鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

映画痴れ者/ライター済東鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

Radu Jude&"Iesirea trenurilor din gară"/ルーマニアより行く死の列車

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ラドゥ・ジュデ&"Cea mai fericită fată din ume"/わたしは世界で一番幸せな少女
Radu Jude&"Toată lumea din familia noastră"/黙って俺に娘を渡しやがれ!
Radu Jude & "Aferim!"/ルーマニア、差別の歴史をめぐる旅
ラドゥ・ジュデ&"Inimi cicatrizate"/生と死の、飽くなき饗宴
Radu Jude&"Țara moartă"/ルーマニア、反ユダヤ主義の悍ましき系譜
Radu Jude&"Îmi este indiferent dacă în istorie vom intra ca barbari"/私は歴史の上で野蛮人と見做されようが構わない!
Radu Jude&"Tipografic majuscul"/ルーマニアに正義を、自由を!
ラドゥ・ジュデの経歴及び今までの長編作品のレビューはこちら参照。

Radu Judeの、Adrian Cioflâncăとの共同監督作"Ieșirea trenurilor din gară"が描き出すのは、ルーマニアの地方都市ヤシにおけるユダヤ人の大量虐殺である。ナチスドイツに侵略されたルーマニアユダヤ人の大規模弾圧を開始する。1941年6月29日、ユダヤ人たちは警察に拉致され、凄惨な拷問を受け、最悪の場合は射殺される。運良く生き延びたとしても、彼らは死の列車に載せられ、強制収容所へと送られていく。そして多くのユダヤ人は劣悪な環境の中での窒息や飢えによって死んでいった。

第1部では、そんな凄惨なる光景が被害者の親族や、時には被害者の本人の証言によって紡がれていく。例えばある者は警察署で射殺される、ある者は外人部隊によって撲殺される、ある者は4歳の子供が泣き叫ぶのを聞きながら死の列車の壁に空気穴を開ける。言葉は頗る淡々としたものであり、明確な感情は存在しない。この意図的に無味乾燥な語りは、ルーマニアによる非人道的かつ機械的な虐殺の本質を雄弁に語っていると言えるだろう。

その語りの数々は古びた写真とともに紹介される。笑顔を浮かべる青年、厳粛な表情を浮かべる中年男性。ある男性は子供たちに囲まれて嬉しそうだ。ある女性は後ろから夫を抱きしめている。その写真全てに個人の親密な記憶が刻まれており、それは誰にもそれぞれの未来があったと語る。だがそれらはいとも容易く踏みにじられ、この世から暴力的に消去されたのである。

この写真と証言の融合は、ジュデの前作"Țara moartă"でも使用された手法だ。今作ではナチスドイツの侵攻によって、ルーマニア反ユダヤ主義に染まっていく姿を、1人のユダヤ人医師の日記を通じて描き出した作品だった。小さな町に住む人々の写真と日記の言葉が共鳴することで、当時の禍々しい空気感がリアルに立ち上がってきていた。その意味ではこの"Iesirea trenurilor din gară"はこの"Țara moartă"の続編とも言える。不穏な雰囲気は虐殺へと繋がっていったのである。

3時間もの上映時間の間、ジュデは剥き出しの死を観客に提示し続ける。その死が無慈悲にも積み重なっていく中で、私たちはルーマニアの大きすぎる闇に、人間の持つ残虐性の長い歴史に圧倒される他ない。そして心の中には無限の絶望がこみあげてくる。私たちはこの映画が終わることを願うかもしれないが、そこには安易な終りなど存在していないのだ。

そして写真の中にいる死者たちは私たちを見つめるのである。例え私たちが気まずさに目を逸らしたとしても、彼らは私たちを見据え続ける。彼らは語るのだ。遠くない過去、残虐なる歴史が確かに築かれていた、今を生きる者たちはこれを忘れてはならないのだと。

より短い第2部において、ジュデは実際の虐殺現場を写した写真を提示していく。例えば軍隊に連行されていくユダヤ人たち、射殺された後に打ち捨てられた死体、野原に積み重なる死体の山。そして傘を持ったルーマニア人が、道路に転がる死体の傍らを歩いている写真はあまりにも衝撃的だ。

この第2部においては、もはや言葉すらも存在することがない。無音の中で虐殺の歴史が繰り広げられていくだけなのだ。そしてこれを観る私たちからも言葉が奪い去られていく。言葉などはもう無意味なのかもしれないとさえ思わされる。

だが、深い絶望に心を絡め取られてはならないというのは今作が作られたという事実から証明される。私たちの責務は過去の忌まわしき歴史を、次の世代に語り継ぐことなのである。何よりもそれをジュデ自身がこの語りを成し遂げているではないか。では何故観客である私たちが絶望する暇などあるのだろうか?

"Iesirea trenurilor din gară"クロード・ランズマン「ショア」に匹敵する、人間の残虐性を忌憚なしに描き出した大いなる傑作だ。ジュデは間違いなくルーマニア映画史に残るであろうドキュメンタリーを作り上げたのである。

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ルーマニア映画界を旅する
その1 Corneliu Porumboiu & "A fost sau n-a fost?"/1989年12月22日、あなたは何をしていた?
その2 Radu Jude & "Aferim!"/ルーマニア、差別の歴史をめぐる旅
その3 Corneliu Porumboiu & "Când se lasă seara peste Bucureşti sau Metabolism"/監督と女優、虚構と真実
その4 Corneliu Porumboiu &"Comoara"/ルーマニア、お宝探して掘れよ掘れ掘れ
その5 Andrei Ujică&"Autobiografia lui Nicolae Ceausescu"/チャウシェスクとは一体何者だったのか?
その6 イリンカ・カルガレアヌ&「チャック・ノリスVS共産主義」/チャック・ノリスはルーマニアを救う!
その7 トゥドール・クリスチャン・ジュルギウ&「日本からの贈り物」/父と息子、ルーマニアと日本
その8 クリスティ・プイウ&"Marfa şi Banii"/ルーマニアの新たなる波、その起源
その9 クリスティ・プイウ&「ラザレスク氏の最期」/それは命の終りであり、世界の終りであり
その10 ラドゥー・ムンテアン&"Hîrtia va fi albastrã"/革命前夜、闇の中で踏み躙られる者たち
その11 ラドゥー・ムンテアン&"Boogie"/大人になれない、子供でもいられない
その12 ラドゥー・ムンテアン&「不倫期限」/クリスマスの後、繋がりの終り
その13 クリスティ・プイウ&"Aurora"/ある平凡な殺人者についての記録
その14 Radu Jude&"Toată lumea din familia noastră"/黙って俺に娘を渡しやがれ!
その15 Paul Negoescu&"O lună în Thailandă"/今の幸せと、ありえたかもしれない幸せと
その16 Paul Negoescu&"Două lozuri"/町が朽ち お金は無くなり 年も取り
その17 Lucian Pintilie&"Duminică la ora 6"/忌まわしき40年代、来たるべき60年代
その18 Mircea Daneliuc&"Croaziera"/若者たちよ、ドナウ川で輝け!
その19 Lucian Pintilie&"Reconstituirea"/アクション、何で俺を殴ったんだよぉ、アクション、何で俺を……
その20 Lucian Pintilie&"De ce trag clopotele, Mitică?"/死と生、対話と祝祭
その21 Lucian Pintilie&"Balanța"/ああ、狂騒と不条理のチャウシェスク時代よ
その22 Ion Popescu-Gopo&"S-a furat o bombă"/ルーマニアにも核の恐怖がやってきた!
その23 Lucian Pintilie&"O vară de neuitat"/あの美しかった夏、踏みにじられた夏
その24 Lucian Pintilie&"Prea târziu"/石炭に薄汚れ 黒く染まり 闇に墜ちる
その25 Lucian Pintilie&"Terminus paradis"/狂騒の愛がルーマニアを駆ける
その26 Lucian Pintilie&"Dupa-amiaza unui torţionar"/晴れ渡る午後、ある拷問者の告白
その27 Lucian Pintilie&"Niki Ardelean, colonel în rezelva"/ああ、懐かしき社会主義の栄光よ
その28 Sebastian Mihăilescu&"Apartament interbelic, în zona superbă, ultra-centrală"/ルーマニアと日本、奇妙な交わり
その29 ミルチャ・ダネリュク&"Cursa"/ルーマニア、炭坑街に降る雨よ
その30 ルクサンドラ・ゼニデ&「テキールの奇跡」/奇跡は這いずる泥の奥から
その31 ラドゥ・ジュデ&"Cea mai fericită fată din ume"/わたしは世界で一番幸せな少女
その32 Ana Lungu&"Autoportretul unei fete cuminţi"/あなたの大切な娘はどこへ行く?
その33 ラドゥ・ジュデ&"Inimi cicatrizate"/生と死の、飽くなき饗宴
その34 Livia Ungur&"Hotel Dallas"/ダラスとルーマニアの奇妙な愛憎
その35 アドリアン・シタル&"Pescuit sportiv"/倫理の網に絡め取られて
その36 ラドゥー・ムンテアン&"Un etaj mai jos"/罪を暴くか、保身に走るか
その37 Mircea Săucan&"Meandre"/ルーマニア、あらかじめ幻視された荒廃
その38 アドリアン・シタル&"Din dragoste cu cele mai bune intentii"/俺の親だって死ぬかもしれないんだ……
その39 アドリアン・シタル&"Domestic"/ルーマニア人と動物たちの奇妙な関係
その40 Mihaela Popescu&"Plimbare"/老いを見据えて歩き続けて
その41 Dan Pița&"Duhul aurului"/ルーマニア、生は葬られ死は結ばれる
その42 Bogdan Mirică&"Câini"/荒野に希望は潰え、悪が栄える
その43 Szőcs Petra&"Deva"/ルーマニアとハンガリーが交わる場所で
その44 Bogdan Theodor Olteanu&"Câteva conversaţii despre o fată foarte înaltă"/ルーマニア、私たちの愛について
その45 Adina Pintilie&"Touch Me Not"/親密さに触れるその時に
その46 Radu Jude&"Țara moartă"/ルーマニア、反ユダヤ主義の悍ましき系譜
その47 Gabi Virginia Șarga&"Să nu ucizi"/ルーマニア、医療腐敗のその奥へ
その48 Marius Olteanu&"Monștri"/ルーマニア、この国で生きるということ
その49 Ivana Mladenović&"Ivana cea groaznică"/サイテー女イヴァナがゆく!
その50 Radu Dragomir&"Mo"/父の幻想を追い求めて
その51 Mona Nicoară&"Distanța dintre mine și mine"/ルーマニア、孤高として生きる
その52 Radu Jude&"Îmi este indiferent dacă în istorie vom intra ca barbari"/私は歴史の上で野蛮人と見做されようが構わない!
その53 Radu Jude&"Tipografic majuscul"/ルーマニアに正義を、自由を!

