私の兄弟でもあります。彼もまた映画作家なのですが、ここでは撮影監督を担当してくれている訳です。プレプロ段階で映画の映像的側面について、たくさんの議論を重ねました。そして私自身の撮影監督としての経験もまた、映画を観る方法論に関して正確なアイデアを与えてくれました。撮影スタイルは同時発生的でなくてはならず、ドキュメンタリーに近い必要がありました。しかしもちろんOrxanからの提案にもオープンであろうとしました。いつも同じ波長という訳ではないですが、ある種の事象に関しては同じ観点を持っており、それこそが創造的過程の核を興味深いものにしていると私には思えます。

TS:今作の核となる存在は間違いなく主人公を演じたGudrat Asad グダラット・アサドでしょう。彼の身体や雰囲気はアゼルバイジャンにおける男性性や現実に傷ついてしまった、痛ましく繊細なバランスを持ちあわせる一方で、その演技や表現は一切の虚飾なく観客の瞳にその感情や苦痛を刻みつけてくるかのようです。彼のような素晴らしい俳優をどのように見つけ出したのでしょう、そして彼と仕事をしようと思った最も大きな理由は一体なんでしょう?

RA:Gudratのことは大学時代から知っていて、一緒に勉強に励んでいました。しかし正直言って、ここで彼を主役に据えると考えてはいなかったんです。かなり躊躇ったのは彼が俳優ではなく、演技をこなせるか定かではなかったからです。そこでこの役のために何度もオーディションを行いましたし、映像テストも行いました。あなたの質問で言及されている主人公の性格が私の最終決断を形作ったものであり、こうした流れで彼と仕事をしようと決めたんです。

TS:前の質問と関連するのですが、ラストにおける主人公の表情はとても痛ましいもので、言葉を失うほどでした。絶望、困惑、痛み、そして深淵のような哀しみ。これらの感情の混合物がその顔に現れ、今作を忘れがたいものにしています。そこで聞きたいのはこの場面をどう撮影したかということです。Gudrat氏からどのようにこの痛ましい感情の混合を引き出したのでしょう、どうしてこのショットを最後に置こうと決断したのでしょう?

RA:まず脚本を執筆している際、ラストに関しては幾つかの選択肢を用意していました。しかしある理由から映像的な反復に関してのことが常に心にありました。この反復によって始まりでこそ今作を終わらせようと思えたんです。意図としてはあまり劇的で感傷的に過ぎないものにしようとも思っていました。これに関してリハーサルの間にGudratと話し合ったんです。演技や感情表現において様々な選択肢を試しました。そして決断しなければならない段階で、彼が鉄棒で懸垂しながら、結婚式を目撃するという場面を撮ったんです。この光景を長回しで慎重に捉えていくことで、身体的な困難が彼の感情の波に加わってくれた訳です。

TS:今作において軍のシステムはアゼルバイジャンの男性性というものに深く関わっています。一見すると軍隊は男性性の間違った概念、いわゆる有害な男性性というものを生み出し、この結果軍隊が主人公の身長が短いゆえに軍隊への加入を許可しなかったり、これを理由に彼の恋人が結婚を拒んだりと、主人公は深く傷つくことになります。今作はアゼルバイジャンにおける男性性への深い洞察とも言えるでしょう。ここで聞きたいのはアゼルバイジャンにおける男性や彼らが持つ男性性の現状はどういったものかということです。2020年におけるナゴルノ=カラバフ紛争の再燃と停戦の後、アゼルバイジャンの男性とその男性性はどこへ向かい、どのように変化していくでしょう?

RA:先述した通り、南コーカサス地方では多くの闘争が勃発しています。ジェンダーにまつわる精神性や視点も多く影響を受けています。男性性に関してですが、これはこの事実にだけ関連している訳ではありません。宗教と東側としての精神性もまたこの国では大きな役割を果たしています。その結果として時おり個人にまで影響する有害なメンタリティを持った社会が生まれるんです。

TS:もしシネフィルがアゼルバイジャン映画史を知りたいと思った時、どういった作品を観るべきでしょう? その理由もお聞きしたいです。

RA:アゼルバイジャン映画の古典についてもっと知りたいなら"Arșın mal alan""Bizim Cəbiş müəllim"("私たちの先生ジャビシュ")、"Şərikli Çörək"("分け与えられるパン")といった作品をお勧めします。新しい作品を発見したいなら"All fo the Best""Nabat"といった作品をお勧めしますね。

TS:もし1本だけお気に入りのアゼルバイジャン映画を選ぶなら、どれを選びますか? その理由もぜひ知りたいです。何か個人的な思い出がありますか?

RA:"Şərikli Çörək"は私にとってオールタイムベストのアゼルバイジャン映画です。今作の舞台は第2次世界大戦後にソ連に占領されたバクーで、子供たちの幼さや人生は戦争による貧困によって甚大な影響を受けています。この子供たちがとても好きで Şamil Mahmudbəyovの監督としての采配にも感銘を受けました。

TS:アゼルバイジャン映画の現状はどういったものでしょう? 外側からだとそれは良いもののように思えます。有名な映画祭に新しい才能が続々現れていますからね。例えばカンヌのTeymur Haciyev テイムル・ハジイェフロカルノElvin Adigozel エルヴィン・アディゴゼルRu Hasanov ルー・ハサノフ、そしてヴェネチアHilal Baydarv ヒラル・バイダロフです。

RA:あなたが言及した通り、ここ数年アゼルバイジャン映画は大きな成功を遂げています。あなたも名前を挙げた、多くの新しい才能たちがどんどん現れているんです。それでもこれからの数年は。世界が置かれている状況や最近の紛争も鑑みるとこの国の映画作家にとっては確実に難しい状況になるでしょう。しかし私としては幾つもの小さな成功が私たちの映画文化が発達していくごとに成し遂げられ、これが将来における更なる達成に繋がることに疑いはありません。

TS:新しい短編か長編作品を作る予定はありますか? あるならぜひ日本の読者にお伝えください。

RA:はい、今は新しい短編に取り組んでいます。しかし今回は少しアニメーションという様式を試したいと思っています。物語は抽象的なもので、プロダクションは既に始まっています。しかし不幸なことにパンデミックのせいでこれを延期せざるを得なくなりました。願わくば今年ウイルスから解放されて、制作を再開できればと思っています。

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ハンガリー映画史、彼女たちの極光~Interview with Vincze Teréz

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さて、日本の映画批評において不満なことはそれこそ塵の数ほど存在しているが、大きな不満の1つは批評界がいかにフランスに偏っているかである。蓮實御大を筆頭として、映画批評はフランスにしかないのかというほどに日本はフランス中心主義的であり、フランス語から翻訳された批評本やフランスで勉強した批評家の本には簡単に出会えるが、その他の国の批評については全く窺い知ることができない。よくてアメリカは英語だから知ることはできるが、それもまた英語中心主義的な陥穽におちいってしまう訳である(そのせいもあるだろうが、いわゆる日本未公開映画も、何とか日本で上映されることになった幸運な作品の数々はほぼフランス語か英語作品である)

