鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

映画痴れ者/ライター済東鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

Ameen Nayfeh&"200 Meters"/パレスチナ、200mという大いなる隔たり

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パレスチナ映画作家たちは魅力的な娯楽性を通じて、パレスチナの現状を語るのに長けた者たちが多い印象を受ける。例えばエリア・スレイマン「D.I.」「天国にちがいない」などにおいて知性に裏打ちされたユーモアと共に、パレスチナの現在を見据え続けている。ハニ・アブ・アサドパラダイス・ナウ「オマールの壁」において切れ味鋭い語りを以て、スリラーの枠内でパレスチナ人の苦境を描きだしている。最近では「テルアビブ・オン・ファイア」が巧みなユーモアと皮肉を以て、パレスチナ人とイスラエル人の緊張関係を描きだしていた。今回紹介する作品は様々なジャンルを横断しながらパレスチナの今を描きだす作品、Ameen Nayfeh監督のデビュー長編"200 Meters"だ。

今作の主人公はパレスチナ人男性のムスタファ(Ali Suliman)だ。彼には愛する妻サルワ(Lana Zreik)と子供たちがいるのだが、仕事の事情とイスラエルによって建てられた壁のせいで離れて暮らしている。彼らの家と家の距離は実に200mしかないのだが、この国においてその距離は途方もない程の隔たりを示しているのである。

まずNayfeh監督はムスタファの毎日を丹念に描きだしていく。彼は妻の家でしばらく家族団欒の時間を過ごした後には、仕事に出かけて同僚たちと労働に明け暮れる。それから帰ってくると、彼は窓越しに妻の家を眺め、電話で彼らと会話をしながら、明かりの明滅によって愛を語りあうのだ。

だが壁を越える時に使う証明書の期限が切れたことから、ムスタファの人生に綻びが現れる。彼が証明書の更新を行っている間、電話がかかってきて息子が自動車事故に遭ったことを知る。彼は急いで壁を通ろうとするのだが、更新したはずの証明書を拒否されてしまい、途方に暮れることとなる。

ここから本作は不条理劇の様相を呈しはじめる。検問所の職員との問答は堂々巡りであり、カフカ的な官僚主義的展開が繰り広げられる。そして検問所の通過を諦めざるを得なくなり、選択肢は密入国を行うバスに乗ることだけだった。たった実際には200mの距離しか離れていないのに、ムスタファはパレスチナイスラエルを横断する旅に出る羽目になってしまう。

今作は不条理劇の雰囲気そのままに、更にロードムービーへの驚くべき変貌を遂げることになる。他のパレスチナ人と共有されるこの旅には様々な光景が現れる。パレスチナに広がる美しい自然、かと思えばパレスチナ人に罵詈雑言を向けるイスラエル人の群衆、それに我慢できなくなった1人のパレスチナ人は道に掲げてあるイスラエル国旗を強奪し、ビリビリに破り去ることとなる。その1つ1つがパレスチナの多様な側面を語るようだ。

そして乗客の中には1人興味深い人物がいる。アンネ(Anna Unterberger)というドイツ人女性はドキュメンタリー作家であり、同行者であるパレスチナ人青年キファ(Motaz Malhees)の旅路を撮影するため常にカメラを回している。この撮影に否応なく巻き込まれる故、他の乗客たちは不快感を露にし、彼女が分からないだろうアラビア語で罵倒の言葉を紡ぎ、ムスタファ自身も彼女に対する不信感を隠せないでいる。

が、アンネが実はパレスチナ人であることが発覚した時、状況は変わっていく。彼女の祖母はヨルダンのパレスチナ人で、父親はドイツへ移住したパレスチナ人だ。彼女はドイツ人とパレスチナ人のミックスであり、この映画撮影は言わば自身のルーツを探る旅のように思える。そこでパレスチナ人は態度を変えるかと思いきや、また別の不快感を抱く。まるで"白人の血が入った奴に、自分たちの境遇を理解されてたまるか"といった風な視線を彼女に向けるのだ。Nayfeh監督はここにおいてパレスチナ人の心に巣食う酷薄な差別の念をも抉りだすのだ。

だが更にここから事態は二転三転していき、観客はその躍動に驚かされることになるだろう。脚本はNayfeh監督自身が手掛けているが、観客の集中力を途切れさせない語りの緊張と濃密ぶりは頗る巧みなものであり、そこからは監督としてだけでなく脚本家としての才気すらも感じられる筈だ。

そして物語が進むにつれて、Nayfehは登場人物たちの背景をも丁寧に描きこんでいき、それが展開と有機的に絡みあうこととなる。ある者の過去が明かされ、ある者の秘密が明かされ、それによってある者は苦悩し、またある者は言葉を越えた感情に襲われることになる。この有機性によって今作の深みはどんどん増していくのである。

"200 Meters"において、私たちはNayfeh監督の巧みな語りに魅了されながら、パレスチナの今を目撃することになるだろう。時に娯楽性というものが"知る"という行為に多大なる影響を与えることがある。他の優れたパレスチナ人監督と同じように、Nayfeh監督もまたこの事実を熟知している。故に彼はパレスチナ映画界の正統なる新たな才能と言えるのだ。

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私の好きな監督・俳優シリーズ
その401 Jodie Mack&"The Grand Bizarre"/極彩色とともに旅をする
その402 Asli Özge&"Auf einmal"/悍ましき男性性の行く末
その403 Luciana Mazeto&"Irmã"/姉と妹、世界の果てで
その404 Savaş Cevi&"Kopfplatzen"/私の生が誰かを傷つける時
その405 Ismet Sijarina&"Nëntor i ftohtë"/コソボに生きる、この苦難
その406 Lachezar Avramov&"A Picture with Yuki"/交わる日本とブルガリア
その407 Martin Turk&"Ne pozabi dihati"/この切なさに、息をするのを忘れないように
その408 Isabel Sandoval&"Lingua Franca"/アメリカ、希望とも絶望ともつかぬ場所
その409 Nicolás Pereda&"Fauna"/2つの物語が重なりあって
その410 Oliver Hermanus&"Moffie"/南アフリカ、その寂しげな視線
その411 ロカルノ2020、Neo Soraと平井敦士
その412 Octav Chelaru&"Statul paralel"/ルーマニア、何者かになるために
その413 Shahram Mokri&"Careless Crime"/イラン、炎上するスクリーンに
その414 Ahmad Bahrami&"The Wasteland"/イラン、変わらぬものなど何もない
その415 Azra Deniz Okyay&"Hayaletler"/イスタンブール、不安と戦う者たち
その416 Adilkhan Yerzhanov&"Yellow Cat"/カザフスタン、映画へのこの愛
その417 Hilal Baydarov&"Səpələnmiş ölümlər arasında"/映画の2020年代が幕を開ける
その418 Ru Hasanov&"The Island Within"/アゼルバイジャン、心の彷徨い
その419 More Raça&"Galaktika E Andromedës"/コソボに生きることの深き苦難
その420 Visar Morina&"Exil"/コソボ移民たちの、この受難を
その421 「半沢直樹」 とマスード・キミアイ、そして白色革命の時代
その422 Desiree Akhavan&"The Bisexual"/バイセクシャルととして生きるということ
その423 Nora Martirosyan&"Si le vent tombe"/ナゴルノ・カラバフ、私たちの生きる場所
その424 Horvát Lili&"Felkészülés meghatározatlan ideig tartó együttlétre"/一目見たことの激情と残酷
その425 Ameen Nayfeh&"200 Meters"/パレスチナ、200mという大いなる隔たり

Horvát Lili&"Felkészülés meghatározatlan ideig tartó együttlétre"/一目見たことの激情と残酷

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一目惚れというものにはその人の人生を変貌させる、時には完膚なきまでに破壊し尽くす魔力が存在している。それは理論や倫理を越えた凄絶なる力を持ち合わせている。一度その魔力に憑りつかれた人間は抵抗も虚しく、その荒波のような勢力に呑みこまれ、愛へと突き進むことになる。今回紹介するのは、そんな一目惚れの運命的、致命的な力を描きだそうとするハンガリー映画Horvát Lili監督作"Felkészülés meghatározatlan ideig tartó együttlétre"だ。

今作の主人公はマールタ(Stork Natasa)という女性だ。彼女はアメリカで神経外科医としての華々しいキャリアを謳歌していた。だが研究発表のために故郷ハンガリーブダペストへ赴いた時、彼女はヤーノシュ(Bodó Viktor)という医師を見かけ、一瞬で恋に落ちてしまう。意識も定かでないまま、確かに記憶に残る彼との約束を胸に自由橋へ赴くが、ヤーノシュは現れない。

だがマールタは彼を忘れることができなかった。アメリカに戻ることすら放棄したマールタはブダペストに定住、彼を探し求める。その末に彼が勤務する病院を突き止め、外科医として勤務することに成功する。そして再会という待ちに待った瞬間が訪れるのだが、ヤーノシュは彼女のことを全く覚えていなかった。

