鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

映画痴れ者/ライター済東鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

Emilio Silva Torres&“Directamente para video”/ウルグアイ VHS Z級映画 そして

さて今回紹介する映画は、私が最近お気に入りのウルグアイ映画、Emilio Silva Torres エミリオ・シルバ・トレス監督作“Directamente para video”である。題名から何となく伺えるかもしれないが、ウルグアイで空前の人気を誇ったあるビデオスルー映画をめぐるドキュメンタリーな本作、しかしただのVHS時代、レンタルビデオの時代へのノスタルジーで終ることがない。今、言えるのは全くもって忘れ難い余韻を私たちに残す1作であるということだけだ。

1988年、ウルグアイ“Acto de violencia en una joven periodista”という映画が作られた。ある女性ジャーナリストがモンテビデオで巻き起こる暴力事件の謎を追うという映画だった。製作後、各地のレンタルビデオ店にVHSが置かれ、ウルグアイの人々は今作に言葉を失い、そして爆笑した。何故ならそのクオリティはあまりにも酷かった、殺人、ロマンス、ドキュ全部ブッこんだ結果どうにかなってしまった観るに耐えなすぎるZ級映画がここに爆誕していたからだ。人々は友人たちを集め、皆で今作の観賞会を行い、爆笑を共有しあった。例えばアメリカではプラン9・フロム・アウター・スペース」などエド・ウッド作品が規格外のクソ映画としてカルト的な人気を誇ることになったが、ウルグアイにおいてはこの“Acto de violencia en una joven periodista”が、その名誉に浴した訳である。

序盤において主人公となるのは当時VHSで“Acto de violencia en una joven periodista”を観て惚れこんでしまったファンたちである。世紀の駄作ぶりから今作はウルグアイに熱狂的なファンを産み、今でもFacebookにファンの交流ページがあるほどだが、そんな彼らがカメラの前で愛を語りに語るのである。それがもい本当に微笑ましい光景で、ウルグアイでこんなVHSスルー映画が熱狂を巻き起こしていたのかとこちらまで嬉しくなった。

それを観ながら、自然と私自身のVHSの思い出が頭に浮かんできたのだ。私は小さな頃、最寄り駅の近くにあるレンタルビデオ店によく母親と一緒に通っていた。とはいえ映画を借りるためではなく、ウルトラマンのビデオを借りにいくためだった。中学生の頃には古畑任三郎のビデオも借りていたのだが、私が映画を本格的に好きになる前に潰れてしまったのが残念だった。

だが全く借りていなかった訳ではなかった。とはいえぶっちゃけ実際観た映画が何だったか覚えていない一方、観られなかった映画の方が印象に残っている。例えば悪魔のいけにえなどのホラー映画は借りることができなかったが、ジャケットの禍々しさみたいなのは覚えているし、あと「オールナイトロング」シリーズのどれか、女性がシャワー室で血まみれになっている姿がデカく写っていたものがあったと思うが、その背徳的なエロさは未だ忘れ難い。最も印象に残っているのは「人喰族」だか「食人族」だか、とにかく人喰いもののビデオだ。ジャケットは日に焼けて、全体的に淡い空色のような色彩になっていたが、その片隅に完全にグチャグチャになった顔が写っており、完全にトラウマになって今後大学生になるまでこのジャンルを観られなくなった。今じゃ余裕で観られる汚い大人になったし、むしろ逆にクローン病のせいで肉を喰う方が制限されたという難儀なことになっている。遠くまで来たものだ。

そしてこういう思い出をウルグアイの人々が笑顔で語りまくる訳である。これに微笑まずにいられるだろうか。だからこそ今作の序盤は観ながら多幸感を抱いたし、ここで話題にあがる“Acto de violencia en una joven periodista”もぜひ観てみたいなと思わされた訳である。だがそこから風向きが変わってくることに、私も気づくことになる。

これがあまりにも人気になったもので、ぜひその撮影の裏側を知りたい、ほぼこの作品しか残していない謎の映画監督Manuel Lamas マヌエル・ラマスについて知りたいという人々が出てくる。だが全く情報が出回らないなかで、今作の監督もまた裏側に興味を抱き、調査を始める。志を共有する熱狂的なファンの力を借りて、出演者の何人かを探しあてるのだが、何故か映画については語りたがらず、再び忽然と姿を消してしまう。不審に思った監督が更なる調査を進めていくと、不気味な事実が少しずつ発覚していく。

私としてはこの先についても書いていって、いかに今作が凄まじく奇妙な運命を映し出しているかを語りたいのだが、そうすると何を言ってもネタバレになるのでこれに関しては記述を抑えたい。だが少しずつ明かされる“Acto de violencia en una joven periodista”の背景はあまりにも奇妙で、不穏だ。ラテンアメリカを震撼させた事件(日本でもそれを題材とした映画が一時期話題になった)が予想外の形で関わってきた時には、思わず声すら出てしまうものだった。

だが何よりも際立つのは、監督であったManuel Lamasの存在だ。何というか、今作を観るというのは彼の心のうちに在る、底の知れない迷宮を旅するようなものだった。それは人間心理それ自体の暗黒ともいうべきか?これを十全に表現できる言葉を私は見つけられていないのだが、いや本当にそれほどの事実を“Directamente para video”という作品は提示しているのである。

