鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

映画痴れ者/ライター済東鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

Meryem Benm'Barek&"Sofia"/命は生まれ、人生は壊れゆく

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さて、モロッコである。映画史に残る傑作カサブランカの舞台として有名なこの国であるが、モロッコ自体の映画は少なくとも日本では余り知られていないというのが現状だろう。しかしコンスタントに映画が製作され、何本もの作品がカンヌ映画祭で上映されるなど映画産業に活力はあるのだ。という訳で今回はそんな北アフリカはモロッコの新鋭映画作家Meryem Benm'Barekによるデビュー長編“Sofia”を紹介していこう。

今作の主人公ソフィア(Maha Alemi)は20歳の女性であり、首都カサブランカに家族と共に暮らしている。ある日彼女は腹痛に苦しんだ後、唐突に破水してしまう。従姉のレナ(Sarah Perles)に付き添われ、ソフィアは事態もよく呑み込めないままに出産する。レナから誰が父親かと詰問されるが、ソフィアは沈黙を貫く。

ここでモロッコの文化事情が彼女に影を投げ掛ける。モロッコでは婚外子は認められず、父親が誰かを示す書類が無ければ母親は刑務所へ送られてしまう。それがありながら沈黙するソフィアを説き伏せて、レナはオマールという名前と彼の居場所を何とか聞き出し、家を訪れる。しかし彼やその家族は事実を否定、事態は更に混迷を極め始める。

監督の演出は徹底してリアリズム志向であり、まず彼女はモロッコの日常や空気感を丹念に映し出していく。アラブ文化にフランス語がが混ざりあうような中流階級のモロッコ人の日常風景と、労働者階級のモロッコ人たちが享受する劣悪な生活風景を彼女は対比する。そしてそれらが交わりあうカサブランカの、猥雑な活気が満ちる雑踏の様子をも切り取っていく。そういった要素の数々が今作では鮮やかに捉えられていくのだ。

同時に撮影監督の○は手振れを伴う撮影で以て、逼迫した状況にあるソフィアたちの姿を追う。息苦しく生々しい空気感が画面に満ちわたる様は、それを目撃する者たちの心を瘴気で満たしていくだろう。そして展開が進むにつれて、閉所恐怖症的な感触は、窒息を喚起するほどに増していくのである。

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ロッコにおいて結婚もしていない女性が赤ちゃんを生むことは、母親父親双方の家族にとって頗る不名誉なことだと見なされる。ゆえに家族はソフィアを糾弾し、自身の家族が危機に晒されていることに絶望感を隠さない。ここにこの国の女性差別の実態が見て取れるだろう。ただ必死に生きているだけで、全てにおいて罵られてしまうという地獄がここには広がっているのである。

それでもそんな女性たち同士が連帯する場面もここには存在する。従姉のレナは医学生であり、その知識を生かして危機的状況にあるソフィアを甲斐甲斐しく世話していく。出産が終わった後批判に晒されるソフィアに対しても、レナは献身的な態度で味方で居続けるのだ。しかしその連帯ををも越えるほどに、この国を覆う絶望は底知れないものであるということが徐々に明らかになっていく。

生命の誕生というのは、どんな時でも喜ばしきものであるべきなのだろう。しかし“Sofia”においては周囲の人々の人生を破壊していく悪夢に他ならない。それはモロッコの腐敗した社会システム、家父長制に端を発するものに他ならないだろう。監督はこの悪夢の道行きに国家への批判を託していく。それほどにモロッコという国家の闇は深いということなのだろう。

Meryem Benm'Barek1984年にモロッコの首都ラバトに生まれた。フランス国立東洋言語文化研究所(INALCO)でアラビア語学と人文科学について学んだ後、ベルギーのブリュッセル国立高等芸術研究所(INSAS)で監督業について学ぶ。映画製作と並行して音響芸術も製作しており、ロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館で個展も開いている。

映画監督として有名となるきっかけになった作品は2014年製作の"Jennah"だ。10代の少女が母親との関係性に悩みながら成長していく姿を描いた作品で、アトランタ映画祭とロード・アイランド国際映画祭で作品賞を獲得するなど話題になる。そして2018年には彼女にとって初の長編作品となった"Sofia"を完成させた。ということで今後の活躍に期待。

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私の好きな監督・俳優シリーズ
その311 Madeleine Sami&"The Breaker Upperers"/ニュージーランド、彼女たちの絆は永遠?
その312 Lonnie van Brummelen&"Episode of the Sea"/オランダ、海にたゆたう記憶たち
その313 Malena Szlam&"Altiplano"/来たるのは大地の黄昏
その314 Danae Elon&"A Sister's Song"/イスラエル、試される姉妹の絆
その315 Ivan Salatić&"Ti imaš noć"/モンテネグロ、広がる荒廃と停滞
その316 Alen Drljević&"Muškarci ne plaču"/今に残るユーゴ紛争の傷
その317 Li Cheng&"José"/グアテマラ、誰かを愛することの美しさ
その318 Adina Pintilie&"Touch Me Not"/親密さに触れるその時に
その319 Hlynur Palmason&"Vinterbrødre"/男としての誇りは崩れ去れるのみ
その320 Milko Lazarov&"Ága"/ヤクートの消えゆく文化に生きて
その321 Katherine Jerkovic&"Las Rutas en febrero"/私の故郷、ウルグアイ
その322 Adrian Panek&"Wilkołak"/ポーランド、過去に蟠るナチスの傷痕
その323 Olga Korotko&"Bad Bad Winter"/カザフスタン、持てる者と持たざる者
その324 Meryem Benm'Barek&"Sofia"/命は生まれ、人生は壊れゆく

