鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

映画痴れ者/ライター済東鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

Arun Karthick&"Nasir"/インド、この地に広がる脅威

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今現在、インドは転換期にあると言える。インドの頂点に立つナレンドラ・モディ首相がヒンドゥー至上主義を推し進めており、反イスラムの機運がかつてないほど高まっているのである。ヒンドゥー教徒イスラム教徒間の融和が崩れ去ろうとしている今、インドにはどんな現実が広がっているのか。それを静かに、だが力強く描き出した作品がArun Karthick監督作"Nasir"である。

今作の主人公は平凡な中年男であるムスリム教徒ナシール(Koumarane Valavane)だ。彼は愛する妻や養子である息子たちと、ムンバイの片隅で慎ましやかに暮らしていた。現在、妻は外出中で、現在の情勢を鑑みてその動向を少し心配しているのだが、ただ家でじっとしている訳にはいかない。彼はいつものように勤め先の服屋へと向かうのだった。

最初、今作はそんなナシールの日常を丁寧に描き出していく。猥雑なムンバイの通りを、スクーターで走り抜ける。色とりどりの布に囲まれながら、服屋の店員として精いっぱい働く。家に帰った後は、ベッドで眠りこける。こういった何気ない日常を積み重ねながら、今作は物語を展開していく。

Karthick監督の演出はすこぶるミニマルなものである。音楽や激しい編集など余計な虚飾などは一切なしに、撮影監督であるSaumyananda Sahiとストイックに眼前の光景を見据えていく。そこから浮かび上がってくるものは、ナシールが生きる世界に漂う豊穣なる空気感である。今作を観ている間、観客は彼が吸っているのと同じ空気を吸っているような心地になるだろう。

そして同時に、インドに今広がる現実さえもが鮮やかさを以て浮かび上がってくるのである。例えば猥雑な活気が破裂するような迫力を持つ通りの風景、インドの民族衣装の数々を彷彿とさせる極彩色に満たされた服屋の風景、家の中で慎ましく食事をする家族の風景。そういった印象的な風景の数々が浮かんでは消えていくのである。

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そんな中でナシールの日常は続いていく。ナシールの一家の家計は苦しく、貧困に首をゆっくりと絞められている状態だ。なので彼は服屋の店長に給料の前借を提案し、その代わりに大学へと服の運搬を行うことになる。彼はいつもの通りスクーターに乗って、目的地へと向かうのだったが……

私たちはナシールの旅路の途中で、何か叫びのようなものを聞くことになるだろう。"このインドという国は私たちヒンドゥー教徒のものだ!"と、そんな言葉を勇ましく叫ぶものがいるのだ。そして先述した店長も、ナシールがムスリム教徒と知りながら、彼らを声高に批判する。もう既にヒンドゥー至上主義は彼ら一般人の日常にまで浸透してしまっている訳である。

それと対比されるように、ナシールがモスクへと向かう場面がある。彼は跪きながらアラーに祈りを捧げるのである。そこで響くのは厳かな詠唱であり、がなり立てるような排他的な叫びとは全く違う響きを持ち合わせている。この力強い響きを頼りに、ナシールは日常を生き抜いているのだと思わされるのだ。

今作を観ながら、私が想起したのはインド映画界の名匠であるマニ・カウルである。グル・ダットサダジット・レイに比べ、日本では余り知られていないながらも、インドでは最も尊敬される巨匠の1人である。彼は他と一線を画するようなミニマルな演出で以て、インドに広がる現実や伝統的な民話を描き出していた。そのミニマルさはブレッソンを彷彿とさせながらも、その息を呑む詩情は彼をも越えるほどの強度を持っている。

そしてKarthickはそんなカウルの手法を正しく継承しているように思われる。彼は情報という情報を極限まで排することで、むしろ映画的な豊穣さが生まれるのである。画面外や言外にこそ存在する曖昧なものを、監督は見据えて捉えているのだ。それがインドの特異性と繋がることで、更なる豊かさが現れるのである。

"Nasir"においては、インドの日常に広がる美とそれを脅かす脅威が常に拮抗し続けている。それは微妙な均衡を呈しながらも、私たちは最後にインドの現実を叩きつけられることになるだろう。そんなラストにはただ唖然とするしかない。そして私たちは世界を包みこむ残酷なる現実に思いを馳せるはずだ。

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私の好きな監督・俳優シリーズ
その361 Mona Nicoară&"Distanța dintre mine și mine"/ルーマニア、孤高として生きる
その362 Siniša Gacić&"Hči Camorre"/クリスティーナ、カモッラの娘
その363 Vesela Kazakova&"Cat in the Wall"/ああ、ブレグジットに翻弄されて
その364 Saeed Roustaee&"Just 6.5"/正義の裏の悪、悪の裏の正義
その365 Mani Haghighi&"Pig"/イラン、映画監督連続殺人事件!
その366 Dmitry Mamulia&"The Climinal Man"/ジョージア、人を殺すということ
その367 Valentyn Vasyanovych&"Atlantis"/ウクライナ、荒廃の後にある希望
その368 Théo Court&"Blanco en blanco"/チリ、写し出される虐殺の歴史
その369 Marie Grahtø&"Psykosia"/"私"を殺したいという欲望
その370 Oskar Alegria&"Zumiriki"/バスク、再び思い出の地へと
その371 Antoneta Kastrati&"Zana"/コソボ、彼女に刻まれた傷痕
その372 Tamar Shavgulidze&"Comets"/この大地で、私たちは再び愛しあう
その373 Gregor Božič&"Zgodbe iz kostanjevih gozdov"/スロヴェニア、黄昏色の郷愁
その374 Nils-Erik Ekblom&"Pihalla"/フィンランド、愛のこの瑞々しさ
その375 Atiq Rahimi&"Our Lady of Nile"/ルワンダ、昨日の優しさにはもう戻れない
その376 Dag Johan Haugerud&"Barn"/ノルウェーの今、優しさと罪
その377 Tomas Vengris&"Motherland"/母なる土地、リトアニア
その378 Dechen Roder&"Honeygiver among the Dogs"/ブータン、運命の女を追って
その379 Tashi Gyeltshen&"The Red Phallus"/ブータン、屹立する男性性
その380 Mohamed El Badaoui&"Lalla Aïcha"/モロッコ、母なる愛も枯れ果てる地で
その381 Fabio Meira&"As duas Irenes"/イレーニ、イレーニ、イレーニ
その382 2020年代、期待の新鋭映画監督100!
その383 Alexander Zolotukhin&"A Russian Youth"/あの戦争は今も続いている
その384 Jure Pavlović&"Mater"/クロアチア、母なる大地への帰還
その385 Marko Đorđević&"Moj jutarnji smeh"/理解されえぬ心の彷徨
その386 Matjaž Ivanišin&"Oroslan"/生きることへの小さな祝福
その387 Maria Clara Escobar&"Desterro"/ブラジル、彼女の黙示録
その388 Eduardo Morotó&"A Morte Habita à Noite"/ブコウスキーの魂、ブラジルへ
その389 Sebastián Lojo&"Los fantasmas"/グアテマラ、この弱肉強食の世界
その390 Juan Mónaco Cagni&"Ofrenda"/映画こそが人生を祝福する

