鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

映画痴れ者/ライター済東鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

リチャード・フライシャー再考その2

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ということでリチャード・フライシャー作品を観続けている。1984年制作の「キング・オブ・デストロイヤー/コナンPART2」/ "Conan the Destroyer"にはマジで感動した。いや、絶対午後のロードショーで観てたとは思うんだけど、こんなにも豊穣な作品だったのかと。ファンタジー映画において、設定でなくビジュアルで世界観を魅せるというのは、当然だとは思われながら実際には本当に高くて困難なハードルだと思える。だけどもフライシャーと撮影監督のジャック・カーディフ、そして忘れちゃいけない多くの特殊効果スタッフは、こんなにも容易く、威風堂々と飛び越えてみせる。それに衝撃を受けた。

その威風堂々さのなかで、しかし外連味もあって本当に楽しい。あの氷山のなかの鏡の空間の幻想性、かと思えばそこに現れる笑撃のトカゲ人間。でも割と強いんだよな、あいつ。そこからのシュワちゃん、鏡大破壊祭り。すげえのなんのって。本当、子供のように無邪気に楽しんでしまった。それでいて子供の頃分からなかったものが、今見えた気がする。感動以外の何物でもなかった。

1977年制作の「王子と乞食」"The Prince and the Popper"はその割を喰ったかもね。。別に悪くはないんだよ、冒頭の雑踏追っかけっこの素晴らしい躍動感、英国貴族の絢爛豪華たる汚らわしさ、アーネスト・ボーグナインの眉毛とオリヴァー・リードの胸毛乳首のハーモニー。いやリード、映画で毎回上半身露出しているイメージしかない、マーク・ウォールバーグかよ。だけども世界観の立ち上がり方とか「コナンPART2」の後に観るといささかか見劣りって感じで、何とも言えない出来だった。

1952年制作の日本未公開作"The Happy Time"1920年代カナダに生きるフランス移民の家族を描く1作だった。ある少年がのらくらで馬鹿だけど信念がある男たちに囲まれ成長するみたいな。だが"男ってやつっていつだって、いつまでも馬鹿"みたいな甘やかな郷愁が虫歯を量産するレベルの有害さだ。職人気質のフライシャーには珍しいまでに深い思い入れ、もしくは自己耽溺。見苦しいことこの上ない。

だが1974年制作のマジェスティック」/ "Mr. Majestyk"は予想に反して素晴らしかった。午後のロードショーとかで観ている筈だけど、その時は今作の面白さに全く気付けていなかった。ブロンソンのスイカへの熱き想い、それを嘲笑うスイカ大虐殺、泣けるね。だが最終決戦がすごい。無音と銃声の狭間を忍ぶブロンソンの渋みと薄笑いの哀愁は絶品。場を静寂で満たすさの手捌きといえばフライシャー作のアクション場面でも最上の1つ。冒頭に切れ味と血肉湧く激しい銃撃戦を置いたうえでのあの静謐は正に神懸かり的なアンチ・クライマックスで圧倒された。

でもその素晴らしさですら同年制作の「スパイクス・ギャング」/ "Spikes Gang"の前では霞むんだから困った。冒頭の荒野と少年たちの暖かな視線から、もう涙が溢れそうになった。そんな果てしない荒野で若さを生きる青年たちの切なさと多幸感、それをここまで胸を引き裂くほどの慎みと美を以て描いた作品があったか。70年代アメリカ最高の青春映画として屹立するべきフライシャーベストの1本。あまりにもやるせない、やるせないよ。

それから今作を観ながら、頭に思い浮かんだのはイヴァン・パッセル監督作「男の傷」だった。何か朧げな蜃気楼を思わす撮影、時おり響く場違いな、しかし印象的なまでに物悲しいシンセ音楽、そして世代が全く違いながら青春の終りを感じさせる主人公たちの道行き。それらが不思議と共鳴するような気がした。「男の傷」はもはや中原昌也率いる東京住まいの知的スノッブの慰み物となってしまい残念だな。