Olga Korotko&"Bad Bad Winter"/カザフスタン、持てる者と持たざる者

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持てる者と持たざる者の対立、1%と99%の対立は世界各地で繰り広げられている。世界が不穏な方向へと傾くなかで、この闘争もまた複雑で熾烈なものとなっていっている。Olga Korotko監督作である“Bad Bad Winter”は、中央アジアの小国であるカザフスタンにおいて繰り広げられるこの闘争を描き出した作品だ。

大学生のディラナ(Nurgul Alpysbayeva)は祖母の死をきっかけに、故郷の家へと帰ってくる。祖母だけが住んでいたこの家を整理して、売り払う予定にあったのだ。彼女は子供の頃に都市部へと移住しており、それゆえに祖母とも故郷自体とも疎遠だった。そんな過去があるこの家で、ディラナはしばしの間思い出に浸る。

最初、監督はごく普通の日常を描き出していく。祖母の揃えていた家具を眺める、廊下を歩きながら家族に電話をかける、久しぶりの故郷の空気を存分に味わう。しかし不穏な何かが水面下で進行しているような、不気味な雰囲気すらもこの風景からは感じられるのだ。

そんな時、ディラナの帰郷を聞きつけた昔のクラスメイトたちが彼女の前に現れる。しばし再会を喜んだ後、クラスメイトたちはささやかなパーティーを開くことになる。しかしそのメンバーの一人であるムラット(Marat Abishev)とディラナは関係を持っていながら、この時初めて彼にアライ(Zhalgas Jangazin)という婚約者がいることを知る。そのアライもディラナたちの関係を疑っており、険悪な雰囲気がだんだんと張り詰めていく。

そしてムラットたちが来た真の目的は明かされる。彼らは酔っ払いと喧嘩をした際に誤って殺害してしまう。刑務所入りを避けるためには金が必要になるのであり、実業家の父を持つディラナにそれを催促するためここへとやってきたのだ。しかし彼女はその頼みを拒否したことで、家に幽閉されてしまう。

監督は観察的な眼差しで以て彼らの心理模様を描き出していく。撮影監督Aigul Nurbulatovaによる灰色がかった風景に淀んだ感情が這いずりまわる様を目の当たりにするうち、観客の内臓には瘴気が溜まっていくような感覚がある。その背後には明晰な観察眼が存在しているのだが、それはハリウッドのトリックスターである映画作家スティーブン・ソダーバーグの影響を感じさせる。彼の解剖学的なアプローチを彼女は継承しているのだ。

そしてここに浮かぶのが持てる者と持たざる者の対立なのである。ディラナは父親が実業家であり富裕層に属していると言える。だがムラットたちは貧困ゆえに自分の故郷に縛りつけられたまま、困窮した日々を送っている。ゆえに彼らはディラナを裏切り者と呼び、その富を分配しろと迫ってくる。しかしディラナは望んでこの身分になった訳ではないのだから、あまりに不条理であり、この齟齬が事態を悪化させていく。

今作は追い詰められた若者たちの状況を冷ややかな洞察で描き出すことによって、カザフスタンの逼迫した現状を浮かび上がらせることに成功した一作だ。その果てに描かれる皮肉な終盤の展開には、この停滞した国への絶望感が滲んでいる。

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Adrian Panek&"Wilkołak"/ポーランド、過去に蟠るナチスの傷痕

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ホラーという映画ジャンルは、他のジャンルよりも多くかつ意識的に、この世に存在する恐怖を隠喩的に描いてきた。最近の映画でいえばクワイエット・プレイスドナルド・トランプに代表される不寛容が台頭する世の中で親として子供を育てることの恐怖を描いていたし、フランス産ホラー「RAW 少女のめざめ」は思春期の少女が経験する肉体的・精神的変化という恐怖を描いていた。さてそんな中で今回は、ヨーロッパにおいて過去に蟠り続けるナチスという恐怖を描き出した、Adrian Panek監督によるポーランド映画“Wilkołak”を紹介していこう。

1945年、少年ワデク(Kamil Polnisiak)は仲間の子供たちと共に強制収容所で辛い日々を送り続けていた。しかしその果てに、ソ連軍による解放の時はやってきたのである。そして収容所から救い出された後、彼らはヤドウィガ(Danuta Stenka)という女性が運営している、森の奥深くにある孤児院にしばらく滞在することなるのだったが……

ナチスによる占領や戦争が終わった後にも恐怖の時は終わることがない。ワデクたちは飢えや渇きを凌ぎながら、日々を何とか生き延び続ける。しかしある日皆で森を散策していた際、ヤドウィガが何者かに殺害されるという凄惨な事件に遭遇する。彼女を殺したのは犬たちだ。収容所を守っていた凶悪な番犬たちもまた野に放たれ、森に潜んでいたのだ。