ルクセンブルク、兄弟の行く末~Interview with Nadia Masri

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さて、このサイトでは2010年代に頭角を表し、華麗に映画界へと巣出っていった才能たちを何百人も紹介してきた(もし私の記事に親しんでいないなら、この済藤鉄腸オリジナル、2010年代注目の映画監督ベスト100!!!!!をぜひ読んで欲しい)だが今2010年代は終わりを迎え、2020年代が始まろうとしている。そんな時、私は思った。2020年代にはどんな未来の巨匠が現れるのだろう。その問いは新しいもの好きの私の脳みそを刺激する。2010年代のその先を一刻も早く知りたいとそう思ったのだ。

そんな私は、2010年代に作られた短編作品を多く見始めた。いまだ長編を作る前の、いわば大人になる前の雛のような映画作家の中に未来の巨匠は必ず存在すると思ったのだ。そして作品を観るうち、そんな彼らと今のうちから友人関係になれたらどれだけ素敵なことだろうと思いついた。私は観た短編の監督にFacebookを通じて感想メッセージを毎回送った。無視されるかと思いきや、多くの監督たちがメッセージに返信し、友達申請を受理してくれた。その中には、自国の名作について教えてくれたり、逆に日本の最新映画を教えて欲しいと言ってきた人物もいた。こうして何人かとはかなり親密な関係になった。そこである名案が舞い降りてきた。彼らにインタビューして、日本の皆に彼らの存在、そして彼らが作った映画の存在を伝えるのはどうだろう。そう思った瞬間、躊躇っていたら話は終わってしまうと、私は動き出した。つまり、この記事はその結果である。

今回インタビューしたのはヨーロッパ諸国の中でもとても小さな一国ルクセンブルクから現れた新鋭作家Nadia Masriである。彼女はオーストリアの有名作家ジェシカ・ハウスナーらの作品でスクリプターを務めた後、映画監督として活躍する人物である。彼女が2016年に制作した短編作品"Aus den Aen"ルクセンブルクに生きる兄弟を描いた作品である。ポルは妻とともに平穏な生活を送っていたが、ある日刑務所から弟であるジェロームが出所し、彼のもとで居候することになる。最初は平和な関係性を保ちながら、だんだんと不穏な脅威が2人を包みこみ始め、そしてポルはある行動に出ることになる……今作はRichard Lange リチャード・ラングというアメリカ人作家の短編"Long Lost"を基にしているが、それを巧みにルクセンブルク舞台に移しかえ、兄弟の濃厚な関係性を荒涼たる詩情とともに描き出している。今回はMasriに今作の成立過程やルクセンブルク映画史について直撃した。それではどうぞ。

vimeo.com
何と監督は、このブログの読者のために“Aus den Aen”の日本限定公開に踏み切ってくれた。パスワードは“LongLost2016”である。このインタビューを読む前でも、読んだ後でもぜひ観て欲しい。

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済藤鉄腸(TS):まずどうして映画監督になりたいと思ったんですか? それをどのようにして叶えたんですか?

ナディア・マスリ(NM):思い出せる限りだと、映画はいつだって私にとって大きな衝撃であってくれました。映画の言語は私にとっての母語で、つまり私の魂が理解できるものであった訳です。映画は私が本当に自分を表現できるメディアだと思ったんです。

子供の頃、最初は女優になりたかったんです。14歳辺りでこの考えが変わっていき、映画監督になりたいと思い始めました。突然、映画が解放する意味の全てに引きこまれるようになったんです。カメラの動き、物語、美術……演技だけではありませんでした。

10代の頃、私は青年センターが主催する映画のワークショップに通い始めました。それから20歳の時、クリスマスに買った小さなDVビデオカメラで最初の短編を監督しました。その後、歴史学修士号を取ってから(それは両親が取っておけと勧めてくれた、いわばセーフティネットでした)パリのEICARという学校で映画製作について学びました。夏休みの間には、ルクセンブルクに戻り映画のセットで訓練生として働いていました。メイキング制作、助監督、ビデオアシスト、スクリプターの補助など様々な部門で経験を積みました。

10年ほど前に学校を終えてから、 ルクセンブルクに住んでスクリプターとして生計を立てながら、脚本を執筆したり映画監督として活動したりしています。

TS:映画に興味を持ち始めた頃、どんな映画を観ていましたか? 当時のルクセンブルクではどんな作品を観ることができましたか?

NM:西洋で育った同世代の多くの人と同じく、初めて観た作品はディズニー映画でした。思い出せるのは美女と野獣「ライオンキング」をクラスのみなと一緒に映画館へ観に行ったことです。両作とも私の中に象徴的に焼きついています。別の本当に印象的だった映画体験は、8歳か9歳の頃にジュラシック・パークを観に行ったことです。観客でいっぱいの映画館で、列の1番前に座って鑑賞したんです。

若い頃からビデオを集め始めたんですが、そのラインナップは当然ジュラシック・パークも入っていて、他にもフリー・ウィリーメリー・ポピンズがありました。10代の頃にプリティ・ウーマンインドシナ」「今を生きる」を発見しました。それからケヴィン・コスナーの古典作品です。ロビン・フッドJFK」「ボディガード」ダンス・ウィズ・ウルブズですね。全作、数えきれないほど観ました。

今振り返ると、成長するにあたってアメリカ映画がいかに私の映画についての風景を占めていたかが分かります。しかしアメリカからの影響を脇に置くと、TVで多くの人気あるフランス映画を観ました。例えばルイ・ド・フュネスの作品などです。ルクセンブルクの多言語環境で育つにあたって、私たちはフランス語やドイツ語のTVも観ていた訳です。

15歳か16歳の頃、いわゆる作家主義的な映画を発見しました。例えばフランシス・フォード・コッポラウディ・アレントム・ティクヴァガス・ヴァン・サントジェーン・カンピオンピーター・ウィアーアン・リーなどです。ルクセンブルクには幸運にも素晴らしいシネマテークがあり、様々な傑作を観ることができたんです。

TS:あなたはスクリプターとしても活躍しており、例えばジェシカ・ハウスナー"Amour Fou"マルクス・シュラインツァー"Angelo"に参加していますね。このスクリプターとしての経験は、監督業にどのように影響を与えていますか?

