鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

映画痴れ者/ライター済東鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

Visar Morina&"Exil"/コソボ移民たちの、この受難を

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セルビアとの度重なる紛争や未だに国に蔓延する貧困故に、コソボの人々には自身の故郷に背を向け、ヨーロッパ各地で移民として生活する者たちも多い。そして彼らはそれぞれに深刻な問題と直面することとなっている。例えば2017年制作の"T'Padashtun"はオランダ・アムステルダムに住むコソボ移民2世の青年が紛争のトラウマと対峙せざるを得なくなる姿を描いた作品だった。そして今回紹介するVisar Morina監督作"Exil"はドイツで生きるコソボ移民の苦難を描いた作品である。

主人公となる人物はジャフェール(「イン・ザ・シャドウ」ミシェル・マティチェヴィチ)というコソボ移民だ。彼はドイツの製薬会社で化学技術者として働きながら、妻のノラ(「裸の診察室」ザンドラ・フュラー)や3人の子供たちと共に平穏に暮らしている。少なくとも表面上、それは平穏なものに見える。

だがある日を境に彼の人生は音を立てて崩れていく。仕事から帰ってきたジャフェールを待っていたのは、玄関ドアに吊るされたネズミの死骸だった。それが徐々にエスカレートしていくと同時に、彼は職場で疎外感を抱き始める。何らかの理由で同僚たちが自分を無視し、時には嫌がらせをしてくるように思われてならないのだ。ジャフェールは真相を突きとめようと奔走するのだが……

冒頭、ジャフェールがネズミの死骸を見つけるその瞬間から、今作には筋肉をピンと張り詰めさせるような緊張感に満ち溢れている。編集を担当するのはLaura LauzemisHansjörg Weißbrich、そしてMorina監督自身の3人、彼らは場面場面をスピーディに繋げていくことにより、ピアノ線さながらの不穏なる緊張を持続し、観客の関心を牽引していく。

そしてMatteo Coccoによる撮影も印象的だ。彼が映しだす世界にはまるで胃液を彷彿とさせる黄色で満たされている。それはジャフェールの不安定な、禍々しさを増していく精神世界を色彩として反映しているのではないか?と思わされる。さらにBenedikt Schieferの不協和音を主体とした音楽もまたその印象を加速させるのである。

この最中、Coccoのカメラが頻繁に映しだすのはジャフェールの背中である。映画では会社の廊下、やはり胃液の色彩に満たされた空間を、彼は何度も歩くのだ。この場面が執拗に反復されていくうちに、言葉なく高まっていくジャフェールの負の感情を、観客は否応なく感じさせられるのである。そして物語が進むにつれ、その負の感情は解剖学的に解きほぐされていくこととなる。

ジャフェールが怪しいと思った人物はウルス(Rainer Bock)という同僚男性だ。彼がいつまで経っても自分が必要とする血液サンプルを持ってこない事実に、日々の嫌がらせが重なっていき、ウルスへの猜疑心は深まっていく。限界を迎えたジャフェールは彼を暴力的に問い詰めるのだが、その日から虐めはさらに苛烈なものへと変貌していく。

このジャフェールの猜疑心にはドイツの外国人差別が密接に関わってくる。東欧移民は西欧において同じ白人でありながらも"white nigger"として蔑まれる存在であり、劣った存在だと見做されている。彼は昔からそんな差別を受けてきたのだろう。神経は過敏になり、彼の表情には常に疲弊の色が浮かんでいるのだ。

だが今作で主に描かれるのは差別というよりももっと小さな、しかしだからこそタチの悪いものかもしれない、いわゆるマイクロアグレッションと呼ばれるものだ。これは"相手を差別したり、傷つけたりする意図がないながら、日常において行われる言動に現れる偏見を基とした見下しや侮辱"を意味している。例えばジャフェールはコソボ人/アルバニア人だが、彼がアルバニア語を話すのを聞いた同僚は"君、クロアチア人だったのか"と適当な類推を行い、彼を苛つかせる(これは私たち日本人が外国人に"君、中国人?"と聞かれ抱く苛立ちと似たものがあるだろう)そして彼が自己紹介をするとアルバニアの名字に馴染みのないドイツ人たちは何度も聞き返し、彼は自身の名前を繰り返さざるを得なくなる。それは表立った差別とは言えないが、こういった偏見に根差した誤解をぶつけられることで、ジャフェールの心には怒りが積もっていく。

そしてジャフェール自身、コソボという国には憎しみに近い感情を持っているのではないかと思わされる。劇中には同じくコソボ移民である清掃婦ハティチェ(Flonja Kodheli)が出てくるのだが、彼女と肉体関係を結びながらも、ドイツ語を話せずアルバニア語を話し続け、ビザのための翻訳を何度も頼んでくるハティチェに対して軽蔑を隠すことがないのだ。ドイツに順応しようとしない、コソボ人であり続けようとする彼女はジェフェールにとってコソボという国それ自体に重なり、それに対する軽蔑を彼は抑えられないでいるのだ。