私の好きな監督・俳優シリーズ
その371 Antoneta Kastrati&"Zana"/コソボ、彼女に刻まれた傷痕
その372 Tamar Shavgulidze&"Comets"/この大地で、私たちは再び愛しあう
その373 Gregor Božič&"Zgodbe iz kostanjevih gozdov"/スロヴェニア、黄昏色の郷愁
その374 Nils-Erik Ekblom&"Pihalla"/フィンランド、愛のこの瑞々しさ
その375 Atiq Rahimi&"Our Lady of Nile"/ルワンダ、昨日の優しさにはもう戻れない
その376 Dag Johan Haugerud&"Barn"/ノルウェーの今、優しさと罪
その377 Tomas Vengris&"Motherland"/母なる土地、リトアニア
その378 Dechen Roder&"Honeygiver among the Dogs"/ブータン、運命の女を追って
その379 Tashi Gyeltshen&"The Red Phallus"/ブータン、屹立する男性性
その380 Mohamed El Badaoui&"Lalla Aïcha"/モロッコ、母なる愛も枯れ果てる地で
その381 Fabio Meira&"As duas Irenes"/イレーニ、イレーニ、イレーニ
その382 2020年代、期待の新鋭映画監督100!
その383 Alexander Zolotukhin&"A Russian Youth"/あの戦争は今も続いている
その384 Jure Pavlović&"Mater"/クロアチア、母なる大地への帰還
その385 Marko Đorđević&"Moj jutarnji smeh"/理解されえぬ心の彷徨
その386 Matjaž Ivanišin&"Oroslan"/生きることへの小さな祝福
その387 Maria Clara Escobar&"Desterro"/ブラジル、彼女の黙示録
その388 Eduardo Morotó&"A Morte Habita à Noite"/ブコウスキーの魂、ブラジルへ
その389 Sebastián Lojo&"Los fantasmas"/グアテマラ、この弱肉強食の世界
その390 Juan Mónaco Cagni&"Ofrenda"/映画こそが人生を祝福する
その391 Arun Karthick&"Nasir"/インド、この地に広がる脅威
その392 Davit Pirtskhalava&"Sashleli"/ジョージア、現実を映す詩情
その393 Salomón Pérez&"En medio del laberinto"/ペルー、スケボー少年たちの青春
その394 Iris Elezi&"Bota"/アルバニア、世界の果てのカフェで
その395 Camilo Restrepo&"Los conductos"/コロンビア、その悍ましき黙示録
その396 José Luis Valle&"Uzi"/メキシコ、黄金時代はどこへ?
その397 Florenc Papas&"Derë e hapur"/アルバニア、姉妹の絆と家父長制
その398 Burak Çevik&"Aidiyet"/トルコ、過ぎ去りし夜に捧ぐ
その399 Radu Jude&"Tipografic majuscul"/ルーマニアに正義を、自由を!
その400 Radu Jude&"Iesirea trenurilor din gară"/ルーマニアより行く死の列車

Radu Jude&"Tipografic majuscul"/ルーマニアに正義を、自由を!

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ラドゥ・ジュデ&"Cea mai fericită fată din ume"/わたしは世界で一番幸せな少女
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Radu Jude & "Aferim!"/ルーマニア、差別の歴史をめぐる旅
ラドゥ・ジュデ&"Inimi cicatrizate"/生と死の、飽くなき饗宴
Radu Jude&"Țara moartă"/ルーマニア、反ユダヤ主義の悍ましき系譜
Radu Jude&"Îmi este indiferent dacă în istorie vom intra ca barbari"/私は歴史の上で野蛮人と見做されようが構わない!
Radu Jude&"Tipografic majuscul"/ルーマニアに正義を、自由を!
ラドゥ・ジュデの経歴及び今までの長編作品のレビューはこちら参照。

1981年のある夜、ブカレストの壁に政府への批判を綴った落書きが描かれる。それはポーランドの労働者との一致団結を謳い、この腐敗した政治に立ち向かおうという旨の言葉が書かれていた。これを発見した秘密警察セクリターテは即刻捜査を始め、犯人を見つけだそうとする。そして捜査中に、彼らは犯人を逮捕することになる。落書きを記したのは未だ若い、16歳の学生Mugur Călinescuだった。セクリターテは本人はもちろんのこと、両親や友人たちに尋問を繰り返すことで、なぜCălinescが反共産主義的な落書きを書いたのかを探ろうとする。

今作の演出において印象的なのは、ジュデの演劇への接近である。とはいえその傾向は初期から明確なものだった。例えば彼の長編デビュー作"Cea mai fericită fată din lume"は厳格な長回しを以てブカレストを舞台に見立て、共産主義から資本主義に移行するルーマニアを描き出した作品だった。そして2018年製作の"Îmi este indiferent dacă în istorie vom intra ca barbari"では、1941年のオデッサ虐殺についての演劇を製作しようとする演出家の姿を追った作品だった。

そして今回の"Tipografic majuscul"は劇作家Gianina Cărbunariuによる演劇を映画化したものである。ジュデは奇妙で精巧な舞台装置を作りあげるとともに、俳優をそこに立たせ"セリフ"を言わせる。彼らの演技には意図的に露骨な人工性が宿っているが、これこそが今作の鍵なのである。

この人工性に浮かび上がるのは当時のルーマニアに存在していた不気味な抑圧だ。共産主義に従う者は偽の自由を享受しながらも、異なる意見を持つことは許されない。これに反した者は尋問や盗聴など、徹底的に監視された後、心を破壊される。その一人がCălinescuだった訳である。

そして物語の合間には当時のルーマニアで撮影されたフッテージ映像が挿入される。例えば子供たちがルーマニアを称える歌を唄う光景。看護師が布に包まれた赤ちゃんたちを優しく世話する光景。ブカレストが都市化され洗練されていく光景。そこには未来への明るい希望が見えてくるようだ。

その中でルーマニアの未来は子供たちであると主張するフッテージ映像が流れる。だがその次には、Călinescuがセクリターテに尋問を受ける姿が映し出される。ここには当時のルーマニアがいかに二枚舌だったが暴かれているだろう。子供は未来であると主張する一方、Călinescuのような反体制的な子供は徹底して潰そうとするのだ。

実はジュデの長編がチャウシェスク政権の時代を描いたのは初である。以前彼はこんな発言をしていた。ルーマニアの問題というといつも共産主義が槍玉に上がるが、それ以前の時代にこそ問題の根源はあるのではないか?と。故にジュデは19世紀("Aferim!")や第2次世界大戦時("Inimi cicatrizate")のルーマニアを描いてきたのである。

そんな彼が長編7作目にして初めてチャウシェスク政権を描き出したのである。ジュデは1977年生まれ故に、もしかすると歌を唄う子供たちの中に彼はいた可能性があるのだ。この時代、正にジュデ自身が子供だったのである。だからこそ映画のあらゆる場所から、いつもよりも大きな熱意を感じさせるのである。

そしてこの抑圧的な時代と、私たちが生きる現代が繋がる瞬間が存在する。セクリターテのメンバーが当時を回顧する言葉を紡ぐ一方で、カメラは現代のルーマニアの都市を映し出すのだ。当時の行いを後悔することもない彼の言葉が、道端に立てられた看板に重なっていく。それは現代のルーマニアに抑圧的な思想は未だ引き継がれていることを指し示しているだろう。未来の可能性である子供たちが踏みにじられる時代が今再び来ているのだ。

"Tipografic majuscul"は抑圧的な時代へ独り果敢に立ち向かった青年の姿を、前衛的な形で描き出した作品だ。私たちはMugur Călinescuという青年を忘れてはならない。何故ならそれは非人道的な抑圧に私たちの正義と自由を明け渡すことを意味するのだから。

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知られざるアルバニア映画史の輝き~Interview with Thomas Logoreci

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さて、日本の映画批評において不満なことはそれこそ塵の数ほど存在しているが、大きな不満の1つは批評界がいかにフランスに偏っているかである。蓮實御大を筆頭として、映画批評はフランスにしかないのかというほどに日本はフランス中心主義的であり、フランス語から翻訳された批評本やフランスで勉強した批評家の本には簡単に出会えるが、その他の国の批評については全く窺い知ることができない。よくてアメリカは英語だから知ることはできるが、それもまた英語中心主義的な陥穽におちいってしまう訳である(そのせいもあるだろうが、いわゆる日本未公開映画も、何とか日本で上映されることになった幸運な作品の数々はほぼフランス語か英語作品である)

この現状に"本当つまんねえ奴らだな、お前ら"と思うのだ。そして私は常に欲している。フランスや英語圏だけではない、例えばインドネシアブルガリア、アルゼンチンやエジプト、そういった周縁の国々に根づいた批評を紹介できる日本人はいないのか?と。そう言うと、こう言ってくる人もいるだろう。"じゃあお前がやれ"と。ということで今回の記事はその1つの達成である。

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済藤鉄腸(TS):まずどうして映画作家やライターになりたいと思ったんですか? どうやってそれを叶えましたか?