この現状に"本当つまんねえ奴らだな、お前ら"と思うのだ。そして私は常に欲している。フランスや英語圏だけではない、例えばインドネシアブルガリア、アルゼンチンやエジプト、そういった周縁の国々に根づいた批評を紹介できる日本人はいないのか?と。そう言うと、こう言ってくる人もいるだろう。"じゃあお前がやれ"と。ということで今回の記事はその1つの達成である。

ということで今回インタビューしたのはハンガリーの映画研究者Vincze Teréz ヴィンツェ・テレーズである。彼女はエトヴェシュ・ロラーンド大学で映画理論と映画批評の教鞭を取りながら、批評や論文を執筆している人物であり、特にハンガリーの女性映画作家に造詣が深い。ゆえに今回は最も有名なハンガリー人女性監督Mészáros Márta メーサーロシュ・マールタタル・ベーラの公私にわたるパートナーHranitzky Ágnes フラニツキ・アーグネシュ、そして2010年代に台頭を始めた新鋭作家たちなど、この国の女性作家たちについてインタビューを試みた。日本語になるのが初だろう情報がてんこ盛りなので、ぜひ楽しんで欲しい。それではどうぞ。

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済藤鉄腸(ST):まずどうして映画批評家になりたいと思いましたか? そしてそれをどう成し遂げましたか?

ヴィンツェ・テレーズ(VT):子供の頃から映画にはとても興味があり、その後何年もかけて映画は情熱や趣味であるばかりでなく、職業にもなり得ると知ったんです。高校時代、映画クラブに定期的に参加し始めて、システミックなやり方で豊穣な映画史と出会うことができました。映画で専攻を選ぶこととなった時は情熱を追うことに決め、文学と美術理論、そして映画を学ぶことにしました。そして後には映画学で博士号を取った訳です。大学時代に映画に関する自身の研究や記事を掲載してもらうようになって、それが今でも続いています。大学の友人たちは1997年にMetropolisという映画史と映画理論にまつわる季刊雑誌を発刊し、1999年から今日に至るまでそこで編集を担当しています。映画レビューや記事を定期的に寄稿するのと同時に、ブダペストのエトヴェシュ・ロラーンド大学(ELTE)で映画理論と映画批評の教鞭を取っています。

ST:映画に興味を持ち始めた頃、どういった映画を観ていましたか? 当時のハンガリーではどういった映画を観ることができましたか?

VT:小さな頃から映画というものに執着していて、TVで放映された作品は全て観ていました。子供時代に放映されていたのはチェコスロヴァキアポーランドソ連の映画や子供向けシリーズでした。実際、社会主義国家は子供たちのための美しい映画を作っていた訳です! 初めての映画館での体験も覚えています。映画自体は社会主義時代に典型的な作品で、ソ連の古いSF映画両棲人間でした。その時はまだ小さくて(6歳頃でした)この初めての映画館体験は記憶として霧がかかっていますが、大きなスクリーンであの物語を観たことへの素晴らしい感動を覚えていますね。私を形成したもう1つの映画体験はそこから数年が経ち、小学校のクラスメイトたちと最初のスターウォーズを観たことです――私が映画批評家になったのは5年生でスターウォーズを観たからだと、時々答えるくらいです。この経験は本当に大きな影響を私に与えてくれたんです :D

高校で映画クラブに入っていた頃のことで私が最も鮮烈に思い出せるのは、英国のフリーシネマの数々(「蜜の味」長距離ランナーの孤独など)を観たこと、そして後にピーター・グリーナウェイドゥシャン・マカヴェイエフの作品を観たことです。社会主義政権が崩壊した直後に私は大学に入学した訳ですが、その時からは世界でも観られる作品なら映画館で何でも観られるようになっていました。そして私たちは友人を連れて幾つもの映画祭を旅することになりました。例えばベルリン国際映画祭、カルロヴィ・ヴァリ国際映画祭には定期的に行っていましたね。

ST:初めて観たハンガリー映画は何でしょう? その感想もぜひ聞きたいです。

VT:おそらく最初のハンガリー映画はTVで観たと思うんです。でも"初めて観たハンガリー映画"の体験と言えるようなものではないですね……もしくは学校で何か観たかもしれませんが……

ST:あなたの意見として、ハンガリー映画史において最も重要なハンガリー映画は一体何だと思いますか? その理由もお聞きしたいです。

VT:そういった映画が1本だけ存在するというのはどの映画文化においてもないでしょう。それからハンガリー映画にそういった映画はないと思います、

ST:もし1本だけ好きなハンガリー映画を選ぶなら、どれを選びますか? その理由は何でしょう? 何か個人的な思い出がありますか?

VT:私のお気に入りの映画はタル・ベーラが監督した、450分にも渡るモノクロの叙事詩的傑作「サタンタンゴ」です。今作が1994年にハンガリー映画週間の一環で初上映された時、私は大学生でした。主催者たちはこの極端に長い、奇妙な映画はこの日において最も重要な映画上映ではないと思っていたようで、狭くて居心地の悪い場所で上映を行いました。それでも多くの観客がこの本当に居心地悪かった部屋から去らなかったんです。それから、私自身今作を6回は観ています。人生のなかで何度もこの映画に帰ってくるんです。「サタンタンゴ」はあまりに多くの事象を要約しており、だからハンガリー性の神髄と呼ばれる訳です……長大で鈍重、哲学的と。他にもお気に入りと呼びたい作品はありますけどね。

ST:ここからはハンガリーの女性映画作家に関して質問したいと思います。ハンガリー国外において、世界のシネフィルに最も有名なハンガリー人監督はMészáros Márta メーサーロシュ・マールタでしょう。ハンガリー人女性たちの人生に対する、彼女の暖かで繊細な眼差しにはいつも感銘を受けます。日本の読者にぜひ彼女の人生、作品、そして今ハンガリーでどのように評価されているかをお聞かせ願えませんか? それから日本では彼女の長編デビュー作"Eltávozott nap"("行ってしまった日々")がハンガリー人女性監督による最初の映画だと言われています。これは本当でしょうか?