だがジャフェールはドイツという国に対しても先述した理由で憤怒を抱いていることは確実だろう。ドイツ人である同僚たちは彼の境遇に理解を示そうとしながら、その実それは傲慢な無理解にしか映らない。彼をドイツの多様性の輝かしい一部として称賛する陰で、搾取する素振りも見られる。ドイツ自体が自分を差別する、そんな思いが彼の憤怒を加速度的に膨張させていくのだ。

これを象徴するのが夫婦間の関係性の移り変わりだ。当初ジャフェールとドイツ人の妻モナの仲は良好のように思える。だがモナが時おり見せる同僚たちのような無理解、彼女の母親が見せる攻撃的な差別意識。それらがジャフェールのモナへの猜疑心を更に深めていき、彼らの関係性は脆くも崩れ去っていく。ここにおいてザンドラ・フュラーの存在感は唯一無二だ。「裸の診察室」「ありがとう、トニ・エルドマン」など彼女が出演するとその作品の核が数段上がると私の中で彼女への信頼感は厚いが、今作でも負の感情に支配され変貌を遂げる夫に恐怖と悲哀を抱く妻の姿を、凄まじい密度で体現しているのだ。

だが当然"Exil"の最も重要な核となるのはジャフェールを演じるミシェル・マティチェヴィチに他ならない。彼はドイツ社会の外国人差別に根差したあらゆる負の感情を背中に抱えて、進み続ける。それはヨーロッパ中で繰り広げられるコソボ移民たちの受難を象徴するものだ。彼らの苦しみは圧倒されるほどに深く、壮絶なるものだ。それを知れることこそが"Exil"の大いなる存在理由だ。

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私の好きな監督・俳優シリーズ
その391 Arun Karthick&"Nasir"/インド、この地に広がる脅威
その392 Davit Pirtskhalava&"Sashleli"/ジョージア、現実を映す詩情
その393 Salomón Pérez&"En medio del laberinto"/ペルー、スケボー少年たちの青春
その394 Iris Elezi&"Bota"/アルバニア、世界の果てのカフェで
その395 Camilo Restrepo&"Los conductos"/コロンビア、その悍ましき黙示録
その396 José Luis Valle&"Uzi"/メキシコ、黄金時代はどこへ?
その397 Florenc Papas&"Derë e hapur"/アルバニア、姉妹の絆と家父長制
その398 Burak Çevik&"Aidiyet"/トルコ、過ぎ去りし夜に捧ぐ
その399 Radu Jude&"Tipografic majuscul"/ルーマニアに正義を、自由を!
その400 Radu Jude&"Iesirea trenurilor din gară"/ルーマニアより行く死の列車
その401 Jodie Mack&"The Grand Bizarre"/極彩色とともに旅をする
その402 Asli Özge&"Auf einmal"/悍ましき男性性の行く末
その403 Luciana Mazeto&"Irmã"/姉と妹、世界の果てで
その404 Savaş Cevi&"Kopfplatzen"/私の生が誰かを傷つける時
その405 Ismet Sijarina&"Nëntor i ftohtë"/コソボに生きる、この苦難
その406 Lachezar Avramov&"A Picture with Yuki"/交わる日本とブルガリア
その407 Martin Turk&"Ne pozabi dihati"/この切なさに、息をするのを忘れないように
その408 Isabel Sandoval&"Lingua Franca"/アメリカ、希望とも絶望ともつかぬ場所
その409 Nicolás Pereda&"Fauna"/2つの物語が重なりあって
その410 Oliver Hermanus&"Moffie"/南アフリカ、その寂しげな視線
その411 ロカルノ2020、Neo Soraと平井敦士
その412 Octav Chelaru&"Statul paralel"/ルーマニア、何者かになるために
その413 Shahram Mokri&"Careless Crime"/イラン、炎上するスクリーンに
その414 Ahmad Bahrami&"The Wasteland"/イラン、変わらぬものなど何もない
その415 Azra Deniz Okyay&"Hayaletler"/イスタンブール、不安と戦う者たち
その416 Adilkhan Yerzhanov&"Yellow Cat"/カザフスタン、映画へのこの愛
その417 Hilal Baydarov&"Səpələnmiş ölümlər arasında"/映画の2020年代が幕を開ける
その418 Ru Hasanov&"The Island Within"/アゼルバイジャン、心の彷徨い
その419 More Raça&"Galaktika E Andromedës"/コソボに生きることの深き苦難
その420 Visar Morina&"Exil"/コソボ移民たちの、この受難を

More Raça&"Galaktika e andromedës"/コソボ、生きることの深き苦難

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コソボは2008年にセルビアから独立を宣言したばかりの、ヨーロッパで最も若い国だ。それ故に貧困は大きな問題であり、多くの人々が苦闘している状況が続く。今回紹介する作品はそんな貧困との闘いを続ける中年男性の姿を追ったコソボ映画、More Raça監督の長編デビュー作"Galaktika E Andromedës"だ。