NM:とても良い質問ですね。ジェシカ・ハウスナーマルクス・シュラインツァーは両者ともオーストリア映画作家ですね。彼らはとても良好な友人関係を築いており、ミヒャエル・ハネケと仕事をしていたという共通点もあります。ハウスナーはファニーゲームスクリプターをしており、シュラインツァーは白いリボンなどハネケ作のほとんどでキャスティングをしています。彼らの作品には赤い糸のようなものを見出せるのですが、その理由は同じオーストリア人だとか、ハネケの影響があるとか、そういうこと以上のものがあると思います。

シンプルに言いすぎるきらいがあるかもしれませんが、彼らの作品は人間性についての力強い作品であるとともに、人間が生きる上でのより闇深く不条理な側面を描いていることが多く、観客を不安に思わせることを恐れてはいません。私の知る限り、オーストリア映画は荒涼たる誠実さで私たちに世界を見せるとともに、その結果として希望の入る余地がなくなるんです。

私自身の作品はもっと希望に溢れた作品だと思っています。これは先述したアメリカからの影響もあるに違いありませんが、私がどのように人生を眺めているかへ直接繋がっています。もし希望的観測を持とうと自分を奮起させず、楽観性を持たなければ、私は現実に対処できなかったでしょう。私の作品"Aus den Aen"は最初、そう希望に溢れているように見えないでしょう。しかし主要人物であるポルは最後に小さな解放を経験します。彼は自分自身について大切な何かを理解したでしょうし、それが最後の行動の理由なんです。

ハウスナーとシュラインツァーが私の作品に与えた影響としては、例えば彼らは芸術的な必要性のレベルや正確さを求めるとともに、自身のビジョンに対する自信や、彼らを取り巻く創造性豊かな人々とコラボする上でオープンであることも追及する点です。監督として私はそれらを求めることを自分に課しています。

TS:"Aus den Aen"Richard Lange リチャード・ラングの短編"Long Lost"が原作ですね。どのようにこの物語に出会ったんですか? 今作、もしくはラングの作品一般において最も惹かれる要素はなんですか?

NM:映画を製作する数年前に彼の短編集"Dead Boys"を読みました。フランスの新聞でレビューを読んだからです。その記事に書いてあったのは、ラングの描く世界はロサンゼルスに住む人物で構成され、彼らは過去に大きな夢を追い求めながら、現実に直面し孤独と幻滅を味わい、深く不満を感じているということです。しかしその核において、彼らの感受性は明白で、ドラッグにしろ皮肉にしろ様々な道具を使って、圧倒的な感情に対処しようとするんです。私にとっては彼の作品は回復、そして私たちを規定し盲目的にすがりつかせる何か確固とした考えやイメージを捨てることについての作品なんです。

それからラングの作品には生の稀な誠実さが、ユーモアや知性とともに描かれます。それは私たちの多くが自身の中に宿す闇を明らかにしますが、ジャッジすることはありません。ラングの作品は解決法や答えを提供することはありませんが、少しだけ鏡をかざすことで、私たちの孤独を小さくしてくれるんです。彼が自身の登場人物に感じる共感は読者にも影響し、それゆえに彼の作品を読むことは癒しの経験となるんです。

TS:"Aus den Aen"アメリカの小説です。あなたはそれをルクセンブルクを舞台に映画化しましたね。アメリカとルクセンブルクの違いに何か困難はありましたか?

NM:これもいい質問ですね。ルクセンブルクに舞台を変えるのは予想よりも簡単にできました。作者であるRichard Langeとは映画を製作する過程で連絡を取ったんですが、完成した作品を観た後、E-mailでこんな言葉を伝えてくれました。"ロサンゼルスという特定の場所を舞台にした物語が、ルクセンブルクにこうも上手く移植されるされるなんて素晴らしかったね。それも登場人物や彼らの関係性の力のおかげだと思うよ" 私もそれに心から賛成です。

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TS:今作の最も印象的なものの1つは2人の兄弟の存在感です。彼らの関係性や感情はとても激しく濃厚なもので、言葉すら失ってしまいます。どのようにしてあなたはLuc Schiltz ルック・シルツTommy Schlesserトミー・シュレッサーという俳優を見出したんですか?

NM:"Long Lost"を読み、映画化しようと思いついたのは2008年頃なんですが、実務な理由でまだ政策には辿り着きませんでした。時が経って、ほぼ完全に忘れてしまっていた頃もあります。

2012年、"Comeback"というルクセンブルク映画にスクリプターとして参加したんですが、そこでTommy Schlesser(今作で弟役を演じた人物です)は主要人物の1人でした。思い出すのは、ある夜、仕事が終わってからバスに乗っていた時、いつか彼と仕事ができたらいいなと思ったんです。セットにおける彼の仕事への取り組み方やプロ意識に感銘を受けたからです。そんな思いがあの2人の兄弟についての物語を思い起こさせました。そしてTommyはジェローム役にピッタリだという強い直感が働いたんです。つまり彼と一緒に仕事をしたいという思いが映画化への思いを再燃させた訳です。

兄を演じたLuc Shiltzについてですが、脚本執筆の初期段階においてどんなルクセンブルク人俳優がこの役を演じるか考える必要がありました。自分は俳優を念頭に置きながら映画を作る脚本家/映画監督だったんです。そこで前スクリプターとして参加した作品に彼が出演していたことを思い出し、ポルにうってつけだと考えたんです。

2人の俳優が映画に出演し、作品をより発展させてくれたのはとても幸運なことだと感じています。

TS:私は最後の場面にとても感銘を覚えました。ポルは彼の弟であるジェロームが警察によって連行される姿を眺めますが、その時カメラは彼の顔を見据えます。その顔には言葉を超えた複雑な感情が存在しています。セットにおいて、あなたはどのようにこの感情をLuc Schiltzから引き出したのでしょう?

NM:まずその讃辞に感謝したいと思います。このショットは映画において最後のショットだっただけでなく、撮影においても最後のショットだったんです。午前4時半か5時に撮影したもので、夜を徹して撮影しなければならなかったんです。何故ならスーパーでの撮影は閉店時間にしか許可されなかったからです。

もちろん当時Lucと私がどのように仕事を成したかを正確に言うことは、今できません。ある意味ではこの時の素晴らしい演技についてはミステリーで在り続けるのかもしれません。それでも思い出せるのはあれが最後のテイクだったということです。時間が時間でとても急いでいたんですが、彼にはこの時ポルの頭の中に駆けめぐっている様々な思いを順番に列挙していって欲しいと急いていました。私としてはそれは悲しみだけでなく、子供時代に過ごした時間にまで届く幸福もあると思ったんです。そして最後のテイクを撮り終え、その結果が今作という風になりました。

TS:兄弟を描いた作品で、あなたが最も好きな映画は何ですか?

NM:ギャビン・オコナー「ウォーリアー」ですね。もう1作選べるなら、エドワード・ズウィック「レジェンド・オブ・フォール/果てしなき想い」も。

TS:ルクセンブルク映画の現状はどのようなものでしょう? 日本においてはこの映画をあまり観ることはできないので、外側からはルクセンブルク映画について語れないのが現状です。しかし内側から、あなたはどのように状況を見ているでしょう?