VT:1968年に最初の長編"Eltávozott nap"を監督してから彼女は25作もの長編を製作している故に、そのキャリアを短く要約するのは簡単ではありません。この数は驚くべきものでしょう、特に女性作家に関しては……ハンガリー映画史においてこれほど多くの作品を手掛けた女性は他にいません……彼女はハンガリーにおける女性映画監督の最初の世代に属しています。この世代は第2次世界大戦後に大学で映画製作を学び、プロとして映画産業でキャリアをスタートさせる機会に恵まれていました。Mészárosは子供時代に両親とソ連に住んでおり、モスクワ国立大学で映画製作を学び、監督業で学位を取りました。この意味で当時の社会主義下のハンガリーにおいて好ましい信頼があり、最低でもこの事実が彼女が映画業界で仕事を得て、短編を製作できるよう手助けした訳です。

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最初の長編を作った頃から1970年代を通じて、彼女は女性たちにまつわる頗る重要で歴史的な作品の数々を作りました。国際的な映画祭、特にベルリン国際映画祭において彼女の才能が認知されました。1975年に"Örökbefogadás"("養子縁組")がベルリンで金熊賞を獲得し、1977年には同映画祭で"Kilenc hónap"("9ヵ月")も賞を獲得、そしてカンヌ映画祭でも同じ名誉に浴した訳です。これらの作品は全て女性たちの苦闘にまつわる魅力的な物語を描いています。そしてすぐMészárosは西欧の批評家やシネフィルからフェミニスト映画作家として祝福されるようになりました。同時に、彼女はハンガリーでも認知され賞を獲得しています。こうして彼女は女性と彼女たちにまつわるトピックを描く映画を作り続けた訳です。彼女が2017年に制作した最新作"Aurora Borealis"("北極光")は再び彼女が女性映画においてとても重要で独特の声を持っていると証明しました。タブー的なトピックを表現し、ハンガリー史における女性たちのトラウマへ人々の意識を向ける覚悟を持っていると。物語としては、第2次世界大戦中にロシア兵によって行われた女性市民たちへの性的虐待というタブー的トピックを描いていました。

ハンガリー人女性監督によって手掛けられた最初のハンガリー映画についての質問にも答えましょう。Mészárosの初長編は女性作家による最初の長編ハンガリー映画という訳ではありません。実際、ハンガリーには第2次世界大戦前から何人かの女性監督がいました。1930年代と40年代には女性監督によって3作の長編映画が作られており、1つ目がBalázs Mária バラージュ・マーリアによるコメディ作品"Pókháló"("蜘蛛の巣")、2つ目と3つ目も他の女性監督によって1940年と1942年に作られています。

ST:Mészáros Mártaの次世代として、Enyedi Ildikó エニェディ・イルディコーは彼女の歴史的デビュー長編「私の20世紀」("Az én XX. századom")や金熊賞受賞作「心と体と」("Testről és lélekről")が有名でしょう。魔術的リアリズムを基としたその監督スタイルはとても魅力的であり巨大なもので、現代ハンガリー映画はその影響の多くを負っているでしょう。しかし、実際彼女と彼女作品はハンガリーのシネフィルにどう受容されているのでしょう?

VT:そうですね、おそらくエニェディ・イルディコーはMészáros Mártaに続いて2番目に重要で高名なハンガリー人女性監督でしょう。彼女はハンガリーのシネフィルに広く受け入れられ、高く評価されています。デビュー長編である「私の20世紀」は間違いなくハンガリー映画における重要な古典作品の1本であり、彼女の映画の数々はいつだってハンガリーの映画好きに熱心に受容されているんです。そして言いたいのは彼女の作品はハンガリーのシネフィルにとってカルト的なステータスを獲得していることですね。不幸にも彼女はそう頻繁に監督作を作ることはなく、しかし彼女が映画製作に乗り出した時には何が起こっても可笑しくありません。それは「心と体と」の場合も同じで、2018年にはアカデミー賞国際映画賞においてノミネート5作の1本に選ばれた訳です。

ST:いつも不思議に思うのはタル・ベーラに比べてHranitzky Ágnes フラニツキ・アーグネシュが埠頭に無視されていることです。彼女はタルの殆どの作品で編集として不可欠な活躍をするとともに「ヴェルクマイスター・ハーモニー」("Werckmeister harmóniák")や「ロンドンから来た男」("A londoni férfi")ニーチェの馬("A torinói ló")では共同監督も務めています。しかし信じられないことに、とても多くの人々がHranitzkyの名前を知らず、先述した3作の映画はタルとHranitzkyの共同監督だということすら知りません。私はタル・ベーラではなく、彼女の人生やタルやハンガリー映画史に対する影響というものをぜひ知りたいです。

VT:言わなくてはならないのは、ハンガリーにおいてですら多くの映画好きはHranitzkyの名前に親しんでいないことです。普通、映画レビューでも論文でも、Hranitzkyがタルの映画で果たした役割について語られることはありません。思うにHranitzkyはまず以て編集として考えられており、そもそもの話、不幸にも編集技師たちの仕事について議論する研究というものがあまり存在しないんです。しかし私の受け持つ生徒に、今現在編集技師としての活動を積みながら、映画編集にまつわる修士論文を書いている女性がいて、彼女はそこにHranitzky Ágnesにその仕事やタルとの共同制作について尋ねた長大で詳細なインタビューを含む計画を立てています。この論文によって彼女の仕事がより認知され、タルの映画への貢献がより称えられることを願っています。

ST:そしてもう1人重要なハンガリー人女性監督は間違いなくKocsis Ágnes コチシュ・アーグネシュでしょう。15年の長いキャリアがありながら彼女の監督作は少ない("Friss levegő""Pál Adrienn""Eden"の3作のみ)ですが、これらは世界のシネフィルに大きな衝撃を与えています。しかし彼女に関して、特に日本語では情報が殆どありません。ぜひ彼女とその作品群、ハンガリー映画史におけるその立ち位置についてお尋ねしたいです。それからあなたの正直な意見も聞きたいと思います。

VT:Kocsis Ágnesはいわゆる"若きハンガリー映画"の世代でも最も重要な人物の1人です。この世代の監督たちは1970年代に生まれ、2000年前後にデビューしています。社会主義時代に育ちましたが、大人になると政治システムが変わってしまった訳です。社会主義を経験しながら、新しくリベラル的な民主主義の時代にキャリアを始めたというこの事実に由来する"二重のアイデンティティ"は、社会的感受性やハンガリー近現代史に対する視点という意味で特別なものを彼らに与えました。