今作の主人公はシュパティム(Sunaj Raça)という中年男性だ。彼は52歳と高齢であるが現在は無職であり、仕事を探している。だがこの年齢がネックとなってしまい、門前払いを喰らう無慈悲な日々が繰り広げられている。それでも彼は安定した生活を手に入れるために、車を走らせるのだった。

まず今作はそんなシュパティムの苦闘を見据えていく。彼はメカニックの仕事を探すため、仕事募集の広告を見かけたならば、その場所へ履歴書を出しに行くのだが、受付は彼の年齢を聞くと"あなたは対象ではありません"と残酷な通告を彼に告げるのである。これが幾度となく繰り返される。そんなシュパティムの心の支えは娘のザナ(Elda Jashari)である。今は貧困故に彼女は孤児院で暮らしているが、時々彼女に会うことでシュパティムは絶望に呑みこまれないでいられるのだ。

しかし彼女の住む孤児院が財政難に陥り、親がいる子供たちは彼らのもとで暮らすよう送り返されることとなってしまう。だがシュパティムは未だ無職であり住んでいる場所も猥雑なトレーラーハウスだ。そうして心機一転、彼は更なる決意を以て仕事を探そうと奔走するのだが、社会はそんなシュパティムに優しくはない。

今作の根底にあるのは東欧の凍てついた社会を濃厚に反映したリアリズムである。監督と撮影監督であるDario Sekulovskiは大袈裟な虚飾といったものを慎重に排しながら、コソボに広がる現実をレンズに焼きつけていく。そして彼らが特に固く見据えるのはシュパティムの移り変わる表情だ。常に曇天に覆われた彼の顔に、それでもザナや懇意になる娼婦(Julinda Emiri)と話している時間には希望が兆す瞬間がある。そういったコソボの逼迫した現実のなかの、1人の平凡な男の表情の揺らぎを監督たちは繊細に映しとっていくのだ。

そして印象的なのは今作には車にまつわる描写が多いことだ。Sekulovskiはフロントガラス越しに運転を行うシュパティムの表情を何度も捉えていく。ハンドルを握る彼の顔にはなけなしの誇りが宿っているように思われる。この古びた車は彼の生活に欠かせないものであると同時に、人生を共に歩む親友なのだ。故にシュパティムと彼の所有する車が共にフレーミングされたショットは頗る多いのである。

だがそんなシュパティムをコソボの酷薄な現実が呑みこもうとする。いつまでも仕事に就けないことに業を煮やした彼は、ある悲愴な決意を行うことになる。彼は自身の臓器を売って、そのお金でザナと一緒に欧州へ移り住もうと試みるのだ。これがコソボの現実なのである。臓器を売るまでは行かずとも、この閉塞感に背を向け、故郷を去ってヨーロッパへと移民するコソボ人たちは余りにも多い。シュパティムもその仲間入りを果たさんとするのだ。

今作を支えるのはやはりシュパティムを演じるSunaj Raçaである。身なりはうだつの上がらない中年男性といった風であり、彼の人生自体にも眩い輝きはほとんど存在しない。そしてこの中年の底なしの悲哀が、物語が展開するにつれコソボの苦難へと重なっていく姿はひどく痛烈なものだ。現代コソボ映画の特徴は内容自体はどこまでも個人的なことを描きながらも、それがコソボという国それ自体に密接に繋がるということだ。コソボの国としての歴史はとても短いものであるが故に、個人の歩みがコソボの歴史と不可分と化す瞬間の数々が現代コソボ映画には存在する。この"Galaktika E Andromedës"は正にそれを体現するような、個人的であることが歴史的であるようなコソボ映画なのだ。

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その407 Martin Turk&"Ne pozabi dihati"/この切なさに、息をするのを忘れないように
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その409 Nicolás Pereda&"Fauna"/2つの物語が重なりあって
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その419 More Raça&"Galaktika E Andromedës"/コソボに生きることの深き苦難

Merawi Gerima&"Residue"/ワシントンDC、ジェントリフィケーション

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ジェントリフィケーションと呼ばれる都市の富裕化は世界的に問題となっている。先頃、渋谷の宮下公園において日本でもホームレスらを排除したうえで、商業施設であるミヤシタパークが建設されたことが批判の対象になった。都市の富裕化は社会の周縁に置かれている存在を踏み躙る許されざる行為でもある。そして今回紹介するMerawi Gerima監督作"Residue"はある1人の黒人青年の目から、アメリカにおけるジェントリフィケーションの現在を見据える1作だ。

今作の主人公はジェイ(Obinna Nwachukwu)という青年だ。彼は映画作家であり、自身の子供時代を題材とした映画の脚本を書くために、久しぶりに故郷ワシントンDCへと戻ってくる。だが故郷の風景は一変しており、彼は動揺を隠すことができない。