トーマス・レゴレツィ(TL):映画作家になりたいと思ったのは11歳ごろからです。私はカルフォルニアの中心部にある小さな町モントレーで育ちました。そんな小さな町にいると、ロサンゼルスの映画学校で学ぶなんて遠い夢のように思えました。それでも私はモントレーを離れロサンゼルスでドキュメンタリーを学び始めたんです。ここで私はイラン系アメリカ人作家Caveh Zahedi カヴェー・ザヘディのインディ作品"I am a Sex Addict"にプロデューサー・編集として関わることになりました。

それから5年が経って、私は2004年に初めてアルバニアにやってきました。ここでFatmir Koçi ファトミル・コチという監督の作品"Koha e Kometës"に携わることになりました。2007年を通じて製作が行われ、今でもアルバニア映画史において最も高額な映画作品として名が残っています。それからアルバニアの中心的な映画祭であるティラナ国際映画祭でプログラマーを2年勤め、"Bota"という作品の共同監督・共同脚本家を妻のIris Eleziとともに務めました。今作は時おりコミカルなドラマ作品で、2015年にはアカデミー賞アルバニア代表にも選ばれました。

TS:あなたが初めて観たアルバニア映画は何でしょうか? その感想は?

TL:覚えておいて欲しいのは、私が小さな頃アルバニア映画を観るのは本当に難しかったことです。ほぼ不可能だったと言ってもいいでしょう。アルバニアは世界から完全に隔絶されていたんです。私のアルバニア生まれの父親とアメリカ人の母親は1954年に出会ったのですが、それは最初のアルバニア映画と呼ばれる、ソ連アルバニア共同制作映画"Skanderbrg"の上映会場でした。

父が基地で行われる上映に行ったのは、自分の故郷の映画が上映されると知ったからです。母は毎日映画を観に行っていて、どんなものも観ていました。彼らは劇場にいたたった2人の観客でした。1987年には父の友人が"Skanderbrg"のVHSカセットを送ってくれました。ニューヨークのアルバニア人がいる店で買ってくれたんです。カセットケースにはアルバニアのシンボルである双頭の鷲と共産主義の星が描かれていました。私は何度も何度もこの映画を観ました。プリントがとても古くて、クレジットが色あせてしまっていましたが、そのせいでそこに私の大叔母であるMarie Legoreci マリエ・レゴレツィの名前があると気づくのに数年かかりました。彼女は俳優として出演していたんです。

"Skanderbeg"は15世紀にトルコ人と戦ったアルバニアの国家的英雄についての物語です。今作はアルバニア映画史において重要な作品と考えます。しかし今作をアルバニア映画と呼ぶかには論争があるんです。ロシア人映画監督Sergei Yutkevich セルゲイ・ユトケヴィチセルゲイ・アイゼンシュタインの生徒でした。アルバニアで撮影されたアクションシーンはスリリングで衝撃的です。しかしソ連で撮影された打算を以て撮影された場面の数々は重苦しく退屈です。それでも非難し難い古典作品の1本でもあります。もし"Skanderbeg"が作られなかったら、両親は出会っていなかったでしょうし、私も生まれていなかったでしょう。

TS:あなたにとってアルバニア映画の最も際立った特徴とは何でしょう? 例えばフランス映画は愛の哲学、ルーマニア映画は徹底したリアリズムと黒いユーモアなどがあります。ではアルバニア映画はどうでしょう?

TL:私にとってアルバニア映画とは生存についての物語です。大いなる障害を乗り越え、ある種のアイデンティティーや尊厳を保とうとする訳です。共産主義下において、多くの映画はイタリアやドイツからの解放戦争を描いていました。アルバニアマルクス主義政権はロシアやイギリス、アメリカの助けなしに国を解放したことを誇りに思っていました。共産主義末期、1980年代に作られたアルバニア映画も個の生存闘争を描いており、これが共産主義の崩壊にもある意味繋がることになります。崩壊後の、90年代ゼロ年代アルバニア映画は、資本主義によって変化が訪れた時代に、人々が自身のアイデンティティーや個をいかに保ち続けるかを描いていました。

アルバニア映画は失われた機会について映画でもあります。私が悲しく思うのは、アルバニアが同じ地域の国々、例えばルーマニアなどができたようには、自身の国の映画を定義しえなかったことです。ジャンニ・アメリオの"Lamerica"ダルデンヌ兄弟「ロルナの祈り」ラウラ・ビスプリ「処女の誓い」ジョシュア・マーストン"Forgiveness of Blood"、そしてDaniele Vicari"La nave dolce"など、アルバニアにおける出来事について作られた有名な作品は全て外国の映画作家が作っています。アルバニア人の手による物ではありません。

アルバニア映画について考える時、時折頭に思い浮かぶのはGjergj Xhuvani ジェルジ・ジュヴァニの作品"Slogans"(2001)です。今作は共産主義時代、人々が山の中腹に石のスローガンを描くために送られる姿を描いた作品で、そのスローガンとは独裁政権の勝利を伝えていたんです。スローガンの最後の場面で、政権に打ち負かされた教師が生徒ともに拒否されたスローガンを再び作り直すことになります。その時の教師の表情――Arthur Golishti アルトゥル・ゴリシュティが演じています――はアルバニア人が耐え忍んできた歴史の多くを語ってくれます。

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"Skanderbeg"

TS:世界のシネフィルにとって最も有名なアルバニア人監督はXhanfize Keko ジャンフィゼ・ケコでしょう。"Tomka dhe shokët e tij"など彼女の作品は雄大であり、彼女はアルバニアアッバス・キアロスタミと言いたくなるほどです。しかしKekoと彼女の作品はアルバニア本国でどのように評価されているのでしょう?

TL:長年の間、彼女はアルバニアで尊敬されていると思います。しかし映画コミュニティにおいて、彼女はもっと尊敬されている男性監督と同じほど知名度はありませんでした。どういう訳か、彼女は子供映画の監督として見過ごされていたんです。それから興味深いことが起きました。アイルランドの映画評論家・映画作家Mark Cousins マーク・カズンズの硬い意志と言葉によって、彼女は国際的な知名度を獲得することになったんです。

Cousinsは世界に広めるべきアルバニア人作家を探すため、2013年にこの国へやってきました。私が気に入っているのは、彼がXhanfize kekoを選んだのは彼女がただの職人であるからだけでなく、共同した子役たちから素晴らしく豊かな演技を引き出せる監督だったからということです。アルバニアに来た後、彼はKekoの作品を特集したドキュメンタリーをいくつも作っています。彼の最新作である14時間のドキュメンタリー"Women Make Film: A New Road Movie Through Cinema"の1セクションは彼女に捧げられています。

アルバニア映画作家やシネフィルたち――ほとんどが男性ですが――は男性監督であるDhimitër Anagnosti ジミタル・アナグノスティが世界で最も有名な作家だと見做してきました。私としても、彼はアルバニア映画史に堅実な貢献をしてきたと思います。しかし彼の作品がアルバニア国外、国際的に評価されているかは定かではありません。あるアルバニアの男性監督が私に言いました。"Xhanfize kekoアルバニアの最も偉大な女性監督だ。しかしAnagnostiが我々にとって最も偉大な監督だ"と。そでもだが世界の映画史という観点から見ると、Xhafize Kekoこそが世界に知られる作家なのでしょう。

TS:アルバニア最初の長編映画"Tana"(監督はKristaq Dhamo クリスタチュ・ジャモ)ですね。私もその新鮮さと若々しさに魅了されました。しかし今作は1958年に作られていますね。どうしてアルバニアで初の長編映画が作られるのはこんなにも遅かったのでしょう?