ここまで来ると、リチャード・フライシャーが日本で過大評価という当初の印象は無くなったが、今度は語られるべき作品が語られていないという印象が強くなる。50年代ノワール群とマンディンゴの著しい過大評価、晩年である80年代作品の著しい無視、初期作"Child of Divorce""Banjo"の日本未公開etcetc

次に観たのが1954年制作の夢去りぬ」/ "The Girl in the Red Velvet Swing"だった。ショービズ界の痴話喧嘩殺人っていう下らねえも下らねえゲス映画、フライシャーでも救えやしねえって感じだった。ジョーン・コリンズはただただテカってる木像状態、レイ・ミランドは生理的に受け付けないキモ紳士。唯一ファーリー・グレンジャーだけがモラハラ夫役で健闘しているも、正直映画全体は虚飾以外の何物でもない。無残だ。

それでも1955年制作の「叛逆者の群れ」/ "Bandido!"はなかなか良かった。純白スーツを飄々しなやかに着こなしながら、手榴弾ジャンキーとして有象無象を虐殺する傭兵ロバート・ミッチャムという主人公造型の絶品さな。「替え玉殺人事件」の再撮で仲良くなったんだろうか? かつその音響効果の壮絶さは娯楽を突き抜け、常に銃撃やら爆撃やら馬の蹄やらが響いてる。もはや実験映画の極致へ到達していた(最近でここまで音響が突き抜けていた娯楽大作は仮面ライダーセイバー 不死鳥の剣士と破滅の本」くらいだろう)全部が全部成功しているとは言い難いが、フライシャーの意欲作として必見だと思える。

そして「コナンPART2」が素晴らしかったんで1985年制作のレッドソニア」/ "Red Sonja"を観た。これも多分午後のロードショーで観た。だが再見すると格調高いロングショットの連なりによって流れる如く紡がれるファンタジアに陶然とさせられる。そして水中の激戦と愛の剣劇の長ったらしさで、この陶然が永遠さながら延長されていくことにまた感動してしまった。フライシャー作で最も美しい映画の1本だよ、間違いない。

フライシャー作品で、ショット1つ1つの独立した完成度とショットの有機的な繋がりを最も美しく両立し体現している作品を挙げるなら、躊躇いも一切なく「キング・オブ・デストロイヤー/コナンPART2」レッドソニアを挙げたい。ロングショットとかクロースアップとか距離感がビビッドに現れるショット同士の繋がりやリズムがあまりにも華麗なんだよな。実はこの数日後に、気まぐれにジャン・ルノワール作品、例えば「カトリーヌ」とか「水の娘」とか観たんだけど本当美しかったね。俺はこの「コナンPART2」レッドソニアは、フライシャーが最もルノワールに近づいた作品と思えるよ。

初期フライシャーについてまた少し。ボディガード」以降のノワール期は、語りの経済性を押し進めすぎたゆえの加速主義的な胡散臭さを感じる。大作だけじゃなくてB級映画もまた"資本主義"の産物なんだよ、その速度が。こういう意味で「その女を殺せ」以外良くないと思う、いや「札束無情」もギリで良作かな。そして急に思ったことだけども、この意味で1951年における「替え玉殺人事件」の再撮は重要な転換期だったのかもしれないと思える。ノワール群と比べれば分かるが、その2時間というランタイムや前半ノワールで後半冒険劇という2部構成って感じの語りは件の経済性からは程遠い。そしてこの直後に作った"The Happy Time"から、フライシャー作品で決定的に何かが変わった感があるよな。