まず今作で描かれるのはジェイの戸惑いである。近所には白人たちが多く住んでおり、隣人だったり友人であった黒人の住民はどこにも居なくなっている。更には実家に帰ってきた彼を待ち受けていたのは、立ち退き通告に関するチラシである。この地域では黒人たちが排除されようとしていたのである。

Gerima監督の演出は手振れカメラを主体としたリアリズム指向だ。撮影監督Mark Jeevaratnamは震えを伴いながら、ジェイの行動を間近から観察し続ける。そしてその震えはジェイ自身の心にある揺れる困惑を饒舌に、私たちに語るのである。Jeevaratnamのカメラには街の鮮烈な空気感も生々しく捉えられている。赤い光に包まれた金網、白人たちに奪われた家屋の綺麗な壁、その隅で屯する黒人たち。それらが迫真性を以て観客に迫ってくるのだ。

そんななかで印象的なのは、画面に白人たちの顔が映らないことだ。隣人としてジェイに話しかけてくる人々はいるのだが、カメラは意図的に彼らの顔を映すことはない。そこにはジェイ、もしくは監督自身の白人たちへの不信感が反映されているようだ。彼らはジェントリフィケーションの使徒たる、顔のない脅威なのである。

だが通常のリアリズム映画とは一線を画するような実験性が本作には備わっている。今作は劇映画的な語りが基本であるが例えばデモのフッテージ映像、フィルムで撮影されたホームビデオなどが挿入されていく。そして映像は万華鏡的な姿を呈し始め、私たちを独特の映画世界へと誘うのである。

今作の監督であるMerawi Gerimaという名前を聞いた時、アメリカの黒人映画に詳しい方は驚くかもしれない。そうこのMerawi Gerima監督は"Bush Mama"アメリカ映画史に名を残す、エチオピアアメリカ人作家のHaile Gerimaの息子なのである。彼の作品は支離滅裂スレスレの爆発的な実験性が特色であるが、これは"Residue"にも継承されていると言える。

先述の万華鏡的な映像センスもそうであるが、音の演出もすこぶる鋭敏なものだ。作品には様々な音が焼きつけられている。虫たちの鳴き声、車の騒音、そして闇を切り裂く銃声。それらは暴力的に響き渡る一方で、激しいビートを伴った音楽の数々が鮮やかに挿入される。それらが交錯することで、映画は濃密な熱を帯びていくのである。

そんな苦境のなかでも、ジェイは映画製作を勧めようとするのだが白人たちから不信の瞳で見られることは勿論のこと、仲間であるはずの黒人たちからも彼は見放されていく。これが現代における人種的政治の難しい点だ。人種差別は加害者にとっても被害者にとってすらも社会の常識そのものであり、反旗を翻そうとすれば、波風を立てられることを好まない双方から攻撃されるのである。そしてジェイは深い絶望へと追いやられるのである。

"Residue"はジェントリフィケーションによって黒人たちの生活が脅かされている現在を描きだした、ブラック・ライブス・マターが叫ばれている状況において頗る重要な作品だ。今作が放つ現状への怒りと熱気は私たちの黒人の生への生温い考えを変えてくれるはずだ。

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ポスト・マンブルコア世代の作家たちシリーズ
その61 オーレン・ウジエル&「美しい湖の底」/やっぱり惨めにチンケに墜ちてくヤツら
その62 S.クレイグ・ザラー&"Brawl in Cell Block"/蒼い掃き溜め、拳の叙事詩
その63 パトリック・ブライス&"Creep 2"/殺しが大好きだった筈なのに……
その64 ネイサン・シルヴァー&"Thirst Street"/パリ、極彩色の愛の妄執
その65 M.P. Cunningham&"Ford Clitaurus"/ソルトレーク・シティでコメdっjdjdjcjkwjdjdkwjxjヴ
その66 Patrick Wang&"In the Family"/僕を愛してくれた、僕が愛し続けると誓った大切な家族
その67 Russell Harbaugh&"Love after Love"/止められない時の中、愛を探し続けて
その68 Jen Tullock&"Disengaged"/ロサンゼルス同性婚狂騒曲!
その69 Chloé Zhao&"The Rider"/夢の終りの先に広がる風景
その70 ジョセフィン・デッカー&"Madeline's Madeline"/マデリンによるマデリン、私による私
その71 アレックス・ロス・ペリー&「彼女のいた日々」/秘めた思いは、春の侘しさに消えて
その72 Miko Revereza&"No Data Plan"/フィリピン、そしてアメリカ
その73 Tim Sutton&"Donnybrook"/アメリカ、その暴力の行く末
その74 Sarah Daggar-Nickson&"A Vigilante"/破壊された心を握りしめて
その75 Rick Alverson&"The Mountain"/アメリカ、灰燼色の虚無への道行き
その76 Alex Ross Perry&"Her Smell"/お前ら、アタシの叫びを聞け!
その77 Tyler Taormina&"Ham on Rye"/楽しい時間が終わったその後
その78 Amanda Kramer&"Ladyworld"/少女たちの透明な黙示録