TL:理解しておくべきなのは、第2次世界大戦の終結時、アルバニアには映画産業というものが存在していなかったことです。共産主義者が実権を握った時、映画は優先事項ではなかったし抑圧もとても激しいものでした。ここにこのような物語があります。支配者であったイタリア人たちがある若いアルバニア人医師に8mmカメラを残しました。彼はShkoderの北部の町でパルチザンが行進する姿を撮影しました。しかし政府の締めつけは激しく、カメラは没収され彼は監獄に収監されました。そしてフィルムは永遠に失われてしまいました。

無から映画産業を興したのはソ連です。ロシア人たちがKinostudioを建築し、その建物は今でも我々の文化庁として建っています。Xhanfize kekoら映画の熱狂者たちはモスクワやプラハへ映画製作を勉強しに行きました。しかしアルバニア映画の大きな悲劇の1つは1961年にソ連と決裂したことでした。"Tana"は1959年に制作されたのですが、ロシア人が映画を製作するために多大なサポートをしてくれたんです。彼らが去った後、アルバニアは文化的な孤立状態に陥ることとなります。"Tana"はロシア人が去る前に作られた数少ない1本なんです。"Debatik"という作品は"Tana"が魅せたような叙情性を持っており、それらはアルバニアが東側ブロックにいれば残っていたものだろうと思われるのです。

TS:あなたは他のインタビューで"もちろん、アルバニア文化においてイスマイル・カダレの影響を無視するのは不可能でしょう"と仰っていましたね。ではアルバニア映画の領域において、その影響はどのようなものだったんでしょう? 少なくとも、彼の作品は何度も映画化されていますね。

TL:イスマイル・カダレは世界的に見てアルバニアで最も有名な文化アイコンでしょう。彼の小説は数十もの言語に訳されていますし、ノーベル賞にもノミネートされ、マン・ブッカー賞を受賞してもいます。共産主義下、Kinostudio時代において、彼と妻のElenaは映画の脚本をいくつも書いていました。そして小説の多くが映画に脚色されてもいます。アルバニアでだけではありません。ブラジル人監督ウォルター・サレスビハインド・ザ・サンを、カダレの作品を元に制作していますね。しかしアルバニアにおいて彼は複雑な人物です。カダレが共産主義下で世界的な名声を獲得した事実は、多くの知識人にとって攻撃の対象でもあります。個人的にはマルクス主義時代の行動で誰かを断罪するのは難しいと思います。アルバニアは完全な独裁主義政権であり、多くの芸術家が生きるためにできることをやらなければなりませんでした。皮肉なのは、アルバニア映画とは違いカダレの作品は世界的に評価されていることです。カンザスで、モスクワで、東京で、人々はどこの本屋でも彼の翻訳作品を見つけることができます。イスマイル・カダレアルバニア人の経験を世界に伝えた一方で、アルバニア映画は世界の文化に対してそういったことを成し得ることは叶いませんでした。

TS:次は"Vdekja e kalit"について聞きたいと思います。今作に個人的に思い入れがあるのは、私が生まれた1992年に制作された作品であるからです。それから英語版Wikipediaにこういった記述を見つけました。"この映画はエンヴェル・ホジャ独裁政権下における初の反共産主義映画として注目に値する"というものです。これは本当なのでしょうか? もしそうならこれについてぜひ日本の読者に説明してください。英語にも日本語にも今作についての情報はありませんからね。

TL:Wikipediaは間違ってますね。"Vdekja e kalit"独裁政権が崩壊した後、最初に作られた作品なんです。エンヴェル・ホジャ自身は1985年に亡くなっています。監督はSaimir Kumbaro サイミル・クンバロ、共産政権のKinostudio時代におけるリーダー的な存在の1人でした。脚本はNexhati Tafaという人物が執筆しており、彼は私のとても好きなアルバニア映画"Dimri i dundit"の脚本も書いています。不幸なことに、今作の芸術的ブレイクスルーは続くことはありませんでした。そしてこの作品はアルバニア映画の現実的な前提を表しています。特に今作はフランスと共同制作を行っています(撮影監督と作曲家はフランス人です)しかし1990年代はアルバニアにとって信じられないほど過酷な時代となりました。社会主義から資本主義に移行する過渡期にあったんです。1997年、アルバニアは経済崩壊のトラウマに苦しみ、ほとんど内戦状態に陥りました。その間、映画製作はストップしてしまったんです。

Kumbaroの"Vdekja e kalit"がとても好きです。今作を観るのはすこぶる感動的な経験でした。監督はとても賢く、政権が崩壊してすぐ、独裁に傷ついていた人々についての映画が作れたのは幸運でした。"Vdekja e kalit"には知識人的な無関心はありません。感情に満ちた作品で、スリラーの雰囲気とともに進んでいきます。

長年、エンディングには不満を感じていました。"Vdekja e kalit"の終盤、不当に収監されていた軍人の男が、通りで自分を裏切った人間と再会します。その人間が新しい民主主義的な政府で重要な政治家になっていると知った時、男は立ち去ることができなくなります。アルバニアにおいてこの場面はとても皮肉なもので、なぜなら共産主義者は1人も裁判にかけられなかったからです。しかしそれによってラストにはカタルシスも解放も存在しないんです。私と妻のIrisは今作を首都のメイン広場で上映しました。最後の場面の間、ほとんど30代以下の観客の間には痺れるような雰囲気が満ちていました。アルバニア人はこの国で上映される作品のほとんどがハリウッド映画でありながら、自国の映画にも共感できるという事実には希望を抱きました。

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"Vdekja e kalit"

TS:あなたは執筆したアルバニア映画の紹介文の中で、こう書いていますね。"新しい世代の映画作家、例えばKujtim Çashku クイティム・チャシュクSpartak Pecani スパルタク・ペツァニらが社会主義ルーマニアで学んだ後、バトンを受け取りました"と。私にとってこれがとても興味深いのは、私はルーマニア映画の研究者であり熱狂的なファンでもあるからです。なので聞きたいのは、映画におけるアルバニアルーマニアの関係性はどういうものだったのかということです。社会主義時代において交流は頻繁なものだったんですか?

TL:不幸なことに、アルバニアルーマニアの交流は頻繁なものではなかったですが、とても重要なものでありました。1975年までにアルバニアは他国のほとんどと国交が断絶していました。しかし政権の文化の担い手は映画作家たちは他国で訓練する必要があると認識していました。

長年、若いアルバニア人はロシア、ポーランド、イタリアのアニメーションしか観ることができませんでした。しかし1975年、2人のパイオニアであるVlash Droboniku ヴラシュ・ドロボニクTomi Vaso トミ・ヴァソが数か月ルーマニアに赴き、アニメーションの極意を学び取っていったんです。そしてアルバニアに戻ってアニメーションスタジオを建設しました。

2人の映画監督Kujtim ÇashkuSpartak Pecaniは20代の頃にルーマニアへ送られました。Çashkuは共産主義を描いたベスト映画の1本"Kolonel Bunker"(1996)を製作し、私立学校Marubi Academyの校長にもなりました。Pecaniは映画を作り続けましたが、Kinostudio時代の作品はとてもメロドラマ的なものでイタリアのTVドラマのようでした。

Pecaniはルーマニアからアルバニアへ戻ってきた時、独裁政権がいかに検閲を強めているかにショックを受け悲しんだかを記しています。おそらく彼は監視されていたんでしょう。Çashkuはブカレストを発つ前に買ったという輝くオレンジ色のシャツについて書いています。そのシャツはアルバニアの乾いた社会においては際立っており、彼がそれを着ていると人々は嫉妬したそうです。そして最後には服を放棄せざる得なくなりました。私が思うにこの話はアルバニアの政権の不条理さや危険さを伝えているでしょう。ルーマニアアルバニアの芸術的なコラボが結実しなかったことを象徴してもいるでしょう。

TS:あなたにとって最も重要なアルバニア映画はなんでしょう? その理由も教えてください。

TL:私の意見としてはMuharrem Fejzo ムハレム・フェイゾFehmi Hoshafi フェフミ・ホシャフィ"Kapedani"だと思います。今作は1972年に制作されたモノクロ映画です。今作は1968年から1973年の間、アルバニア共産主義政権がリベラリズムに傾いた奇妙な時期に作られた作品です。

"Kapedani"は海沿いの村を離れ首都に赴き、政権下において女性の持つ権利に抗議する、野性的で頭の固いパルチザンの姿を描いています。今作は喜劇的で快活、緩くも黒いユーモアを同時に持っています。時にはそれが同じ場面に同居しているんです。全てのアルバニア映画が持つべきだったものでしょう。しかしリベラリズムの波は途絶え、それが本作の最後となりました。幸運なことに映画自体は生き残りましたがね。今作がコメディだったことで共産主義下でも生き残ったのではないかと思われます。

今作は今でも老若男女に最も人気で魅力的なアルバニア映画です。ここには他のアルバニア映画で繰り返されることのなかった、夢の場面やファンタジー的な場面が存在しています。監督のFejzoが今後猛烈にドグマ的なプロパガンダ映画ばかり作り出したのが悔やまれます。おそらく"Kapedani"の面白さを償うためだったんでしょう。

TS:もし1本だけ好きなアルバニア映画を選ぶなら、何を選びますか。その理由もぜひ知りたいです。個人的な思い出があるのですか?