正直今作を観た後、“Acto de violencia en una joven periodista”という映画が実在するとは全く信じられずに検索したのだが、Wikipediaに普通にページがあるし、言ってしまえば本編自体もYoutubeにもアップされていて“これは現実!”と驚愕せざるを得なかった。しかし監督自体もドキュメンタリーを作りながら“本当にこれが現実か?”と思っていた節があり、本編の構成などにもその思いが如実に反映されている。そしてこの当惑が観客の当惑と共鳴しあい、作品世界自体もまた深まっていくのだ。

“Directamente para video”はVHS、そしてZ級映画の魔というべきものを炙りだす、私にとって本当に忘れ難い1作となる作品だった。今後もう一生忘れられないのではという予感にすら苛まれている。Emilio Silva Torresという監督は何て劇物を作ってしまったのかと、私は驚くしかない。

Damien Hauser&“Blind Love”/ケニアのロマコメは一味違う!

さて、ケニア映画である。調べてみると、あれだけ日本未公開映画を紹介しているのに、ケニア映画に関しては1本も紹介していないという事実が発覚し、驚いてしまった。それくらい新作ケニア映画に遭遇するのは難しいことであると言えるのかもしれない。だがここで、日本未公開ケニア映画を紹介できることを嬉しく思う。そしてその1本はマジでとんでもない映画と言わざるを得ない代物だった。今回は先日のタリン・ブラックナイト映画祭でプレミア上映された、ケニア系スイス人のDamien Hauser ダミアン・ハウザーによる長編デビュー作“Blind Love”を紹介していこう。

今作の主人公はブライアン(Mr. Legacy)という青年である。彼は目が見えず、障害児のための学校に通っていたのだが、そこでアベル(Jacky Amoh)という少女と出会い、助けてもらうことになる。そこから交流を深め始めるのだが、2人の関係がもどかしいまでに難しいものとなっているのは、アベルもまた耳が聞こえないという障害を抱えているからだった。

序盤においてはそんな2人の恋模様が描かれる。障害を持つ者同士のロマンスだと、特に日本の映像作品などでは辛気臭く感傷的に描かれがちだが、ここではそれが良い意味であっけらかんと描かれている。ブライアンは声で喋るが、アベルは耳が聞こえないので伝わらない。アベルは手話で喋るが、ブライアンは目が見えないので伝わらない。この状態で互いの思いを伝えようとして、2人はもうとにかくワチャワチャ動きまくる。手を動かし、足を動かし、互いに触れて、表情を変えては変える。障害はありながら、それを苦としない明るさが、初々しい愛となって輝き、観客を思わず笑わせていく。

Hauser監督が兼任する撮影は、そんな2人の動きの数々を途切れのない流れとして捉えるためか、長回しが主体となっている。手振れを伴いながら被写体に肉薄したり、距離を取りながら横移動でその動きを撮しだしていくのだ。そうしてスクリーンに浮かびあがるブライアンとアベルの姿には生命力が溢れている。今作が優れているのは、彼らが互いを理解するための涙ぐましい努力、愛するための過程をこうしたアクション主体で描きだそうと常に試みるからだ。今作はロマンティック・コメディであると同時に、アクション映画なんだと言いたくなる欲望すらも抱く。

そしてこういった物語の常として、やはり2人の恋路を邪魔する存在が現れる。ブライアンに敵意を抱いてアベルを寝取ろうとする男性、逆にブライアンが好きだからこそアベルから彼を奪おうとする女性、2人のせいで関係性は大きく荒れ狂う。だが彼ら以上に大きな障壁となる存在がいるのにも観客は気づくだろう。それこそが酒である。そもそもブライアンが盲目になった理由は、工業用エチルアルコールを飲んだせいで目が潰れてしまったという頗る不穏な理由だ。それで弟を失った挙げ句、ブライアンはアルコール中毒にもなり、いつでも酒を飲み続ける。これがアベルに不信感を抱かせる一員ともなるのだ。

だが酒が2人にもたらすのはそういった不幸だけではない。ある日、2人が新しい酒を一緒に飲むのだが、酩酊の後に夢の世界で2人は再会することになる。しかも障害はさっぱり消えて、交流には何の支障も無くなるのだ。ブライアンたちは夢の世界で何の気兼ねもなく会話を始める。家族について、部屋のリノベーションについて、自分たちの未来について。そしてこの夢のひとときから帰ると、障害は元に戻っている。あの夢を追いまた酒を飲み、あの夢を追いまた酒を飲み……

読者の方々も、このロマンティック・コメディの流れが妙な方向に舵を切り始めたと思うかもしれないが、いや本当にここから全く異様としか言い様がない展開へと進んでいくことになる。Hauser監督は脚本まで兼任している(というか監督、製作、脚本、撮影、編集、音楽、音響全て兼任)のだが、脚本家としての彼は何というか、自由すぎる。物語に、ここではネタバレしたくない様々な要素を闇鍋的にブチこんでいき、整合性などかなぐり捨てたような何だかスゴいものを提示してくる。そして観客を予想もできない地点へ連れていってしまう。少なくとも私は後半部から驚愕の連続で、口をあんぐり開けるしかなかった。