中でもこの世代においてKocsisを独特な存在にしているのは、女性像への深い関心、そして社会的・個人的問題を女性の視点から分析することへのこだわりですね。その映画において主要人物は常にみな女性ですが、議論される問題は普遍的なものです。彼女の映画は厳しい映像的なルールと慎重に組み立てられたショットの数々を基礎とした、頗る際立った映像スタイルを持っています。彼女はカメラを登場人物より遠くに置き、より長く、精密に振付されたテイクを使うのを好んでいます。いつだって魅力的なまでに映像的な語りを創造するので、作品自体が終っても観客の心に長く残るんです。私も彼女のスタイル、彼女の作品を好きですが、彼女はとても良い親友なので、客観的に批評できているとは思いません。一緒に大学へも通ったんです――彼女が監督業について学ぶ前、私が卒業したのと同じ大学で映画学の修士号を獲得していました。そしてその頃から親友になって、その全ての映画で制作過程を目の当たりにしていました。とても初期の短編映画には出演すらしていたんです……それから映画の脚本の全てのバージョンを読み、様々な編集段階にあった作品も観ました……彼女の最新作"Éden"の、最終的に公開された公式バージョンは153分です。長いですよね。前に観た時は、200分のより長いものでそれも好きでした! 多分私の一番のお気に入りですね……Ágnesと私は二人とも、より長い映画が結果として生まれる類のスタイルが好きなんです。残念なことに、配給会社や映画好きは普通、映画が2時間以上だと尻込みしてしまいますが……

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ST:今までハンガリーの女性作家について聞いてきましたが、未だハンガリーのシネフィルしか知らない、もしくは彼らすら知らない未知の、隠された女性作家はいるでしょうか? もしいるなら、ぜひ彼女について紹介してほしいです。

VT:映画の計画を実現しようとする時、女性監督はより多くの困難と直面することはよく知られており、特に映画が成功したとしてもそれが次の計画を簡単にすることはないんです。この問題はどの大陸でも明確に起こっていますが、これこそ素晴らしい女性監督の多くが余り多くの作品を作れない理由なんです。そしてこれはハンガリー映画界の隠された至宝にも起こったことでした。Fekete Ibolya フェケテ・イボヤは1980年代に脚本家・ストーリーコンサルタントとしてキャリアを始め、重要なハンガリー映画の数々に携わりました。彼女が初長編を監督したのは1996年です。"Bolse vita"という題名の今作は、1989年に共産主義が崩壊した直後の、ハンガリーの雰囲気を記録した最も重要な映画の1本です。この時代は極めて興味深い時代で、少し混沌ともしていて、誰にも困難でしたが、同時に新しい奇妙な感情が存在し、新たに獲得された自由の感覚が空気を満たしていたんです。不幸なことにこの空気を記録しようとする監督は多くありませんでしたが、Feketeは素晴らしい仕事をやってのけたんです。彼女はこの時代の最も重要な年代史家の1人だと私は考えています。

彼女の第2長編"Chico"(2001)は時間と歴史の記録としてやはり重要な作品です。1990年代初頭に旧ユーゴスラビア地域で勃発した紛争を舞台としており、共産主義崩壊後においてこれは私の地域でも最も大きな軍事的紛争だったんです。Feketeはハンガリー人が生きる地域の現代史を素晴らしい形で編纂する映画作家でありながら、残念なことに女性監督が辿る運命を彼女も追うことになりました。彼女は現時点でたった3本しか長編作品を監督していません。

ST:2010年代において私たちはハンガリー人女性監督の壮大な台頭を目撃することになりました。Kocsis Ágnes"Pál Adrienn"("パール・アドリエン")に始まり、フィクションの分野ではSzilágyi Zsófia シラージィ・ジョーフィアHorvát Lili ホルヴァート・リリ、ドキュメンタリーの分野ではOláh Judit オラーフ・ジュディトSzabó Réka サーボ・レーカ、そしてアニメーションの分野ではDarabos Éva ダラボシュ・エーヴァSzöllősi Anna セッレーシ・アンナ、そしてAndrasev Nadja アンドラセフ・ナジャらが活躍しています。そして2020年代は再びKocsis Ágnes"Eden"によって幕を開けた訳です。これほど多くのハンガリー人女性監督が2010年代に台頭を果たした理由は何だと思いますか、もしくは2000年代からこれは既に始まっていたのでしょうか?

女性監督の爆発的な増加は映画学校のおかげで起こっています。ハンガリー最初の、そして最も影響ある映画学校ブダペスト演劇映画アカデミー(Színház- és Filmművészeti Egyetem, SZFE)からは例えばSzabó István サボー・イシュトヴァーンからエニェディ・イルディコータル・ベーラからKocsis Ágnesまで基本的にほとんどの有名なハンガリー人監督が輩出されています。この学校では1990年代後半からより多くの女性を監督科の生徒として受け入れようという動きが始まりました。この分野は男性で明確に占められていましたが、1990年後半より監督科において男女比が半分半分という時代が続いたんです。この変化が何故起こったのか分かりませんが、新しい女性監督の数に影響を及ぼしたことは間違いありません。しかし依然として女性の卒業生が自身の計画を前に進めるためより多くの困難に直面することもまた事実です。

もう1つ重要なのはこの学校以外にも、映画を学べる学校がより多くなっていったことです。例えば私が映画学の教鞭を取っている部門では数年前に映画製作に専門とした科が作られました。生徒たちは短編映画を監督した後に卒業するんですが、ここ数年は多くの場合、年度末の卒業上映会では女性監督が男性の数を越えるんです。私たちの経験上、女性の生徒はより野心的で、短編を製作するにあたってより我慢強いんです。そして家父長的な権力構造が可能性や予算を規定しない環境の学校においては、より親しみ深い形で女性の創造性や我慢強さが発揮されるという訳です。

ST:そして2010年代のハンガリー映画において最も重要な映画作家は間違いなくNemes László ネメシュ・ラースローでしょう。サウルの息子("Saul fia")や「サンセット」("Napszállta")といった作品は世界の批評家やシネフィルに激賞されています。しかし本当に知りたいのはハンガリーの闇の歴史を描きだす彼の作品に対し、ハンガリー人自身がどう反応しているかということです。そしてあなたの、彼の作品への正直な意見も知りたいです。

VT:思うにサウルの息子ハンガリーでも高く評価されましたね。ホロコーストに関して今作が描いたのはそれ自体論争を呼ぶ物ではありません。正常なハンガリー人なら第2次世界大戦中に強制収容所で行われた、形容し難い非道の行為を否定することはありません。そして彼の作品はこのトピックに関して強靭な美学的解釈を創造しました。私としては、ハンガリーの観客は今作を褒めており、批評家の場合はそれが過剰なほどでした。恥ずべき部分はここで描かれた人々が収容所で人生を終えたことです――国民を消し去るためナチスに加担することに熱心だったハンガリー国の"おかげで"です。これこそが強制追放の歴史におけるドス黒い、恥ずべき部分なんです。しかし映画はこれについて何も語っていない。この部分こそが感情を搔き乱す部分です。今作の物語は被害者が既に収容所に着いた後を舞台としています。この意味で映画自体は素晴らしい芸術でありながら、観客に自分たちの国のドス黒い過去と過酷な対峙を果たすようには促さなかった訳です。