TL:これは個人的なものになりますが、私のとても好きな映画に7分の小さな傑作アニメーション"Kompozim"(1992)があります。監督のStefan Taci ステファン・タツは私が最も好きなアルバニア人映画監督であり、アニメーターになることを決めた後、共産主義政権が崩壊してから10年もの間に傑作を作り続けました。

彼の作品群は1時間にもなりませんが、何度も何度も観てしまうんです。彼は純粋な芸術家であり、あらゆる方法で実験を行っています――例えばカットアウト手法やクレイ・アニメーションなどです。彼はアルバニア独裁政権の崩壊を描いた素晴らしい作品"Gjera qenuk ndryshojne"(1993)を製作していますが、ここにおいてはリンゴとナイフしか使っていないんです。そして"Kompozim"アルバニアの過去と現在に対する作家的な視線であり、色彩と音楽に満ちた鮮烈なタブローが浮かび上がっています。彼の作品は手製でパソコンなどは使っておらず、従って完成に1年はかかります。

Stefan Taciはアニメーションで以て彼独自の世界を作っています。それは眩く熱気溢れる世界であり、そこに永遠に住んでいたいとすら思います。アルバニア人アニメーターによる作品群は自国の観客にとって長年全く知られずにいました。私とイリスは数年前にティラナのオペラ劇場でこれらのアニメーションを上映しました。その頃Taciは誰も自身の作品を観ないのに絶望していました。しかし"Kompozim"を上映した時、文化庁の長官が闇の中で叫んだんです。"何てことだ、これはまるでゴッホだ!"と。

TS:アルバニア映画の現状はどういったものでしょう? 日本からはその状況について全く窺い知ることはできません。なので日本の映画好きもアルバニアの現状を知りたがっています。

TL:アルバニア映画作家であること、映画を製作することは生存闘争のようでもあります。アルバニア文化庁は国立映画センターに1年で100万ユーロを与えてくれました。映画の計画は受け入れられた場合、基本資金の量に左右されます。映画作家はプロデューサーや財政家の領域にも立ち入らなければならず、計画を完遂するための予算の残りを自分で集める必要があります。しかしアルバニア映画は金を稼げず存在感も薄いので、映画を完成させるための予算を稼ぐため多くの年数をかける必要があります。私とIrisの場合、このおかげで"Bota"の脚本を何度も何度も改稿できた訳ですけども。

TS:2010年代が数か月前に終わりました。そこで聞きたいのはこの年代において最も重要なアルバニア映画についてです。例えばJoni Shanaj"Pharmakon"Iris Elezi"Bota"Florenc Papas"Derë e hapur"などがありますが、あなたの意見はどうでしょう?

TL:思うにここ10年での最も重要なアルバニア映画はJoni Shanaj"Pharmakon"だと思います。監督がYoutubeに英語字幕付きで配信しているので、ここではあまり語る必要はないでしょう。思うにバルカン半島、もしくは世界の映画に関心があるなら今作を観て、経験するべきです。私はその年のトップアルバニア映画を祝うイベントにて、ティラナの劇場にある大きなスクリーンで今作を観ました。ファーストショットで、あるプロデューサーが劇場を飛び出し、前庭で餌付いていました。これほど素晴らしい讃辞が私には思いつきません。

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"Pharmakon"

スロヴェニア、この孤立の時代に~Interview with Maja Prelog & Blaž Murn

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さて、このサイトでは2010年代に頭角を表し、華麗に映画界へと巣出っていった才能たちを何百人も紹介してきた(もし私の記事に親しんでいないなら、この済藤鉄腸オリジナル、2010年代注目の映画監督ベスト100!!!!!をぜひ読んで欲しい)だが今2010年代は終わりを迎え、2020年代が始まろうとしている。そんな時、私は思った。2020年代にはどんな未来の巨匠が現れるのだろう。その問いは新しいもの好きの私の脳みそを刺激する。2010年代のその先を一刻も早く知りたいとそう思ったのだ。

そんな私は、2010年代に作られた短編作品を多く見始めた。いまだ長編を作る前の、いわば大人になる前の雛のような映画作家の中に未来の巨匠は必ず存在すると思ったのだ。そして作品を観るうち、そんな彼らと今のうちから友人関係になれたらどれだけ素敵なことだろうと思いついた。私は観た短編の監督にFacebookを通じて感想メッセージを毎回送った。無視されるかと思いきや、多くの監督たちがメッセージに返信し、友達申請を受理してくれた。その中には、自国の名作について教えてくれたり、逆に日本の最新映画を教えて欲しいと言ってきた人物もいた。こうして何人かとはかなり親密な関係になった。そこである名案が舞い降りてきた。彼らにインタビューして、日本の皆に彼らの存在、そして彼らが作った映画の存在を伝えるのはどうだろう。そう思った瞬間、躊躇っていたら話は終わってしまうと、私は動き出した。つまり、この記事はその結果である。

さて今回インタビューしたのはスロヴェニアの新鋭コンビMaja Prelog マヤ・プレログBlaž Murn ブラシュ・ムルンである。彼らが2016年に制作した短編"2045"は黙示録世界を描いた作品である。スロヴェニアのどこかを舞台として、ガスマスクを被った人物が故郷へと戻ろうとする姿を描いている。この光景は、コロナウイルスによって断絶と孤立を余儀なくされている私たちの状況を予見しているようで、その先見性に唸らされた。ということでそんな作品を作った彼らに映画監督になった理由、今作の成立過程、現在のコロナウイルス禍、スロヴェニア映画界の現状などについて語ってもらった。それではどうぞ。

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済藤鉄腸(TS):まず、どうして映画監督になろうと思いましたか? そしてそれをどのように成し遂げましたか?

マヤ・プレログ(MP):最初は映画監督になるなんて思いもしていませんでした。写真にとても興味があって、面白いと思ったものは何時間でも眺めていられました。人間同士の関係性や心理、人生の異なる哲学にも惹かれていましたね。少なくとも未来の計画なんて存在していませんでした。時は過ぎて、ある日私は目覚めて、16mmカメラを片手に学生映画を作り始めたんです。

ブラシュ・ムルン(BM):自分は建築学を勉強していて、セット・デザイナーとして映画製作に参加しました。その後映画について古典的に、芸術体系として考えるようになりました。自分は物事を概念的に、文脈を踏まえながら考えることに長けていて、脳みそも何より構成を考える際に奇妙な感じになります。だから映画を実際に作ったし将来の計画もありますが、自分を映画監督であるとは言えません。それでもMaja Prelogとともに何かやっていきたいとは思っています。

TS:映画に興味を持ちだした頃、どんな作品を観ていましたか? 当時スロヴェニアではどんな映画を観ることができましたか?

BM:自分が7歳の時、ユーゴスラビアが解体されましたが、その時までは"Kekec"や、イタリアのTVでバッグス・バニートムとジェリーなどのカートゥーンを観ていました。それらはノンストップのイタリア語で放映されていたので、子供の頃の第1言語はイタリア語でもありました。それからターミネーターバック・トゥ・ザ・フューチャーなどの娯楽映画も好きでした。シリアスな映画を観始めたのは20代半ばからと認めざるを得ません。10代後半にはずっとスポーツをしていて、考えることは建築学のことばかりでした。なので作家主義的な作品が入る余地がなかったんです。

MP:スロヴェニアではどんな新しい作品、どんな芸術的な作品でも観ることができました。検閲なんて存在しなかったんです。公共の図書館からタダで映画を借りることもよくありましたね。映画に興味を持ち始めた頃観るのはほとんど70年代のアメリカ映画でした。例えば「卒業」「真夜中のカーボーイ」「タクシードライバー」「セルピコ」「地獄の逃避行に西部劇(例えばアラン・ドロン三船敏郎が出演していた「レッド・サン」です)イージー・ライダー」「バニシング・ポイント」「フォクシー・ブラウン」「ジョーズ」「未知との遭遇」「マッド・マックス」「TXH 1138」「地獄の黙示録」「ゴッドファーザーなどなど、全てが異なるジャンルです。しかし成長してから2000年代前半、2つの映画に出会いました。ラース・フォン・トリアーダンサー・イン・ザ・ダークの残酷な迫真性、デヴィッド・リンチマルホランド・ドライブの幻想性はとても印象に残っています。それからパク・チャヌクの「オールドボーイ」には骨まで震わされましたし、宮崎駿の「ハウルの動く城」に恋に落ちたんです。

TS:ブラシュさん、あなたはまず映画を勉強する前に建築学を勉強していましたね。この建築学の知識は映画製作に影響を与えていますか? もしそうなら、どのようにでしょう?

BM:もちろん影響はあります。それが弱みでもあり強みでもあるでしょう。映画製作の初期段階においてはより活躍できていると思います。例えばあらすじ制作やプレプロなどです。しかし俳優を演出したり編集をしたりする段階になると難しいです。技術面の方が得意なんです。だからポスプロ段階になると画面より音の編集が強くて、例えば色彩や音、グラフィック・デザインなど上手くこなせるようになります。

TS:映画を作る際、あなた方はコラボしながら映画製作を行っていますね。どのようにこの関係は始まったんですか。1人で映画を作るのと、2人で作るのではどう違いますか?