映画はマールタの執念ゆえの行動を描き出しながらも、Horvat監督の演出は凍えるような客観性で貫かれている。病院のウェブサイトでヤーノシュの写真を見つめるマールタ、彼の面影を探しもとめてブダペストを彷徨うマールタ、Youtubeで子供時代のヤーノシュが歌唱コンテストで歌を披露する動画を眺めるマールタ。その光景を見据えながらも、しかし監督が彼女に肩入れすることはない。冷静な観察眼がここでは貫かれている。

ヤーノシュと再会を果たした後にこそ、マールタの人生は真の意味で荒れ狂い始める。最初は同僚・友人として彼に接するのであるが、その交流の最中、彼には家族がいるのではないか?という思いに晒され始める。そして手術を行った患者の息子であるアレックス()という青年が、マールタに恋に落ち彼の未だ青い愛に彼女の心は震わされることになるのだ。

劇中、幾度となくマールタが精神科医と対話を果たす場面が挿入される。彼の前で自身の直面する激情について分析するマールタは頗る明晰であり、彼女の言葉は驚くほどの客観性が存在している。だがこれが逆説的に証明するのはそれほど自身の激情を突き放して分析できる人物ですら、一目惚れの魔力に抵抗できないということなのだ。幾度となく精神科医の前で自身を分析すれども、マールタはヤーノシュを妄執とともに追い続ける。

そして事態を複雑にするのは、ヤーノシュ自身もまたマールタに好意を見せ始めることだ。交流が深まっていくと同時に、彼はマールタを食事に誘ったりなどする。マールタはそれに喜びを覚えながらも、先述した家族の存在なども相まって、素直に彼の好意を受け取ることはない。その中で魔力に喜びや猜疑心が絡みあうことで、マールタは精神の危機に追いやられていく。

ここで現れるのが基調となる客観的描写とは真逆の、マールタの視点に寄り添った主観的な描写だ。ある時、マールタがマンションから出てくると、道路の向こう側でヤーノシュが待っているのが見える。マールタは驚きながら、彼の元には行かず、その顔を見つめたままに歩道を歩く。するとヤーノシュも彼の顔を見つめたまま、歩き始める。道路越しに共鳴する視線と歩み、そこからは筆舌に尽くしがたい多幸感に溢れ出てくることになる。だがその多幸感には否応なく、愛の成就への期待と愛の崩壊への恐怖が宿り、幸せを感じる度にこそ、マールタの心は不安定さを増すのだ。

そしてこの客観性と主観性を自由自在に行きかいながら、Horvat監督は一目惚れの不条理を描きだしていく。その不条理によって、マールタは愛の荒野へと投げだされ、激情に突き動かされながら彷徨い続ける。ここにおいては全てが残酷だ。曖昧な不安も、束の間の喜びも、そして彼女の身体を包みこむ多幸感すらも。この残酷さを直視しながら、私たちも自身が経てきた愛について思いを馳せざるを得なくなる、心の深奥にこそ残る愛を。それほどの力がこの"Felkészülés meghatározatlan ideig tartó együttlétre"にはあるのだ。

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Nora Martirosyan&"Si le vent tombe"/ナゴルノ・カラバフ、私たちの生きる場所

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皆さんもニュースでご覧になられただろうが、今アルメニアアゼルバイジャンナゴルノ・カラバフという地域を巡って激しい紛争を繰り広げている。Twitterでは紛争の動画が流れ(日本人はまるでこの動画を一種の娯楽作品のように捉え、気軽にTwitterで共有しているように思われてならない)、停戦協定が結ばれたかと思えばすぐに戦闘が再開するなど、かなりの混沌が広がっている。私はアルメニアにもアゼルバイジャンにも友人がおり、Facebookで繋がっているので、両者から自分たちの国の悲惨な境遇を知ってほしいというポストと共に、互いの国がいかに悪辣で残酷かを訴えるポストも流れてくる。それが本当に辛い。罪のない個人が、国に先導されて憎悪を内に宿す様を、まざまざと見せつけられているようだ。私の親友であるアゼルバイジャン人もアルメニアへの怒りを英語とアゼルバイジャン語でポストしており、それを見ると本当にやるせない気分にさせられる。

私はいわゆる中立という立場はとても危うく、ともすれば有害な冷笑主義にまで繋がる危険性を持っていると思われるが、この紛争に関してはどちらの国の友人も心配で、彼ら両方の心に寄り添いたいとそう願っている。ここで私は何ができるのかを考える。紛争を考えると遠く日本に住む私は全くの無力だと感じさせられる。それでも私は、ナイーブすぎるかもしれないが、ここでいつもやってきたことを変わらずに続けていきたい。それは日本未公開映画を紹介するということだ。それによって日本の皆さんにアルメニアアゼルバイジャン、ニュースでは知ることのできない両方の現実を知って欲しいのである。ということで今回は正に紛争の真っただ中にあるナゴルノ・カラバフの現在を、アルメニア人の視点から描きだす1作、Nora Martirosyan監督のデビュー長編"Si le vent tombe"を紹介しよう。

今作の主人公はアラン(「ネネットとボニ」グレゴワール・コラン)というフランス人男性だ。彼はナゴルノ・カラバフにやってきたのは、この地域に建設された空港を再建するため、レポーターとして現実を世界に伝えることが目的だった。空港の再建は地域のアルメニア人たちにとっては悲願であり、アランは彼らの希望でもあった。

まずMartirosyanはナゴルノ・カラバフにおいては異国の民であるアランの視点を通じて、地域の現実を描きだそうとする。宏大でありながら些かの荒廃の印象も抱かされる大地、その大地に疎らに偏在する公共施設、活気ある街並みの間隙に見えてくる貧困の影、のどかさと不穏が音もなく同居するような奇妙な雰囲気。そんな風景の数々をアランと私たちは目撃することになる。

その中で彼は空港再建を指揮するリーダーからこんな言葉を聞くことになる。"空港が再建されて飛行機が飛び立てば、世界の皆が私たちが生きていると知ってくれる。私たちの記憶が守られることになる"と彼は真っ直ぐな視線で言うのだ。観客はそこからナゴルノ・カラバフの悲壮な現在を知ることができるだろう。

そして今作におけるもう1人の主人公がエドガル(Hayk Bakhryan)というアルメニア人の少年だ。彼は家族を養うために、昼間中はずっとこの地域の人々に新鮮な水を売ってる。その苦労に満ちた生活は毎日続く、閉塞感に終りが見えることは一切ない。

Martirosyan監督は、エドガルの目からは更にこの大地に深く根差した人々の日常というものを描きだそうとする。空き地でサッカーをして遊ぶ子供たち、荒廃した廃墟の間を家畜たちとともに練り歩く牧畜人、病院で水を飼う軍人。虚飾なき視線を通じて描かれる彼らの姿からは、豊かで生々しい息遣いが聞こえてくるのだ。

その中でも際立つのが彼らの日常に存在する大いなる貧困だ。エドガルは学校にも行くことができないまま、新鮮な水を売り捌く生活をしている。しかもその新鮮な水というのは件の空港から盗み出した水道水なのだ。空港側の人間たちも黙認はしているようだが、そうやってでしかエドガルは金を稼ぐことができない訳である。そしてそんな状況にあり、空港から街へと行こうとするエドガルの姿を、アランは目撃するのである。

Simon Rocaによる撮影は抒情的なリアリズムによって満たされている。彼の映し出すナゴルノ・カラバフの大地は荒涼を伴った壮絶な美として、私たちの網膜に凍てついた風を吹かせる。そして彼がこの大地とアランら登場人物たちを同時にフレームに入れる時、そこでは彼ら人間のちっぽけさが際立つことになる。この瞬間の数々が何とも言い難いほどの切なさを持っており、私たちの心を打つのだ。

そしてアランは空港の人々、特に運転手を務めるアルメニア人であるセイラネ(Arman Navasardyan)と親交を深めていき、ナゴルノ・カラバフの現実の奥深くまで潜行していくことになる。この過程の中で、彼はこの状況のどうしようもなさを、歴史のままならさと直面し、苦悩すらも深まっていくことになる。

彼を演じるのは「ネネットとボニ」「美しき仕事」などクレール・ドゥニ作品で鮮烈な印象を残してきたフランスの名優グレゴワール・コランであり、ここでは静かな力演を見せてくれる。彼の端正な顔立ちには神経質な不安定さが濃厚で、まるでそれがナゴルノ・カラバフの不安定な状況を反映したかのうであり、彼が現実を知っていくごとにこの不安定さは更に痛切さを増していく。彼の繊細な風貌は、この地における異国の民としての疎外を伴いながら、その実この地の現状自体を意図せず捉えるような複雑さを纏っているのだ。

しかしこの認識すらも甘かったことに、終盤の展開を目の当たりするアランと私たちは悟ることになるだろう。ナゴルノ・カラバフの長き歴史における悲劇は私たちの想像など軽く越えていく。私たちは、アランと共に打ちひしがれるしかないのだ。だからこそMartirosyan監督が"Si le vent tombe"を通じてナゴルノ・カラバフを語ることの意味は大きい。彼女が語らなければ歴史の隅に追いやられていたかもしれない現実を、しかし今作は真摯に、胸掻き毟るような切実を以て描きだしている。私たちはこの声を、聴かなければならない、そして考えなければならないのだ。