だが今作の支離滅裂な展開の数々に、不思議な一貫性を感じてしまうのは、おそらく物語の核に酒と酩酊という、予想できなさを象徴するものが据えられているからだろう。この存在はブライアンたちにとって支離滅裂なまでに多様な表情を見せる。あの障害から解き放たれた夢を見せてくれる陶酔、ブライアンから視覚を奪い取る劇薬、そして登場人物たちに異常な選択をさせる気まぐれな悪魔。私たちも酒に呑まれて、説明しがたい奇矯な行為に打ってでてしまったことは何度もあるのではないか。これがそのまま物語として顕現しているのが今作であると言える。だから支離滅裂さに不思議な一貫性、論理、何より破格の魅力を感じてしまうのだ。

とか冷静に書いているが、正直今でもその衝撃が抑えられないでいる。あの微笑ましいロマンティック・コメディがまさかこんなことになってしまうなんて。毎年自分でも呆れるほど大量の映画を観ており、今年も世界各国の映画を観まくってきたわけだが、“Blind Love”は間違いなく今年1番の問題作だ。本当に必見である。いやマジで何だったんだ、あの映画一体……

Dušan Kasalica&“Elegija lovora”/モンテネグロ、知と特権と祝福と

旧ユーゴ圏においてセルビアボスニアといった国々がまず世界で評価されていく中で、今までその力を存分に発揮できなかった国がとうとう脚光を浴びようとしている。まず北マケドニアは2020年において長編ドキュメンタリー「ハニーランド 永遠の谷」アカデミー賞に、しかも長編ドキュメンタリー賞と国際映画賞に同時ノミネートという史上初の快挙を成し遂げるなど世界的な評価が始まっている。

それを上回るのがコソボの大快進撃だろう。紛争によってこの国の映画界はほぼゼロにまで追い詰められたが、独立から10数年間力を蓄え続け、2010年後半より映画祭に次々と作品が選出、かつ多数の賞を獲得するなど、ユーゴ圏・バルカン地域はもとより、世界的に見ても最も勢いあると言っても過言ではなくなっている。これに関しては鉄腸マガジンの“コソボ映画”タグからぜひレビューやインタビューに飛んでもらい、その様を確かめてほしい。

そんななかで最も影が薄かった国がモンテネグロではないか。おそらくモンテネグロと聞いて具体的な作品が浮かぶ人は、相当な映画好きだとしても多くないだろうし、それは映画批評家ですらそうだ。ユーゴ映画ファンならドゥシャン・マカヴェイエフの「モンテネグロ」を思い出すかもしれないが、残念ながら本作はモンテネグロ映画ではない。この鉄腸マガジンではちょくちょくモンテネグロ映画のレビューや映画批評家へのインタビューを掲載しているが、それでもまだまだ情報は少ない。そんな中で1人、興味深い新鋭が現れた訳である。今回はそんなモンテネグロ映画界の新鋭であるDušan Kasalica ドゥシャン・カサリツァ、彼の長編デビュー作品“Elegija lovora”を紹介していこう。

今作の主人公はフィリップ(Frano Lasić フラノ・ラシチ)という中年男性だ。彼は妻であるカタリーナ(Savina Geršak サヴィナ・ゲルシャク)とともに、スウェーデンの山間部に位置する高級ホテルへと赴くことになる。ここで繰り広げられるのは優雅なるひとときだ。壮麗なクラシック音楽を耳にしながら、絶品なるマッサージを施されて、夢心地に微睡んでいく。そして大きなプールで自由に泳ぐこともあれば、外に広がる豊かな自然のなかをのどかに散歩する。とにかく自由で、雅やかな生活を、フィリップは享受することになる。

そんなフィリップは予想できるだろうが特権を傘にした傲慢な知的階級といった存在だ。例えば同じホテルの宿泊客たちと会話を繰り広げる際に、自身の特権性や傲慢さ、そして知的に劣る人々への軽蔑を隠さないままに話し続ける。そして優雅なる日々のなかにも、ふとした瞬間にそういった知的階級のナルシシズムともいうべき代物が首をもたげるのだ。

監督と撮影担当のIgor Đorđević イゴール・ジョルジェヴィチはそんなフィリップの姿を突き放すような視線で以て観察し続ける。彼はただ人生の喜びを享受しているように見えるが、その終りは刻一刻と近づいているように思われる。ホテルの一室ではカタリーナと些細な口喧嘩ばかり繰り広げ、セックスも拒まれる。彼女の心が自分から完全に離れているのに気づいているが、どう関係を修復すればいいのか全く分からない。Đorđevićの撮影は明晰で、フィリップたちの観察模様は凄まじく解像度が高い。このなかでこそ、夫婦仲は静かに破綻していく。

物語が進むにつれて、この観察的態度は自然と長回しというスタイルへと昇華されていく。カメラはフィリップを追跡するように動くが、急ぐことはなく、瞑想的な遅さで動いていき、フィリップの行動や表情の数々が切れ目のない流れとして表現されていくのだ。そしてこの長回しに呼応するように際立ち始めるのはホテルという建築そのものだ。内装には穢れを滅殺されたような無菌的な美が常に宿っている。確かに見かけは美しいが、生きられた痕跡すらも消去されているようだ。おそらくその人間性の殲滅が“高級”というものなのだろう。そしてこういった空間が人間から可能性を奪いとる代わりに、安心をもたらし、これを既得権益として特権階級がしがみ続ける。フィリップもそんな怠惰な人間の1人だが、これにとうとう終りが訪れる訳だ。