MP:真相としては彼は私のフィアンセなんです。数年前スケート場で会いました。彼はその頃建築学を勉強していて、私は映画を勉強していました。同じ大学を卒業し、労働力の市場へと飛びこみました。2人とも映画という芸術を通じて自分を表現したかったんです。なので時間を作ったりお金を稼いで、自分たちのゲリラ的な映画製作会社RÁを作りました。友人のおかげで、スロヴェニアのバンドであるライバッハのMVを2作作ることにもなりましたね。何度も細部について話し合うのは時間がかかりましたし、疲労もとても溜まります。しかしそれによって作品のコンセプトはより強く、洗練されていきました。

正直言えば、私にとっては1人で映画を製作する方が楽です。しかし共同制作においてはデュエットで踊るように、芸術家としてのエゴを抑えられます。1つの考えを様々なアングルから見ることができるし、常に考えることができる。よりよい解決策を探せるし、調整することもできるし、そして妥協すること(かしないことも)ができます。つまり共同作業によってよりよい芸術家になれるし、映画の可能性をより強化できるんです。

BM:彼女は私のソウルメイトです。彼女に多くのものを負っています。彼女がいなければ映画監督何てしていなかったでしょう。私はそういう種類の人間じゃなかったんですからね。あまりにも直接的で控えめすぎるんです。映画監督であるためには卑劣で自分の性格を隠さなきゃならない。それか彼女のような才能を持って生まれるしかない。彼女は笑顔を絶やさずに映画を作るので、誰も言うことに背こうとはしません。そういったコミュニケーションの問題もありますし、自分はそこまで我慢強くないんです。だから比べるのは烏滸がましいかもしれませんが、偉大なスタンリー・キューブリックが成したように、最小限のスタッフでこそ私は監督ができます。

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TS:短編作品"2045"の始まりは何でしょう? 自身の経験、スロヴェニアのどこか、もしくは他の出来事でしょうか。

MP:"2045"はこれらの要素が集まってできました。私はBlažと朝のコーヒーを飲むという儀式があります。そうして、コーヒーがいかに酸っぱいか、昨夜どんな夢を見たか、蜂が全滅したら何が起こるか、スロヴェニアと日本の自殺率がなぜ似ているか、南極の氷が全て溶けるのはいつかについて語るんです。そしてこれに対する考えを短い実験映画として表現しようと決めたんです。最終的に、考えは世界が崩壊する瞬間に至りました。それについて書き記し、ストーリーボードを作りました。機材を携えていても、スロヴェニアの自然に容易に辿り着けたし、ガスマスクを着けてくれる芸術家の友人にも恵まれました。なので霧が現れるのを待った後、スロヴェニア中を回り現実を越えた風景を探しました。

BM:今作は私たちが共有する世界的な状況への考えを反映したものです。例えば私たちは人類としてこの地球に、他の種族に、そして私たち自身に何をしたか。そして私たちはどこへ向かっているのか。何か大きなことが起こるのではと今感じています。巨大な戦争か、環境の崩壊か、それとも何か別の世界的な危機か。しかし予算無しで黙示録を描くのはとても難しいので、個人的な親密な経験について描こうと思いました。黙示録の影響下、行かれる母なる大地の偉大さを背負いながら、主人公が諦めに陥り、故郷へと帰っていく姿です。

TS:まず最初のショットから、今作の崇高なる風景の数々に惹かれました。今作を観た人はみなこう思うでしょう――一体この崇高な場所はどこなんだ?と。この場所は一体どこでしょう? スロヴェニアの有名な場所なんですか? "2045"でこの場所を起用した最も大きな理由は何でしょう?

MP:それはここ、Jezersko地方の山の1つです。とても有名ですが、一番という訳でもありません。私たちは"人工的な"自然、遠く神秘的なイメージを探していました。見覚えがありながら、記憶に焼きつくものです。実はここにはテスト撮影のためやってきたんですが、カメラを置いた途端、マジックが起きたんです。天気は完璧で、岩に残る雪の度合いも丁度いい、2本の松も正しい場所にあると。こう思いました。映画の神がここにはいると。

BM:これらは1つの場所として編集されていますが、実際はスロヴェニアの幾つかの場所を巡っています。しかしスロヴェニアは東京ほどの大きさしかないという視点に立てば、1つの場所と言ってもいいでしょうね。私たちが赴いたのはリュブリャナから1時間ほど離れた、厳重に保護された4つの地域です。この近くに住んでいたので、ロケ地探しは楽だったのは喜ばしいことでした。そうする必要があるなら日本とこの場所はトレードしても構いません。10年前に廻った地を行くのは素晴らしいと思います。

TS:今作で最も印象的なのは世界の崇高さです。あなた方はこの世界に宿る息を呑むような崇高さを、とても効果的に映しとっています。自身の映画の撮影監督として、これをどのように成し遂げたんでしょう?

MP:私たちは生の残骸を映し出すような映画のイメージを探し求めていました。そうして世界を映し出すために固定のロングショットを使おうと決めたんです。最初のショットは特に、観客がこれは写真なのでは?と疑うほど異様に長くしました。そして観客は催眠状態に陥り、未来世界への旅へ誘われるんです。

BM:自分は壮大な古典的作品が好きと言ってもいいです。映画に対する古典的なアプローチが好きなんです。現代の軽々しい、コンピューターによる演出とは真逆の、固定ショット、ステディカム撮影、移動撮影、その他の重々しい撮影技法を強く信じているんです。そこには不動のものがあり、100年以上の時を生き抜いてきた訳です。他方で私たちは今作をフル・フレームのデジタルカメラで撮影しましたが、そういう訳で両方のアプローチの中でも最善を尽くせたと思います。崇高さの多くは練り上げられたコンセプトと編集の技法によって達成できました。

TS:私が感銘を受けたのは崇高なイメージと不吉な音響の大胆な組み合わせです。自然の中の音がイメージと重なる時、あなたが表現する世界はより豊かに荘厳なものとなります。どうやってこのイメージと音響の組み合わせを達成したんですか?

MP:ありがとう。まず今作のコンセプトは技術的な状況や芸術的な欲望から始まりました。初めに、カメラは音のない"生の"フッテージのみを切り取り、同時に音を録音はしないことを決めました。そして第二に全てのイメージが現実の自然由来なら、音は不自然なものであるべきだと思いました。それである日、自転車でリュブリャニツァ川を走っていて、通風装置の音を耳にしました。そこでこの騒音が"2045"の音だと気づいたんです。録音と音響デザインは全てBlažがしてくれました。

BM:音は機械で作ったものです。病院の外にある巨大なエアコンの音を録音し、音響をデザインするにあたってそれを孤立における異なる周波数のレベルに適用していきました。強固に編集を行おうとしてきたので、無声映画として完成させても良かったですが、それでも映画の効果は画よりも音に多くを負っていると思います。今作において画はある意味背景であり、音こそがもっと複雑な在り方を呈していると思っています。

TS:あなた方は"2045"を2016年に作りましたね。しかし今作を2020年に観た私にとって、コロナウイルスが蔓延していることも相まって、今作の不吉さや孤立の感覚はより近いものに思えます。あなたは2016年にこの状況を予測していましたか? このコロナウイルスの時代に"2045"を観ることはどんな意味を持つでしょう?

MP:現在の状況を見たり、全ての選択肢においてネガティブな方を選び取ることで、私たちは黙示録的な世界を予測してきました。そして考えうる限り最悪の結果に辿りついたんです。私たちの心の中では、世界は大きな難民キャンプであり、地球には存在していません。今作を今観るなら、観客は災厄の孤立的な感覚により共感しやすくなるでしょう。

BM:思うに今作はパンデミックの終り、もしくは世界的恐慌の後に私たちが直面する終りに強く共鳴していると思います。そう悲観的になりたくはありませんが、私たち人類はこれからの未来に母なる自然と共生するため、多くのことを変えなくてはならないと思います。彼女は私たちに愛想を尽かしているんです。

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TS:スロヴェニア映画界の現状はどういったものでしょう? 外側から見るとそれは良いものに思えます。新しい才能が有名な映画祭に現れていますからね。例えばロカルノMatjaž Ivanišin マチャシュ・イヴァニシンや、トロントGregor Božič グレゴル・ボジッチなどです。しかし内側からだと、現状はどのように見えるでしょう?

MP:才能という意味においてはスロヴェニア映画界は輝いていますが、国家的なサポートは欠けています。財政的に現状はとても貧しいものです。しかし私はスロヴェニア映画界を若く才能ある芸術家や批評家の共同体だと思っています。彼らは自分の居場所のために戦い、とても賢く優雅に立ち回っています。それはほとんど武道的な美徳です。

BM:認めざるを得ないのは、私がこの国における芸術の現状にとても怒りを抱いており、その事実に曖昧でいざるを得ないことです。今作はその1つの例です。私たちは自分の銀行口座から貯金をはたいて制作せざるを得ず、なので官僚主義の硬直性にうんざりしています。国立の映画補助に参加するため時間を費やしても、この国の有名人に対してルーキーである私たちは無力なんです。ですから全て自分でやらなくてはならないんです。そして私は自分のお金で映画を作るのが難しいのと同様に、上映されるのも難しいと思っています。多くの国際映画祭に応募していますが、全く採用されず、それは国立映画センターからしか応募できないからだと思っています。もちろん今作は最善の出来ではないですが、より良いクオリティのため多くを改善しています。それでも全てが悪い訳ではないと思っています。その後、今作が国際的に上映され、このMy Darling Quarantine Short Film Festivalではローカルの短編映画祭FeKK――ここで最優秀賞を獲得しました――でプレミア上映されてから、4年越しおそらく3回目の上映を果たしました。それでも言うべきなのは、他の若い監督たちが海外で成功したと聞くのは嬉しいですし、それが世界的にもローカル的にもより良い明日がやってくるという希望をもたらしてくれます。