ということで鑑賞記録に戻ろう。「ならず者部隊」/ "Between heaven and Hell"はフライシャー1956年の1作だな。後年の大作「トラ・トラ・トラ!」の前哨戦、どころの騒ぎではなかった。正直、最初は主人公の回想を挿入する甘さが心配になった。これに関して、水とプールで現在と回想を繋げる手捌きがいいとか言ってるやついるけど、そもそもここに回想入れること自体、甘いだろ。だけどその後、戦争の静謐と喧騒を激しく行きかう最中、勃然と死が噴出するそのリズムが頗る異様(これはマジェスティックの最終戦とも共鳴する)で、死の不条理をまざまざと目撃させられる戦慄があるんだよ。あのヘッドショット、神懸かり的だ。さらにもう死ぬ気で主人公が山の斜面走りまくるラスト、生命の解放感というものがあって猛烈に興奮した。フライシャー50年代ベストの1本。

その次には1954年制作の海底二万哩」/ "20000 Leagues under the Sea"を観た。言わずと知れたジュール・ヴェルヌSF小説の映画化だけども、ぶっちゃけディズニーのために作っただけみたいな凡作だった。ピーター・ローレはヒョコヒョコおちゃらけカーク・ダグラスウクレレ持ってアシカと遊んでたり、俳優陣がすごい楽しそうだったので、まあ良し!

それよりも次に観た1955年制作の「恐怖の土曜日」/ "Violent Saturday"だよな。これ日本でもソフトとか出てるけど、語ってるやつをあまり見ない。ちょっと余りに過小評価されてないか?という傑作だった。こう何度も書いてる、50年代前半ノワール群における語りの経済性、味気ない加速主義の塊みたいな語りが、田舎町の群像としての豊かな余白/無駄と重なりあうことで生まれるものがあるんだよ。いや一体、あの人生の切実な交錯は何なんだ? 酔っ払いのオッサン、眼鏡のむっつりスケベ、置き引きを繰り返す中年女性、アーミッシュの家族。彼らの膨大な群像を、あの速度で捌かれるとさすがに驚嘆せざるを得なくなる。

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ディテールの描き方がさりげなくも鬼気迫る。子供の足をいきなり踏み躙るリー・マーヴィンの残虐な足、ゴミ箱に捨てられた財布、ポケットのなかの飴ちゃん、背中に突き刺さるピッチフォーク。これが"神は細部に宿る"ということかと思わされた。そしてその積み重ねのうえでラスト、人生の明暗が運命的に別れてしまった男2人のエピローグは壮絶で、残酷すぎるだろって言葉を失った。その崇高さはフライシャーのデビュー長編"Child of Divorce"のラストに匹敵すると思ったね。

で1958年制作のヴァイキング」/ "The Vikings"も観た。ぶっちゃけフライシャー50年代の大作群は「ならず者部隊」以外全部クソみたいに無難という印象の作品ばかりなんだけども、今作も正にそんな感じで退屈だった。スネーク・プリスキン先駆けの眼帯カーク・ダグラスが剣で自害するかと思いきや、何かよく分かんない感じで憤死するところは、何か良かった。それ以外は特に何も言うことはない。

次に観たのが1980年制作のジャズ・シンガー」/ "The Jazz Singer"だった。この映画は優しいよ。父親、優しいね。妻、優しいね。ヒロイン、優しいね。黒人の友達、優しいね。主人公、クズだけど優しいね。世界それ自体、優しいね。だからこそぬるい。例え視線は一方的ですれ違えても、人っていうのは分かりあえる。で? 30年前の"The Happy Time"に退行するぬるい親密さ。退屈。80年代のフライシャー作品は過小評価されているとは何度も言ったが、今作に関しては妥当な評価だ。

しかし気になったことが幾つか。1つは正直邪推に過ぎない。だが今作の完成度の低さには、シドニー・J・フューリーの後釜で撮影することになった事情もひっくるめ、その出来に納得行かず、3年後に同じく音楽が1つのテーマである「ザ・チャンプ」でリベンジしたと邪推したくもなる。そして成功した、と個人的には思う。しかも劇中、父親役であるローレンス・オリヴィエが"Tough enough"と「ザ・チャンプ」の原題を言うんだよな。これは早すぎる布石だったのか?