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私の好きな監督・俳優シリーズ
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ナルシスとプシュケ、そしてハンガリー映画史~Interview with Csiger Ádám

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さて、日本の映画批評において不満なことはそれこそ塵の数ほど存在しているが、大きな不満の1つは批評界がいかにフランスに偏っているかである。蓮實御大を筆頭として、映画批評はフランスにしかないのかというほどに日本はフランス中心主義的であり、フランス語から翻訳された批評本やフランスで勉強した批評家の本には簡単に出会えるが、その他の国の批評については全く窺い知ることができない。よくてアメリカは英語だから知ることはできるが、それもまた英語中心主義的な陥穽におちいってしまう訳である(そのせいもあるだろうが、いわゆる日本未公開映画も、何とか日本で上映されることになった幸運な作品の数々はほぼフランス語か英語作品である)

この現状に"本当つまんねえ奴らだな、お前ら"と思うのだ。そして私は常に欲している。フランスや英語圏だけではない、例えばインドネシアブルガリア、アルゼンチンやエジプト、そういった周縁の国々に根づいた批評を紹介できる日本人はいないのか?と。そう言うと、こう言ってくる人もいるだろう。"じゃあお前がやれ"と。ということで今回の記事はその1つの達成である。

今回インタビューしたのはハンガリー映画批評家Csiger Ádám チゲル・アーダームだ。1988年生まれとハンガリーの批評家でも若い層に位置する彼は2009年からフリーランスとして活動を開始、英語とハンガリー語で映画評を寄稿しており、ハンガリーで最も有名な映画雑誌Filmvilágにも記事を執筆している。ということで今回彼にハンガリー映画との出会い、ハンガリー映画界の異端児Bódy Gábor ボーディ・ガーボル、そして2010年代を代表するハンガリー人作家Nemes László ネメシュ・ラースローの評価などなど様々なことについて尋ねてみた。ということで、再びハンガリー映画史への航海へ旅立て!

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済藤鉄腸(TS):まずどうして映画批評家になりたいと思いましたか? どのようにその夢を成し遂げましたか?

チゲル・アーダーム(CA):私が思うに映画とは最も豊かで複雑な芸術形態であり、その他の芸術全ての複合体なんです。多くのことを成し遂げる力があり、そこで観客は異なる視点、世界、そしてある意味では人生を経験することができます。映画は観客に対して世界を開くゆえに、恋に落ちるのは容易いでしょう。私はこの経験について書くのがいつも好きでしたし、ある理由からメモを取り続けてもいて、こうして映画批評家になったのは自然なことでした。同時に脚本の執筆も勉強しており、これが映画を批評するにあたってまた別の良い視点を与えてくれました。そうすることでこの職業にまつわる多くのトリックを学べますし、たくさんの初歩的な間違いを体験することもできますしね。それから私が映画批評が重要だと思うのは、映画には人の物事を考える方法を変える力があり、そういう意味で映画作家は責任を負っているからです。そういう意味で私が感銘を受けた映画が2つあります。1つが映画に関する知的な会話の数々がある「スクリーム」そしてもう1つがクラスで映画を学ぶ生徒たちが続編について語る場面のあるスクリーム2です。この場面を観ると大学でできる最もクールなことはこれだなと思えるし、実際そうなんですよね。

TS:映画に興味を持ち始めた頃、どんな映画を観ていましたか? 当時ハンガリーではどういった映画を観ることができましたか?

CA:90年代とゼロ年代において、ハンガリーの映画館は今と同じようにハリウッド映画に支配されていました。良いハンガリー映画は少なく、故に子供の頃の私はTVを観ながら育ちました。ディズニーやカートゥーン・ネットワークドラゴンボールなどです。高校に通っていたゼロ年代、近くにラインナップの良いビデオテークがあり、文学の教師だった母とたくさん映画を観ました。その時はリベラルアーツを専攻していたんですが、それは映画の授業があったからで、映画理論と映画史で学位も取りました。実は私はハンガリー映画のファンではありません、そうであればと願ってはいるんですが。皆、自分の言語や文化、歴史にこそ最も密接に関われますからね。私の場合はアメリカ映画やイタリア映画、日本映画、それから古いB級映画作家主義的なジャンル映画(スコセッシ、デ・パルマタランティーノ、ヴァーホーベン、クローネンバーグなど)さらにテレンス・マリックデヴィッド・リンチアレハンドロ・ホドロフスキーといった作家たちの最も大胆な作品群、ブレイキング・バッドといった素晴らしいTVドラマなどです。他にも挙げましょう、マリオ・バーヴァダリオ・アルジェント石井輝夫塚本晋也三池崇史「鬼婆」「HOUSE -ハウス」「地獄」さらに素晴らしいアニメたちです。黒澤映画や「忍びの者」シリーズを観るのはスターウォーズを観るのと同じような体験でした。10年前に大学を卒業する頃、ハンガリーではトレントが普通となっていて、どんな映画でも簡単に観ることができました。ですが確信しているのは私はハンガリーで最も規模の大きいDVDコレクションを持っていることです。ここ数年、オーディオコメンタリーを収集しているんです。

TS:あなたが初めて観たハンガリー映画は何でしょう? その感想もぜひお聞きたいです。

CA:記憶が定かではありませんが、それでも1996年に観た"Honfoglalás"だと思います。ハンガリー人の国的なオリジンを描き出した歴史映画です。私は小学校に通う8歳の少年で、教師が授業の一環として私たちを映画館に連れていったんです。覚えているのは当時は幼いですから映画に注意を払っていなかったことですね。TVでは古典映画を観ることができましたが、次に観たハンガリー映画は当時のハリウッド映画に似た商業映画で1997年の"A miniszter félrelép"と2003年の"Kontroll"でした。それから映画を学ぶ生徒として"Körhinta""A tanú", "Szegénylegények", "Mephisto", "A kis Valentino"といったハンガリー映画史に影響の深い作品群をテストや卒業試験のために観ました。ですがハンガリー映画の価値を真に悟ったのは2016年、マーティン・スコセッシ「沈黙」――2010年代におけるベスト映画だと私は思います――が上映されて、それを観ながら"Szegénylegények"を思い出した時です。そこで私はスコセッシがJancsó Miklósの作品を礼賛していたことを思い出しました。

TS:あなたにとってハンガリー映画の最も際立った特色とは何でしょう? 例えばフランス映画は愛の哲学、ルーマニア映画は徹底したリアリズムとドス黒いユーモアなどです。ではハンガリー映画についてはどうでしょう?

CA:思うにハンガリー映画において支配的なテーマを指摘するのは極端な素朴化であると思います。映画作家たちとのインタビューを読んだり、実際に敢行する中で学んだのは彼らは映画批評家のように全く考えないということです。彼らには彼ら自身の特定の興味と情熱がある訳ですよね。もちろん批評家の仕事はまた異なる考えを提示することでしょうが、しかしおそらく私たちの1人1人が自身が興味深く思うことを背景にこの問いを答えるのも面白いでしょう。私としては、ハンガリー映画の黄金時代は――50年代から80年代です――100万人という人口しか持たない、社会主義に独裁された、文字通りの第2世界である国から生まれたことを無視はできません。もちろんこれもやはり極端な素朴化でしょうが、黄金時代の傑作の数々は間違いなくあるレベルにいて作られた環境と対峙しています。

TS:ハンガリー映画史において最も重要な映画とは何でしょう? それは何故かもお聞きしたいです。

CA:もし1作選ぶとするならSzabó István サボー・イシュトヴァーン"Mephisto"でしょう。今作はハンガリー映画で初めてオスカー像を獲得した作品(外国語映画賞)で、主演はKlaus Maria Brandauer クラウス・マリア・ブランダウアーです。今作は俳優が直面する試練とナチ時代のドイツにおける苦難を描いたファウスト的な物語です。しかし同時に今作が属する時代のシステム、芸術家たちが個性と全体主義の間で戦い続けなくてはならなかったシステムについても描いていました。こんにちにおいて監督に関しては毀誉褒貶があります、彼は政府の秘密警察に与する密告者であったからです。今作は前の質問に対する答えが意味するものの良い例だとおも思います。

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TS:もし1本だけ好きなハンガリー映画を選ぶなら、どれを選びますか? その理由は一体何でしょう? 個人的な思い出がありますか?