TS:日本の映画好きがスロヴェニア映画史を知りたい時、どんな作品を勧めますか? その理由も教えてください。

MP:私はVinci Vouge Anžlovar ヴィンツィ・ヴォウゲ・アンシュロヴァル"Babica gre na jug"をお勧めします。今作はスロヴェニアが独立して初めて作られた作品で、ドロップアウトした学校の生徒が日本で脚本賞を獲得した後に作ったものです。ロードムービーで、おばあちゃんが老人ホームから逃げ出す姿を描いた美しい物語です。

BM:認めざるを得ないのは、私はこの国の映画については未だ無知で、この質問に答えるのに適した人物ではないことです。ここ3年、健康に問題を抱えており、オンラインでしか映画を観れなかったんですが、スロヴェニア映画はそこでは観ることができません。健康状況のせいで時間も限られていたので、時間を慎重に使ってきました。だから私にとっては観たことのない作品を観るより、面白い黒澤映画を10回観たほうが有益です。リスクがありますからね。これが映画批評家や他のシネフィルには受け入れ難いとは分かっています。誰か信頼する人が勧めてくれるなら、その映画も観ますけども。

TS:もし1作好きなスロヴェニア映画を選ぶなら、どの作品を選びますか? その理由はなんでしょう?

MP:やはり"Babica gre na jug"ですね。悲しくて面白い映画です。それにスロヴェニア映画の中でもサウンドトラックが随一に素晴らしいんです。

BM:私はJože Gale ヨジェ・ガレ"Kekec"(1951)を挙げます。今作は強いメッセージを持った子供映画で、スロヴェニア人の血の源を強く反映してもいます。ある意味で娯楽映画のようでもあり、観ていると心配事を全て忘れることもできます。中国やユーゴスラビア含め共産主義国家の至る所でヒットしました。今は深い映画というものを観れない状況にあります。それはそういった作品が全て過度に皮肉的に思われると共に、今起こっていることが複雑すぎるように思えるからです。今はこの現実のような非現実的で親密な作品を作れる脚本家や映画監督はいません。深い映画というものは"平和な"時代にはいいと思います。人々は自分の生き方をそこに反映できますからね。なので娯楽映画は"四季的な"映画であり、映画史を眺めるとなると娯楽映画の大部分は忘れられ、最高の作品だけが思い出されるんです。"Kekec"はそんな作品だと思います。

TS:新しい短編やデビュー長編を作る予定はありますか? あるなら是非とも日本の読者に教えてください。

MP:今は初長編の編集をしています。Blažと私についての物語です。彼は3年前に重度の白血病と診断されました。2人にとってとても辛い時期でした。彼は生きようと必死に戦い、私は自分自身に内にいる悪魔と和解しようとしていました。しかし骨髄の移植をし白血病を生き抜いた後、彼は自分のバイクで有名なジロ・デ・イタリアに参加し、健康を取り戻そうとしたんです。私もカメラを携え彼についていき、自分たちの経験を映画という芸術を通じて映しとっていきました。この旅路はお伽噺のようになると思いましたが、生々しい現実として迫ってきました。自分たちが病気の影響のもとにあることを思い知らされるとともに、世界でも最も美しい風景を巡ったんです。

BM:今はMajaのデビュー長編に深く関わっていた状況から回復しつつあります。あの作品には人生を吸い取られましたからね。なのでゼロから自分を建て直す段階にあります。

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Burak Çevik&"Aidiyet"/トルコ、過ぎ去りし夜に捧ぐ

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最近、実録犯罪ものが流行している兆しが見える。例えばNetflixアメリカを中心としてこの国で繰り広げられる前代未聞の犯罪をドキュメンタリー化し、世界中に配信している。だが今回紹介する作品はただの実録犯罪ものではなく、この鋳型を巧みに使い、様々な感情を喚起する実験的な傑作となっている。それこそがトルコ人監督Burak Çevikによる第2長編"Aidiyet"だ。

今作の語り手となる存在はオムールという人物だ。彼は自身の身に降りかかった奇妙だが忘れえぬ犯罪について語り始める。その始まりとなった人物がペリンという女性だ。彼はペリンととあるバーで出会い、会話をする。そして一夜を共にして、もう二度と会わないことを約束した後、オムールは彼女の元から去っていく。

だが事態が急転するのはここからだ。兵役を終えた後、オムールはペリンから連絡を受ける。そうして心変わりをした彼女と恋人関係になり、両親とも顔を合わせるであるが、しばらくしてからある告白を受ける。両親は自分にとって邪魔な存在だ、だから殺してほしいと。オムールは驚きながらも、危ない世界に片足を突っこんでいる友人を頼り、殺人を遂行しようとする。

まず今作で驚かされるのは、圧倒的な語りの速さである。オムールはこの奇妙な語りにおいて脇道に逸れることは一切なしに、事実だけを朴訥と語り続ける。だからこそ事態が急速に進んでいくことに、観客は唖然とするだろう。淀みなく嘱託殺人にまで話が行く頃には、私たちの脳髄はこの静かなる激流に芯まで巻き込まれていることだろう。

そして撮影監督であるBaris Aygenが映し出す画面も異様なものだ。私たちが観るのは登場人物が一切存在しない虚無的な空間のみである。誰もいないバルコニー、誰もいないバー、誰もいない玄関。ただ冷ややかで即物的な空間だけがそこには存在している。この奇妙な空白が激流の語りと合わさることで、唯一無二の世界が立ち現れることとなる。こうして物語は不気味な硬質さに支配されたままに、残酷なまでの淡々さで終着点へと至るのだ。

と、私たちはまた新たな物語が始まることに気づくだろう。1人の青年がバーで静かに過ごしている。だがある女性を見つけた時、帰ろうとする彼女を追っていくことになる。川辺に座る女性に話しかけ、青年は自分の名前を語る、オムールと。そう、私たちは物語がまた初めから幕を開けたことに気がつくだろう。

今回は一転して、監督はオムールとペリンが交流を深めていく様を劇映画として丁寧に描き出していく。彼らの視線の移ろい、他愛ない会話の数々、月明かりに照らされた道の輝き、群青色に染まった闇。そういったものに抱かれながら、若い2人が少しずつ距離を深めていく様が本当に丁寧に描かれていくのである。

私たちは驚くしかないだろう。先ほどまであれほどの異様な語りの速度を誇っていた今作が、まるで芋虫の這いずりのような遅さに侵食されてしまったことに。この遅さはある意味で、あまりにも冗長で永遠のように引き延ばされた感覚のようにも思えてくる。少なくとも前半の無駄を一切省いた速さは全く存在していない。

だが監督の演出の丹念たる様を目の当たりにしているうち、この遅さは意図的なものであるのではないかと思われてくる。だがしかしそれを指向した意味は一体何であるのか。2人の若者の瑞々しいロマンスを観ながら、私たちは沈思黙考を余儀なくされるのである。

その遅さに見えてくるのは語り手が抱える過去への哀惜だ。時は遠くに過ぎ去りながらも、ペリンという謎の女へ、あの親密な夜への郷愁を彼は捨てることができないのだ。前半のドキュメンタリーという形式では冷酷に切り捨てられる情感を、後半のメロドラマティックな遅さは湛えているのである。これがいかに深いものであるかは前半が存在しなければ、認知しえなかっただろう。この特異な構成が作品に稀に見る情感を宿していくのである。

"Aidiyat"はその挑戦的で実験的な構成により、1つの残酷な夜に引き裂かれた1人の男の心を饒舌に示唆する。この大胆不敵な挑戦によって、Burak Çevik監督は映画界の最前線へと躍り出たと言っても過言ではないだろう。

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私の好きな監督・俳優シリーズ
その371 Antoneta Kastrati&"Zana"/コソボ、彼女に刻まれた傷痕
その372 Tamar Shavgulidze&"Comets"/この大地で、私たちは再び愛しあう
その373 Gregor Božič&"Zgodbe iz kostanjevih gozdov"/スロヴェニア、黄昏色の郷愁
その374 Nils-Erik Ekblom&"Pihalla"/フィンランド、愛のこの瑞々しさ
その375 Atiq Rahimi&"Our Lady of Nile"/ルワンダ、昨日の優しさにはもう戻れない
その376 Dag Johan Haugerud&"Barn"/ノルウェーの今、優しさと罪
その377 Tomas Vengris&"Motherland"/母なる土地、リトアニア
その378 Dechen Roder&"Honeygiver among the Dogs"/ブータン、運命の女を追って
その379 Tashi Gyeltshen&"The Red Phallus"/ブータン、屹立する男性性
その380 Mohamed El Badaoui&"Lalla Aïcha"/モロッコ、母なる愛も枯れ果てる地で
その381 Fabio Meira&"As duas Irenes"/イレーニ、イレーニ、イレーニ
その382 2020年代、期待の新鋭映画監督100!
その383 Alexander Zolotukhin&"A Russian Youth"/あの戦争は今も続いている
その384 Jure Pavlović&"Mater"/クロアチア、母なる大地への帰還
その385 Marko Đorđević&"Moj jutarnji smeh"/理解されえぬ心の彷徨
その386 Matjaž Ivanišin&"Oroslan"/生きることへの小さな祝福
その387 Maria Clara Escobar&"Desterro"/ブラジル、彼女の黙示録
その388 Eduardo Morotó&"A Morte Habita à Noite"/ブコウスキーの魂、ブラジルへ
その389 Sebastián Lojo&"Los fantasmas"/グアテマラ、この弱肉強食の世界
その390 Juan Mónaco Cagni&"Ofrenda"/映画こそが人生を祝福する
その391 Arun Karthick&"Nasir"/インド、この地に広がる脅威
その392 Davit Pirtskhalava&"Sashleli"/ジョージア、現実を映す詩情
その393 Salomón Pérez&"En medio del laberinto"/ペルー、スケボー少年たちの青春
その394 Iris Elezi&"Bota"/アルバニア、世界の果てのカフェで
その395 Camilo Restrepo&"Los conductos"/コロンビア、その悍ましき黙示録
その396 José Luis Valle&"Uzi"/メキシコ、黄金時代はどこへ?
その397 Florenc Papas&"Derë e hapur"/アルバニア、姉妹の絆と家父長制