フィリップの努力も虚しく、カタリーナは途中で家へと帰ってしまい、独り取り残されてしまう。何とかこの高級ホテルであの優雅なる休暇を続けようとしながらも、ただただ虚無感が募るばかりだ。マッサージの一環で泥を塗られても惨め、若い女性を口説こうとしても無視され惨め、独りでベッドに横たわるのみで惨め。それに耐えきれずに自身も帰宅せざるを得ないが、日常に戻ってきたとしても、破綻の影響は濃厚であり、惨めな虚無感から逃れることができない。

ここから物語は意外な方向へと舵を切る。進退極まったフィリップは故郷へと逃げるように帰省を果たすのだが、そこは鬱蒼たる緑が満ち満ちる森林地域だった。ここでしばらく静養しようとするのだが、彼はこの森林が伐採されていく過程にあることを知る。更にフィリップは謎めいた女性と出会い、自然破壊への反抗を始めることになる。

前半におけるブルジョア階級の皮肉な風刺劇はここで全く奇妙な幻想譚へと変貌していく。この魔術的リアリズムによって監督が成そうとするのは、前半で提示された知の傲慢とナルシズムの傲慢だ。舞台は無菌の美的空間から土と植物で犇めく森林に移り変わり、フィリップは幻惑に揉まれるなかで汚れながら、その内に自然を取り戻していく。“Elegija lovora”はこの驚くべき飛躍によって、知が持つ宿痾としての特権性を克服せんとする1作だ。そして同時に今作は、モンテネグロ映画界の飛躍をも祝福するのだ。

Azer Guliev&“Tengnefes”/アゼルバイジャン、肉体のこの苦痛

さて、アゼルバイジャン映画である。現在の、いわゆる新しきアゼルバイジャン映画を支えるのは現在30代40代の映画作家たちだ。例えば私がこの10年で最も偉大な映画作家になると確信しているHilal Baydarov ヒラル・バイダロフや、2021年のオスカー国際映画賞のアゼルバイジャン代表となった“Daxildəki Ada”の監督Ru Hasanov ルー・ハサノフ(レビュー記事はこちら)がこの世代にあたる。そしてこの鉄腸マガジンでインタビューしてきたRuslan Ağazadə ルスラン・アガザダTahmina Rafaella タフミナ・ラファエッラは30代で、現在初長編を製作している途中だ。そんな中で、早くも20代の若手も才能の片鱗を見せ始めていると言わざるを得ない。今回紹介するのは若手最重要作家の1人になるだろう人物Azer Guliev アゼル・グリエフによる短編“Tengnefes”だ。

ある中年女性(Shahla Aliqizi シャフラ・アリギジ)が夜の町を駆け抜ける。その眼差しや顔つきは真剣そのものであり、脇目も振ることなく走り続けている。スクリーンには彼女が迸らせる熱い汗と、荒らいだ息遣いが濃厚に現れてくるのだ。そんな風に彼女の1日は終わり、そして再び始まっていくのである。

女性はシングルマザーとして、1人息子を育てている人物らしい。序盤においてはそんな彼女の子育ての風景が描かれていく。だが親子同士の愛に溢れた親密さといったものは全く存在していない。その真逆、見ているだけで息も詰まるような荒んだ風景ばかりが広がっている。母と息子、その関係性は頗る不穏なものだ。彼らの間には会話があまりなく、視線も交錯することはない。彼を育てているのはこの世に産んでしまったが故の尻拭い、そんな鬱屈ばかりが感じられるのだ。

その合間に女性は頻繁に運動を行うこととなる。例えば水泳を行い、呼吸器を鍛える。例えば夜にはジョギングを行い、スタミナを養う。例えば運動器具によって筋トレを行い、全身の筋肉に鞭を振るっていく。適度な運動は健康を維持するためには誰にも必要なことだろう。だが異様なのは女性の、運動への没頭具合だ。私たちはその姿に楽しみなど見ることはできない、ただひたすらな苦痛のみを目撃せざるを得ない。そんな状態へ、女性は常に自身を追いこんでいくようなのだ。

物語が進むにつれて、この没頭の理由の一端が伺えてくる。陰鬱な表情のまま彼女が向かうのは病院であるのだが、医師から健康にまつわる忠告を受けることになる。これ自体は中年に差し掛かれば誰にでもあることだろうが、そうして健康になるために女性が成す運動、その量や勢いの激烈さは異常なものだ。最初はただ健康のために続けていた運動が、どこかの時点でタガが外れて均衡を失う、そうして手段が目的へと不気味な形で反転してしまったかのようだ。そしてその理由が息子との関係性にあるのではないかと、物語は示唆する。

とにかく圧倒的なのは主演俳優であるShahla Aliqiziの存在感だろう。物語を通じて、彼女は重苦しいまでの寡黙を貫き通す。だがその陰鬱な表情に満ちる皺のあちこちからは常に苦渋と、曰く言い難いドス暗い感情が滲み渡る。それは息子への負い目であり、惨めな生活への怒りであり、老いて健やかさを失った己の肉体への憎しみであり、その全てが暴力的なまでに混ざりあった不穏な代物だ。これをAliqiziは一身に背負いながら、この映画そのものを牽引していく。