CA:好きな映画と呼べるものはありません。しかし喜ばしい驚きを持っていたり、海外で広く観られるべき作品をいくつか挙げることができます。Jankovics Marcell ヤンコヴィチ・マルツェッルのアニメーションはクールな日本アニメのように素晴らしいです。例えば"János vitéz""Fehérlófia"など。それから"Szindbád"は監督Huszárik Zoltán フサーリク・ゾルターンと我らが"俳優の中の王"Latinovits Zoltán ラティノヴィツ・ゾルターンの豪華なコラボレーションでもあります。2人とも若くして亡くなってしまいましたが。"Meteo"は1990年に制作されたクールなポスト黙示録映画で、東側ブロックの時代の最後に作られた1作でした。そして2014年制作の"Van valami furcsa és megmagyarázhatatlan"ハンガリー「アニーホール」であり、私たちの世代を描きだすスナップショットなんです。

TS:海外において世界のシネフィルに最も有名な映画作家の1人はBódy Gábor ボーディ・ガーボルでしょう。"Nárcisz és Psyché""Kutya éji dala"といった作品群を観ると、これらの生々しさと悲痛さに心の底から感銘を受けます。彼の自由な、永遠に若き魂にはいつだって涙を流してしまいます。しかし彼や彼の作品は今ハンガリー人にどのように受容されているでしょう?

CA:彼は興味深く何とも謎めいた人物です。彼もまた密告者と言われており、不可解な状況で若くして亡くなったからです。彼は映画理論に興味があり、実験的な野心にも溢れていました。それと同時に巨大な1作"Nárcisz és Psyché"も作っていますね。私はウド・キア"Nárcisz és Psyché"についてインタビューする機会に恵まれたのですが、彼は今作が規格外なまでに大規模な予算で、撮影も長かったと語っていました。それから彼とキアーはTVドラマ("Krétakör""Katonák")も共に制作していますし、卒業制作である"Amerikai anzix"も発見する価値があります。私は他の人と違う理由で"Kutya éji dala"が好きですね。今作には私の好きなハンガリーのバンドVHK-Galloping Coronersが出演しているんです。学術的観点ではBódyは深く尊敬されていますが、思うにハンガリーにおいて彼は過小評価され、忘れ去られています。

TS:ハンガリー映画を観る時にいつも感動させられるのは、映画作家たちが息を呑む優雅さと綿密な努力によっていかに長回しを駆使しているかです。ハンガリー映画史を通じて、この技術は映画作家たちに受け継がれています。Radványi Géza ラドヴァーニ・ゲーザからJancsó MiklósGaál István ガール・イシュトヴァーンからBódy Gábor ボーディ・ガボールTarr Bélaからx……しかし私のような外国人にとって謎めいているのは、なぜこの技術が歴史を通じてハンガリー映画作家の魂に共鳴しているかです。この長回しへの傾倒の源は一体何でしょう、そしてどのようにこの技術は構築されていったんでしょう?

CA:あなたは正しいでしょう。これはハンガリー映画における伝統であり、最新の映画では例えば"Genezis"(監督はÁrpád Bogdán アールパード・ボグダーンです)などが挙げられます。しかし難しい質問ですね。博士号を持った学生や教授ならこのトピックに関して多くの時間を費やしているでしょう。そして私が前に言った通り、映画作家というのは皆異なっており、長回しも様々な形で使われています。例えばリアリズム――カット割りで現実を誤魔化さないための――からシンプルな演出までです。しかし映画作家たちは自身の師や理想からこれを受け継いでいるのでしょう。例えばJancsóはアントニオーニから、TarrはJancsóから、NemesはTarrから。そしてSzőts István セーツ・イシュトヴァーン"Emberek a havason"はイタリアのネオリアリズモに影響を受けていると言われていますし、私たちはイタリアからも影響を受けているのでしょう。

TS:そして2010年代のハンガリー映画界において最も重要な人物は間違いなくNemes Lászlóでしょう。彼のサウルの息子「サンセット」といった作品は世界の批評家やシネフィルから熱狂を以て受け入れられています。しかし本当に知りたいのはハンガリー史の闇を描きだす彼の作品群に対する、ハンガリー人たちの反応です。それからぜひとも彼に対するあなたの率直な意見もお聞きしたいですね。

CA:このテーマを問題としている人々はそう多くはないと思います。それでも少しだけですが、そういった問題が持ち上がることもあります。サウルの息子はオスカー像を獲得しただけでなく、ハンガリーで珍しく興行的にヒットを遂げました。おそらくカンヌでの熱狂が理由でしょう。私は今作について3回観て多くのことを書きましたし、DVDのオーディオコメンタリーにも参加しました。それ故に「サンセット」に関しては少し心配もしていました。監督は大きな期待に応えなくてはならなかったし、初監督作がヒットしたと作り手の皆が信じ、数々の成功の後に監督が自身が天才だと祭りあげられ完全な創造的自由とより多くの予算を与えられた挙句、野心的な失敗作を作ってしまう、いわゆる""2作目のスランプ"に陥ってしまうのではないかと思ったんです。これが正に起こったとは言いませんが、それでも「サンセット」サウルの息子よりも評判が極端なものになりました。少ない数の批評家は妥協なき芸術映画と賛辞を送りましたが、他は今作を不満に満ち焦点が合っていないと酷評しました。もう1度観る必要があるんでしょうが、思うにサウルの息子ではスタイルと内容が完璧にマッチしていましたが「サンセット」で異なる物語が同じ様式で語られる様は所見だと困惑させられるのです。本当に異なった映画でしたからね。しかし国際的に彼が認知されていることは嬉しく思います。

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TS:2010年代が数か月前に幕を閉じました。ここで聞きたいのは、2010年代において最も重要なハンガリー映画とは何だったのかということです。例えばNemes Lászlóサウルの息子("Saul fia")、Mundruczó Kornél ムンドルッツォ・コルネールホワイト・ゴッド 少女と犬の狂詩曲("Fehér isten")やEnyedi Ildikó エニェディ・イルディコー「心と体と」("Testről és lélekről")などなど。個人的にはTill Attila ティル・アッティラヒットマン・インポッシブル」("Tiszta szívvel")を挙げたいです。今作は2010年代における新鋭の1作として素晴らしく、その障害者に関する描写も目覚ましいものがあります。

CA:それはサウルの息子」になるでしょうね。2010年代に国家的なファイナンスを映画に行っていたのはAndy Vajna アンディ・ヴァイナ率いるFilm Fundであり、個人的に思うのはこの映画こそがこの10年で作りたかった私たちの映画であったということです。脚本や演出、演技が良いというだけでなく、35mmフィルムによって大きなスクリーンで体感するべき本物映画体験がここにはあるんです。Nemesは最もハンガリー的な映画製作の伝統を、例えば1985年制作のソ連映画「炎628」などから受け取ったインスピレーションと組み合わせた訳です。今作は私たちの歴史を描きながら、他方でとても普遍的なものです。それからこの映画は大作映画に見えながら実際は低予算なんです。スタイルにおいてとても魅力的でありながら物語自体はアンティゴネー」のように伝統的なものでもあります。

TS:ハンガリー映画界の現状はどういったものでしょう? 外側からだとそれは良いように思えます。Nemes László以降も、新しい才能たちが有名な映画祭に現れています。例えばロカルノKenyeres Bálint ケニェレシュ・バーリン、カンヌのSzilágyi Zsófia シラーディ・ジョーフィアヴェネチアHorvát Lili ホルヴァート・リリらです。しかし内側から見ると、現状はどのように見えますか?

CA:批評家という観点から見ると、ハンガリーには多くの才能がいて、驚くほどに面白い、時には過小評価すらされる映画をよく作っています(困難や小さな市場ゆえのチャレンジにも関わらずです)、そして私たちは鉄のカーテンが遠ざけていたこの芸術に関して今もまだ学び続けています。そうして皆と同じようにハンガリー人も芸術映画を作れると証明した訳です。そして今はジャンル映画を作ることで世界の関心を奪うことができる素晴らしい時代です。例えばパンデミック禍においてポーランド映画「愛は、365の日々で」Netflixを通じて大きなヒットを巻き起こしました。観客はその映画が好きでないにも関わらず!

TS:それからハンガリーの映画批評の現在はどういったものでしょう? 悲しいことに日本には情報がほとんどありません。しかし私はStrausz László シュトラウス・ラースローやBátori Anna バートリ・アンナ、Vincze Teréz ヴィンツェ・テレーズといった素晴らしいハンガリー人批評家の作品を読み、状況は良いように思えます。しかし内側からだと、現状はどのように見えますか?

CA:自然とより多くの映画雑誌や映画批評家が活躍しだしているのが分かって嬉しいのですが、本当に重要なのは量ではなく質なんです。故にもっと大きな国では私たちの国にいる批評家と同じほど優れた批評家がいるんでしょう。思うに、若い人々や映画作家を映画批評に興味を持たせるだけの力を持つ映画の研究者や批評家が多くいます。私自身、10数年前にエトヴェシュ・ロラーンド大学(ELTE)で伝説的な教授Király Jenő キラーリ・イェネーの最後の授業を受けられたことを幸運に思っています。それからELTEとデブレツェン大学ではこの職業を追求できるよう勇気づけてくれる教師たちと出会うこともできました。

TS:あなたはハンガリーの映画雑誌Filmvilágに記事を多く執筆していますね。ぜひこの雑誌について日本の読者に説明してください。この雑誌はハンガリーの映画批評においてどのような役割を果たしていますか?