Florenc Papas&"Derë e hapur"/アルバニア、姉妹の絆と家父長制

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東欧映画は伝統的に女性が主体である語りの作品が少ない。そもそもの話、共産主義に支配されていた東側諸国では映画という芸術体系は抑圧を余儀なくされたが、その中ではマイノリティである女性にスポットライトが当てられることも少なかった。そして共産主義崩壊後は新たな資本主義的家父長制の到来により、女性主体の作品の増加は微々たるものだった。今回紹介するのは、そんな中で姉妹という関係性に焦点を当てた珍しい、Florenc Papas監督作であるアルバニア映画"Derë e hapur"だ。

今作の主人公はルディナ(Luli Bitri)という中年女性だ。彼の夫は今現在ギリシャへ出稼ぎ中であり、息子のオリオン(Maxwell Guzja)とともに義理の両親を介護しながら日々を過ごしている。昼は縫製工場での仕事、夜は介護と心が休まらない日が続くのだが、ある時妹であるエルマ(Jonida Vokshi)が故郷に帰ってきて、彼女の人生は大きく揺れ動くこととなる。

エルマはイタリアに移住していたのであるが、彼女はそこで犯罪者の恋人と一緒になり、妊娠することになる。だが恋人が刑務所に収監されてしまったことにより、故郷へ帰ることを余儀なくされてしまったのだ。しかしアルバニア婚外子はタブーである。その状態でルディナはエルマを父の元へ送らなければならない。不安を抱えながら、彼女たちは故郷の村へ向けて出発する。

監督はまず姉妹の関係性に注目する。タブーを犯した妹に対して、ルディナは終始イラつきながら眉間に皺を浮かべる。そんな姉に対して、エルマも負けじと反抗的な態度を取り、車中の雰囲気はどんどん悪いものになっていく。監督はその姉妹間の剣呑な空気感というものを丹念に切り取っていくのである。

Sevdije Kastratiによる撮影は現実指向のものであり、頗る荒涼たる雰囲気が常に広がっている。そして彼の視線は明晰な物であり、カメラと被写体の距離は近くとも、精神的な距離は保たれ、観察的な筆致が持続している。それによって私たちは姉妹たちが吸っては吐く空気を、実際に呼吸するような感覚をも味わうことになるだろう。

撮影の荒涼たる有様とは裏腹に、彼女たちを包みこむアルバニアの自然たちは豊かで悠々たるものだ。ルディナたちは山間の道を進んでいくのであるが、新緑の木々や鮮やかな青の空は、観客の心に爽やかな風を運んでくれる。そう大袈裟なものである訳ではないが、監督らが眼差すアルバニアの自然には素朴なる美が宿っているのである。

故郷の村が近づくにつれて、ルディナたちの不安は膨れあがっていくが、そこである考えを思いつくことになる。誰か知人の男性をエルマの夫に仕立てあげ、その状態で父親に会おうというのだ。彼女たちは知人たちに会って、提案を飲んでもらおうとするのだが……

そして姉妹は父親と再会することになる訳だが、彼の強権的な態度は最初から明らかだ。夫の言い分は絶対であり、娘たちの言葉には聞く価値がないように振る舞う。食事の用意に関しても気遣いは一切見せずに、全てを娘たちに丸投げする。この大いなる脅威の存在はとても致命的なものであり、監督はこれこそがアルバニアの家父長制を象徴するものなのであると語っていることが私たちにも分かるだろう。ルディナとエルマが対峙しなければならないのは、こういった脅威なのである。

"Derë e hapur"はこうしてアルバニアの家父長制に直面する姉妹の静かな対峙を描くことになる。ここには絶望しかないのだろうか。いや、違うだろう。ルディナとエルマという姉妹の間に存在する確かな絆が、希望となってくれることを監督は指し示している。これこそが小さくとも力強い希望であるのだと。

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その396 José Luis Valle&"Uzi"/メキシコ、黄金時代はどこへ?
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José Luis Valle&"Uzi"/メキシコ、黄金時代はどこへ?

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うらぶれたスパに置かれたラジオ、そこからニュースが聞こえてくる。過去のメキシコには栄光が広がっていた。しかし今ではどうだろう。記録的な暴力と殺人によって、この国は悍ましい状況へと陥ってしまった。あの黄金時代は一体どこへ行ってしまったのだろう……この問いこそがメキシコの新鋭Jose Luis Valleの第4長編"Uzi"に通底する問いなのである。

今作の主人公はウシ(Manuel Sorto)という名前の老いた男だ。彼は郊外でひっそりとスパを経営しているのだが、状況はあまり芳しくない。常連客を除けば、客は皆無に等しく、もう既に倒産寸前だった。しかしウシは特に対策をするといった風もなく、緩やかな自殺でもするように日々を過ごしている。

まず監督はウシがめぐる些細な日常の数々を丹念に描き出していく。彼はスーパーマーケットと個人商店の両方を行き交い、生活用品を買っていく。さらに荷物を持って、街中をゆっくりと歩き続ける。帰ってきてからはうらぶれたスパを掃除するなどしている。そして最後には、テレビの通販番組を見ながら眠りにつくのである。

この日常の中には、メキシコという国の逼迫した現在が浮き彫りになっていく。ウシが目の当たりにする建物の数々は惨めに朽ち果て、大きなひび割れや極彩色のグラフィティが白日の下に晒されている。猥雑なエネルギーも存在しながら、それらはいつか消え去ることを運命づけられているようだ。朽ちて穢れ果てる過渡にあるようなその様子は、観る者の心に悲哀を齎していく。

特にスパの荒廃具合は異様な悲哀に満ち溢れている。壁は腐り落ち、空気には腐臭が充満している。もはや修復するのは不可能であると悟ったのか、ウシは天井から垂れ下がる鬱蒼たる緑をただただ呆然と見つめることしかしない。そしてそんな光景に、冒頭で紹介したラジオのニュースが重なるのである。この崩壊目前の荒廃はメキシコの現在を象徴しているのだろうか?

そんな中で現れるのがゴルド(Mauricio Pimentel)という男性である。彼はスパの常連客であり、ウシの旧知の友人でもあるのだが、それ以上に昔の仕事相手でもあった。ゴルドはウシに対して、仕事に戻るようにと懇願してくる。ウシは昔、凄腕の殺し屋でもあったのだ。しかし何らかの理由で隠居生活を送っていたウシは、直面する貧困のせいで、再びその仕事と向き合わざるを得なくなる。だが彼は殺す手前になって、その仕事を放棄してしまう。

この選択にはある出来事が関わっている。ウシはある時、市場で小さな蟹をもらい受けることになる。本当は食材として殺してしまうはずだったのだが、ウシは心変わりをして蟹をペットとして育て始めることになる。しかも殺しのターゲットであるネルソンの名前を彼に授けることになる。

ネルソンをめぐって、ウシと友人であるグマロ(Diego Jauregui)がこんな対話を繰り広げる。昔は鶏といった家畜を自分たちの手で殺して、その肉を食べていた。子供たちはそうやって死に触れていたのである。今はカルテルなどの虐殺やそれを報じる新聞などによって子供たちは死に触れる訳であり、この状況では過去は郷愁深く映る。だが果たして本当にそうなのだろうか。

ウシという男は生と死に激しく引き裂かれている存在である。彼は生きながらにして亡霊のようにしか在ることができず、常に死に憑りつかれている。何故なら彼の過去は血に染まっているからだ。ウシはそれから逃げることができない、というよりもう逃げることを諦めてしまったかのようにすら見える。

しかし監督はウシの人生のその先を見据えていく。彼は蟹のネルソンを大切に育て続け、初めて優しさを見せるようになる。そしてこの優しさは同じ名前を持つ殺しのターゲット・ネルソンとの友人関係、そして行きつけの個人商店の主人ソル(Regina Flores Ribot)との恋人関係に繋がっていく。そうして彼が生を手繰り寄せようとしていく姿は、静謐に満ちながらも感動的なものだ。

"Uzi"は過去への郷愁と目前に広がる現在、血にまみれた死と輝ける生の間で引き裂かれた男の姿にメキシコの行く末を託した作品だ。私たちはメキシコの闇の深さに絶望することともなるだろう。それでもその先に希望があると、私は信じたい。

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