Ru Hasanov&"The Island Within"/アゼルバイジャン、心の彷徨い

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日本ではあまり知られていないが、アゼルバイジャンはチェスの強豪国である。この国にはヴガル・ガシモフガルリ・カスパロフといった数多くのチェス・チャンピオンがおり、例えば2019年には世界U-16チェスオリンピックでは幾つもの優勝候補を破り、アゼルバイジャンが優勝を勝ち取った。そうした栄光の歴史を持つアゼルバイジャンだが、このチェスを通じてこの国の現在を描きだそうとする1作が今回紹介するRu Hasanov監督作"The Island Within"である。

今作の主人公はセイムル(Orkhan Ata)という青年である。彼はチェス・チャンピオンとして世界的に活躍する日々を送っているのだが、その絢爛たる日々に猜疑心を抱いていた。彼は自分の人生を生きられていないという不全感に苛まれながら、しかし負の螺旋から逃れられずにいる。

まず"The Island Within"はそんなセイムルの思い通りにならない人生を描きだしていく。その大きな原因の1つが父親(Vidadi Hasanov)である。彼はコーチ兼マネージャーとして常にセイムルと一緒にいるのだが、その強権的な性格によって彼を支配し続けている。セイムルは父に反抗することができず、半ば奴隷のような生活を続ける他ない。

更に彼の職業がチェス・プレイヤーというのも問題だった。先述通り伝説的なプレイヤーを多く輩出するアゼルバイジャンにとって、チェスは国家的な事業である。チェス・プレイヤーは正に国家の代表的な存在なのだ。その重圧が常にセイムルの背中にはかかる訳である。そして彼の心は徐々に圧し潰されていくのだ。

今作の演出の中心は静謐に満ちたリアリズムだ。撮影監督Orkhan Abbasofとともに、Hasanov監督は登場人物たちの動きを怜悧に見据えていく。特に印象的に浮かびあがるのはセイムルや父の表情の微妙な移り変わりだ。当惑に塗り潰されたセイムルの顔、彫刻刀で彫った傷のような皺で溢れた父の顔、そこで複雑微妙な感情の揺らぎが現れるのだ。そしてこれが映画に静かな緊張感を与えるのである。

そんなセイムルは祖父からとある弧島での生活について聞いてから、島でたった独りで生活することを夢想しだす。そして社会からのプレッシャーに加え祖父の死の報せによって精神が限界まで来た時、彼は衝動的に夢想を実行に移す。セイムルは祖父が話していた孤島へと実際に赴き、ここでの生活を始めることにしたのだ。

ここで撮影監督Abbasofは島の大いなる自然にその視線を向けることになる。夜の闇のなかで群青色に光る海、広野の中心に位置する巨大な廃墟、大地を這う錆びた線路、荒野を勇大に駆け抜ける馬たちの群れ。中でも特に私たちの目を惹くのは水平線で輝く夕日だ。黄金の黄昏に包まれながら、セイムルは荒野をフラフラと彷徨い歩く。その時、彼は心の解放を味わうのだ。

そして次第に監督の演出も内省的なものになっていく。自由なる自然のなかでセイムルの氷結した精神は少しずつ溶けていき、生命力を取り戻していく。この絶海の孤島で、彼の魂は初めて救われるのである。例えそこに追手が迫っているとしても、この事実を消し去ることは誰にもできないだろう。こうして"The Island Within"は現代に生きるアゼルバイジャン人の心の彷徨を印象的に描きだしているのである。

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私の好きな監督・俳優シリーズ
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その418 Ru Hasanov&"The Island Within"/アゼルバイジャン、心の彷徨い

Hilal Baydarov&"Səpələnmiş ölümlər arasında"/映画の2020年代が幕を開ける

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映画批評家として映画を観続けてきたうえで、2020年代に台頭する国はどこかと聞かれたとするなら、私はこう答える。コソボスロヴェニアカザフスタン、そしてアゼルバイジャンと。アゼルバイジャンに関してこう確信させてくれた映画作家Hilal Bydarov ヒラル・バイダロフだった。彼の"When the Persimmons Grew"(レビュー記事はこちら)に感銘を受けた後、私は様々なアゼルバイジャン映画に触れてきたが、そんな彼の最新作"Səpələnmiş ölümlər arasında"ヴェネチア国際映画祭コンペティション部門に選出されたと聞き、本当に喜ばしく思った。そしてこの作品を目撃した今、私は途方もない感動の涙に暮れることとなっている。今作は2020年代という今後の10年を規定する紛れもない傑作だ。