CA:過去には数年間毎月記事を書いていましたね。今は時々で、最後の記事はシャンハイの映画祭についての記事で夏に掲載されました。この雑誌は月刊の紙媒体誌(名前の意味は"映画の世界"です)で、ハンガリーにおけるカイエ・デュ・シネマやSight&Soundのようなものです。スタンダードはとても野心あるもので、ハンガリーにおいて最も聡明な映画批評家たちのエッセーやインタビュー、レビューを掲載しています。ここに掲載されない限りは自分を映画批評家としては呼べないほどです。オンラインのアーカイブは映画についてどう書けばいいかを教えてくれますし、私自身も大学時代やもっと小さな雑誌に記事を書いていた若いフリーランスの頃にお世話になっていました。映画作家たちもこの雑誌を読んでおり、ある記事にはえとても影響を受けているのではないかと思っています。

TS:あなたにとってハンガリー映画界で最も注目すべき新たな才能は誰でしょう? 例えば私としてはそのアニメーションの繊細なタッチからSzöllősi Anna シェッレーシ・アンナを、ハンガリーのドス黒い現実への鋭い批評からBaranyi Benő バラニ・ベネーを挙げたいです。あなたのご意見はどうでしょう?

CA:この2人の若い映画作家にあなたの関心があるというのは嬉しいことです。しかし私自身が名前を挙げられるかというと定かではないです。何故なら映画製作とはチームワーク、皆による努力であり、監督たちが過大評価される一方で、脚本家やプロデューサー、撮影監督や俳優はかなり過小評価されています。しかし酷く過小評価されている作品として2018年制作の"Nyitva"を挙げたいです。セックスにまつわるロマンティック・コメディですが、とてもクオリティが高く、脚本はハリウッド的だとしても、最もホットな俳優たちで作られていると言えます。もし私がハリウッドのプロデューサーだったら今作をリメイクするでしょうね。物語はとても普遍的なテーマ、オープン・リレーションシップを描いており、観ている間は次の場面が気になってしょうがなくなるでしょう。Netflixで配信されています、日本で観られるかは分かりませんが、もし配信されているならぜひ観てみてください。それから"Post Mortem"という作品にも期待しています。歴史ものでありホラー映画という一粒で二度美味しい作品だそうです。

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Desiree Akhavan&"The Bisexual"/バイセクシャルとして生きるということ

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デジリー・アッカヴァン&「ハンパな私じゃダメかしら?」/失恋の傷はどう癒える? - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!
Desiree Akhavan監督の経歴と彼女のデビュー作"Appropriate Behavior"についてはこちら参照。

今、日本で上映されている作品の中では「エマ、愛の罠」が割と好きだ。詳しくはキネマ旬報にレビューを書いたのでそれを読んで欲しいが、ちょっと納得が行かない部分もある。それは主人公エマのセクシュアリティに関する描写だ。彼女は男性・女性へともに惹かれるバイセクシャルだが、このバイセクシャアル表象は性的奔放といういわゆるステレオタイプ的陳腐さを単純化しすぎでは?と思えて、微妙な感じがしたのだ。これを過激なまでに自由な魂の表出に重ねるのは安易ではないかと。

では、私の好きなバイセクシャル表象がある作品はというとBPM ビート・パー・ミニットで印象的だったナウエル・ペレ・ピスカヤーが主演しているベルギー映画"Je suis à toi"と、イラン系アメリカ人監督Desiree Akhavan デジリー・アッカヴァンのデビュー長編"Appropriate Behavior"(邦題は「ハンパな私じゃダメかしら?」)だ。優れたバイセクシャル表象を持つ作品は、正に多様性の塊として私を魅了する。"Je suis à toi"はアルゼンチン人男性、ベルギー人男性、チュニジア系カナダ人女性のロマコメで、"Appropriate Behavior"は主人公がイラン系アメリカ人(監督が主演を兼任)で、元恋人がトランジションを決意したクローゼットのトランス男性であったりする。更に"Je suis à toi"は主要な登場人物の体型の多様さも印象的で、かつ"Appropriate Behavior"バイセクシャルの主人公がトランス男性との失恋の傷を癒すため出会う人物らがレズビアン女性、ヘテロ男性、ヘテロカップルととても多様だ。2作の多様な生が、こうして日常に深く根づく感じにはいつも新鮮な感動を抱かされるのだ。

で、ここで何故バイセクシャル表象について話しているかというと、最近観ていたドラマが、"Appropriate Behavior"Desiree Akhavanが、日本ではDVDスルーになったサンダンス映画祭作品賞獲得作「ミス・エデュケーション」("The Misseducation of Cameron Post")と同年に制作・監督・脚本・主演を果たした英国のChannel 4制作ドラマ、その名も"The Bisexual"という作品を観ているからだった。いやはや、これが全く素晴らしい作品なのである。

舞台はロンドン、イラン系アメリカ人の主人公レイラ(Akhavanが兼任)は、同性の恋人セイディ(「ピータールー マンチェスターの悲劇」マキシン・ピーク)とともに順風満帆な生活を送っている、ように思われた。しかしセイディから突然プロポーズされたレイラはそれを拒絶、これが原因で恋人関係は崩れ去ってしまう。独り身になった彼女はある秘密と対峙せざるを得なくなる。彼女は周囲の人間にレズビアンだと言っていたが、実はクローゼットのバイセクシャルだったのである。

今作はまずレイラの日常を丹念に描きだしていく。友人であるゲイブ(「タイガー・スクワッド」ブライアン・グリーソン)やデニズ(Saskia Chana)らとダラダラ喋りまくったり、欲求不満解消のためにクラブで踊りまくり、そして時にはそこで出会った男性や女性と肌を重ねる。だがそんな中でセイディが新しい恋人ルビー(Naomi Ackie)を連れているのを見ると、怒りとも哀しみともつかぬ複雑な感情に襲われてしまう訳である。

Akhavan監督の持ち味は何とも気まずいユーモアの数々である。登場人物たちは現実味ある軽薄さを持ちあわせ、彼らの軽率な言葉や行動の数々が場を凍らせて、その雰囲気は笑えるほど悲惨なものになる。この軽率さをAkhavan監督は神懸かり的に絶妙な間とともに描きだしていくのだが、これが"The Bisexual"の核となる訳である。

これを体現するのが劇中において頻出するセックス描写である。例えば1話終盤の"手コキしかされたくない男VSフェラの方がしたい女"バトルの何処か居たたまれないセックスシーンなんかは印象深い。前作の"Appropriate Behavior"においても、主人公がヘテロカップルに誘われ3Pを行うも、カップルが盛り上がりすぎて彼女が蚊帳の外に置かれ、ソファーの隅で2Pを淀んだ視線で見つめる場面などは近年で最も記憶に残るセックスの1つだ。

だが同時にAkhavan監督の描くセックスは頗る真摯なものだ。彼女の作品においては、登場人物はセックスする時に喋りまくるのだ。手コキしてほしい、ゴムをつけよう、こうされると気持ちがいい。時にはセックスと関係ない与太話も合わせ、互いの欲望や要望を誠実に語りあう。しかし、それでもそこには拭い難い、生ぬるい相互不理解と気まずさが存在してしまうのである。このセックスへの真摯な眼差しは本当に独特ながら頗る正直で、得難いものに思われるのだ。

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そして優れたバイセクシャル表象を持つ映画は多様性の塊と先述したが、今作も正にそうである。まず主人公のレイラがクローゼット・バイセクシャルイラン系アメリカ人で、元恋人セイディは異人種フェチの白人レズビアン(しかも演じるはあのマキシン・ピーク!)、さらに友人がアルゼンチン人の教え子に手ェ出すヘテロ白人野郎ゲイブと、義理堅く女気に溢れるインド系イギリス人デニズだ。彼らがペラペラ無責任に喋るだけでマジに面白いのである。

"The Bisexual"などの英国ドラマを観ると、米国ドラマとは多様性を描かんとする時の腰の据わり方が違うなと思わされることが多い。米ドラマは"お前らポリコレ言ってる癖に、アジア人や黒人は白人の引き立て役でしかない訳か? ポリコレ時代の新たなsegregationか?"と、鼻白む時が本当によくある。が、逆に英ドラマでは多様性の日常への根づきに驚かされるのだ。例えば、そこには異人種間カップルが多く出る印象があるのだが、その表象が多様性の祝福(例えば最近ではアリアーヌ・ラベド主演、ポリアモリーを描いた"Trigonometry"など。今作も後々紹介したい)に繋がる時があれば、それが今作のマキシン・ピーク演じるセイディのように、中東系の次は黒人と付きあい、最終話では悍ましい秘密すら明らかになる、いわゆる異人種フェチの白人の特権的軽薄さに繋がる時もあり、表象への感じ方が多岐に渡るのだ。そこに何というか、成熟を感じる訳である。