私としては、この映画を大いに称えたいですね。とても独特のスタイルで、悍ましいほどの残虐行為の描き方というものを再構築していたと思います。映像的な語りとしてとても高いレベルにあり、形式と内容が意味ある形で分かち難くなった芸術の素晴らしい例となっています(こちらは今作の独特なクオリティに関する私の英語論文です)

ST:2010年代も数か月前に終わりました。そこで聞きたいのはあなたにとって、2010年代における最も重要なハンガリー映画は何か?ということです。例えばネメシュ・ラースローサウルの息子ムンドルツォー・コルネール「ホワイト・ゴッド」("Fehér isten")、そしてエニェディ・イルディコー「心と体と」などです。個人的に私が挙げたいのはTill Attila ティル・アッティラヒットマン:インポッシブル」("Tiszta szívvel")ですね。今作は新たな才能によるベスト映画の1本であり、障害者の描写において常識を打ち破るものがありました。

VT:この10年からたった1作選ぶというのは難しすぎますね。私としては女性たちの物語を語った素晴らしい映画群を挙げたいと思います、それがここ10年の重要な映画ですからね。全てが女性を中心人物としています。Kocsis Ágnes"Pál Adrienn"(2010)、Hajdu Szabolcs ハイドゥ・サボルチ"Bibliotheque Pascal"("パスカルの図書館"、2010)、Ujj Mészáros Károly ウッイ・メーサーロシュ・カーロイ「リザとキツネと恋する死者たち」("Liza, a rókatündér", 2015)、そしてSzilágyi Zsófia"Egy nap"("ある日"、2018)です。

そして当然、タル・ベーラの最終作品ニーチェの馬(2011)も挙げなくてはなりません。これらの作品はここ10年における私の思い出となってくれるだろう映画なんです。

ST:ハンガリー映画界の現状はどういったものでしょう。外側から見ると良いように思われます。ラースロー・ネメシュ以降も、新しい才能たちが有名な映画祭に現れているからです。例えばロカルノKenyeres Bálint ケニェレシュ・バーリン、カンンヌのSzilágyi Zsófia、そしてヴェネチアHorvát Liliらです。しかし内側から見ると、現状はどのように見えてきますか?

VT:難しい質問ですね。コロナウイルスは深く蔓延し、誰も近い将来に何が起こるか分からないんです。才能ある人物は多くいますが、政治的な圧力によって映画のファイナンス構造が目まぐるしく変わっており、産業が創造的であろうとする際、これは良くないです。我々の右翼政府は左翼的すぎる、リベラルすぎると見做された芸術家に対して、文化的な戦争を仕掛けているんです……現状は素晴らしく薔薇色という訳ではないですが、ハンガリー映画は長き歴史の中で何度も、才能はそれぞれに輝く方法を見つけると証明してきました。なので私は希望を持っていた。そしてパンデミックの収束で私たちが映画館に戻れた時、映画館でプレミア上映されることを待っている既に完成済みの興味深い映画の数々が、たくさん存在しているんです。

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"Minotaur"~映画作家の思索の迷宮に迷う…… written by Arman Fatić

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この鉄腸マガジンは長らくこの私、済藤鉄腸が一人で運営してきた。が、最近世界中に映画批評家の友人たちができるにあたって、彼らから何か記事を執筆してもらえたら面白いのではないかと思いはじめた。そこで募集してみると、彼らからいくつか記事が集まってきた。ということで、今回はボスニア映画批評家Arman Fatićから寄稿してもらった、彼の母国における2020年最重要映画の1本"Minotaur"のレビューをお届けする。

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カメラはある若い男の顔半分を捉える。瞬き、カメラはズームし、再びの瞬きの後にズームアウトする、記録されている全ては鏡像であると暴露するためだ。若い男、カメラ、鏡像、序盤における紹介としての映像の1つにおいてそれらは、ボスニア人監督Zulfikar Filandra ズルフィカル・フィランドラの実験映画"Minotaur"の正に核を示している。今後63分間描かれるのは、カメラによって捉えられる思い出の迷路、その中における意図的な彷徨いだ。

このデビュー長編において、Filandraはカメラの裏側で成してきた15年間の仕事を総決算する。初期作に見られる、映画製作という芸術を学んでいた時代においての好奇心や映画への生の愛、そこが始まりであり、そして彼の知識や技術が在る状態が今である。

思い出と反映は若い映画作家が探求するには珍しい現象ではない。それどころかここ10年、それは完全な素人監督にとってすら広く流行となっていた。今は日常を1秒記録できるアプリを自分の携帯に誰でもダウンロードできて、毎日を1秒切り取るビデオエッセイも作れるし、ある程度時間をかければ自身の実験映画すら作れる時代だ。しかしそういった作品群と"Minotaur"の違いはそれが何か観察し理解する、観客の可能性と技術のなかにこそ横たわっている。

作者以外は誰にも理解できないことも多い、数えきれない主観的作品群とは違い、Filandraの作品は1時間に渡る厳しく没頭的な集中を観客に求めながら、その触れやすさや観客各々によって理解される技術の面において観る価値が確かにある。おそらくそれが今作を、自身の映画愛を人生の天職としたいと考えている若いシネフィルに勧めるべき理由だろう。

その作品において、Filandraは人生や愛、友情における個人的な部分を明かしながら、同時に映画を学ぶうえでのプロセス、学生映画の撮影準備、学校を卒業した後に準備していたり――こちらは既に彼に親しんでいる人々にこそ興味深いだろう――完成を見なかった作品の数々について語る。これこそ"Minotaur"の最も偉大な力であり精髄だ。自身への残酷なまでの正直さ、世界への覚悟、人生において日頃私たちに付きまとうその乱高下……

そして"Minotaur"が非商業的でナラティブを否定するこんにちの作品に対して門外漢な人物にもアクセスしやすいようになっていることもまた特筆すべきだろう。これはここ10年で私たち皆SNSに慣れ親しんだという新しい習慣に根差すものだ。Filandraは新たな映像的技術で私たちへ頻繁に爆撃を仕掛けてきながら、私たちが観る物から物への劇的な移動をもたらす、聴覚的な背景によって私たちの集中を保たせる。さらにその上、監督は目前に広がる物象のリズムを巧みに遅めては早めることで、風景に対する固定ショットやスローなカメラワークが見られる物に対して私たちが考えを深められるようにするのだ。Filandraは自身の作品が観客に思い起こさせるものに対しある程度意識的であり、Facebookのフィード、写真の群れを延々とその深淵に至るまでスクロールしていくショットにこそそれが最も象徴されている。

ボスニア・ヘルツェゴビナ、この国には映画に仕事として携わる機会が極めて少なく、ファンドやサポートは観客を喜ばせる商業的作品にばかり費やされる。そしてそういった作品はこの国の精神性に合っているか、ヨーロッパや世界中の観客にバルカン地域の過酷な現実を見せるため憂鬱さに執着する類の、とても浅く表面的な物語しか持たない。だからこそ素晴らしいのは今までとは異なる新しい何かを見せることに興味があり、稀で過小評価された形態やフォーマットに挑戦する大胆さがある若い作家たちがいることだ。この地域において明日の映画史となる価値ある何かを作る最も大きな可能性を持つのは正に彼らだからである。

オリジナル:https://duart.hr/news/filandra-minotaur

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済藤鉄腸の2020年映画ベスト!