今作の主人公はダヴド(Orkhan Iskandarli)という青年だ。彼は"本物の"家族を得たいと日々願っている。だがある偶然から人を殺してしまったダヴドは追われる身となってしまう。その逃走の最中、彼は無数の不思議な出来事に遭遇することになる。

ダヴドの不本意な旅に広がる風景は息を呑むような壮大な美に溢れている。アゼルバイジャンの無限の広野は闇の色彩にも近い深緑色の自然に包まれており、それを見る観客に畏敬の念を呼びおこしていく。そしてその美はあまりにも凄絶なものであり、私たちの網膜は絶対的な崇高で満たされることになるだろう。

この風景について"動き、生きる絵画"と形容できるかもしれない。例えば登場人物たちが純白の霧のなかを歩く場面がある。彼らは詩的な言葉を紡ぎながら、霧のなかへと進み、最後にはその身体が完全に白に包まれてしまう。しかしふとした瞬間に彼らの影が幻想的に浮かびあがる。そして彼らは霧のなかから出ていき、また旅を始める。撮影監督Elshan Abbasovはこの風景を5分にも渡る長回しで以て描きだし"動き、生きる絵画"を描きだすのである。

だがダヴドの旅路はあまりにも奇妙なものだ。旅の始まりが死であったなら、旅路にも多くの死が付きまとう。再び偶発的に殺人を犯してしまった彼は、更に自分を助けてくれた女性が自身の夫を殺害する様を目撃してしまう。それでも彼は旅を続けながら、目前には何度も死が現れるのである。

今作はある意味で実存主義的な不条理劇であると言える。Baydarov監督は頗る容易く、そして大胆に無数の死を紡ぎだしていく。その様に私たちは唖然とする他ないだろう。だが観客の狼狽をよそにダヴドの旅は続いていき、不条理がまるで驟雨のように降り注ぐこととなるのだ。

この不条理のなかでダヴドの苦悩は深まっていく。彼は思索的な言葉によってこの苦悩を言語化しようと試み、そこに詩が生まれる。彼の内面世界には黒い装束を纏った女性と薄汚れた白馬がいる。彼らに触れながら、ダヴドは詩的懊悩を突きつめていくのだが、それは解きほぐされていくどころか更に異様なる迷宮へと化していく。

だが今作にはそこはかとないユーモアすらも存在している。犯罪者であるダヴドを追跡する男たちがいるのだが、彼らはダヴドに追いつくことができず、彼の残した死を前に途方に暮れることになる。ある者は気だるげに電話をし、ある者はアゼルバイジャンの荒野に向かって石を投げる。彼らの成就しない追跡は濃密な不条理のなかで笑いを運んでくれる。

私は1年前に彼の作品"When the Persimmons Grew"を観た時の感動を覚えている。今作は監督が故郷へと帰還を果たし、母と再会する姿を追った作品だ。叙情的で美しい風景のなかで、2人の関係性が再び花開く様は私の心の琴線に深く触れるものだった。そして彼の作品は例えば"Birthday"(2018)や"Nails in My Brain"(2020)など詩的リアリズムに依拠するものが多かったが、今作の作風は一気に超現実へと跳躍していると言ってもいいだろう。

先述した通り、今作の核にあるものは数多の飛躍と省略で構成された大胆な不条理である。それがBaydarovの手で何度も反復されるうちに、壮大なる神話へと昇華されていくのである。そしてそれは死の神話である。生物として、私たちが根源的に恐れている死という概念の真実を、今作は解き明かそうとする。その向こう見ずな創造的蛮勇こそが、今作を傑作へと押しあげているのである。

これは少し誇張しすぎているかもしれない。だが今作を観終わった後の私は、1896年にリュミエール兄弟「ラ・シオタ駅への列車の到着」を初めて観た観客と同じような心地にある。スクリーンから猛然と列車が迫ってくる。その見たことのない迫真性に恐れを成した観客は、部屋のなかを逃げ惑う。彼らはそこに他でもない自分たちの死を見たからだ。そして私もまた"Səpələnmiş ölümlər arasında"という作品のなかに己の死を見た。今でも心の震えを抑えることができていない。

"Səpələnmiş ölümlər arasında"を以て本当の意味で、映画の2020年代は幕を開けた。今作は今後の10年間を規定する1作となるだろう。そして私は映画の未来はアゼルバイジャンにあるという確信に至った訳である。