NM:この25年間、政治的なレベルにおいてルクセンブルク映画を宣伝していこうという本物の意思が存在していました。そして映画業界はとてつもないレベルで成長していきました。多くの予算がルクセンブルクとヨーロッパ諸国との共同制作に費やされていったんです。これらの作品はルクセンブルクと外国半々で撮影され、スタッフもまた50%がルクセンブルク人となるのが普通でした。

これによって重要なほど多くのルクセンブルク人映画スタッフが活躍するようになりました。そして彼らはこの国の映画を発達させていき、毎年多くのルクセンブルク映画が作られるようになりました。

TS:日本の映画好きがルクセンブルクの映画史を知りたい時、どんなルクセンブルク映画を観るべきでしょう? その理由も教えてください。

NM:もしルクセンブルク映画について語るなら、パイオニアの一人であるAndy Bausch アンディ・バウシュについて語らなくてはいけません。彼は80代半ばに最初の長編を製作しましたが、その頃はこの国に本当の映画産業がなかったんです。彼の長編"Troublemaker"(1988)は絶対に観るべき映画で、おそらくカルト的な評判を獲得したルクセンブルク映画の数少ない1本でしょう。今作でThierry Van Werweke ティアリー・ヴァン・ヴェルヴェケという天才的で最も人気な俳優の1人がスクリーンデビューを果たしました。彼の才能は映画の生で新鮮な活力とともに今作の成功に貢献しました。

これで注目すべき成功を果たしたWervekeが主演した他の作品にはPol Cruchten ポール・クールテン"Hochzäitsnuecht"(1992)があります。Cruchtenは"Perl oder Pica"という作品を製作しており、1960年代の工業化された南部を舞台としており、冷戦時代の青春映画ともなっています。

ルクセンブルクにおけるパイオニア的な存在にはGeneviève Mersch ジュヌヴィエーヴ・ミエシュがいます。彼女の好評を受けた短編ドキュメンタリー"Le Pont Rouge"(1992)は自殺というセンシティブな内容を描いていました。

この10年、ルクセンブルクからは新しい世代の映画作家が現れ始めています。例えばChristophe Wagner クリストフ・ヴァグノーFelix Koch フェリックス・コッホGovinda Van Maele ゴヴィンダ・ヴァン・メーレなどで、彼らは今まで希薄だった文化的な遺産をより豊かなものにしてくれました。最近作られた作品で2本ほど紹介すると、Govinda Van Maele「グッドランド」("Gutland")は田舎町の小さな共同体における社会的な内部を描いたミステリー・スリラーです。そしてFelix Kochスーパージャンプ・リターンズ」("Superjhemp retörns")はスーパーヒーローのコミックを基にしたコメディで、ルクセンブルク映画として最も高い興行収入を稼ぎ出しました。

TS:何か新しい短編か初長編を作る予定はありますか? もしそうなら、ぜひとも日本の読者に教えてください。

NM:今年の1月"De Pigeon"という短編を監督しました。おそらく来年の初めに上映されるでしょう。今作はダークコメディで、おとぎ話の様式で語られます。内容としては若い女性が傷ついた鳩を世話することになり、それが自己を発見する旅となるというものです。

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Juan Mónaco Cagni&"Ofrenda"/映画こそが人生を祝福する

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映画を観ている時、時おり映画にしかできないことはなんだろうと考えることがある。小説や演劇、絵画や彫像、芸術には様々な形態がありながらも、それを越えて映画にしかできないことは一体何かと。正直言って答えは簡単にでることはない。それでも、この映画がその答えだと言いたくなる作品が存在する。それが今回紹介する作品、弱冠21歳の新鋭監督Juan Mónaco Cagniによるデビュー長編"Ofrenda"だ。

まず私たちは1人の少女がアルゼンチンの広大な自然の中にいる姿を目撃するだろう。彼女は自身の祖父らしき人物に外出する許可をもらってから、家の敷地から出ていく。そして彼女は1人の少女と会い、2人はその自然へと駆け出していく。

まず今作はそんな2人の姿を丹念に追っていく。例えば2人は大きな大きな木に登って、その下に広がる世界を眺めながらお喋りに興じる。さらに例えば2人は芝生に座りながら、落ちていた果物を手に取ってもぐもぐと元気よく食べていく。その姿は子供特有の元気が漲っていて、見ながら思わず微笑みが浮かぶほどだ。

だがそれと同時にもう1つの風景が今作に浮かび上がることとなる。20代ほどの女性が、大きなバックパックを背負いながらアルゼンチンの自然の中を歩いている。彼女は緑深い木々や朽ちた家屋、煙を吐く工場を横目に見ながらひたすら歩き続ける。最初、彼女の目的が何か、私たちには分からないだろう。

そんな最中、観客はバックパックの女性が短い告発を輝かせる女性と出会う姿を目撃するだろう。彼女は煙草を吸うことが好きらしく、歩きながら、時には何処かで休みながら煙草を何度も吸い続ける。そんな姿を傍目にしながら、バックパックの女性は彼女と一緒にアルゼンチンの田舎町を歩き続ける。

監督とカメラ担当のAugusto Monacoは2組の女性たちの旅路を通じて、世界を静かに眺め続ける。その旅路には濃厚な緑を湛える木々が聳え立ち、長閑な雰囲気で以て黒い煙を吐き出す工場の数々が建ち、悲惨なまでに欠片の散らばった廃墟が広がり、濁った色彩を太陽光の中で輝かせる川が流れている。

さらにここにおいては響き渡る音も印象的だ。女性たちが旅を続けるうち、私たちは様々な音を聞くことになるだおる。例えば川面を優しく撫でる風の音、草を踏みしだく女性たちの足の音、風に揺れながら擦れる葉々の音。そういった音が常に映画には充満しているのだ。そしてそれがここに映し出される世界がいかに豊穣であるかを語るのである。

そして物語が進むにつれて、2つの世界が重なりあっていくことが私たちにも分かってくるだろう。2組のの女性たちの旅路は徐々に重なりあい、どこか共鳴するような感触をも持ち始める。ある時、私たちは知るだろう。この少女たちは20代の女性たちの過去の姿であるのだと。

それを悟ったうえで、バックパックの女性たちの姿を観察していると見えてくるものがある。ある時、黒髪の女性は廃墟に腰を据えて、いつもの通り煙草を吸う。その膝の間では、バックパックの女性が複雑な表情をしながら寝転がり、空を眺めている。そこには不思議な感情が存在しているように思われる。友情以上の何らかの感情が存在しているように思われるのだ。

そこには微妙な関係性が存在している。それは友情と愛情のあわいに存在する淡い感情だ。観客である私たちにはそれが何かを断言することはできない。彼女たちにしか断言できない関係性がそこに存在している。この魅力的な曖昧さが今作を牽引していくのである。

そして今作においてはこの曖昧さが2つの時、2つの世界を跨ぎながらその風景を彩るのである。この言葉にはし難い感情の数々が自然や人物の表情に浮かび上がりながらも、明確な形にされることはない。だからこそ切なさがこみ上げる瞬間というものがあるだろう。その瞬間が今作にはあまりにも多くあるのだ。それは映画にしか描けない魔術であるのだ。"Ofrenda"は映画にしかできないやり方でこそ、私たちの人生を祝福する映画なのである。

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私の好きな監督・俳優シリーズ
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その387 Maria Clara Escobar&"Desterro"/ブラジル、彼女の黙示録
その388 Eduardo Morotó&"A Morte Habita à Noite"/ブコウスキーの魂、ブラジルへ
その389 Sebastián Lojo&"Los fantasmas"/グアテマラ、この弱肉強食の世界
その390 Juan Mónaco Cagni&"Ofrenda"/映画こそが人生を祝福する