そして彼女の鮮烈な肉体感覚というものを、監督は巧みに提示していく。健康への執着が、拷問と見紛うほどに激越な運動行為へと繋がっていき、徐々に1人の人間の人格を歪めていく。この光景を、監督は言葉も失うほどの圧力を以て描きだしていき、そうして生まれた異形のアゼルバイジャン映画こそがこの“Tengnefes”なのである。

Elitza Gueorguieva&“Un endroit silencieux”/別の言葉で書くということ

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さてご存知かもしれないが、私はルーマニア語で小説を書いている、つまりはルーマニアで小説家として活動している。自分でもどうしてこんなことになっているのかよく分からないが、そんなことよりもルーマニア語という母国語以外の新しい言語で書くことを私は楽しんでいる。そんな奇妙な立場にある私の心を深く、深く魅了した作品について今回は書いていきたい。それこそがブルガリアの新鋭ドキュメンタリー作家Elitza Gueorguieva エリツァ・ゲオルギエヴァによる長編作品“Un endroit silencieux”だ。

今作の主人公はAliona Gloukhova アリョーナ・グルコヴァというベラルーシ移民の女性だ。彼女は独裁政権下にあった(現在でもその体制は続いている)ベラルーシから家族とともに亡命、フランス・パリに住み始め、現在ではフランス語で執筆を行う小説家として活動している。そんな彼女の父親もベラルーシから亡命しようと試みながら、その過程で行方不明となっていた。長い時が経ち、アリョーナはそんな過去を小説として描きだすことを決意する。

そんな彼女の決意に寄り添う存在が、監督であるElitza Gueorguieva自身だ。彼女自身も社会主義政権下であったブルガリアから家族とともに移住、それからずっとパリで暮らしてきたという過去がある。そしてやはりフランス語で執筆活動を行う小説家でもあり、共通する道筋によって2人は深い絆を紡いでいるという訳だった。Gueorguievaはカメラを持ち、傍らでアリョーナの姿を見つめる。ここにおいて重要なのはやはり言葉だ。アリョーナはカメラに向かって自分の感情について語り、時には2人と同じく、社会主義政権からの亡命者かつフランス語作家であるアゴタ・クリストフの言葉を引用していく。そうして現れる風景には親密が表れながら、同時に寂しさも存在している。

アリョーナが抱く祖国ベラルーシへの想いは複雑なものだ。苦難の源の地でありながらも、愛着を完全に捨て去ることはできない。そして彼女の語りからは、ベラルーシにおいて今も続くルカシェンコ政権の独裁と弾圧を思い出さざるを得ないだろう。そして監督も今はパリで暮らしながら、ブルガリアで過ごした子供時代もあり、簡単には愛せも憎めもしないのだ。2人は20世紀後半において東欧に蔓延していた抑圧の記憶を共有している。だからこそ2人の極個人的な思いの数々は共鳴を果たし、映画として切なさを伴いながら結実している。

そしてアリョーナは行方不明となった父親への想いをもカメラに向かって吐露する。脱出する際、乗っていた船は沈没したことで、彼の行方は杳として知ることが叶わなくなった。そうして海に消えてしまったのだろう父をアリョーナは“いるか”になったのだと語る。彼女は“いるか”になった父の軌跡を辿るために、自身でも旅を出て、そこで言葉を紡ぎ続ける。そんなアリョーナの姿から聞こえてくる響きがある。消失は死ではないと、言葉のなかでは消えてしまったものたちもずっと、ずっと生きているのだと。

さて、ここからは私の極個人的な想いについて語らせていただきたい。今作においては母国語ではない別の言語で執筆を続ける作家たちが主人公であるゆえに、先述の理由もあってルーマニア語で執筆する日本人の私は彼女たちに感情移入せざるを得なかった。とはいえ背景が全く違うことは書いておく必要があるだろう。2人は東欧という故郷から亡命せざるを得ず、フランス語で執筆するのは不本意とは言わずとも、この言語で書かざるを得なかったという側面はあるだろう。だが私の場合はむしろルーマニアという国の文化に惹かれたゆえにルーマニア語を勉強し作家になった、つまり彼女らとは逆にルーマニア語でこそ書きたかったのだ。そして2人が東欧から別の国へ移った一方、私は別の国から東欧に移ったと、矢印もまた真逆なのだ。であるからして切実さがまた両者では異なってくる。

だが彼女らの亡命という苦難と比較して、では私の切実さは軽いものだとは言いたくはない。大学の頃から鬱病に苦しみ、途中からは自閉症スペクトラム障害だということが発覚した。さらに今年はクローン病という腸の難病も発症し、身体のあらゆる部分に障害があるような気分になる。この身体の弱さゆえに1度も海外には行ったことがない。旅行くらいなら今後行けるかもしれないが、夢の1つだったルーマニア移住はクローン病でとどめを刺されたと言っていいだろう。そもそも日本国内にしても、東京と千葉から殆ど出たことがない。子供の頃に旅行で栃木や新潟に数回、静岡へ墓参りに数回、修学旅行で京都と沖縄1回ずつ、それくらいだろうか。正直金もないし、今後旅行もそんなには行けないだろう。