今作はそんな極限状態を生きざるを得ない子供たちの姿を追ったホラー作品だ。子供たちだけで団結して生き延びなければならない事態で問題が立て続けに起こっていく。食料や水の圧倒的な不足に、血に飢えた猛犬たちの存在。そういった危険は子供たちを、まるで蝿の王を彷彿とさせる生存闘争に追いたてる。

ポーランド産ホラーとして最近話題になったものでゆれる人魚という作品がある。人肉を喰らう人魚姉妹を描いた極彩色のミュージカルホラーという奇妙な一作であったが、同じくポーランド産ホラーである今作はまた別の興趣を持っている。こちらはハリウッド産ホラーからの影響が伺える作品だ。洋館を禍々しく魅せるDominik Danilczykによる端正な撮影、すこぶる手の込んだグロテスク描写、鼓膜に不気味に響き渡る音の数々など、ハリウッド産ホラーの記憶が散りばめられた演出で以て、監督は恐怖を高めていく。

そして物語は子供たちの心理模様へとフォーカスし始める。ワデクはアンカ(Sonia Mietielica)という年長の少女に恋心を抱いているのだが、気弱な性格が災いして彼女を遠くから見ていることしかできない。一方で“ドイツ野郎”と蔑まれる少年アニス(Nicolas Przygoda)は猛犬たちに対して勇敢な姿を見せて、仲間たちの信頼を勝ち取っていく。そして自然とアンカとの距離も近づいていく。

ここにおいて最も恐ろしいものとして描かれていくのは、やはり人間の心だ。ワデクはアニスとアンカの仲に嫉妬を抱き始める。そんな中でドイツ軍人の身振りと言葉を完璧に模倣すれば、猛犬を手懐けられることの気づくことになる。彼は良心の呵責に苛まれながらも、それを利用してアニスを陥れようと策を練り始める。そしてワデクの、人間の醜悪な部分が顔を見せることになるのだ。

このワデクの姿にはポーランドにおけるナチスの傷跡に繋がる。収容所での忌まわしい記憶はワデク自身をナチスのような恐ろしい存在へ変えようとする。今作の鍵はそんな恐怖といかに対面しなければならないのかということだ。ワデクは記憶に呑み込まれてしまうのか、それとも記憶を乗り越えるのか。そんな過去の恐怖に対する洞察を、ホラー映画として描き出した作品がこの“Wilkołak”なのである。

Adrian Panekは1975年ポーランドに生まれた。ヴロツワフ科学技術大学で建築学について学んだ後、シレジア大学とワイダ・スクールで映画製作についても学ぶ。短編を製作すると共に多くのコマーシャルやMVを監督し、そして2011年には初の長編作品である"Daas"を完成させる。18世紀のヨーロッパを舞台にポーランドに現れた救世主の謎を追う歴史絵巻で、ポーランド国内で高く評価される。そして刑事ドラマ"Komisja morderstw"のエピソード監督を経て、2018年には第2長編"Wilkolak"を完成させた。タリン・ブラックナイツ映画祭で観客賞を獲得するなど世界で広く評価される。ということで監督の今後に期待。

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その321 Katherine Jerkovic&"Las Rutas en febrero"/私の故郷、ウルグアイ
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Katherine Jerkovic&"Las Rutas en febrero"/私の故郷、ウルグアイ

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さて、ウルグアイである。アルゼンチンの隣に位置する小国であるがゆえ、この国の有能な作家陣はアルゼンチンに行ってしまい、この国自体の映画産業が特に大きいということはない。それでも祖国への愛着を持つ人々は世界各地に存在している。という訳で今回はウルグアイの血を引くカナダ人作家Katherine Jerkovicのデビュー長編“Las Rutas en febrero”(日本語訳:"2月の道筋")を紹介していこう。

最愛の父が亡くなった後、サラ(Arlen Aguayo-Stewart)は自分たちが昔住んでいた、そして父方の祖母であるマグダ(Gloria Demassi)が今も腰を据えているウルグアイへと旅に出る。彼女にとってウルグアイは遠い地ながらも、子供時代を過ごした場所であり愛着があった。そして故郷の小さな田舎町に辿りついた後、サラはマグダと再会を喜びあう。

ウルグアイの田舎にはのどかな雰囲気が漂っている。広く開けた世界に疎らな家々、あちらこちらでは輝いている緑。マグダの家も昔ながらの面影を残しており親しみ深い。それらを映し出すNicolas Canniccioniによる撮影も素晴らしい。彼女は田舎町に広がる風景の数々をゆったり捉えていく。群青色の空とオレンジ色の町並みという濃淡がウルグアイを彩っている。そして郊外にも廃工場の荒涼としながらも美しい風景が広がっている。そういった描写は頗る端正であり、それを観ているだけで旅行をしているような雰囲気が味わえる。

サラはしばらくの間、マグダの元で平穏な時を過ごす。しかしマグダとの関係性は少しぎこちないものだ。サラにとっての父/マグダにとっての息子の死が関係性に影を投げかけているのは明らかだ。そういう微妙な空気感も何もかも、田舎町に流れる時間の中では等しく漂うこととなる。