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私の好きな監督・俳優シリーズ
その391 Arun Karthick&"Nasir"/インド、この地に広がる脅威
その392 Davit Pirtskhalava&"Sashleli"/ジョージア、現実を映す詩情
その393 Salomón Pérez&"En medio del laberinto"/ペルー、スケボー少年たちの青春
その394 Iris Elezi&"Bota"/アルバニア、世界の果てのカフェで
その395 Camilo Restrepo&"Los conductos"/コロンビア、その悍ましき黙示録
その396 José Luis Valle&"Uzi"/メキシコ、黄金時代はどこへ?
その397 Florenc Papas&"Derë e hapur"/アルバニア、姉妹の絆と家父長制
その398 Burak Çevik&"Aidiyet"/トルコ、過ぎ去りし夜に捧ぐ
その399 Radu Jude&"Tipografic majuscul"/ルーマニアに正義を、自由を!
その400 Radu Jude&"Iesirea trenurilor din gară"/ルーマニアより行く死の列車
その401 Jodie Mack&"The Grand Bizarre"/極彩色とともに旅をする
その402 Asli Özge&"Auf einmal"/悍ましき男性性の行く末
その403 Luciana Mazeto&"Irmã"/姉と妹、世界の果てで
その404 Savaş Cevi&"Kopfplatzen"/私の生が誰かを傷つける時
その405 Ismet Sijarina&"Nëntor i ftohtë"/コソボに生きる、この苦難
その406 Lachezar Avramov&"A Picture with Yuki"/交わる日本とブルガリア
その407 Martin Turk&"Ne pozabi dihati"/この切なさに、息をするのを忘れないように
その408 Isabel Sandoval&"Lingua Franca"/アメリカ、希望とも絶望ともつかぬ場所
その409 Nicolás Pereda&"Fauna"/2つの物語が重なりあって
その410 Oliver Hermanus&"Moffie"/南アフリカ、その寂しげな視線
その411 ロカルノ2020、Neo Soraと平井敦士
その412 Octav Chelaru&"Statul paralel"/ルーマニア、何者かになるために
その413 Shahram Mokri&"Careless Crime"/イラン、炎上するスクリーンに
その414 Ahmad Bahrami&"The Wasteland"/イラン、変わらぬものなど何もない
その415 Azra Deniz Okyay&"Hayaletler"/イスタンブール、不安と戦う者たち
その416 Adilkhan Yerzhanov&"Yellow Cat"/カザフスタン、映画へのこの愛
その417 Hilal Baydarov&"Səpələnmiş ölümlər arasında"/映画の2020年代が幕を開ける

Adilkhan Yerzhanov&"Yellow Cat"/カザフスタン、映画へのこの愛

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さて、2010年代はカザフ映画界において躍進の年だった。Emir Baigazin エミール・バイガジンのデビュー長編"Harmony Lessons"ベルリン国際映画祭で上映、撮影賞を獲得し、更に彼の第3長編"The River"ヴェネチア映画祭オリゾンティ部門で監督賞を獲得することになる。更にEldar Shibanov エルダル・シバノフ(インタビュー記事はこちら)やZhannat Alshanova ジャンナト・アルシャノヴァといった新しい才能も次々と現れはじめている。だがもう1人、2010年代のカザフ映画界を牽引する重要人物がいる。彼こそがAdilkhan Yerzhanov アディルハン・イェルジャノフ、そして彼の新作"Yellow Cat"2020年代のカザフ映画の更なる躍進を寿ぐ1作となっている。

今作の主人公はケルメク(Azamat Nigmanov)という青年だ。彼は刑務所から出所してきたばかりであり、仕事を見つけ真人間になろうと試みていた。だが彼に恨みを持った刑務所長らが邪魔をし、ケルメクは面倒ごとに巻き込まれてしまう。

Adilkhan監督の演出はとても静謐なるものである。撮影監督Yerkinbek Ptyraliyevとともに、彼は一切の虚飾などなしに、目前に広がる光景の数々を見据えるのだ。彼の視線はいつであっても不動のものであり、動揺や狼狽を一切見せることなく盤石の態度で物語を語っていく。

今作の舞台となるのはカザフスタンに広がるステップという広大な草原である。ここでは果てしない不毛と息を呑むような崇高が交錯しており、観る者に不思議な畏怖を与えることになる。そこに広がる雰囲気はどこまでも深刻なものだ。

しかし監督はこの深刻さから無表情のユーモアを引き出していく。主人公のケルメクを含めて、登場人物たちは一癖も二癖もある人物ばかりである。彼らが奇妙な行動に走る様からは、何か人間存在の持つ可笑しさのようなものが現れるのだ。ここで描かれるカザフ人たちの生き様は何ともぎこちないものである。だが監督はそこに深い愛おしさを見るのである。

町で燻っていたケルメクは、ある日エヴァ(Kamila Nugmanova)という娼婦と出会う。彼らはすぐに愛を築いていき、この町から出ていこうと計画を立て始める。そして彼らには1つの夢がある。ここから遠い山のなかに映画館を建設するのだ。

という訳で今作には幾つもの映画ネタが現れる。最も印象的なのはケルメクがジャン・ピエール・メルヴィル「サムライ」を再演しようとする場面である。彼はアラン・ドロンに扮して演技をしようとするのだが、それが余りにも下手糞すぎて観客は言葉を失ってしまう。この映画への愛も先述した可笑しさに直結する訳である。