それからジャズ・シンガー観て、フライシャー作品における黒人表象の研究が興味深そうだなと。まあ、黒人表象を論文か何かで分析してくれると有難いです!というようなマンディンゴはそれとして、その数倍居心地が悪くなる、1940年代の白人と黒人の関係性をいやに鮮やかに捉えているような"Banjo"の冒頭とラスト(特にラスト、今やったら監督は社会的に抹殺されるだろうくらいに悍ましいほのぼのさだ)海底二万哩アシャンティの部族、「コナンPART2」グレイス・ジョーンズ、そして今作のリメイク元へのオマージュとしてのブラックフェイスなど。

今の所最後に観たのは「強迫/ロープ殺人事件」/ "Compulsion"だったけど、これはマジで余りにも酷かったな。さりげなさを装いながら、欲を出して技に溺れる撮影。撮影監督のウィリアム・M・メラーはこの時点でクソベテランだったが、ジョージ・スティーヴンスアンソニー・マンやらと、フライシャーの作品が違うことを全く理解してない無能って感じだった、さらに中立を気取ろうとして、殺人者への廉い同情に陥る脚本には呆れる。幾ら冷徹に殺人者の心理を観察しても、その1人が「俺が怖いのか?」と言いながら女友達をレイプしようとして、彼女が「怖いのはあなたを想ってるから!」みたいなことったら台無しだよな。それらが最高潮を迎える、オーソン・ウェルズ死刑廃止大演説は、スターという存在が要請するスペクタクルの虚無を壮絶なまでに体現してるよ。Filmarksには"彼らを生かすことことが本当の罰"という人がいて、確かにそれもそうだなという気はしながら今作に対して拒否感を抱くのは、この脚本の甘さとオーソン・ウェルズの存在のせいだな。死刑廃止論がクソみたいな殺人者の同情票に成り下がってる、ひでえよ。完全にフライシャー・ワースト。

現時点でのベスト

1.「悪魔の棲む家PART3」
2.「恐怖の土曜日」
3. "Child of Divorce"
4.「スパイクス・ギャング」
5. "Banjo"
6.「キング・オブ・デストロイヤー/コナンPART2」
7.「ザ・チャンプ」
8.「レッド・ソニア」
9.「見えない恐怖」
10.「ならず者部隊」
11.「その女を殺せ」
12.「マジェスティック
13.「叛逆者の群れ」
14.「おかしなおかしな成金大作戦」
15.「替え玉殺人事件」
16.「ムコ探し大騒動」
17.「ミクロの決死圏
18.「海底二万哩
19.「王子と乞食」
20.「札束無情」
21.「罠を仕掛けろ」
22.「静かについてこい」
23.「ヴァイキング
24.「ボディガード」
25.「カモ」
26. "The Happy Time"
27.「ジャズ・シンガー
28.「夢去りぬ
29.「アシャンティ
30.「強迫/ロープ殺人事件」
31.「マンディンゴ

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リチャード・フライシャー再考その1

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リチャード・フライシャー、あまり興味がない。ぶっちゃけ日本で過大評価されてる気しかしない。それでアメリカ含め海外で過小評価されていると被害者意識を抱いてる感じだ。個人的に何本か観ているが、あまり思い入れはない。ミア・ファロー「見えない恐怖」はマジに素晴らしい一方で、輪をかけてマンディンゴがダサいのでどうでもよくなった。が、クローン病という難病に罹り、どうにも暇になったので、何となくフライシャー作品全部観ていくかと思った。ということで今そのフィルモグラフィを前と後ろから観てっているので、ツラツラと思ったことを書いていく。