そしてサラの心の旅路はウルグアイの現状も反映していく。ある時彼女は1人の青年と出会うのだが、ウルグアイから出ていきアルゼンチンのブエノスアイレスで一旗揚げたいという思いを彼はサラに吐露する。自分たち家族もウルグアイを捨ててカナダへと移住した過去がある。ウルグアイは幸福を追い求めるには過酷な場所なのだ。そうしてサラは残してきた故郷の過去と未来に思いを馳せることとなる。

今作の核となるのはサラを演じるArlen Aguayo-Stewartの繊細な演技だ。サラは俳優になるという夢を諦めてウェイトレスとして日々を浪費する現状に置かれている。更に人生において道に迷っている所で父の死という悲劇に直面してしまう。そして当惑と不安の最中に、彼女は自分のルーツへと今再び立ち戻ることとなる。それゆえに若さが宿す不安定さや輝きを、彼女は体現しているのだ。“Las Rutas en febrero”は故郷への複雑な思いを、端正な風景描写と繊細な心理描写で以て美しく描き出した1作だ。その旅路には全てを優しく抱くような温もりが満ちている。

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私の好きな監督・俳優シリーズ
その301 アイダ・パナハンデ&「ナヒード」/イラン、灰色に染まる母の孤独
その302 Iram Haq&"Hva vil folk si"/パキスタン、尊厳に翻弄されて
その303 ヴァレスカ・グリーゼバッハ&"Western"/西欧と東欧の交わる大地で
その304 ミカエル・エール&"Amanda"/僕たちにはまだ時間がある
その305 Bogdan Theodor Olteanu&"Câteva conversaţii despre o fată foarte înaltă"/ルーマニア、私たちの愛について
その306 工藤梨穂&「オーファンズ・ブルース」/記憶の終りは世界の終り
その307 Oleg Mavromatti&"Monkey, Ostrich and Grave"/ネットに転がる無限の狂気
その308 Juliana Antunes&"Baronesa"/ファヴェーラに広がるありのままの日常
その309 Chloé Zhao&"The Rider"/夢の終りの先に広がる風景
その310 Lola Arias&"Teatro de guerra"/再演されるフォークランド紛争の傷痕
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その320 Milko Lazarov&"Ága"/ヤクートの消えゆく文化に生きて

Milko Lazarov&"Ága"/ヤクートの消えゆく文化に生きて

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あなたはヤクートという人々のことを知っているだろうか。北東アジアに住んでいるテュルク系民族に属する人々であり、見た目は日本人にも似ている。彼らの中には未だに伝統を守りながら、氷原で自然と共に生活し続けているという者たちも多くいる。ブルガリア人である○監督作“”は、そんなヤクート人たちの文化を描き出した壮大な1作だ。

今作の主人公はナヌークとセドナ(Mikhail Aprosimov&Feodosia Ivanova)というヤクートの老夫婦だ。彼らは氷原のど真ん中に作られた家で2人だけで暮らしている。狩りなどで生計を立てる生活は厳しく質素だけれども、同時に暖かくて親密なものである。しかしそんな時間が長く続くことはないということを、彼らは予感していた。

まず監督は老夫婦の日常を丹念に描き出していく。ナヌークは愛犬と共に氷原へと出掛けて、雪をものともせずに進み続ける。そして良い場所を見つけると、様々な道具を使いながら氷土に穴を開けて罠を仕掛けていく。家に帰った後は、大小色々な木材で橇を修復するなどしていくのだ。そして家の中で、ナヌークはセドナと2人だけで憩いの時間を過ごすことになる。

印象的なのはやはり撮影監督Kaloyan Bozhilovが紡ぐ崇高な風景の数々だろう。どこまでも広がる白銀の世界で、吹き荒ぶ吹雪の中を橇で駆け抜けるナヌークの姿はある種神話的な輝きすらも放っている。そして水色と白色は交わりあう地平にトナカイが佇む姿、氷土に灰の色彩を纏った断崖が聳え立つ姿、夕日の橙に氷原が染め上げられた時の姿。そういった風景はただただ美しい。まるでドイツの芸術家カスパー・ダーヴィド・フリードリヒが雪の世界を描き出したとしたらこんな絵画が生まれるだろう、そう夢想させる光景がここには広がっているのだ。

それに呼応するように音楽も広大で印象的なものだ。担当しているのはハンス・ジマーのアシスタントも務めていたブルガリア人作曲家であるPenka Kounevaだ。彼女の勇壮な旋律がどこまでも広がっている雪景色に響き渡る様は、それだけでも畏敬の念を呼び起こすような力強さに満ちている。そして今作を神々しい神話の域にまで高めていくのだ。

だがナヌークたちの日常は徐々に崩れていくこととなる。狩りで獲物は獲ることができないまま、生き物たちは謎の死を遂げていく。地球温暖化によって気温はどんどん上がっていき、環境に異変が起こり始める。こういった変化の数々はヤクートの伝統が消えゆく危機感にも重なるようだ。ナヌークたちはもはやこの地に残された最後の人間たちなのだとでも言う風に。そしてこの中で彼ら夫婦の関係性にも影響が及ぶことになるのだ。