だからこそ私が世界の映画を観たり、言語を学んだり、何よりルーマニア語で小説を執筆するというのは世界旅行のようなものなのだ。私は意外とこれに満足している、別に実際旅行できなくてもいいさと割りきれるようになった。何故なら、今はネットがある。ネットの力を借り、上に挙げた3つの行動を通じ、私には驚くほど多くの友人ができた。ボスニアハンガリーコソボ、そしてルーマニアといった東欧諸国にはたくさんの、1回ですら実際には会ったことのない親友と呼べる人々がいる。特にルーマニア、いやルーマニア語では日本の殆どの人が経験したことのない、本当に驚くべき体験をした。何よりルーマニア語で小説を書き、それが他でもないルーマニアの人々に認められたことは一生の誇りだ。つまりはそういう喜びを、この“Un endroit silencieux”を観ながら、私は再び感じることができた。だからこの映画に感謝したいのだ。

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私の好きな監督・俳優シリーズ
その421 「半沢直樹」 とマスード・キミアイ、そして白色革命の時代
その422 Desiree Akhavan&"The Bisexual"/バイセクシャルととして生きるということ
その423 Nora Martirosyan&"Si le vent tombe"/ナゴルノ・カラバフ、私たちの生きる場所
その424 Horvát Lili&"Felkészülés meghatározatlan ideig tartó együttlétre"/一目見たことの激情と残酷
その425 Ameen Nayfeh&"200 Meters"/パレスチナ、200mという大いなる隔たり
その426 Esther Rots&"Retrospekt"/女と女、運命的な相互不理解
その427 Pavol Pekarčík&"Hluché dni"/スロヴァキア、ロマたちの日々
その428 Anna Cazenave Cambet&"De l'or pour les chiens"/夏の旅、人を愛することを知る
その429 David Perez Sañudo&"Ane"/バスク、激動の歴史と母娘の運命
その430 Paúl Venegas&"Vacio"/エクアドル、中国系移民たちの孤独
その431 Ismail Safarali&"Sessizlik Denizi"/アゼルバイジャン、4つの風景
その432 Ruxandra Ghitescu&"Otto barbarul"/ルーマニア、青春のこの悲壮と絶望
その433 Eugen Jebeleanu&"Câmp de maci"/ルーマニア、ゲイとして生きることの絶望
その434 Morteza Farshbaf&"Tooman"/春夏秋冬、賭博師の生き様
その435 Jurgis Matulevičius&"Izaokas"/リトアニア、ここに在るは虐殺の歴史
その436 Alfonso Morgan-Terrero&"Verde"/ドミニカ共和国、紡がれる現代の神話
その437 Alejandro Guzman Alvarez&"Estanislao"/メキシコ、怪物が闇を彷徨う
その438 Jo Sol&"Armugan"/私の肉体が、物語を紡ぐ
その439 Ulla Heikkilä&"Eden"/フィンランドとキリスト教の現在
その440 Farkhat Sharipov&"18 kHz"/カザフスタン、ここからはもう戻れない
その441 Janno Jürgens&"Rain"/エストニア、放蕩息子の帰還
その442 済藤鉄腸の2020年映画ベスト!
その443 Critics and Filmmakers Poll 2020 in Z-SQUAD!!!!!
その444 何物も心の外には存在しない~Interview with Noah Buschel
その445 Chloé Mazlo&"Sous le ciel d'Alice"/レバノン、この国を愛すること
その446 Marija Stonytė&"Gentle Soldiers"/リトアニア、女性兵士たちが見据える未来
その447 オランダ映画界、謎のエロ伝道師「処女シルビア・クリステル/初体験」
その448 Iuli Gerbase&"A nuvem rosa"/コロナ禍の時代、10年後20年後
その449 Norika Sefa&"Në kërkim të Venerës"/コソボ、解放を求める少女たち
その450 Alvaro Gurrea&"Mbah jhiwo"/インドネシア、ウシン人たちの祈り
その451 Ernar Nurgaliev&"Sweetie, You Won't Believe It"/カザフスタン、もっと血みどろになってけ!
その452 Núria Frigola&"El canto de las mariposas"/ウイトトの血と白鷺の記憶
その453 Andrija Mugoša&"Praskozorje"/モンテネグロ、そこに在る孤独
その454 Samir Karahoda&"Pe vand"/コソボ、生きられている建築
その455 Alina Grigore&"Blue Moon"/被害者と加害者、危うい領域
その456 Alex Pintică&"Trecut de ora 8"/歌って踊って、フェリチターリ!
その457 Ekaterina Selenkina&“Detours”/モスクワ、都市生活者の孤独
その458 Barbora Sliepková&“Čiary”/ブラチスラヴァ、線という驚異
その459 Laurynas Bareiša&“Piligrimai”/巡礼者たち、亡霊たち
その460 Romas Zabarauskas&“Advokatas”/リトアニア、特権のその先へと
その461 Hannah Marks&“Mark, Mary & Some Other People”/ノン・モノガミーについて考える
その462 Zvonimir Grujić&“Pomoz bog”/モンテネグロ、お金がない!
その463 Marinos Kartikkis&“Senior Citizen”/キプロス、老いの先に救いはあるか?
その464 Agustín Banchero&"Las vacaciones de Hilda"/短い夏、長い孤独
その465 Elitza Gueorguieva&“Un endroit silencieux”/別の言葉で書くということ