Sebastián Lojo&"Los fantasmas"/グアテマラ、この弱肉強食の世界

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さて、今までそれほど存在感を発揮してこなかったながらも、2010年代後半から俄かにグアテマラ映画界が活気を呈している。この国の若手作家ハイロ・ブスタマンテのデビュー長編「火の山のマリア」がベルリン国際委映画祭のコンペ部門に選ばれた後、彼の後続作"Temblores"が再びのベルリン、"La llorona"ヴェネチア国際映画祭に選出された。更に他の映画作家たちも意気軒高とばかりに、César Díaz"Nuestras madres"(今作のレビュー記事はこちら)はカンヌ国際映画祭批評家週間に選出され、Li Cheng"José"(今作のレビュー記事はこちら)はヴェネチアで上映され優れたLGBTQテーマ作品に贈られるクィア・ライオンを獲得した。こうして一気に存在感を発揮し始めているグアテマラだが、また新たな才能がここから現れた。ということで今回紹介するのはグアテマラの新人作家Sebastián Lojoと彼のデビュー作品"Los fantasmas"だ。

今作はグアテマラの首都であるグアテマラ・シティを舞台とした群像劇である。ハンサムな青年コキ(Marvin Navas)は昼と夜、全く異なる顔を使い分けながらこの残酷な都市での生活を生き抜いている。中年男性カルロス(Carlos Morales)はプロレスラーとホテルの支配人という二足の草鞋を履きながら、日々を暮らしている。20代の女性ソフィア(Daniela Castillo)は服屋の店員として働きながら、自身の夢を追い求めている。

今作においては主にグアテマラ・シティの夜に広がる日常が断片的に綴られていく。コキがバイクで道路を駆け抜ける姿、カルロスが孤独にホテルの受付で待ちぼうけを喰らう姿、ソフィアがコキを含めた友人たちとビリヤードに興じる姿。そういった何気ない日常の数々が、淡々とした筆致で綴られていくのだ。

そこにはグアテマラという国の文化が濃厚である。まず私たちはこの国の雑踏の光景が他とは異なることに気づくだろう。少しだけ他のラテンアメリカ諸国と似て猥雑な雰囲気を湛えながらも、もっと力強くも粗野な空気が街並には溢れている。そしてプロレスラーであるカルロスが仕事に明け暮れる姿も印象的だ。楽屋でメイクを施した後、彼はリングで他の筋骨隆々たる男たちと戦う。そして血だらけになりながらも、何とかこの生存競争を生き延びる。その様は衝撃的で、血腥いものだ。

更に特筆すべきはVincenzo Marranghinoによる撮影の美しさである。夜であるがゆえ、今作の画面にはドス黒い闇で溢れている。それと同時にこの闇の間隙をすり抜けて、原色の青や赤などネオンの極彩色が私たちの眼前に現れるのである。この濃厚なるコントラストは網膜を心地よく刺激する類のものであり、グアテマラの夜がいかに豊穣たるものかを饒舌に語るのである。

さて、本筋に戻っていこう。物語が進むにつれ、本作はコキという青年に焦点を絞っていく。昼間、彼は旅行者のガイドとして働いている。だが夜において、彼は男たちを誘惑し、ホテルに連れ込んだ後に財布などを盗み出すという悪行を行っていた。それはホテルのマネージャーをしているカルロスの提案である。彼らは協力して男たちから金を盗み出していたのだ。

こうして本作は行き場を失くした若さが足掻きながら躍動する姿を映し出していく。コキが盗みを働く姿には閉所恐怖症的な恐怖感が充満している。それでいて強盗した後、バイクで夜のグアテマラ・シティを駆け抜ける様には開放感すら感じられる。彼はこの2つの異なる空気感の不穏な狭間を綱渡り状態で進み続けているのである。

しかし監督はこのグアテマラ・シティを普通には生き残れない恐ろしき魔都として提示していく。ここに生きる者たちは弱き者たちを目敏く見つけては、彼らの身体に喰らいついていかなければ生きていけないのだ。そしてもし自身がその弱き者として見做されたのならば、そこから全力で逃れなければ命はない。肉を喰われたならば、その後からは死骸として生きていかざるを得ない。この容赦なき弱肉強食の世界を監督は鮮烈に描いていくのである。

"Los fantasmas"グアテマラ・シティという都市の夜の片隅に生きる者たちの肖像画である。戦わなければ生き残れない。それは陳腐な決まり文句のように思えながらも、この都市においては最も鮮やかで恐ろしい言葉として響き渡るのだ。

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私の好きな監督・俳優シリーズ
その361 Mona Nicoară&"Distanța dintre mine și mine"/ルーマニア、孤高として生きる
その362 Siniša Gacić&"Hči Camorre"/クリスティーナ、カモッラの娘
その363 Vesela Kazakova&"Cat in the Wall"/ああ、ブレグジットに翻弄されて
その364 Saeed Roustaee&"Just 6.5"/正義の裏の悪、悪の裏の正義
その365 Mani Haghighi&"Pig"/イラン、映画監督連続殺人事件!
その366 Dmitry Mamulia&"The Climinal Man"/ジョージア、人を殺すということ
その367 Valentyn Vasyanovych&"Atlantis"/ウクライナ、荒廃の後にある希望
その368 Théo Court&"Blanco en blanco"/チリ、写し出される虐殺の歴史
その369 Marie Grahtø&"Psykosia"/"私"を殺したいという欲望
その370 Oskar Alegria&"Zumiriki"/バスク、再び思い出の地へと
その371 Antoneta Kastrati&"Zana"/コソボ、彼女に刻まれた傷痕
その372 Tamar Shavgulidze&"Comets"/この大地で、私たちは再び愛しあう
その373 Gregor Božič&"Zgodbe iz kostanjevih gozdov"/スロヴェニア、黄昏色の郷愁
その374 Nils-Erik Ekblom&"Pihalla"/フィンランド、愛のこの瑞々しさ
その375 Atiq Rahimi&"Our Lady of Nile"/ルワンダ、昨日の優しさにはもう戻れない
その376 Dag Johan Haugerud&"Barn"/ノルウェーの今、優しさと罪
その377 Tomas Vengris&"Motherland"/母なる土地、リトアニア
その378 Dechen Roder&"Honeygiver among the Dogs"/ブータン、運命の女を追って
その379 Tashi Gyeltshen&"The Red Phallus"/ブータン、屹立する男性性
その380 Mohamed El Badaoui&"Lalla Aïcha"/モロッコ、母なる愛も枯れ果てる地で
その381 Fabio Meira&"As duas Irenes"/イレーニ、イレーニ、イレーニ
その382 2020年代、期待の新鋭映画監督100!
その383 Alexander Zolotukhin&"A Russian Youth"/あの戦争は今も続いている
その384 Jure Pavlović&"Mater"/クロアチア、母なる大地への帰還
その385 Marko Đorđević&"Moj jutarnji smeh"/理解されえぬ心の彷徨
その386 Matjaž Ivanišin&"Oroslan"/生きることへの小さな祝福
その387 Maria Clara Escobar&"Desterro"/ブラジル、彼女の黙示録
その388 Eduardo Morotó&"A Morte Habita à Noite"/ブコウスキーの魂、ブラジルへ