監督はそんな孤独な2人の心に寄り添っていく。彼らはいつも隣同士で眠っており、その仲の良さは際立っている。しかし彼らにはアガという娘がいながらも、ある理由から絶縁してしまったという過去を持つ。ナヌークは頑なに彼女に怒りを覚えながら、セドナは彼女と再会して仲直りしたいと思い続けている。そんな中で彼女は体調を崩してしまい、外に広がる自然と共に衰弱していってしまう。ゆえにセドナの願いを叶えるためにナヌークはアガを探す旅へと赴く。その旅路には死と崇高さがつきまとっていく。人間と動物たちや自然との関係性を再考させるような寓話的な感触に満ちている。こういったものの中で、私たち人間はどうやって生きればいいのだろうか?

"Ága"はヤクートという孤高の存在について、深い畏敬の念を以て作られた壮大なドラマ作品だ。物語構成自体は頗るシンプルなものながらも、その風景や音楽によって無二の崇高さにまで高められていると言えるだろう。そしてそこに生と死の1つの真実が浮かび上がっている。

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私の好きな監督・俳優シリーズ
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その320 Milko Lazarov&"Ága"/ヤクートの消えゆく文化に生きて

Radu Jude&"Țara moartă"/ルーマニア、反ユダヤ主義の悍ましき系譜

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ラドゥ・ジュデ&"Cea mai fericită fată din ume"/わたしは世界で一番幸せな少女
Radu Jude&"Toată lumea din familia noastră"/黙って俺に娘を渡しやがれ!
Radu Jude & "Aferim!"/ルーマニア、差別の歴史をめぐる旅
ラドゥ・ジュデ&"Inimi cicatrizate"/生と死の、飽くなき饗宴
ラドゥ・ジュデの経歴及び今までの長編作品のレビューはこちら参照。

第2次世界大戦時においてはヨーロッパ各地でユダヤ人排斥が繰り広げられた。その中でもドイツに次いで大規模な弾圧を行ったのがルーマニアだった。各地でユダヤ人から財産を収奪したり、絶滅収容所へと送ったり、虐殺を繰り広げたりとそれは凄惨を極めるものだった。今やルーマニアの新たなる波を代表する存在となったラドゥ・ジュデ Radu Jude監督のドキュメンタリー作品“Țara moartă”は、そんな凄惨なユダヤ人弾圧の過去を描き出した作品だ。

今作を構成するのはユダヤ人のエミール・ドリアン Emil Dorianという医師が、戦前から戦後にかけて書いた日記の朗読だ。彼の日記はまず、ドイツでヒトラーが台頭を果たすと同時にルーマニアでもユダヤ人排斥が活発化したという文言で幕を開ける。今まで息を潜めていた反ユダヤ主義が公然と叫ばれるようになり、ドイツと同じような形で、ルーマニアは第2次世界大戦の始まりへと近づき始める。

ドリアンもユダヤ人であるがゆえに、この潮流には甚大な影響を受ける。医師としての仕事はもちろんのこと剥奪された上、ルーマニアの劣悪な衛生状況はユダヤ人医師たちのせいだと罵倒されることとなる。そしてルーマニアの正統なる後継者はラテン民族であるという理由で、ローマ式の敬礼を要求される。ドリアンはそんなルーマニアの過去を憂うが、その心配は正に現実のものとなっていく。

そしてユダヤ人排斥は更に加速する。財産の収奪に始まり、逮捕や処刑の連続などルーマニアでは激動の季節が繰り広げられる。ユダヤ人排斥をマニフェストに掲げ、イオン・アントネスク元帥が国家指導者の座に就くことともなり、それと同時に鉄衛団という反ユダヤ主義的極右政党が猛威を振るう。鉄衛団は余りにも苛烈な活動を続けたゆえに、アントネスク元帥からも見放され粛清されることとなるが、その元帥が鉄衛団よりも激しいユダヤ人排斥運動を開始することになるのだった。

ジュデ監督は日記の朗読と共に当時撮影された写真を連ねていく。それはコスティカ・アクシンテ Costică Acsinteという写真家(彼の作品はこのサイトから鑑賞可能)による、ルーマニア南東部に生きた人々を写した作品だ。民族衣装を着た女性たち、曲芸を披露する子供、皆で笑顔を浮かべているような記念写真。表面上はろても和気藹々としており、これら単体で見れば微笑ましいものと思える。

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しかし朗読と写真が不気味にシンクロし始める瞬間がある。先述したローマ式敬礼を求められる文章が流れる際には子供たちの堂々たる敬礼写真が浮かび上がる。激しく右傾化するルーマニアにおいて軍歌が雄々しく響く場面ではポーズを決める軍人たちの写真が現れる。そうして不穏な雰囲気が写真の数々に満ちていくのだ。

そして笑顔の微笑ましい写真すらも不気味になっていく。その笑みの裏には隠されたユダヤ人への差別や虐殺が存在している。差別に対して目を向けようとはしない民衆の姿は、現在も様々な差別に対して見てみぬふりをする人々の姿に繋がる。それは正に現在の日本において、中国や韓国への差別を存在しないものと見なす人々の姿にも重なるはずだ。こうしてジュデ監督の手によって写真は新しい意味を獲得していくのだ。