まず観たのは1948年制作の「ムコ探し大騒動」/ "So This is New York"だった。遺産成金のニューヨーク珍道中を通じお気楽なユーモアが楽しめる1作で、手練れた札束演出はもう既に!と驚かされた。だけども小品も小品なコメディとは言わざるを得ない出来だ。この後に初期作"Child of Divorce""Banjo"を観て、よりそう思う。妙なフリーズフレームには父マックスのカートゥーン的血をふと感じた。あと競馬が重要な要素なので、ウマ娘全盛期の今観るのは楽しいかもしれない。

フライシャー遺作の1987年制作「おかしなおかしな成金大作戦」/ "Million Dollar Mystery"はカーアクションが語り草の1作だが、正直車を頗る感情豊かに演出しているので、観てると胸焼けする平凡さがある。これならロバート・ゼメキス「ユーズド・カー」とかワイルド・スピード(MEGA MAX以降)の方が全然いい。むしろ不幸と痛みへ運命的に導かれる人間を、物として描く際の自壊的笑いが肝だと思えた。馬鹿、それが人間の本質という遺言。この辺り、名字同じなだけで血の繋がりとかはないものの、フライシャーの精神、割りと正統にルーベン・フライシャーに受け継がれているのではないかとふと思った。

Filmarksに"映画が終っても、2人の刑事がダラダラ喋りまくってんの、フライシャーが映画を終らせたくないって感じに見えて、遺作っていうのを考えると悲しい"みたいな感傷的なコメントを残してる人がいたが、割と共感した。こういうの蓮實一派とか唾棄するだろうけど、こういう感傷は切り捨てたくない。自分もルチオ・フルチの遺作「ヘル・クラッシュ!~地獄の霊柩車」には思わず感傷的になったし。

次は1948年制作のボディガード」/ "Bodyguard"だ。こっからフライシャーのノアール連作が始まる訳だが、目を見張るショットあり(闇から現れる秘書の顔!眼科!)、語りの経済性抜群(追跡/気絶/死体発見/列車事故の鮮やかな繋ぎ)、食肉業界の闇という社会派な主題を交えて、60分でこれを纏める手腕にはまあ確かに惚れ惚れするよ。だが面白いかと聞かれれば、何か、微妙だ。

戻って日本未公開の1947年制作"Banjo"を観た。楽しい野外探検から一転、壮絶の父親落馬自殺は本当に驚かされた。この乱高下は、そのまま少女と優しき愛犬がめぐる新しい家族の物語を象徴する訳だけども、犬、子供、大人/観客の視線の差が常に意識された撮影が本当に素晴らしい。子供たちが猟銃持ってる場面とか、本当にブルッとさせられる。そんでもってハッさせられる視点切替が随所随所で閃いて、画面から目が離せない。撮影監督はGeorge E. Diskant ジョージ・E・ディスカント(ニコラス・レイ夜の人々「危険な場所で」を担当。個人的には「優しき殺人者」がメチャいい)で、フライシャーとは今後「その女を殺せ」でしか組んでないのが残念でならない。彼が撮影してればこの時期のノワール群はもっとマシになった筈。この自由さは、フライシャーでも随一だ。

だけど本当、それ以上の発見だったのは1983年制作の悪魔の棲む家PART3」/ "Amityville 3-D"だった。ホラーは好きだけど、シリーズものは好きじゃないし悪魔の棲む家シリーズにも全然興味なしだった。あんまり期待しないで観たけど、あのデブと蠅どもの鬼気迫る、聖性すら宿る切り返しを見た時点で悟った、これ凄い映画だと。3-Dなんで3D描写もあるけど、全く嫌味がなくて驚く。特にフロントガラスに突進してくる鉄棒は年甲斐もなく驚いた。そして車炎上爆発ですよ。車炎上に遭遇したあの一般人は、あのもう純粋無垢の不条理を目撃して呆然とする一般人は、私だった。理解を越えた大いなる何かが人間をなぶり殺すことの崇高を、フライシャーは完膚なきまでに完璧に顕現させてみせる。これこそが傑作だ。言わせてもらうがマンディンゴを観てホラーとか言う映画批評家悪魔の棲む家PART3」を観て反省してくれ。