Agustín Banchero&"Las vacaciones de Hilda"/短い夏、長い孤独

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さて、私は今、映画批評家としてあることを考えている。2030年代に映画界の頂点を争うのはどこの国かということだ。早すぎるだろうか、いや2030年代に頭角を表すには雌伏の時期、着実に技術を高めていく時間が必要であり、今からそんな原石を探しだしていくのは批評家の義務であると感じる。そこで今のところ4つほど私のなかで注目している国がある。それがモンテネグロ、スロヴァキア、キプロス、そしてウルグアイである。前3つに関しては今年少し鉄腸マガジンにも作品の記事を書いた覚えがあるが、ウルグアイに関してはまだと記憶している。ということで今回はウルグアイ映画界を今後背負って立つだろう重要な新鋭Agustín Banchero アグスティン・バンケロのデビュー長編"Las vacaciones de Hilda"を紹介していこうと思う。

今作の主人公はヒルダ(Carla Moscatelli カルラ・モスカテッリ)という中年女性だ。彼女はウルグアイの地方都市であるコンセプシオンで孤独な生活を送っている。仕事場では同僚たちとも必要最低限のことしか話すことはなく、家に帰っても母親の介護を行った後は、寝室に籠ってパソコンを眺めるばかりだ。序盤においては、そんなヒルダの孤独な姿というものが淡々と描かれていく。

今作において際立つのは、監督が持つ建築への繊細な意識である。まず冒頭においてヒルダが向かうのは、町外れにあるらしい巨大なサイロだ。聳える円柱型のサイロはほぼ放置されて、その偉容にすらもどこか侘しさを感じさせる、まるで取り壊されるのを待っているのに、もはや誰からも見放されてしまったかのように。そしてヒルダの家も印象に残る。かなり年季の入った内装に古びた家具などが犇めき、どこか不安定な印象を観客に与える。

そして家のなかでも特に目につくのは雨漏りだ。眠りに落ちる前のヒルダ、その瞳には徐々に広がっていく雨漏りのシミが映っている。それはこの家自体が少しずつ朽ちていくという状況を語っていく。それは同時にヒルダ自身の心の朽ちをも示唆しているのではないかと、私たちは思うことになるだろう。

ある時、彼女のもとに報せが届く。長年疎遠だった息子が故郷に帰ってくるというのだ。その日からヒルダは彼に心配をかけたくないからか、殆ど無頓着だった身の回りの整理を行い始める。例えば化粧や服装に気を遣ったり、家のなかを丁寧に掃除したり。中でも雨漏りが酷いことになっていながら、今までは悪化するままに放っておいた。しかしヒルダは工務店にその修復も頼み、見る間に時が流れていく。

こうしてヒルダの日常は少しずつ色彩を取り戻すかのように思われる。だが彼女の深い孤独がそんな容易に癒されることもない。あることをきっかけに、ヒルダの心は現実ではなく追憶へと投げこまれることになる。その中で彼女はかつての夫や息子たちとともに、夏のバカンスを楽しんでいる。表面上は家族団欒といった風であり、楽しそうだ。しかしふとした瞬間、ヒルダが抱く夫への不信が画面上から溢れだし、心がささくれだつ。息子たちもまた母親の心を敏感に察知し、不安を抱くようだ。バカンスは徐々に不穏な緊張を宿すことになる。

こうして物語は前半と後半で微妙に異なってくるのだが、これに力強い芯を通していくのがLucas Cilintano ルカス・シリンターノによる撮影だ。寂れたコンセプシオンを舞台とする前半、カメラは距離を取りながらヒルダの姿を映し出していく。サイロの侘しさなどの町の風景もヒルダの心証風景も同じように荒涼としながらも、ふ過酷さのなかで生き抜く凛とした植物のような、生命力を纏った詩情がふとした瞬間に現れることにもなる。これが私たちの心を掴んで離さない。

後半部においては一転、どこかで緩やかで涼しげなバカンス地が舞台となっており、Cilintanoのカメラは手振れを伴いながら、よりヒルダたち登場人物へ肉薄していくような感覚がある。視覚的な意味で、人物同士、もしくは人物と観客の距離が近づくことになる。だがここでむしろ際立つのは心理的な距離感だ。ヒルダや夫は互いに不信感を抱き、そのせいで子供たちの心が揺れ動く。誰かとともに過ごすからこその孤独が、ここには存在するのだ。

ここにおいてはヒルダ役を演じるCarla Moscatelliの存在感こそが要になっているとも言えるだろう。彼女は身も心も過去と現在を行き交いながら、ヒルダという中年女性が抱える痛みを豊かに語っていくのだ。私たちが彼女のなかに見出だすのは凍てついた孤独であり、かつての愛の残骸であり、確かに手にしていたはずの幸せの残り香なのだ。

Agustín Banchero"Las vacaciones de Hilda"によって描きだす、私たちが抱くことになるかもしれない、抱いたことのあるのかもしれない、ただひたすらな、生きることの寂しさを。それが癒される時はいつか来るのか? この問いに対する安易な答えを、ヒルダが最後に見る風景は強く拒むことになるだろう。それほどまでに孤独とは途方もないものなのだ。