スロヴェニアの豊穣たる大地を行く~Interview with Ivana Vogrinc Vidali

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さて、このサイトでは2010年代に頭角を表し、華麗に映画界へと巣出っていった才能たちを何百人も紹介してきた(もし私の記事に親しんでいないなら、この済藤鉄腸オリジナル、2010年代注目の映画監督ベスト100!!!!!をぜひ読んで欲しい)だが今2010年代は終わりを迎え、2020年代が始まろうとしている。そんな時、私は思った。2020年代にはどんな未来の巨匠が現れるのだろう。その問いは新しいもの好きの私の脳みそを刺激する。2010年代のその先を一刻も早く知りたいとそう思ったのだ。

そんな私は、2010年代に作られた短編作品を多く見始めた。いまだ長編を作る前の、いわば大人になる前の雛のような映画作家の中に未来の巨匠は必ず存在すると思ったのだ。そして作品を観るうち、そんな彼らと今のうちから友人関係になれたらどれだけ素敵なことだろうと思いついた。私は観た短編の監督にFacebookを通じて感想メッセージを毎回送った。無視されるかと思いきや、多くの監督たちがメッセージに返信し、友達申請を受理してくれた。その中には、自国の名作について教えてくれたり、逆に日本の最新映画を教えて欲しいと言ってきた人物もいた。こうして何人かとはかなり親密な関係になった。そこである名案が舞い降りてきた。彼らにインタビューして、日本の皆に彼らの存在、そして彼らが作った映画の存在を伝えるのはどうだろう。そう思った瞬間、躊躇っていたら話は終わってしまうと、私は動き出した。つまり、この記事はその結果である。

今回、インタビューを敢行した人物はスロヴェニアの新鋭映画作家であるIvana Vogrinc Vidali イヴァナ・ヴォグリンツ・ヴィダリである。1997年生まれの彼女は高校時代から映画作家を目指し始め、現在ではチェコ最大級のドキュメンタリーの祭典ジフラヴァ映画祭に作品が選出されるほどである。そんな彼女の代表作“O luni, mesecu in njunem odsevu”(2018)は、彼女の旅の記録である。撮影監督とともに彼女はスロヴェニアの北部を旅し、そこに根づくスロヴェニアの土着信仰を撮影していった。そしてその光景は大いなる自然によって、美しい詩へと昇華されていく。今回はそんな作品を制作した彼女に映画製作の原点、短編製作の過程、そしてスロヴェニア映画界の現在について聞いてみた。それではどうぞ。

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済藤鉄腸(TS):まず、映画監督になりたいと思ったきっかけはなんでしょう? そしてどのようにその夢を叶えたんでしょう?

イヴァナ・ヴォグリンツ・ヴィダリ(IVV):私はオーストリアとの国境沿いにある小さな村の集合住宅で育ちました。ケーブルTVすらなかったですが、アパートは本や新聞、写真や楽器で溢れていました。選択肢はたくさんあったんです。しかし私はビデオで今まで何度も観た映画を観るのにいつだって魅了されていました。

ですが映画監督になろうとは思っていなかったんです。そう思い始めたのは高校で夏休みのインターンに参加した時です。無給だったので相応の理由が必要だったんですが、その時期にやっていたドキュメンタリーのワークショップに参加しました。それで故郷にいる野良猫についての作品を作ったんです。それから映画は語ることで人々の心に届き、何かを変えることができるメディアだと信じ始めました。そしてリュブリャナの映画学校の入試を受け、社会派の短編作品を作りました。これが自分にとっては最後のリアリズム偏重作品だと思います。

今は映画が全てを変えることができると信じるのは止めましたが、それでも時々自分を変えてくれる作品に会う時、そんなことを思うんです。そんな作品を自分が作れるとは思いませんけどね。

TS:映画に興味を持ち始めた頃、どんな映画を観ていましたか? 当時のスロヴェニアではどんな映画を観ることができましたか?

IVV:子供の頃から素晴らしい映画に触れることができていましたね。スロヴェニアの国営テレビには“今週の映画”という枠があって、毎週水曜日にはおそらく前に大きな映画祭で賞を獲ったんだろう作品が放映されていたんです。ですが分岐点はファティ・アキン監督の愛より強くを観た時でした。その時私は9歳で理解できたとは言いがたいですが、完全にその虜になってしまいました。映画が終わると同時にデータを見てタイトルを書き記し、後日母にDVDを買ってもらったんです。

それから母には本当に感謝しなくてはいけません。彼女は時おり私を劇場や映画館に連れていってくれました。先と同じ年にVlado Škafar ヴラド・シュカファル監督の“Otroci”(2008)を彼女と観に行きました。覚えてるのは季節が冬だったこと、老朽化した映画館で上映されたこと、ヒーターがなかったこと……それでも映画が始まるとそんなの関係なくなりました。あの時のことを考えると今でも鳥肌が立ちます。あれは紛れもない魔術であり、紛れもない映画でした。

TS:今作“O luni, mesecu in njunem odsevu”の始まりはなんだったんでしょう。あなたの経験、スロヴェニアの儀式、もしくは他の出来事から?

IVV:先も言った通り、自分の成長過程に深く結びついているんだと思います。父はこれらの民話を話してくれましたし、私自身木に登ったり、鳥を眺めたり、とかげを狩ったり(それから自然に返すんです)しました。こういったことについてある時まで忘れていたんですが、学校でこれらをインスピレーション元として絵を描き始めました。その頃、1960年代までスロヴェニアに住んでいた土着の宗教信仰者について聞きました。彼らの信じるものや生き方は私に多くのレベルで語りかけてくれました。実際に儀式を体験したり、自分を“古くからの信仰者”と思ったりはしませんでしたけどね。

映画の出来には満足していませんけど、感謝の念は持ち続けています。実験映画に触れたことはあまりありませんでしたが、内容からしてもっと実験的であるべきだと思ったんです。この経験が映画や映画製作に対する視点を変えてくれました。

TS:今作を観た観客は、この場所がどこなのか気になるところでしょう。ここはスロヴェニアでも有名な場所なのですか、それともあなたの生まれ故郷であるのでしょうか?

IVV:今作のために私と撮影監督のGaja Naja Rojec ガヤ・ナヤ・ロイェツスロヴェニア中を回りました。作品のほとんどはスロヴェニアの北部と北西部、ソチャ川に沿って撮影されました。ここは土着の信仰者にとって聖なる川なんです。全てが聖なるものではあるんですがね。岩も木も何もかも。だから私たちは1つの宗教だけにはこだわりませんでした。あらゆる場所に目を向けていたんです。Gajaと私は動くもの(それは文字通りにも比喩的にも)を見つけたら、止まって撮影をしたんです。

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TS:最も印象的な要素の1つに、イメージと音のコンビネーションが挙げられます。風の吹く音が空に浮かぶ月と重なり、神々しい雰囲気が生まれます。映画を製作する際、どのようにしてこの要素を繋ぎあわせたんですか?

IVV:正直に言うと、あまり覚えてないんです。編集作業は大変なもので、全てやり直したいと思いながらも、全く改善する気配すらありませんでした。ですが先に言った通り、自然と崇拝者という内容がインスピレーションを与えてくれたんです。音響についてですが、プロであるTristan Peloz トリスタン・ペロスに担当してもらいました。彼はとても良い耳を持っていて、私の希望とあるべき音を追求してくれました。

TS:映画のエンドクレジットで、美しい曲が印象的に流れますね。その音の響きは豊かな余韻をさらに深いものにしてくれます。この曲について教えてくれませんか。スロヴェニアでは有名な曲なんですか?