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ラース・フォン・トリアーメランコリアにおいて、キルスティン・ダンスト演じる主人公ジャスティンは鬱病で最悪の状態にある。だが地球が巨大隕石によって近い将来滅亡すると知ってから、周りの人間はパニックに陥る一方で彼女の心は解き放たれ、その姿からは生命力が迸る。2020年の私は正にジャスティンそのものだった。世界はコロナウイルスによって前代未聞の危機に直面し、世界でも日本でも多くの人々が異様な速度で亡くなっていく。だがほぼ家に引きこもっている自分には殆ど関係ない。むしろ世界中の皆、特に国からの助成金や映画雑誌の補助をもらい世界の映画祭を回る映画批評家が、全く自分と同じような状況に陥り、現状を嘆いている。素晴らしい、何て素晴らしいんだ。

そして私の創造性は異常な迸りを見せた。まず小説家として100冊の小説を読み、コロナウイルス連作短編と題した約60本の短編を書きあげ、その半分をルーマニア語と英語にそれぞれ翻訳し、ルーマニア語短編は毎月LiterNauticaというルーマニアの文芸誌に掲載され、英語短編は何の因果かブルガリア語とラトビア語に翻訳された。映画批評家としては300本の長編、100本の短編、10のドラマシリーズを貪りつくし、70本ものレビュー記事を書き上げ、50回もの映画作家映画批評家へのインタビューをやり遂げ(英語なので翻訳するという作業もこなした)その全てを鉄腸マガジンに掲載した。キネマ旬報にも記事が載り、クロアチアの映画雑誌Duartで編集兼ライターとして活動することにもなった。正直、心は達成感で満たされている。俺はやってやったんだと。しかしこれは完全に異常だと分かってもいる。何故なら私は、今まで幸せでありながらコロナウイルスによって不幸へと転落した人々を心のなかで嘲笑い、そして叫んでいた。"いい気味だ。そのまま死ね、ボケ!"

"虚無に陥るな、死を願うな。人生と、世界と真正面から向き合え!"……ここに挙げる20本の映画は、私をこの自暴自棄の状態から引き戻そうとし、私に真摯になれと諭してくれた作品だ。だからこそ私は感謝の念に堪えないし、これらの映画のおかげでこの2020年という年を正気で生きられたと感じている。蓮實重彦は新刊「見るレッスン」のなかで"「救い」を求めて映画を見に行ってはならない"と書いている。映画批評家として、この甘さを否定する峻厳な言葉を理解できる。だが生物として、生きる物として、この甘さを切り捨てられないと思うのだ。この時代に否応なく"生きること"が"映画を観るか観ないか考えること"に重なるなかで"映画を観ることの救い"とは究極の感傷であり、甘さだ。これを簡単に切り捨てられない、いや簡単に切り捨ててはならないのだ。それが生だ。御託はここまでにしよう。ここからこの2020年に私が一線を越えないようギリギリで支えてくれた20本の映画を紹介する。

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20.「初恋」(三池崇史、日本)

正直に言えば、その群像劇的な物語が展開するにつれて弛緩が極まっていく。しかし転がるペットボトルやコインロッカーの閉め方のような日本の日常に根差した、ささやかで細やかなディテールに支えられた末、そんな退屈な緩まりの中に、郷愁にも似た血まみれの詩情が澎湃として浮かびあがる。今年公開したもう1本の三池監督作「劇場版 ひみつ×戦士 ファントミラージュ! ~映画になってちょーだいします~」が彼の動と緊張を堪能できるなら「初恋」は静と弛緩の作家性を堪能できる。そしてその果ての、ちっぽけで親密なラストショットったら!

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19. "Otto barbarul" (Ruxandra Ghitescu, ルーマニア)
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恋人の自殺をきっかけに、パンク青年は救済としての死と果てしない虚無へと向かっていく。希望全てが殲滅された灰色の青春には、音楽の初期衝動もクソもなく、圧倒的な孤独だけが屹立する。恋人の凄惨な自殺未遂動画を観る時だけに訪れる、暖かな安らぎはあまりに切実すぎて、言葉すら枯れ果てる。壮絶なまでのドン詰まりに陥った主人公の中で全てが死へと収斂していく時、彼は一体何を選び取るのか。そこに光はあるのか?

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18. "Oroslan" (Matjaž Ivanišin, スロヴェニア)
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スロヴェニアの田舎町、1人の愛すべき老人が亡くなり、人々は深い悲しみに包まれながら、それぞれにかけがえのない思い出を紡いでいく。オロスランという死者がいかに愛されていたか? 彼らの声と言葉には死者への親密さと哀惜が滲んでいるのだ。直接は語られない言葉、つまりは"あなたがいなくて寂しいよ"という微笑み混じりの哀しみが浮かんでいるのだ。そして幸せな時間が終りを迎える時、生きることへの小さな、切実な祝福がもたらされる。2010年代スロヴェニア映画界の最後を飾る、輝ける奇跡のような優しさ。

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17. "Câmp de maci" (Eugen Jebeleanu, ルーマニア)
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閉じられた部屋で密かに育まれる愛、開かれた映画館でブチ撒けられる同性愛者たちへの敵意。激烈な憎悪と罵声、親密さの裏側にある"ホモは死ね"という絆。ゲイである警察官の心は引き裂かれながら、夜の映画館を彷徨う。今作は同性愛者たちをめぐるルーマニアの過酷なる現実を静かに、しかし凄まじい勢いで以て叩きつけられる映画だ。私はルーマニアという国をどこよりも深く愛している。愛しているからこそ、その闇の部分を知らねばならないという思いがある。今作はそれについて知り、深く考えるまたとない機会をくれた。感謝したい。

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16. "Мальчик русский / A Russian Youth" (Alexander Zolotukhin, ロシア)
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第1次世界大戦に従事した名もなき青年の物語を描くとともに、同時に現代に生きる指揮者がオーケストラに指示する言葉を観客は聞くことになる。今作においては、過去を描くフィクションと現代を描くドキュメンタリーが交錯している。そうして叩きつけられるのはあの忌まわしき戦争が起きていた過去は私たちが今生きている現実と地続きなのであるという紛れもない真実である。。ソ連映画の伝統とロシアの現在を荒業で繋ぎあわせる、時代錯誤にして最先端の1作。主人公の瞳に映る脅威はそのまま私たちにも降りかかりうる脅威として、今、不気味な輝きを増している。