“”は過去に存在した苛烈なユダヤ人差別を伝える作品だ。しかしそれは、先述通り、現在も終わってはいない。戦争と差別の嵐を何とか生き残ったドリアンは今まで敵性思想だった共産主義ソビエト連邦は国民によって熱狂的に迎え入れられる光景を、全てが熱狂の中でうやむやにされていく光景を目撃することとなる。そして古いユダヤ主義は消え去りながらも、新たな反ユダヤ主義が猛威を振るうだろうと彼は締めくくるのだ。差別の歴史は未だ終わってはいない。

さて、劇中でルーマニアウクライナに位置するトランスニストリアにユダヤ人を送ったことや、その後に港湾都市オデッサルーマニア軍がソ連軍と戦ったことが綴られる。ルーマニア軍はこの戦いで膨大な死傷者を出した後、報復としてユダヤ人の大量虐殺を行う。ドイツ人の悪行をも越えた最悪のユダヤ人虐殺と呼ばれる、いわゆる“オデッサの悲劇”をルーマニア軍は起こしたのである。そしてドリアンは綴る。一人の軍人がユダヤ人に対してこんな言葉を吐き捨てた。“俺はオデッサで、お前らみたいな奴らを20人、犬のようにブチ殺してやったんだ”と。

そんな中で“オデッサの悲劇”を調べるうち、面白い日本語のブログ記事を見つけた。筆者はブカレスト在住の日本人だそうなのだが、少しこの記事を引用しよう。

“外国からの友人を案内してブカレストの観光名所をぶらぶら歩いていると、何時にもなく賑わっている革命広場付近。旧式の軍服を着た人たちや、時代映画から抜け出たような装束の女性たち。それもそのはず、映画のロケに出会いました。

「こいつはドイツ兵役だよ。僕がルーマニア軍人役。」とお茶目にスナップ写真に納まってくれた俳優さんたち。(長身の方がルーマニア軍人役)「どんな映画ですか?」~「1941年のオデッサの戦いで、ルーマニア軍はソ連と勇敢に戦ったんだ。その時の映画さ。」”

だが上記の事実を鑑みると、その俳優の言葉はあまりにも無邪気すぎではないだろうかと思わされる。おそらくジュデ監督も現在のルーマニア人のこういった歴史観に疑義を抱いているのではないだろうか。彼は今作の後、“オデッサの虐殺”を基にした作品、もっと詳しく言うと“オデッサの虐殺”についての演劇を上演しようと奔走する女性の姿を描いた作品を監督する。それこそが2018年完成の最新作“Îmi este indiferent dacă în istorie vom intra ca barbari”(日本語訳:"私は歴史において野蛮人に成り下がろうが構わない")だった。だがそれについては、また別の機会に。