IVV:“Drobna ptička”(“小さな鳥”)は様々な歌詞で歌われるフォークソングです。例えばキリスト教バージョンは、小さな鳥が教会の屋根に座っている姿を歌ったものです。それから農民バージョンもあります。これがこんにちの儀式で歌われるものです。映画において様々な視点や土着の様々な信仰形態を描きましたが、歌でも同じことが行われています。Metka Batista メトカ・バティスタスロヴェニアの特別な楽器Zitherを使って演奏してもらったのはとても幸運でした。彼女の家族は土着の信仰と深い結びつきを持っていて、映画製作において大いに助けてもらいました。

TS:自分はあなたの最新作“Vialund”も観賞しました。今作において感銘を受けたのはあなたの声とスロヴェニア語の美しい流れです。このスロヴェニア語の詩を読むにあたって、最も重要だったことはなんでしょう?

IVV:奇妙なのは、この言葉を詩だと形容したのはあなたが初めてではないことです。私はよく自分の考えや印象に残ったものについて紙に書くんです。記憶力は悪かったり、物事をもう一度思い出せなくなるのがとても怖いという理由からなんですけどもね。“Vialund”の言葉は、誇張でなく、噴出するように生まれました。この作品自体のように、完成に15分もかかりませんでした。後からいくつかの文章を変えて、入れ換えたりもしましたが、それでもです。何かを成し遂げたという心地ではありません。ただフェロー諸島での経験をいかに鮮やかに描き出すかに心を注いだまでです。“O luni, mesecu in njunem odsevu”に関しても同じです。あの時は自然が私に語りかけてきて、それを言葉や映画にしたまでなんです。

TS:監督の声明を読んだ時、こんな文章を見つけました。“映画というのは詩のようであるべきだ”というものです。これについて説明してくれませんか。なぜ映画は詩のようであるべきなんでしょう?

IVV:私たちが文字通りに詩を読んだとしたら、そこには意味はありません。私が好きなのは言葉(それは必ずしもフレーズである必要はありません)が正しい順番で並ぶことによって新たな意味、新たな定義、新たな視点を獲得することです。その一方で映画、少なくともメインストリームの作品、映画祭や映画館で上映される作品、そして時には学校で上映される作品までもがすこぶる言葉に偏重したものなんです。それらは物語を語り(勘違いしないで欲しいですが、映画は素晴らしい語り手とも思っていますよ)巨大なテクノロジーを駆使します。最後にはある素朴な問いにすら答えられなくなるのが普通だと、私は思っています。これは映画である必要があるの? どうして戯曲や小説、写真や彫像でないの? 思うに物語だけではこのメディアを探求する良い理由にはなりません。発見されるべきもの、形成されるべき新たな意味、探し出されるべき新たな形態はたくさんあります。

同時にこの考え方はラディカルなものとも思います。私自身、語りを持った映画作品、特にドキュメンタリーや若者向け映画が好きですからね。そういった作品は私にとっても大いに意味があります。

TS:スロヴェニア映画の現状はどういったものでしょう? 外側から見ると、状況はいいものに思えます。新しい才能が有名な映画祭の数々から現れていますからね。例えばロカルノMatjaž Ivanišin マチャシュ・イヴァニシントロントGregor Božič グレゴル・ボジッチ、そしてジフラヴァにおけるあなたです。しかし内側からだと、現状はどのように見えるのでしょう?

IVV:スロヴェニア映画は平均的なスロヴェニアの観客には未だ認知されずにいます。彼らはそんな作品を鬱々として事件の起きない、退屈な作品と思っているんです。この国で最もヒットした作品はメインストリームの若者向け映画ですが、他の作品と同じく、信じられないほどの低予算で作られています。スロヴェニアの映画製作は小さなものであり、取られるリスクはとても小さいことが普通です。だからこそMatjaž IvanišinGregor BožičRok Biček ロク・ビチェクDarko Štante ダルコ・シュタンテ、そしてSonja Prosenc ソーニャ・プロセンツといった作家たちがとても重要なんです。思うに彼らはスロヴェニア映画の定義を組み立て直し、私たちのように映画界を入ったばかりの人物に少なくとも絶望を抱かせないようにしているんです。

そしてとても重要なのはスロヴェニアが芸術や文化(当然、映画も含めた)に投資を始め、ロクでもない映画を製作したり、少なくとも予算を与えたりしないようになったことです。例えば政治スリラー気取りの作品、表層的なドラマ作品にその他の悪趣味な作品、こういった普段1年の予算を奪っていく作品群が減ったのは大きいです。

TS:日本の映画好きがスロヴェニア映画史を知りたいと思った時、どんなスロヴェニア映画を薦めますか。それは何故でしょう?

IVV:1本だけを選ぶならKarpo Godina カルポ・ゴディナ監督作“O ljubavnim veštinama ili film sa 14441 kvadratom”(1972)ですね。意味は“14441フレームにおける愛の技術、もしくは愛の映画について”でしょうか。とても理知に長けていて溌剌、そして誠実な作品で、観るたびに心が歌ってしまうんです。

TS:新しい短編、もしくは初長編を作る予定はありますか? もしあるならぜひ日本の読者に教えてください。

IVV:今は短めの長編、つまりはAGRFTにおける卒業製作を作っています。“O luni, mesecu in njunem odsevu”を作った後、1年ほど休息を取っていました。本当に理知的で活動的、そして未来を信じていない人々と仕事をしましたからね。その経験から自分はGeneration Zに属するのではないかと思い、そしてピーターパン症候群について語る資格があるのではないかと思いました。他の皆と同じように、自分もある程度そういった生き方をしているんです。私にとってこの映画は本当は持っていない可能性を作り出すことについての作品なんです。

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Eduardo Morotó&"A Morte Habita à Noite"/ブコウスキーの魂、ブラジルへ

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さて、チャールズ・ブコウスキーといえばアメリカで最も有名な無頼小説家だ。彼の破天荒な作品群や人生は幾度となく映画化されてきた。例えばバーベット・シュローダー「バーフライ」マルコ・フェレーリ「ありきたりの狂気の物語」などである。だが2020年、果敢にもブコウスキー作品の映画化に挑戦する人物が現れた。彼こそがEduardo Morotóであり、作り出されたブラジル映画"A Morte Habita à Noite"は、今までのブコウスキー映画とは一線を画する作品となっている。

今作の主人公はラウル(Roney Silveira Arruda)という中年男性、彼はブラジルのスラム街ファヴェーラでその日暮らしを続けるなくでなし野郎だ。リジア(Mariana Nunes)という若い女性と同棲はしているが、その生活はどこへ行きつくこともない自堕落なものだ。彼らはそんな生活を毎日続け、時は無意味に費やされていく。

まず私たちは、描かれる世界の汚さに驚くだろう。例えばラウルが住んでいる饐えた匂いが漂う狭苦しい部屋、リジアが働く薄汚れた陰に満ちた店、彼らが練り歩く猥雑な通り。それらには驚くべき生の汚さがこびりついている。私たちはその一周回って活気すら感じられる汚さに圧倒されるだろう。