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15. "Felkészülés meghatározatlan ideig tartó együttlétre" (Horvát Lili, ハンガリー)
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一目惚れという名の不条理。その理論や倫理を越えた凄絶なる不条理によって、主人公マールタは愛の荒野へと投げだされ、激情に突き動かされながら彷徨い続ける。抵抗も虚しく、その荒波のような勢力に呑みこまれ、愛へと突き進むことになる。ここにおいては全てが残酷だ。曖昧な不安も、束の間の喜びも、そして彼女の身体を包みこむ多幸感すらも。この残酷さを直視しながら、私たちも自身が経てきた愛について思いを馳せざるを得なくなる、心の深奥にこそ残る愛を。それほどの力がこの"Felkészülés meghatározatlan ideig tartó együttlétre"にはある。

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14. "Moffie" (Oliver Hermanus, 南アフリカ)
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血塗られたアンゴラ内戦を背景として、兵士となった青年が隠すゲイとしての欲望を見据えていく、そして南アフリカの負の歴史を背景としながら、この国でゲイとして生きることの苦悩を綴っていく。男性たちの肌が官能的に輝く撮影は、彼の欲望を強く、強く肯定しながら、あまりに壮絶な状況で彼自身が自分を受けいれられずにいる。それでもその寂しげな、切ない視線に道行きの幸福を祈りたくなる、そんな過酷で豊穣作品が"Moffie"だ。Hermanusの次回作であるという「生きる」リメイク作にはぜひとも期待したい。

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13. "Desterro" (Maria Clara Escobar, ブラジル)
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ボルソナーロ政権においてブラジル映画界は危機的な逆境に直面している。その最中に現れた"Desterro"はブラジルに生きるカップルの停滞を極めた日常を描く作品だ。死をめぐる官僚主義的な不条理、死に対する悍ましいまでの即物主義を経て、異様なる生の倦怠の迷宮へと至る。そして黙示録の時が訪れる時、私たちは途方もない絶望を目の当たりにするだろう。クレベール・メンドンサ・フィーリョがカーペンター紛いの信じられない駄作「バクラウ」を作ってしまった一方で、Escobarは現代ブラジル映画界の隆盛を不穏に寿ぐ、恐るべき作品を生み出してしまった。

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12. "Lingua Franca" (Isabel Sandval, フィリピン)
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アメリカ人とフィリピン人、アジア人と白人、認められた移民と不法移民、アジア移民と東欧移民、トランス女性とシス男性。そんな複層的な関係性が、ドナルド・トランプが移民やトランスジェンダーを筆頭としたLGBTQの人々への差別を先導する現代のアメリカにおいて紡がれることで辿りつく、希望とも絶望ともつかぬ場所。監督の視線は怜悧なれど何て、何て豊穣な物語なのか。日本人の批評家に"監督の出自のせいでその種の映画祭や文脈で評価されたり取り上げられてしまいそうだが、そのような形で紹介するには余りにも勿体ない作品"というのが、Sandovalが覚悟を以てトランス女性の物語を紡いでいるのに"その種の"とは何だろうか? そんな人間がカンヌ批評家部門のプログラマーを務めているのだ、新人を後押しする批評家週間が時代遅れに堕落するのも当然だろう。

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11.「迂闊な犯罪」(シャーラム・モクリ、イラン)
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"Careless Crime"は映画にまつわる映画である。だが映画への愛、映画館への郷愁を描いている訳ではない。私たちはこの作品を通じて、イランと映画の間に横たわる異様なる悪意と忌まわしき闇を直視させられることになる。まるで映画館にまつわるコロナ禍の絶望を更に炎上させるような凄まじい力を持ちあわせている。正直、この映画をどう解釈していいか今でも私は分からないでいる。そんな激しくも未分化な感情を観客に齎す作品が、この"Careless Crime"だ。

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10.「スーパー戦隊MOVIEパーティー 劇場版 騎士竜戦隊リュウソウジャーVSルパンレンジャーVSパトレンジャー/魔進戦隊キラメイジャー エピソードZERO」(渡辺勝也&山口恭平、日本)

今、自己模倣を延々と繰り返してジョセフ・H・ルイスロバート・シオドマクら40年代50年代におけるハリウッドのB級映画職人たちの域まで辿りついたブライアン・デ・パルマ、今の日本で彼に対抗できる作品はあまりに少ない。だが私たちにはスーパー戦隊MOVIEパーティーがある。一切の淀みなき経済的語り、卓越した崇高な職人性、懐かしき2本立て興行という旧さ、それでいてテレビ放映など外部の作品を観なければ十全には映画を楽しみきれない、ある意味でMCUにも似た体験を重んじる物語構造。今作は旧世代と新世代のハリウッドの構造を内に搭載し、そういう意味ではアメリカ映画以上にアメリカ映画ながら、今作は紛れもなき日本映画として屹立する。日本の興行収入ランキングが話題になる時、間抜けな映画評論家や映画作家たちは"1本も観ていない(笑)"と無知を露呈する。悲惨だ。だが私たちは彼らの陳腐なニヒリズムに騙されることなく、誇りを以てスーパー戦隊MOVIEパーティーを観に行こう。そこに映画の未来があるのだから。

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9. "Moj jutarnjii smeh" (Marko Đorđević, セルビア)
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今作は寒々しく荒涼たる筆致で、孤独な男の魂の行く末を追う。彼はこの負の感情をどう処理していいのか分からず、何か行動に移すことが全くできないでいる。それが人生の停滞を引き起こし、負の螺旋を描き出されていく。そうして男性の性的不満についての物語として展開していくと思えば、社会から無理解を被るアセクシャルの物語としても解釈できる複雑さをも宿している。世界と相いれない寂しさや悲哀は濃厚なまでに滲み出ている身体にとって、その解消の鍵はある女性との関係性でありながら、可能性は曖昧で複雑微妙な地点へと至ることとなる。こうして描かれる繊細なる心の機微が圧巻だ。

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8. "18 kHz" (Farkhat Sharipov, カザフスタン)
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淀んだ鬱屈を持てあまし、2人の青年は闇へ深く潜行する……徹底的に凍てついた眼差しから描かれるカザフスタンの青春はあまりの荒廃に、果てしなき焦土を目撃するよう。そして焦土は出口なき迷宮へと変貌し、始まりも終りも消失した虚無が全てを包む。"18 kHz"は映画史にも稀なるドス黒い虚無を我々に提示する壮絶なる1作だ。だが絶望の先にこそ新たなる希望は広がるのかもしれない。何故ならこの絶望を提示したFarkhat Sharipovという映画作家は、カザフスタン映画界の大いなる2020年代を牽引する1人だと運命づけられたからだ。