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その426 Esther Rots&"Retrospekt"/女と女、運命的な相互不理解
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その456 Alex Pintică&"Trecut de ora 8"/歌って踊って、フェリチターリ!
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その458 Barbora Sliepková&“Čiary”/ブラチスラヴァ、線という驚異
その459 Laurynas Bareiša&“Piligrimai”/巡礼者たち、亡霊たち
その460 Romas Zabarauskas&“Advokatas”/リトアニア、特権のその先へと
その461 Hannah Marks&“Mark, Mary & Some Other People”/ノン・モノガミーについて考える
その462 Zvonimir Grujić&“Pomoz bog”/モンテネグロ、お金がない!
その463 Marinos Kartikkis&“Senior Citizen”/キプロス、老いの先に救いはあるか?
その464 Agustín Banchero&"Las vacaciones de Hilda"/短い夏、長い孤独

Marinos Kartikkis&“Senior Citizen”/キプロス、老いの先に救いはあるか?

人間は長く生き続けるかぎり老いていく、この運命は絶対に避けることができない。肉体は朽ちていき、精神は磨耗していく。そして最後には全てが朽ち果てるのみだ。そんな老いという最後の旅路のなかに、救いというものは存在し得るのだろうか? 今回紹介するのはそんな避け得ぬ問いをめぐる物語であるキプロス映画、Marinos Kartikkis マリノス・カルティキス監督作“Senior Citizen(原題:Πολίτης τρίτης ηλικίας)だ。

今作の主人公はテオハリス(Antonis Katsaris アントニス・カツァリス)という男性だ。人生も黄昏に差し掛かり、年金生活者として彼は悠々自適な生活を送っているように思われる。だが彼は端から見れば奇妙な生活を送っている。夜、テオハリスは家から病院へと赴き、院内のベンチに横たわるとそこで眠るのだ。朝、目覚める後には家へと戻り、朝食を取ってから、静かな時を過ごす。だが夜になると再び病院へと行き、ベンチに横たわり眠りに落ちる。

映画はまずこのテオハリスの奇妙な生活を淡々と描きだす。一見するところ、彼の生活や健康状態には何の支障もないように思われる。食事をする、ネコに餌をやる、部屋から部屋へと歩いていく。それは何の変哲もない日常の風景だ。それでもテオハリスは病院へ行く。薄暗い廊下、堅苦しいベンチ、そこで縮こまり、そして眠る。一体なぜ、彼はわざわざこんなことをするのか。観客はそれぞれに思いを巡らせざるを得ないだろう。

そんな日々のなか、テオハリスはある出会いを果たす。彼がいつものようにベンチで寝ていると、その姿を怪訝に思ったらしいエヴゲニア(Marina Argyridou マリナ・アルギリドウ)という看護師が声をかけてくる。心配げに色々と尋ねるのだが、テオハリスは理由については一切話すことなく、家へと帰っていく。そしてもう1つの出会いはアテナ(Lenia Sorocou レニア・ソロコウ)という老婦人とのものだ。2人はビンゴ大会で出会い、交流を始めるのだが、アテナが好意を見せる一方で、テオハリスはそれに無視を決めこむように距離を取り続ける。

監督の演出はどこまでも即物的なものであり、一種の冷ややかさすら存在している。撮影監督Yorgos Rahmatoulin ヨルゴス・ラフマトゥリンとともに、彼はテオハリスの日常を静かに見据え、観察し続ける。そこにおいては彼の心理や行動の動機が説明されることは、ほとんどない。この意味では観客に忍耐を求めるような、切り詰められた語りとなっている。だが映画は、テオハリスは内に秘めたる思いを断片として少しずつ、木訥と明かし始める。老いの悲しみ、死への複雑な感情、そして最愛の存在であった妻の死。

おそらくそれらのどれもが、彼を病院へと誘い、ベンチに横たわらせる理由なのだろう。だがどれも決定的な理由ではない筈だ。全てが曖昧に混ざりあったものにこそ突き動かされ、テオハリスは行動しているのだ。その曖昧さこそが、人生の黄昏に広がる孤独というものなのだと。今作はこのように、即物的な演出を徹底しながらも、同時に言葉にはならない曖昧な感情を繊細に捉えられるしなやかさをも、持ち合わせているのだ。

この要となる存在がテオハリスを演じるAntonis Katsarisだろう。老いによって衰えた身体、重苦しさや遅さを伴った挙動、しかし何よりも深き皺の数々が刻まれたその表情。彼はこういった要素を纏いながら、長き歴史としての人生を私たちの瞳へと差し出してくる。そんな彼とともに、監督は“老いの先に救いは存在するのか?”という悲壮な問いへの思考を深めていく。

そして観客である私が、彼らの思考と、それが紡いだ最後の風景に、見出だしたものがある。人生には必ず終わりがある、死によって生は絶対に終わることとなる。だがその周りには数限りない、他者の生が存在している。1つの死の後にも、その無数の生は続いていくのだ……これは希望だろうか、それとも諦めでしかないのか。これはおそらく、私たち自身に死に訪れるまで考え続けなければならないのだろう。少なくともこの勇気を“Senior Citizenという作品はもたらしてくれる筈だ。