そして本作はバイセクシャルとして生きることの苦悩へと深く潜行していく。例えばレイラはカミングアウトしていない状態で、レズビアンの友人たちとバイセクシャルに関する会話をするのだが、彼女が言うにはバイセクシャルレズビアンに比べ"無責任"だそうだ。そんな言葉にレイラは複雑な表情を浮かべる。だが特に鮮烈なのはセイディにバイセクシャルとバレた時の反応だ。彼女はレイラを激しい言葉で罵倒尽くした挙句、後日再び会った時にはこんな言葉を投げかける。"アンタとの関係はフェイクでしかなかった!"と。

劇中においてバイセクシャルがゲイブにバレたレイラが"バイセクシャルって言葉は嫌い。何か"性的に奔放すぎ"とか"淫乱"って響きに聞こえる"と発言する場面がある。この発言が象徴するバイセクシャルへの社会の偏見と、バイセクシャルの人物自身が内面化してしまう偏見を、例えば先述の「エマ、愛の罠」などの作品は無批判に利用している印象がある訳だ。そして劇中ではレイラが同じバイセクシャル女性と時間を共に過ごす場面も存在する。彼女との対話は静かながら、その奥には感情の凄まじいうねりが存在し、そこにこそバイセクシャルとして生きることの苦悩、そして孤独が浮かびあがるのである。

"The Bisexual"は神懸かり的に居たたまれないユーモアセンスを以て、バイセクシャルに関する社会の偏見と、自身に内面化された偏見を乗り越えようとする女性の姿を描きだしたドラマ作品だ。そして今作は多様性が作品の面白さに直結するということを居心地悪いほどに証明する1作でもあるのだ。

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私の好きな監督・俳優シリーズ
その401 Jodie Mack&"The Grand Bizarre"/極彩色とともに旅をする
その402 Asli Özge&"Auf einmal"/悍ましき男性性の行く末
その403 Luciana Mazeto&"Irmã"/姉と妹、世界の果てで
その404 Savaş Cevi&"Kopfplatzen"/私の生が誰かを傷つける時
その405 Ismet Sijarina&"Nëntor i ftohtë"/コソボに生きる、この苦難
その406 Lachezar Avramov&"A Picture with Yuki"/交わる日本とブルガリア
その407 Martin Turk&"Ne pozabi dihati"/この切なさに、息をするのを忘れないように
その408 Isabel Sandoval&"Lingua Franca"/アメリカ、希望とも絶望ともつかぬ場所
その409 Nicolás Pereda&"Fauna"/2つの物語が重なりあって
その410 Oliver Hermanus&"Moffie"/南アフリカ、その寂しげな視線
その411 ロカルノ2020、Neo Soraと平井敦士
その412 Octav Chelaru&"Statul paralel"/ルーマニア、何者かになるために
その413 Shahram Mokri&"Careless Crime"/イラン、炎上するスクリーンに
その414 Ahmad Bahrami&"The Wasteland"/イラン、変わらぬものなど何もない
その415 Azra Deniz Okyay&"Hayaletler"/イスタンブール、不安と戦う者たち
その416 Adilkhan Yerzhanov&"Yellow Cat"/カザフスタン、映画へのこの愛
その417 Hilal Baydarov&"Səpələnmiş ölümlər arasında"/映画の2020年代が幕を開ける
その418 Ru Hasanov&"The Island Within"/アゼルバイジャン、心の彷徨い
その419 More Raça&"Galaktika E Andromedës"/コソボに生きることの深き苦難
その420 Visar Morina&"Exil"/コソボ移民たちの、この受難を
その421 「半沢直樹」 とマスード・キミアイ、そして白色革命の時代
その422 Desiree Akhavan&"The Bisexual"/バイセクシャルととして生きるということ

愛、ハンガリー映画史~Interview with Bátori Anna

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さて、日本の映画批評において不満なことはそれこそ塵の数ほど存在しているが、大きな不満の1つは批評界がいかにフランスに偏っているかである。蓮實御大を筆頭として、映画批評はフランスにしかないのかというほどに日本はフランス中心主義的であり、フランス語から翻訳された批評本やフランスで勉強した批評家の本には簡単に出会えるが、その他の国の批評については全く窺い知ることができない。よくてアメリカは英語だから知ることはできるが、それもまた英語中心主義的な陥穽におちいってしまう訳である(そのせいもあるだろうが、いわゆる日本未公開映画も、何とか日本で上映されることになった幸運な作品の数々はほぼフランス語か英語作品である)

この現状に"本当つまんねえ奴らだな、お前ら"と思うのだ。そして私は常に欲している。フランスや英語圏だけではない、例えばインドネシアブルガリア、アルゼンチンやエジプト、そういった周縁の国々に根づいた批評を紹介できる日本人はいないのか?と。そう言うと、こう言ってくる人もいるだろう。"じゃあお前がやれ"と。ということで今回の記事はその1つの達成である。

さて、今回インタビューしたのはハンガリー人の映画研究者Bátori Anna バートリ・アンナである。彼女は東欧映画の専門家であり"Space in Romanian and Hungarian Cinema"という英語本を執筆するなどしている一方、現在はルーマニアのバベシュ=ボーヤイ大学で教鞭を取っている。今回はそんな彼女にハンガリー映画との出会い、Jancsó Miklós ヤンチョー・ミクローシュという偉大な映画作家に対する辛辣な評価、2010年代におけるハンガリー映画の動向、そしてこの時代を代表する天才と彼女に言わしめるReisz Gábor レイス・ガーボルなどなど、様々なことについて聞いてみた。という訳で、ハンガリー映画史の海へ漕ぎ出せ!

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済藤鉄腸(TS):まず映画の研究者になりたいと思ったのは何故でしょう? そしてそれをどのように成し遂げたんでしょう?

バートリ・アンナ(BA):いつも映画に魅了されてきました。子供の頃は、革命後の経済危機で閉まってしまった映画館で遊んだりもしていましたね。それは秘密の世界のようで、古いポスターやチケット、リールなどで溢れており、そこで映画を観ていた思い出があります。この場所は私にとって避難場所であり、ここで映画史について学んだり、時間にゆっくりと消費されていく映画を観ながら、上映室の椅子に独りで座っていたものです。しかし私はこれとは真逆の経験もしてみたいと思っていたんです。つまり映画は決して死んでいないと、皆に伝えたかった訳です。

TS:映画に興味を持ち始めた頃、どういった映画を観ていましたか? 当時のハンガリーではどういった映画を観ることができましたか?

BA:そうですね、90年代にはケーブルTVやビデオテークのおかげで、観たい映画は何でも観ることができました。最初、私はジョーズイージー・ライダー」「グッドフェローズといったアメリカのとても有名な古典映画を観ていましたね。これらはほんの一部です。そして15歳の頃、私の初恋の相手は芸術映画にド嵌りしていました。彼はテレビで放映される名作を何でも録画していたんです。その時はインターネットがなく、ダウンロードなどはできる筈もないので、彼が私にとって唯一のトレントサイトだった訳です!(笑)そうして私はベルイマンフェリーニ、メンツェル、トリュフォーゴダールなど素晴らしい映画作家(主にヨーロッパ人ですが)に出会えました。そしてある日彼はジャームッシュ「ナイト・オン・アース」を見せてくれて、それで人生が一変してしまいました。思い出せるのは今作を観てこう思ったことです。"これについて学びたい"と。

TS:あなたが初めて観たハンガリー映画は何ですか? その感想もぜひ聞きたいです。

BA:90年代のハンガリー映画はかなり酷かったです。大きな危機的状況に直面していて、私が10代の頃に作られた作品の殆どが演出も脚本もお粗末なコメディでした。思うに初めて観たハンガリー映画は1998年の"Zimmer feri"("フェリのギャングども")ですね。今作はバラトン湖で繰り広げられる観光客の金銭的搾取を描いた作品です。とても面白くて、諷刺に満ちたコメディですね。とてもハンガリー的なんです。今でも愛してますよ! これを除くと、子供の頃に観たハンガリー映画で突出した作品を思い出せません。そういう映画は観たくなかった、だって酷い映画でしたから。

TS:あなたにとってハンガリー映画の最も傑出した特色とは何でしょう? 例えばフランス映画は愛に関する哲学、ルーマニア映画は徹底的なリアリズムと黒いユーモアなどです。では、ハンガリー映画についてはどうでしょう?

BA:難しい質問ですね。敢えて表現するなら、私たちの映画は風景という比喩に満ちた映画ということです。スクリーンで観られる全てがとてもハンガリー的な特色を持っています。ハンガリー大平原の終りなき水平線、ハンガリーの"海"であるバラトン湖、迷宮的なブダペストなどなど。それらの全てがメッセージを含んでいます。閉所恐怖症的な感覚、感情的な親密さなどですね。ハンガリーに逃げ場はありません。歴史と憂鬱に立ち往生し、ハンガリーの無限の光景へ完全に埋没してしまうんです。

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TS:ハンガリー映画史において最も重要なハンガリー映画とは一体何でしょう? あなたの意見を聞かせて頂きたいです。

BA:間違いなくTarr Béla タル・ベーラ「サタンタンゴ」("Sátántangó")でしょう。今作はハンガリー史をめぐる完璧な舞踏なんです。今まで観たなかでも最も素晴らしい映画の1つです。そして今作はハンガリーについて知らねばならない全てを伝えてくれます。未だ忘れ去られていないシステムの移り変わり、ハンガリー人の厭世的な精神、そしてパーリンカへの私たちの愛(もしくは依存)についてです(笑)

TS:もし1本だけ好きなハンガリー映画を選ぶとすると、それは何になりますか? その理由もお聞きしたいです。個人的な思い出がありますか?