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7. "Kopfplatzen" (Savaș Cevi, ドイツ)
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ドイツに生きる1人の小児性愛者、彼はシングルマザーとその息子と出会い…小児性愛者の現実を壮絶なまでの内省、傷つけることを運命づけられた交流、医療的な対話を通じ描く今作は、心が震わされるほどに衝撃的で誠実な、絶望についての物語だ。そして常日頃"この世界に産まれてきたことの絶望"と"私が生きるということは誰かを傷つけることを運命づけられている、という絶望"について考えている自分としては、ここで描かれるものはあまりにも、あまりにも身に覚えがありすぎて、心を本当に震わされた。私は主人公マルクスが死ではなく、生きることでもって絶望の先に行くことを願っている。

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6. "Izaokas" (Jurgis Matulevičius, リトアニア)
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このリトアニア映画は過去の罪を暴こうとする者、そして過去の罪を隠蔽しようとする者たちの静かな、しかし激烈なる闘争を描きだした作品だ。監督はこの闘争を誰もが出口へと辿りつけない迷宮的な悪夢として描きだしていく。その根本にあるものとはリトアニアの犯した罪への壮絶な反省と、そしてこの国に対する深淵さながらの絶望だろう。この国に希望はあるのか?と、そんな悲嘆がスクリーンからは聞こえてくるようだ。だが私が信じるのは、この自国の罪業をここまで痛烈に抉りだすJurgis Matulevičiusという若き才能が存在すること自体が、既に強靭な、峻厳なる希望であるということだ。

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5. "De l'or pour les chiens" (Anna Cazenave Cambet, フランス)
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アニエス・ヴァルダ「冬の旅」を彷彿とさせる、異性愛者である少女の痛ましい心の彷徨、そしてこの世で女性として生きることの苦痛から、少女2人の禁欲的で壮絶なクィア的絆を描く後半への移行はあまりに華麗だ。少女の性の目覚めを描きだす作品は欠伸が出るほどに多いが"De l'or pour les chiens"は他の映画が持つことのできなかったドラスティックさを持ちあわせている。肉体的なエロティシズムと精神的な官能性、ヘテロ的な愛のしがらみとクィア的な禁欲と峻厳の絆、1つの映画でこの極を行きかう様には脱帽という他ない。今作は間違いなく2020年最高のデビュー長編の1本だ。

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4. "Ofrenda" (Juan Mónaco Cagni, アルゼンチン)
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映画を観ている時、時おり映画にしかできないことはなんだろうと考えることがある。小説や演劇、絵画や彫像、芸術には様々な形態がありながらも、それを越えて映画にしかできないことは一体何かと。正直言って答えは簡単にでることはない。それでも、この映画がその答えだと言いたくなる作品が存在する。今作には言葉にし難い感情の数々が自然や人物の表情に浮かび上がりながらも、明確な形にされることはない。だからこそ切なさがこみ上げる瞬間というものがあるだろう。その瞬間がこの映画にはあまりにも多くある、そしてそれは映画にしか描けない魔術であるのだ。"Ofrenda"は映画にしかできないやり方でこそ、私たちの人生を祝福する。

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3. "Ieșirea trenurilor din gară" (Radu Jude&Adrian Cioflâncă, ルーマニア)
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1941年、ルーマニアの地方都市ヤシにおいてユダヤ人の大量虐殺が行われる。ナチスドイツに侵略されたルーマニアユダヤ人の大規模弾圧を開始する。6月29日、ユダヤ人たちは警察に拉致され、凄惨な拷問を受け、最悪の場合は射殺される。運良く生き延びたとしても、彼らは死の列車に載せられ、強制収容所へと送られていく。そして多くのユダヤ人は劣悪な環境の中での窒息や飢えによって死んでいった。この虐殺を被害者の写真と証言を基に再構成した本作では、10000人以上の死が淡々と読み上げられていく。その様はあまりにも悍ましい。ラドゥ・ジュデは「SHOAH」に匹敵する人間の残虐性についての映画を作り上げた。間違いなくルーマニア映画史に残る1作。

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2.「劇場版 仮面ライダーゼロワン REAL×TIME」(杉原輝昭、日本)

この作品において"神は人間に生という試練を与えた"という命題が提示されることとなる。コロナウイルスによって世界中で人々が加速度的に亡くなっていく状況において、この命題は悍ましいリアリティを以て迫ってくる。しかし仮面ライダーゼロワンやバルカン、ヴァルキリー、そして滅や迅はそれと真正面から対峙する。私がそこに見るのは監督である杉原輝昭や脚本家の高橋悠也、そして大勢のスタッフたちが"今の時代に映画を作ること"や"今の時代にカメラを動かすこと"の意味と真正面から対峙する姿だ。弱さもある、甘さもある。しかし今作は暴力的逸脱をも越えて、世界を、人間を肯定する。今作は閉塞と絶望のこの時代に、私を生へと突き動かしてくれた熱き傑作だ。

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1.「死ぬ間際」(ヒラル・バイダロフ、アゼルバイジャン)
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これは少し誇張しすぎているかもしれない。だが今作を観終わった後の私は、1896年にリュミエール兄弟「ラ・シオタ駅への列車の到着」を初めて観た観客と同じような心地にある。スクリーンから猛然と列車が迫ってくる。その見たことのない迫真性に恐れを成した観客は、部屋のなかを逃げ惑う。彼らはそこに他でもない自分たちの死を見たからだ。そして私もまた「死ぬ間際」という作品のなかに己の死を見た。今でも心の震えを抑えることができていない。「死ぬ間際」を以て本当の意味で、映画の2020年代は幕を開けた。今作は今後の10年間を規定する1作となるだろう。そして私は映画の未来はアゼルバイジャンにあるという確信に至った訳である。

1.「死ぬ間際」
2.「劇場版 仮面ライダーゼロワン REAL×TIME」
3. "Ieșirea trenurilor din gară"
4. "Ofrenda"
5. "De l'or pour les chiens"
6. "Izaokas"
7. "Kopfplatzen"
8. "18 kHz"
9. "Moj jutarnji smeh"
10.「スーパー戦隊MOVIEパーティー 劇場版 騎士竜戦隊リュウソウジャーVSルパンレンジャーVSパトレンジャー/魔進戦隊キラメイジャー エピソードZERO」

11.「迂闊な犯罪」
12. "Lingua Franca"
13. "Desterro"
14. "Moffie"
15. "Felkészülés meghatározatlan ideig tartó együttlétre"
16. "Мальчик русский / A Russian Youth"
17. "Câmp de maci"
18. "Oroslan"
19. "Otto barbarul"
20.「初恋」

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