一目惚れというものにはその人の人生を変貌させる、時には完膚なきまでに破壊し尽くす魔力が存在している。それは理論や倫理を越えた凄絶なる力を持ち合わせている。一度その魔力に憑りつかれた人間は抵抗も虚しく、その荒波のような勢力に呑みこまれ、愛へと突き進むことになる。今回紹介するのは、そんな一目惚れの運命的、致命的な力を描きだそうとするハンガリー映画、Horvát Lili監督作"Felkészülés meghatározatlan ideig tartó együttlétre"だ。
今作の主人公はマールタ(Stork Natasa)という女性だ。彼女はアメリカで神経外科医としての華々しいキャリアを謳歌していた。だが研究発表のために故郷ハンガリー・ブダペストへ赴いた時、彼女はヤーノシュ(Bodó Viktor)という医師を見かけ、一瞬で恋に落ちてしまう。意識も定かでないまま、確かに記憶に残る彼との約束を胸に自由橋へ赴くが、ヤーノシュは現れない。
だがマールタは彼を忘れることができなかった。アメリカに戻ることすら放棄したマールタはブダペストに定住、彼を探し求める。その末に彼が勤務する病院を突き止め、外科医として勤務することに成功する。そして再会という待ちに待った瞬間が訪れるのだが、ヤーノシュは彼女のことを全く覚えていなかった。
映画はマールタの執念ゆえの行動を描き出しながらも、Horvat監督の演出は凍えるような客観性で貫かれている。病院のウェブサイトでヤーノシュの写真を見つめるマールタ、彼の面影を探しもとめてブダペストを彷徨うマールタ、Youtubeで子供時代のヤーノシュが歌唱コンテストで歌を披露する動画を眺めるマールタ。その光景を見据えながらも、しかし監督が彼女に肩入れすることはない。冷静な観察眼がここでは貫かれている。
ヤーノシュと再会を果たした後にこそ、マールタの人生は真の意味で荒れ狂い始める。最初は同僚・友人として彼に接するのであるが、その交流の最中、彼には家族がいるのではないか?という思いに晒され始める。そして手術を行った患者の息子であるアレックス()という青年が、マールタに恋に落ち彼の未だ青い愛に彼女の心は震わされることになるのだ。
劇中、幾度となくマールタが精神科医と対話を果たす場面が挿入される。彼の前で自身の直面する激情について分析するマールタは頗る明晰であり、彼女の言葉は驚くほどの客観性が存在している。だがこれが逆説的に証明するのはそれほど自身の激情を突き放して分析できる人物ですら、一目惚れの魔力に抵抗できないということなのだ。幾度となく精神科医の前で自身を分析すれども、マールタはヤーノシュを妄執とともに追い続ける。
そして事態を複雑にするのは、ヤーノシュ自身もまたマールタに好意を見せ始めることだ。交流が深まっていくと同時に、彼はマールタを食事に誘ったりなどする。マールタはそれに喜びを覚えながらも、先述した家族の存在なども相まって、素直に彼の好意を受け取ることはない。その中で魔力に喜びや猜疑心が絡みあうことで、マールタは精神の危機に追いやられていく。
ここで現れるのが基調となる客観的描写とは真逆の、マールタの視点に寄り添った主観的な描写だ。ある時、マールタがマンションから出てくると、道路の向こう側でヤーノシュが待っているのが見える。マールタは驚きながら、彼の元には行かず、その顔を見つめたままに歩道を歩く。するとヤーノシュも彼の顔を見つめたまま、歩き始める。道路越しに共鳴する視線と歩み、そこからは筆舌に尽くしがたい多幸感に溢れ出てくることになる。だがその多幸感には否応なく、愛の成就への期待と愛の崩壊への恐怖が宿り、幸せを感じる度にこそ、マールタの心は不安定さを増すのだ。
そしてこの客観性と主観性を自由自在に行きかいながら、Horvat監督は一目惚れの不条理を描きだしていく。その不条理によって、マールタは愛の荒野へと投げだされ、激情に突き動かされながら彷徨い続ける。ここにおいては全てが残酷だ。曖昧な不安も、束の間の喜びも、そして彼女の身体を包みこむ多幸感すらも。この残酷さを直視しながら、私たちも自身が経てきた愛について思いを馳せざるを得なくなる、心の深奥にこそ残る愛を。それほどの力がこの"Felkészülés meghatározatlan ideig tartó együttlétre"にはあるのだ。
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