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ルーマニア映画界を旅する
その1 Corneliu Porumboiu & "A fost sau n-a fost?"/1989年12月22日、あなたは何をしていた?
その2 Radu Jude & "Aferim!"/ルーマニア、差別の歴史をめぐる旅
その3 Corneliu Porumboiu & "Când se lasă seara peste Bucureşti sau Metabolism"/監督と女優、虚構と真実
その4 Corneliu Porumboiu &"Comoara"/ルーマニア、お宝探して掘れよ掘れ掘れ
その5 Andrei Ujică&"Autobiografia lui Nicolae Ceausescu"/チャウシェスクとは一体何者だったのか?
その6 イリンカ・カルガレアヌ&「チャック・ノリスVS共産主義」/チャック・ノリスはルーマニアを救う!
その7 トゥドール・クリスチャン・ジュルギウ&「日本からの贈り物」/父と息子、ルーマニアと日本
その8 クリスティ・プイウ&"Marfa şi Banii"/ルーマニアの新たなる波、その起源
その9 クリスティ・プイウ&「ラザレスク氏の最期」/それは命の終りであり、世界の終りであり
その10 ラドゥー・ムンテアン&"Hîrtia va fi albastrã"/革命前夜、闇の中で踏み躙られる者たち
その11 ラドゥー・ムンテアン&"Boogie"/大人になれない、子供でもいられない
その12 ラドゥー・ムンテアン&「不倫期限」/クリスマスの後、繋がりの終り
その13 クリスティ・プイウ&"Aurora"/ある平凡な殺人者についての記録
その14 Radu Jude&"Toată lumea din familia noastră"/黙って俺に娘を渡しやがれ!
その15 Paul Negoescu&"O lună în Thailandă"/今の幸せと、ありえたかもしれない幸せと
その16 Paul Negoescu&"Două lozuri"/町が朽ち お金は無くなり 年も取り
その17 Lucian Pintilie&"Duminică la ora 6"/忌まわしき40年代、来たるべき60年代
その18 Mircea Daneliuc&"Croaziera"/若者たちよ、ドナウ川で輝け!
その19 Lucian Pintilie&"Reconstituirea"/アクション、何で俺を殴ったんだよぉ、アクション、何で俺を……
その20 Lucian Pintilie&"De ce trag clopotele, Mitică?"/死と生、対話と祝祭
その21 Lucian Pintilie&"Balanța"/ああ、狂騒と不条理のチャウシェスク時代よ
その22 Ion Popescu-Gopo&"S-a furat o bombă"/ルーマニアにも核の恐怖がやってきた!
その23 Lucian Pintilie&"O vară de neuitat"/あの美しかった夏、踏みにじられた夏
その24 Lucian Pintilie&"Prea târziu"/石炭に薄汚れ 黒く染まり 闇に墜ちる
その25 Lucian Pintilie&"Terminus paradis"/狂騒の愛がルーマニアを駆ける
その26 Lucian Pintilie&"Dupa-amiaza unui torţionar"/晴れ渡る午後、ある拷問者の告白
その27 Lucian Pintilie&"Niki Ardelean, colonel în rezelva"/ああ、懐かしき社会主義の栄光よ
その28 Sebastian Mihăilescu&"Apartament interbelic, în zona superbă, ultra-centrală"/ルーマニアと日本、奇妙な交わり
その29 ミルチャ・ダネリュク&"Cursa"/ルーマニア、炭坑街に降る雨よ
その30 ルクサンドラ・ゼニデ&「テキールの奇跡」/奇跡は這いずる泥の奥から
その31 ラドゥ・ジュデ&"Cea mai fericită fată din ume"/わたしは世界で一番幸せな少女
その32 Ana Lungu&"Autoportretul unei fete cuminţi"/あなたの大切な娘はどこへ行く?
その33 ラドゥ・ジュデ&"Inimi cicatrizate"/生と死の、飽くなき饗宴
その34 Livia Ungur&"Hotel Dallas"/ダラスとルーマニアの奇妙な愛憎
その35 アドリアン・シタル&"Pescuit sportiv"/倫理の網に絡め取られて
その36 ラドゥー・ムンテアン&"Un etaj mai jos"/罪を暴くか、保身に走るか
その37 Mircea Săucan&"Meandre"/ルーマニア、あらかじめ幻視された荒廃
その38 アドリアン・シタル&"Din dragoste cu cele mai bune intentii"/俺の親だって死ぬかもしれないんだ……
その39 アドリアン・シタル&"Domestic"/ルーマニア人と動物たちの奇妙な関係
その40 Mihaela Popescu&"Plimbare"/老いを見据えて歩き続けて
その41 Dan Pița&"Duhul aurului"/ルーマニア、生は葬られ死は結ばれる
その42 Bogdan Mirică&"Câini"/荒野に希望は潰え、悪が栄える
その43 Szőcs Petra&"Deva"/ルーマニアとハンガリーが交わる場所で
その44 Bogdan Theodor Olteanu&"Câteva conversaţii despre o fată foarte înaltă"/ルーマニア、私たちの愛について
その45 Adina Pintilie&"Touch Me Not"/親密さに触れるその時に

アレックス・ロス・ペリー&「彼女のいた日々」/秘めた思いは、春の侘しさに消えて

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この世界に映画として作られていない題材は一体あるのだろうか? 取り敢えず考えてみよう。前人未到の異郷に生きる原住民たちの物語、人間とは全く違う地球外生物についての物語、宇宙の深遠なる起源についての物語……米インディー映画界の恐るべき子供アレックス・ロス・ペリー最新作“Golden Exits”において、エミリー・ブラウニング演じる女性はこんなことを言う。“未だに作られたことがないのは、普通の人々の特に何も起こらない日々についての映画だと思う”。この発言は“Golden Exits”という映画そのものを形容した最善の言葉と言っていいだろう

この映画の主人公はナオミ(「エンジェル・ウォーズ」エミリー・ブラウニング)という25歳の女性、彼女はオーストラリア人でしばらくニューヨークに滞在するためこの地にやってきた。彼女はニック(アダム・ホロヴィッツ)という中年男性の元で、資料整理をするために雇われることとなる。彼の妻であるアリッサ(ブラウン・バニークロエ・セヴィニー)やその姉であるグウェンドリン(「RED/レッド」メアリー=ルイーズ・パーカー)らとも懇意になりながら、彼女のニューヨークでの日々は過ぎていく。

そして物語にはもう1人の家族が関わることになる。バディ(天才マックスの世界ジェイソン・シュワルツマン)は妻のジェス(「君といた2日間」アナリー・ティプトン)と共に音楽スタジオを経営しながら、自由な生活を謳歌していた。実はそんなバディはナオミの義理の兄であり、そんな関係性から度々会って近況を話すようになる。こうして2つの家庭はナオミを通じて、緩やかに繋がり始める。

今作を構成するのは登場人物たちのどうということはない日常の素描だ。例えばナオミがニックと一緒に資料整理を行う、クラブでバディと他愛ないお喋りを交わす、アリッサとグウェンドリンが姉妹同士で不在のニックについて会話をする、バディがジェスとソファーに座ってイチャつく、グウェンドリンがベッドの上で晩御飯を食べる。こういった風景の数々がゆったりとしたテンポで以て積み重なっていくのだ。