BA:私の最も好きな作品はKároly Makk カーロイ・マック"Szerelem"("愛")です、そこに嘘はないです。苦闘と歴史、忍耐、そしてもちろん愛についての美しい、叙情的な映画です。イメージにまつわる本物の傑作ですね。今作は世界に言及することなく愛についての全てを伝えてくれます。撮影だけでなく、演技や編集も素晴らしい。絶対に観るべきです!

TS:ハンガリーの外側において、世界のシネフィルに最も有名なハンガリー人作家はJancsó Miklós ヤンチョー・ミクローシュでしょう。例えば"Oldás és kötés"("緩慢と緊張")や"Csillagosok, katonák"("星たち、兵士たち")などの彼の作品を観る時、それらがいかに優雅で緻密であるかに深く感動させられます。ハンガリーの無限の大地を背景に、彼はハンガリー人の複雑な心理模様を描きだしています。しかし、彼や彼の作品はハンガリー人にどのように受け入れられているでしょう?

BA:そうですね、私は彼の映画が好きではないただ一人の存在かもしれません!(笑)"Oldás és kötés"は唯一好きですが、思うに残りは例え話っぽすぎるんです。Jancsóが自分の映画で何を伝えたかったか分かっていたのかすら定かではありません。しばらくの後、彼は自分自身の映画世界(cinematic universe)に迷ってしまったんです。映画研究者としてとても辛辣な批判だと自覚していますが、彼は世界において過大評価されすぎていますね。彼を愛するのはただ偽善者だけなんです。あら、言ってしまいましたね(笑)

TS:ハンガリー映画を観る時にいつも感動させられるのは、映画作家たちが息を呑む優雅さと綿密な努力によっていかに長回しを駆使しているかです。ハンガリー映画史を通じて、この技術は映画作家たちに受け継がれています。Radványi Géza ラドヴァーニ・ゲーザからJancsó MiklósGaál István ガール・イシュトヴァーンからBódy Gábor ボーディ・ガボールTarr BélaからNemes László ネメシュ・ラースロー……しかし私のような外国人にとって謎めいているのは、なぜこの技術が歴史を通じてハンガリー映画作家の魂に共鳴しているかです。この長回しへの傾倒の源は一体何でしょう、そしてどのようにこの技術は構築されていったんでしょう?

BA:長回しは時間と空間の絶対的拡大として機能しています。この場合、触覚という意味において、長回しは風景を感じるために私たちの知覚を遅々としたものにしていくんです。そうすることで私たちは自分たちの眼前に存在するものを見分け、観察の名の下にメランコリーを感じるようになります。ハンガリー史とは循環についての永遠に終わらない物語なんです。私たちは常に終りからこそ始まり、常に始まりでこそ終るんです。この時間と空間への停滞こそが、思うにハンガリー映画作家たちが長回しを通じて描きだそうとしているものなんです。もちろんモダニスト的な語りがこの種の映画に大きな影響を与えた訳ですね。

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TS:特に私が知りたいのはJancsó Miklós長回しがどのように構築されたかということです。彼の長回しは頗る慎重に構築されている故に、動き続ける登場人物の姿は軍隊の禁欲的な規律に重なっていきます(例えば"Szerelmem, Elektra"("我が愛、エレクトラ")などです)彼はアントニオーニに多大な影響を受けたと言われていますが、実際彼の演出様式はそのフィルモグラフィを通じてどのように成立していったのでしょう?

BA:彼の長回し――Tarr Bélaにも似ていますが――時間を通じてどんどん長く長くなっていきます。私の意見として、Jancsóはもはや物語を語る気がなかったと思われるんです。もしくは彼は(ある種の慎重さを以て)どう物語を語ればいいのかを忘れてしまったのかもしれません。私たちが観る物は空間における終りなき舞踏です。アントニオーニとは違い、それを越える深さは存在しないと思います。物語の不在、一貫性の不在、そこにはただ純粋な撮影だけがあります。深淵への永遠に動き続ける無限性、それこそがJancsóなんです。

TS:あなたは"Space in Romanian and Hungarian Cinema"という興味深い本を執筆されていますね。ぜひこの本についてお伺いしたいです。この本を執筆した理由は何でしょう? 何故本のなかでハンガリー映画ルーマニア映画に繋げようと試みましたか? そして現代のハンガリー映画ルーマニア映画からどのような影響を受けているでしょう?

BA:そうですね、数百もの東欧映画を観た後、私はそれらが似たようなミザンセーヌ、演出法を持つことに気づきました。そしてこの美学的な近似性を探求し始め、ルーマニア映画ハンガリー映画における語りの空間が共産主義という過去を呼び起こす比喩的なデバイスとして機能しているという結論に達しました。もちろんこれは映像的なコミュニケーションの含蓄的な方法でです。故に私の主な意図としてはこの地域の映画を分析するだろう新たなアプローチ、それを提供する2つの空間的なモデルを通じてスクリーン上の社会主義的な記憶が持つ暗黙の了解について雛形を作ることでした。ある一方で、これらのモデルは――私は垂直と水平の囲い(vertical and horizontal enclosure)と呼んでいますが――映画における身体的で社会主義的な空間と密接に連関しています。他方で、生産物の演出法は、遠近法に関する空間に閉所恐怖症的な雰囲気を与えるパノラマのような技術を中心に機能しています。この方法論においてロケーションとスクリーン上の空間は、社会主義政権の制限的な恐怖を間接的にレファレンスとする、規律上の空間を用意する訳です。しかし数文だけでこの理論を要約するというのはとても難しいです(笑)もしアカデミックでない言語を使わなければならないなら、言えるのはこれらの芸術映画が鬱々としているのは、身体的空間を描き、構成していく方法論によってなんです。これに関してなら数時間喋れますよ(笑)

TS:2010年代が数か月前に幕を閉じました。ここで聞きたいのは、2010年代において最も重要なハンガリー映画とは何だったのかということです。例えばNemes Lászlóサウルの息子("Saul fia")、Mundruczó Kornél ムンドルッツォ・コルネールホワイト・ゴッド 少女と犬の狂詩曲("Fehér isten")やEnyedi Ildikó エニェディ・イルディコー「心と体と」("Testről és lélekről")などなど。個人的にはTill Attila ティル・アッティラヒットマン・インポッシブル」("Tiszta szívvel")を挙げたいです。今作は2010年代における新鋭の1作として素晴らしく、その障害者に関する描写も目覚ましいものがあります。

BA:2010年代、ハンガリー映画は素晴らしい活況を呈していました。故に1作だけを選ぶのは難しいことです。あなたが挙げた映画は全て好きです、特に「心と体と」ヒットマン・インポッシブル」は素晴らしいと思います。見ての通り、身体と身体的知覚は最近の映画界において注目すべきトピックとなっていますね。他にもKocsis Ágnes コチシュ・アーグネス"Pál Adrienn"("パール・アドリエン")やHajdu Szabolcs ハイドゥ・サボルチ"Bibliothéque Pascal"("パスカルの図書館")、Pálfi György パールフィ・ジェルジ「フリー・フォール」("Szabadesés")もこの傾向にあります。間違いなく新しいトレンドが存在しており、それはスクリーンにおける肉体性や傷ついたり機能不全を起こした身体に注視しているんです。2010年代以降の経済的、政治的、イデオロギー的な危機は私たちの政治としての身体へのアプローチを変えてしまった訳です。驚くことではありませんが。

2010年代の最も重要なハンガリー映画は何か、ですか? 私が挙げたい作品はHajdu Szabolcs"Ernelláék Farkaséknál"("エルネッラと狼たち")、Reisz Gábor レイス・ガーボル"VAN valami furcsa és megmagyarázhatatlan"("説明できない奇妙な何か")、Ujj Mészáros Károly ウッイ・メーサーローシュ・カーロイ「リザとキツネと恋する死者たち」("Liza, a rókatündér")とMundruczó Kornél"Szelíd teremtés: A Frankenstein-terv"("しなやかな創造物:フランケンシュタイン計画")ですね。

TS:とても驚きながら喜ばしいのはあなたがUjj Mészáros Károly「リザとキツネと恋する死者たち」の名を挙げたことです。今作は2010年代のハンガリー映画として日本で最も有名で、例えば不思議惑星キン・ザ・ザ「エル・トポ」のようなカルト映画として祀り上げられています。そこで聞きたいのは今作がハンガリーのシネフィルたちにどのように受け入れられているかということです。そしてこれは馬鹿げた質問でしょうが、そのMészárosやKárolyという信じられない名前から、彼はMészáros Márta メーサーロシュ・マルタMakk Károlyの親類ではないかと思ってしまうのです。これについてはどうでしょう? この名前はハンガリーではポピュラーなものなのでしょうか?