その後に1949年制作の「カモ」/ "The Clay Pigeon"を観ながら、初期フライシャーのノワール映画観てると"経済性""資本主義"という言葉ばかりが先立つなと思った。ボディガード」に続いての、記憶喪失/殺人冤罪というリサイクル脚本の時点で、物語の経済性を突き詰めすぎているのに、フライシャーの無駄がなさすぎる語りで贅肉どころか骨どころか、もはや何もない。加速主義の無って感じだった。フライシャーのノワールは、長編映画を60分くらいで収めりゃいいもんじゃないってことをまざまざと教えてくれる。

それから1983年制作「ザ・チャンプ」/ "Tough Enough"を観た。ボクシングで高みを目指すカントリー歌手志望という疑問符が浮かぶ主人公造型から「ロッキー」パロディの衒いなさに頬が緩むほどの、こうまで多幸感溢れる映画を作れることに思わず嘆息。この映画を観ている時、本当に幸せだった。劇中でボクシングしてるやつらマジで殴られてるようにしか見えないけど、それ見ててすら幸せを感じた。こう、リチャード・フライシャーが、大いなる何かに人間が屠られていくことの崇高を描く悪魔の棲む家PART3」と、人間存在への大いなる愛情と敬意に満ち溢れた「ザ・チャンプ」を完成させた1983年は、本当に神懸かり的な年だと思った。同時にノワール時代のフライシャー明らかに過大評価で、80年代のフライシャー明らかに過小評価だとも思った。

そして1949年制作の「静かについて来い」/ "Follow Me Quietly"も観た。フライシャーの初期ノワールとして語りの退屈な経済性は相変わらずだったが、マネキンの白色顔面やマネキン実は殺人鬼!という場面など、笑いと衝撃を同時に齎す外連味にハッとさせられる。後者なんかは、フライシャー作品における人と物の重なりの象徴のようだった。その後の1949年制作「罠を仕掛けろ」/ "Trapped"は、冒頭から"アメリ財務省さん、いつもありがとうございます!"みたいなプロパガンダ臭にいやはや苦笑って感じだった。とはいえ撮影が洗練されていく印象があり、白光と陰影の距離感がより鮮やかになって観ていて悪くない、まあ良くもない。

そんな中で1950年制作「札束無情」/ "Armored Car Robbery"は毎度お馴染みになった語りの経済性、そこから来る速さや素気なさがボディガード」やら「カモ」みたいな退屈さに繋がるのでなく、犯罪における生存闘争の容赦なさを忌憚なく暴きだす様が痛烈で割と気に入った。ヒゲの裏切り/主人公の手元の銃/ヒゲ銃殺という一連の長回しシークエンスにおける距離感覚もクールだ。フライシャーのノワール作では数少ない良作だと思った。

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だけど1979年制作のアシャンティ」/ "Ashanti"観たら、ドン底に落とされた。初期ノワール群における語りの経済性的な無とはまた異なる、湯水のごとく金を注ぎ込んだ果ての無をこのデヴィッド・リーン被れの大作には感じさせられた。本当つまんねえよ。何の外連味も、何の内省もない、無限の漠砂さながらの乾き。間違いなくフライシャーでもワーストの1本。あとフライシャー、黒人/アフリカ系のこととか別に何にも考えてないからマンディンゴとか作れたんだろうな。

その後、アメリカのマジでヤベえシネフィルLianaの力を借りてフライシャーのデビュー長編"Child of Divorce"を観た。親の離婚に直面する少女っていうそのテーマは確かに平凡だと思った。だけど実際はそこから想像しがたいほど切実で容赦がない映画だった。少女が離婚調停のために着飾らされて、双方の弁護士からマシンガン掃射さながら尋問される様は容赦なさというものを越えて、もはやインモラルだった。"目も当てられない"とはこのことだ。ここフライシャー史においてハイライトだなって思ったけど、違った。子供として余りに重すぎる決意を抱くラストの悲壮さ、壮絶さ、崇高さは一体何なんだ。こりゃフライシャーの、原点にして頂点だよ。