ここで少し監督について紹介しよう。Adilkhan Yerzhanovは2010年代のカザフ映画界を代表する映画監督の1人である。彼は2011年のデビュー長編"Rieltor"から既に長編を9本も作っており、その多くが著名な映画祭に選出されている。警察の腐敗と縁故主義に追いつめられる青年を追った"The Owners"(2014)とノワール映画のカザフ的解釈というべき"The Gentle Indifference of the World"(2018)はカンヌ映画祭に選出、1人のジャーナリストが殺人事件を追うなかで陰謀を暴きだす"A Dark-Dark Man"(2019)はサン・セバスティアン映画祭で上映された。そして今作"Yellow Cat"は彼にとって初めてヴェネチア国際映画祭に選出された作品となった。

彼の作品においては犯罪が関わってくる作品が多いが、ここではその犯罪要素をコメディへと接続していく。大胆にして微笑ましいトニー・スコット監督作トゥルー・ロマンスへのオマージュとともに、ケルメクとエヴァは逃避行を始めるのである。そして止むを得ぬ事情から犯罪を犯しながら、彼らは自身の夢を叶えようと奔走する。

この逃避行はどこまでも続くステップのなかで繰り広げられるゆえに、終りの見えない感覚が映画には充満しはじめることになる。大草原の崇高さのなかで奇妙なる味と無表情のユーモアはゆっくりと深化していくのである。だが2人の幸せは長くは続かない。警察やマフィアたちが彼らを追跡し、その命は窮地に追いやられていく。その悲愴感と人間の可笑しみが交錯する時、言葉を越えた複雑なエモーションが現れるのだ。"Yellow Cat"はカザフ映画界の2020年代における隆盛を予告するような1作だ。その映画への切実なる愛は私たち観客の心を静かに貫いていくだろう。

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Azra Deniz Okyay&"Hayaletler"/イスタンブール、不安と戦う者たち

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2016年、トルコで勃発したクーデターは記憶に新しい。トルコ軍の反乱勢力がエルドアン政権に反旗を翻したこのクーデターは未遂に終わったが、これがエルドアン政権の強権をさらに強めることになる。この事件を否応なく思いださせる光景から幕を開けるAzra Deniz Okyay監督作"Hayaletler"は、正にクーデター以降の不安と戦いを描きだした作品である。

今作はイスタンブールを舞台とする群像劇だ。ディデム(Dilayda Günes)はダンスを愛する少女であるが、最近仕事をクビになってしまった。中年女性イフレット(Nalan Kulucim)は息子が刑務所に収監されており、その心労が収まることはない。エラ(Beril Kayar)はフェミニストの活動家であり、日々女性や子供の人権のために戦っている。そしてラシット(Emrah Ozdemir)は不動産業者としてグレーな仕事を続けていた。

まず監督は4人の日常を手持ちカメラのリアリズムで追跡していく。トルコの不安定な政情を背景として、彼らの日常にも微妙な震えが存在している。そこには透明な淀みのようなものが宿っているのだ。イスタンブールに満ちる空気感も息詰まるもので、解放感というものは感じられない。

そして映画はイスタンブールの現在を見据えていく。4人が住んでいる一帯ではいわゆるジェントリフィケーションを押し進められている。低所得者層に位置する彼らの居住区に、富裕層が流入する状況が作られている訳である。そして弱者がさらに逼迫した立場に追いやられていくのだ。

この現象の一端を担っているのがラシットである。不動産業者として彼は地域の古い建物を買い、それを利用しようとしている。そしてイスタンブールに生きるシリア難民たちに対しては高額な家賃をふっかけ、居住地を提供している。彼の行動は弱者の弱みにつけこむ非道なものであり、それはトルコの移民問題にも密接に関わってくるのである。

だがそれに抗うものたちもいる。エラはフェミニストの活動家として仲間たちと積極的に人権活動を行い、政府に対して果敢に弱者の救済を叫ぶ。そしてディデムはダンスを通じて自分の身体を躍動させ、さらに心をも解放しようとするのである。そんな彼らは警察に目をつけられ、何度も襲撃される。だが彼女たちは諦めることはない。そんな彼女らの小さな、しかし偉大な戦いを監督は真っ直ぐと見据えるのだ。

そんな中でイフレットの息子が刑務所で騒動を起こし、彼女は金が必要になってしまう。あちこちを駆け回るのだが、いっこうに金は集まらない。そしてある取引を持ちかけられた彼女はディデムを呼びだし、ともにある場所へ向かう。その夜、イスタンブールで大規模な暴動が勃発することとなる。

"Hayaletler"は移りかわるイスタンブールの現在と、そこで抑圧と戦いつづける人々を描きだした作品だ。今、この都市には鬱屈と不安、怒りが渦巻いている。だが戦いを止めることがなければ、そこに希望はあると監督は強く語るのである。解放の時はそこにあると。

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