ロス・ペリーの盟友である撮影監督ショーン・プライス・ウィリアムス(「神様なんかくそくらえ」)によるフィルム撮影は息を呑むほどの美しさを誇っている。薄く赤みがかった世界は秋の手を擦りあわせるような侘しさをそこはかとなく感じさせるものであるし、そんなレンズ越しに浮かび上がるニューヨークの街並みも瀟洒で思わず見惚れてしまうほどだ。

アレックス・ロス・ペリーという映画作家について日本では余り知られていないが、彼は米インディー映画界において最も注目すべき才能の筆頭であると私は考えている。ゼロ年代後半からテン年代前半にかけて超低予算・アドリブ主体で若者文化を描き出すマンブルコアという潮流がアメリカを席巻した。ロス・ペリーはこれ以後の世代に属する作家であるが、彼は正にこの潮流の精神性を受け継ぎながらも、また異なる映画作品を製作しているのである。

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それがどんな作品かについては、彼がブレイクを果たすきっかけとなった作品を詳しく見ていくことで解説しよう。その作品とは2014年と2015年に連続して製作した2本の映画である。まず1本目が“Listen Up, Phillips”、小説家として第1長編を出した男性が第2長編を出版しようと奔走するうち、人生が大きく変貌していく様を描き出した作品だ。そして2本目がQueen of Earth”、こちらは親友である2人の女性が湖畔のコテージで秘めていた情念を互いにぶつけあう姿を描いた作品である。ロス・ペリーは両者において人間のエゴというべき概念を様々な角度から描こうとする試みに挑んでいる。彼は共感や感動の先にある真実を追い求め続けている映画作家なのだ。この深度と硬度が他の監督たちとは一線を画する由縁なのである。

ならばこの映画はエゴの群像劇かと言えば、それは違う。ナオミが2つの家族を掻き回していく物語だろうか。いや彼女はロス・ペリー作品においては珍しいほど真面目で誠実な人間だ。ニックかバディだかが不倫して事態が急変するのだろうか。いや2人とも性格はそれほど良くないがそういった裏切り行為を行うほどひねくれ者ではない。ならウディ・アレンのようなコメディ作品に傾くのだろうか。いやあくまで今作はドラマ作品で笑いはない。

では何を描くのか。それは日常に他ならない。何か劇的な出来事が起こるでもない、本当に何だって起こることがない日常の数々。しかしその日常を見る眼差しは優しく、日常を綴る手つきは繊細であり、愛おしいその日常を静かに抱きしめるような感覚が本作には宿っている。その意味でこの作品は今までのロス・ペリー作品とは全く違う新境地とも形容することができるだろう。

そしてもう1つ重要な要素は、登場人物が内に秘めたる思いについてだ。今作に出てくる人物は皆が饒舌で、ある意味で会話劇の側面も持ち合わせている。だが真に重要な思いは語られることがない。それを言おうとするたび、彼らは表情を曇らせたり躊躇に顔を歪ませたりしてしまうのだ。不満や恋慕、喜びや悲しみ、そんな一生言葉にされることなく消えていく思いの存在が今作に胸を締めつけるような切なさを宿していくのだ。

“Golden Exits”アレックス・ロス・ペリー監督としては異色ながら、新たな作風の開拓を見事に成功させた1作だ。ロス・ペリーは“普通の人々の特に何も起こらない日々についての映画”という今まで作られたことのなかったかもしれない作品を製作した上で、それが存在することの意味を今作によって証明してみせたのである。

そんな中で衝撃的なニュースが舞い込んだ。これまでロス・ペリー監督作は1作も日本で紹介されることがなかったが、何とAmazonにおいて今作が「彼女のいた日々」という邦題で配信スルーされることとなった。彼の作品が日本語字幕つきで観られるという意味ではかなりめでたいのだが、上述した通り今作はロス・ペリー作品としては異色作であり、これからロス・ペリー監督作に触れると全く別の映画作家としてみなされる恐れがある。それはそれで良いのかもしれないが、ロス・ペリーの全作品を追ってきた私としてはちょっと複雑な心境である。

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ポスト・マンブルコア世代の作家たちシリーズ
その61 オーレン・ウジエル&「美しい湖の底」/やっぱり惨めにチンケに墜ちてくヤツら
その62 S.クレイグ・ザラー&"Brawl in Cell Block"/蒼い掃き溜め、拳の叙事詩
その63 パトリック・ブライス&"Creep 2"/殺しが大好きだった筈なのに……
その64 ネイサン・シルヴァー&"Thirst Street"/パリ、極彩色の愛の妄執
その65 M.P. Cunningham&"Ford Clitaurus"/ソルトレーク・シティでコメdっjdjdjcjkwjdjdkwjxjヴ
その66 Patrick Wang&"In the Family"/僕を愛してくれた、僕が愛し続けると誓った大切な家族
その67 Russell Harbaugh&"Love after Love"/止められない時の中、愛を探し続けて
その68 Jen Tullock&"Disengaged"/ロサンゼルス同性婚狂騒曲!
その69 Chloé Zhao&"The Rider"/夢の終りの先に広がる風景
その70 ジョセフィン・デッカー&"Madeline's Madeline"/マデリンによるマデリン、私による私
その71 アレックス・ロス・ペリー&「彼女のいた日々」/秘めた思いは、春の侘しさに消えて