BA:「リザとキツネと恋する死者たち」ハンガリーで大きな成功を収めました。ハンガリー映画の記録を幾つも塗り替えたんです。観客は今作を気に入り、批評家たちも褒めていますね。思うに私たちは、別世界へ連れていってくれる完成度の高いお伽噺に深く深く飢えていたんです。名前に関しては面白いですね、この2つの名前はハンガリーではとても希少なものなんです。それでも彼らに血の繋がりはありません。

TS:ハンガリー映画界の現状はどういったものでしょう? 外側からだとそれは良いように思えます。Nemes László以降も、新しい才能たちが有名な映画祭に現れています。例えばロカルノKenyeres Bálint ケニェレシュ・バーリン、カンヌのSzilágyi Zsófia シラーディ・ジョーフィアヴェネチアHorvát Lili ホルヴァート・リリらです。しかし内側から見ると、現状はどのように見えますか?

BA:まあ、間違いなく私が10代の頃よりは良いですね!(笑)クオリティの高い映画製作という意味において、注目すべき物語と演出法を持った映画は未だ増えているように思えます。ここには常に新しい才能が存在していますし、デジタル革命によって、素晴らしい物語を語るために完璧なセットや金銭的な後ろ盾が必要ではなくなっているんです。同様に、グローバリズムと国境を越えた映画製作によって、ファイナンス段階において新しい世代がより容易に新たな機会を得られるようにもなりました。私は楽観主義でいますね。この産業にいる多くの素晴らしい人々は、ハンガリー映画がこれからの10年も映画の世界地図に留まっていられると私に信じさせてくれます。

TS:あなたにとってハンガリー映画界で最も注目すべき新たな才能は誰でしょう? 例えば私としてはそのアニメーションの繊細なタッチからSzöllősi Anna シェッローシ・アンナを、ハンガリーのドス黒い現実への鋭い批評からBaranyi Benő バラニ・ベネーを挙げたいです。あなたのご意見はどうでしょう?

BA:Baranyiは間違いなく最も才能あるハンガリーの短編作家の1人ですし、Szöllősiのアニメーションも規格外の素晴らしさです。今、ハンガリーには多くの才能がいる訳です! 長編作家に話題を向けると、Reisz Gáborは疑いようもなくハンガリー映画界の新たな天才と言えます。彼の2本の長編を観てみてください、本当に素晴らしいです! 彼の映画はナショナルでありながら、同時に国境を越えるもので、現在のポスト社会主義ネオリベラル的な世界における存在論的な危機を描きだしています。肉体性の映画について私が語ったことを覚えていますか? ぜひそのことについて考えながら彼の作品を観てみてください。気に入りますよ。

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「半沢直樹」とマスード・キミアイ、そして白色革命の時代

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お世辞にも真剣な視聴者とは言えなかったが、未公開映画を観る間に私も半沢直樹のSeason 2を観ていた。先の最終回なんかはラストにおける堺雅人香川照之の対峙場面などは男と男の意地のぶつかりあいが最高潮に達し、もはや噎せ返る官能性がマニエリスムの境地に至っていてなかなかに興奮させられた。こういう日本の映像作品にありがちな誇張もここまで突き詰めれば芸術の一様式だと思える。

今作を観ながら思い出したのは、最近集中して観ている60年代70年代のイラン映画、言い換えれば白色革命時代のイラン映画だった。少し前にヴェネチア国際映画祭で観た"Careless Crime"(今度フィルメックスで「迂闊な犯罪」という題名で上映)のなかでこの時代に作られたMasoud Kimiai マスード・キミアイ監督作"The Deer"が印象的に引用されていたのだが、それに影響を受けたんだった。この時代のイラン映画は西欧化で自由の気風があり、アメリカやヨーロッパの映画作品の影響を多分に受けており、イラン革命以後の作品よりも濃厚に自由の気風を感じさせる。例えばアッバス・キアロスタミジャファール・パナヒ作品とは違う魅力があるのだ。

例を挙げよう。Bahram Beizai バフラム・ベイザイ"The Raven"(1976)は30年前に失踪した少女を追う小学校教師の姿を追った作品で、アメリカのノワール映画からの影響が見て取れる。それでいて文字が書けない母の言葉を日記で、喋れない聾の生徒たちの言葉を手話で、そして失踪した少女の言葉を記憶で捉えようとする主人公を通じ、社会的弱者たちの言葉を捉えようとする試みが感動的だ。

Mohammad Reza Aslani モハンマド・レザ・アスラニ"The Chess of the Wind"(1976)はガージャール朝を舞台にある富豪の家族が崩壊していく様を描きだしたサイコホラーだ。デヴィッド・リンチに先駆けた迷宮的なシュールさを背景として、家族間の醜い争い、そして殺し合い(まず車椅子に乗った主人公がモーニングスターで憎き相手の頭蓋をカチ割る!)が描かれる様は悪夢的であり、特に終盤はスラッシャー映画を彷彿とさせる地獄っぷりだ。

Nasser Taghvai ナセル・タグヴァイ"Tranqility of the Presence of Others"(1973)は田舎町から都市部へと移住してきた元軍人の男とその一家が都市生活に幻滅していく様を描いている。邸宅を舞台とした今作は哲学的な舞台劇を指向しており、もっと言えばブレヒトのイラン的解釈といった様式で一家の崩壊を静かに見据えている。題名はミラン・クンデラ「存在の耐えられない軽さ」を彷彿とさせるが、今作はそれに11年先駆けている。

中でも私が気に入っているのは先にも記したMasoud Kimiaiの作品なのだが、実を言うと半沢直樹を観ながら思い出したのは彼の作品群であり、それは男同士の関係性を誇張された濃密さとともに描きだしているからである。

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まずKimiai作品で最も有名なのは第2長編"Caesar"(1969)だろう。レイプされ自殺した妹と復讐のために立ち上がりながら殺された兄、彼らの弔い合戦を孤独に行う男の姿を描いたノワール映画が今作だ。あらすじは割かしアメリカ映画でも良く見られるものだが、敵の兄弟たちとイランのイーストウッドと呼ばれるBehrouz Vossoughi ベヘルーズ・ヴォスギーの間には奇妙な愛憎が存在しており、その殺害場面、例えばシャワー室で兄弟の1人を刺殺する場面などには濃密なる被虐の官能性が宿っていたりする(その様はイースタン・プロミスのサウナ格闘場面をも彷彿とさせる)

今作のタイトル・シークエンスはあのキアロスタミが手掛けているのだが、これがなかなか衝撃的だ。そこでは男たちの皮膚が何度も大写しになるのだが、上にはイランの神話や神々の姿が刺青として彫られている。それらが皮膚や黒々とした毛の上で脈打つ様が延々と映しだされるのである。この場面は当時のイラン映画が男臭さ、マチズモに傾倒していたことを象徴してもいるのだ。

さらに興味深い1作は1974年制作の"The Deer"だ。1人はコカイン中毒、1人は手負いの銀行強盗、幼馴染みである彼らが貧困の真っただ中で再会する様を描き出している。今作で印象的なのは"Caesar"とは大きく隔たり、2人の男が互いを精一杯ケアしようと試みる点だ。しかし彼らは社会の圧倒的貧困に挫折し、その幻滅が更に深い傷を呼びこむ。それでも最後には文字通り命を賭した男の献身がもう1人の男の心を深い絶望から救いだすことになる。その過程はジェンダー学ひいては男性学の視点からかなり興味深い描写だ。

そしてこれらの作品群が半沢直樹を彷彿とさせる訳である。登場人物の立ち振る舞いの大仰さ、極端に誇張された男性同士の関係性から立ち現れてくる複層的な官能性は正に共鳴しあうのだ。特に"The Deer"終盤における命を賭けた2人の男の対峙は、先述した堺と香川の魂の激突を観た時に真っ先に思い出した場面だった。とにかく熱い。

上述のKimiai作品の数々は男性同士の濃密な関係性とそれが醸造するホモエロティシズムから、近年クィア的な文脈からの再評価が成されている(その辺りは2019年に制作された白色革命時代のイラン映画を描くドキュメンタリー"Filmfarsi"を参照)のだが、それらのように半沢直樹も"歌舞伎を現代的に解釈したクィア作品"みたいな感じで、後世の人々に読解されるかもしれないと思い始めた(BL作品として観ている人々はそう少なくないだろうし)

今、日本の批評家は"日本人である筒井武文「ホテル・ニュームーン」というイラン映画を作りあげた!"と口々に騒いでいるが、今キアロスタミやファルハーディにオマージュを捧げるなんて馬鹿でもできる。私としてはそれよりも半沢直樹が白色革命時代のイラン映画へと(意図せずして)接近していることを誇るべきだと思う。まあ、日本の映画批評家はフランス映画や批評とか追ったり、日本の映像作品を適当に馬鹿にしたりするのに忙しくて、昔のイラン映画なんて観てねえか、なあ。

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