そしてこの最低の環境において、ラウルたちは淀んだ倦怠感に漂い続ける。自己破壊的な生活を続ける彼らは負け犬と言えるかもしれない。キツい匂いのした部屋の片隅で互いの傷を舐めあう様は、正にそんな風だ。それでも監督はそこにこそ生の力を見出していく。ラウルたちは高貴なる犬なのだ。

しかし彼の住むマンションで自殺騒ぎが起き、2人がその死体を見てしまった時から全てが変わってしまう。リジアはラウルの元を離れる決意をし、更にマンションも差し押さえられ、彼は一人孤独にホテル生活を余儀なくされる。しかし彼はバーで少女(Rita Carelli)と出会い、彼女と同棲することになる。

ここから想起されるのはブコウスキー作品の女性嫌悪性である。彼の作品は女性の描写が浅はかだとして悪名高い。彼女たちの存在は常に客体化され、更には無意味な暴力にも晒されることになる。私自身はブコウスキー作品は大好きであるが、この側面においては非難を免れないと思う。

しかし今作はそんな罠を上手く切り抜けていく。監督は現れる女性たちを丁寧に描き分けながら、そんな彼女たちとラウルが関係性を築いていく様を余裕を以て描き出していくのだ。中年男と少女の関係性というのは危うさを感じさせるが、この余裕というべきものが互いの人生の奥深さを浮かび上がらせ、関係性に正当性を与えるのだ。今作の女性たちにはキチンと魂が宿っているのである。

そして今作には死の匂いというものが濃厚である。登場人物たちは今にも死んでしまいそうな脆さを秘めており、私たちはその繊細さに心を痛めることもある。さらに突然その瞬間が訪れる時がある。それは呆気なくも重苦しい。ブコウスキーの短くも切れ味ある文の数々が醸し出してきたような雰囲気を、今作は再現しているのである。

今作のMVPはラウルを演じたRoney Silveiraに他ならないだろう。ブコウスキー自身のように自堕落で無頼的な生活を繰り広げながらも、その根底には負け犬たちなど周縁にいる弱者への優しさが存在しているのだ。そして彼は何度も傷つき倒れながら、しぶとく立ち上がりその人生を続けようと足掻く。この姿こそが私たちを感動させるのだ。

"A Morte Habita à Noite"は救いを求める男の生きざまを鮮烈に描き出した作品だ。今作は正しくブコウスキーの魂を受け継いだ、ブコウスキー作品の映画化として最良のものと言えるだろう。

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Maria Clara Escobar&"Desterro"/ブラジル、彼女の黙示録

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ボルソナーロ政権発足以後、ブラジル映画界は危機に立たされている。現在の映画界のトップをひた走るクレベール・メンドンサ・フィーリョは映画製作を弾圧され、映画製作庁であるAncineは移転を余儀なくされた。財政サポートもいくつか潰されてしまい、映画界は大打撃を受けている。しかしそんな逆境をバネとして、新たなる才能が何人も苦闘とともに現れ始めている。今回紹介するのはそんな存在の筆頭である人物Maria Clara Escobarと、彼女のデビュー長編"Desterro"だ。

今作の主人公は30代のカップルであるラウラとイスラエル(Carla Kinzo&Otto Jr)だ。彼らは結婚はしていないが、何年間も同居しており、その間には5歳の息子であるルカスがいる。2人の生活は平穏で幸福なもののように思えるが、実情は異なるものだった。

まず今作は2人が過ごす日常を描きだしていく。例えば朝食を摂る際、彼女たちは他愛もない物事について会話をする。それは仕事について、ルカスについてなど様々であるが、会話は何処へも行きつかずに、ただただ浮かんでは消えていく。時々はルカスと家のプールで遊んだりもする。その光景は平穏な家族の休日といった風だ。

しかしそれを描く監督の演出はすこぶる異様である。画面は常に不気味な陰影に包まれており、ラウラたちの表情に陰りを投げかけている。撮影監督〇のカメラも、妙な角度をつけながら彼らの姿を映し出すゆえに、どこか不安のような感情が付きまとう。その中ではカップルの会話や交流は成立しているように見えながらも、どこか相互不理解の予感ばかりか際立つのである。

そしてもう1つ印象的なものがある。それはカップルの行動や彼らの見せる感情の数々が全て作為的で人工的なもののように思われる点だ。それはある意味でブレッソンの様式に似ていると形容できるかもしれないが、それ以上に作られた箱庭的な感触を宿しているとも言える。これが延々と続く様はまるで終わらない悪夢のようだ。

ある時、ラウラは彗星が地球に近づいているというニュースについて語る。そこから世界の終りが見たいか?という話題に話が移る。イスラエルは気乗りしないようだが、ラウラはそれを望んでいるような口振りをする。この会話は作品の雰囲気それ自体を規定しているようにも思われる。終わらない悪夢は、世界の終りへの予感へも重なる。だが予感だけが先行し、終りはいつまでも延長される。だからこそこの悪夢は恐ろしいのだ。

しかしその悪夢があっけなく、それも最悪の形で終焉を遂げる瞬間がある。ある時、物語は観客にラウラが亡くなったことを伝える。しかもイスラエルとは違う男性とアルゼンチンを旅行中に亡くなったのだという。イスラエル自身、全く訳が分からないまま、彼女の死を周囲の人間にはひた隠しにしたまま事態の収束を図ろうとする。

私たちはその過程がいかに煩瑣なものかに驚くだろう。生命保険の換金、死体移送の手続き、弁護士の依頼、墓地の要請。そういったものにイスラエルは対応せざるを得なくなる。さらにカップルの関係性が事実婚であったこと、ラウラの死体がブラジルではなくアルゼンチンにあることが事態を複雑にする。その様はカフカの作品さながら官僚主義的であり、不条理の塊のようなものだ。そして私たちは死への余りにも測物主義的なスタンスに悍ましさをも覚えることだろう。

そして終盤において、ラウラの旅の光景が描かれていくことになる。横には観客にとって見知らぬ男性がおり、彼とともにラウラはバスに乗ってアルゼンチンを行く。ひたすらに無味乾燥たる旅程を描き出す様は荒涼として、タイプは全く違いながらもアニエス・ヴァルダ「冬の旅」などを思い出すほどだ。

ここにおいて、彼女の死の謎は明かされるのだろうか? いや、むしろ逆だ。その謎は物語が展開するにつれ更に深まっていく。ラウラの表情には陰りが見え始め、時には極彩色の中で踊りだす。そして今までの語りを無視して、乗客たちがカメラを見据え全く脈絡のない言葉を披露する。そうして監督は私たちを哲学的な迷宮へと誘うことになるのだ。

"Desterro"ブラジル映画界が直面する危機的な逆境から生まれた、恐るべき傑作だ。そして黙示録の時が訪れる時、私たちは途方もない絶望を目の当たりにするのである。

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その384 Jure Pavlović&"Mater"/クロアチア、母なる大地への帰還
その385 Marko Đorđević&"Moj jutarnji smeh"/理解されえぬ心の彷徨
その386 Matjaž Ivanišin&"Oroslan"/生きることへの小さな祝福
その387 Maria Clara Escobar&"Desterro"/ブラジル、彼女の黙示録