1951年制作の「替え玉殺人事件」/ "His Kind of Woman"はフライシャーのノンクレ仕事らしい。最初はミア・ファローの父親ジョン・ファローが作ってたけど(この繋がりでミア・ファロー「見えない恐怖」に起用したのか?)、ハワード・ヒューズが出来に納得行かず、フライシャーにお前の作った「その女を殺せ」公開させねえぞと脅して、今作の再撮をやらせたらしい。撮影中はヒューズが耳遠かったから、フライシャーはずっと叫んでたとかIMDBに書いてあった。その現場、映画化すればいいんじゃないの。

前半ノワール後半冒険活劇の歪なバランスにそういう制作裏のゴタゴタを感じるも、出色はシェイクスピア被れのアホ俳優役ヴィンセント・プライスだった。キング・ヴィダー屈指の駄作「剣侠時代」のパロディみたいな劇中映画に出てて思わず苦笑したけど、そっからクールに敵を銃撃し、体制に対して大見得張る様は主演ロバート・ミッチャムに対して影の主人公だった。「栄光の、死ッ!」ってセリフ、最高。ちなみにヒューズがファローと揉めた理由は、ヒューズがプライスの演技を気に入って出番もっと増やせと無理強いしたかららしい。

そして次に1951年制作「その女を殺せ」/ "The Narrow Margin"を観たが、本当ジョージ・E・ディスカントが撮影監督として戻ってきてくれて良かったわ、マジで。この時代のノワール群では明らかに際立ってる。ほぼ室内劇だけど上下、奥行きの躍動感を出すための創意工夫にいちいち驚かされる。ラストのドア越し射撃の戦略性なんか感動的。正直、ヴェーラのフライシャー・ノワール特集は「その女を殺せ」だけ観とけばいいと思う、面白いと思ったら「札束無情」観て終りでいいよ、十分。

現時点でのベスト(他も前に観たような気がするけど忘れた)

1.「悪魔の棲む家PART3」
2. "Child of Divorce"
3. "Banjo"
4.「ザ・チャンプ」
5.「見えない恐怖」
6.「その女を殺せ」
7.「おかしなおかしな成金大作戦」
8.「替え玉殺人事件」
9.「ムコ探し大騒動」
10.「ミクロの決死圏
11.「札束無情」
12.「罠を仕掛けろ」
13.「静かについてこい」
14.「ボディガード」
15.「カモ」
16.「アシャンティ
17.「マンディンゴ

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Alvaro Gurrea&"Mbah jhiwo"/インドネシア、ウシン人たちの祈り

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インドネシア東ジャワ州にはウシン人という少数民族が住んでいる。元々はヒンドゥー教徒の国で会ったブランバンガン王国の住民だったが、18世紀に東インド会社によってイスラム教に改宗させられ、今はジャワ島の最東端であるバニュワンギ県に居住している。バリ人やジャワ人とはまた微妙に異なった言語や文化を持っており、しかし彼らについてはあまり深く語られてはこなかった。今回紹介する映画はそんなウシン人たちと生活を共にしながら映画製作を行う人物による長編映画Alvaro Gurrea監督作"Mbah jhiwo"を紹介していこう。

今作の主人公はヨノ(Yono Aris Munandar)というウシン人の男性だ。彼の人生は今、岐路に立たされていた。妻であるオリヴ(Sayu Kholif)は彼に愛想が尽きて、家から出ていってしまった。しかも母は健康を害してしまい、病床に臥せっている状態だ。妻を取り戻したい、母の病気を治したい、しかし金もコネもないヨノは必死に硫黄鉱山で働くことしかできない。

まず"Mbah jhiwo"はそんなヨノの日常の風景を淡々と描きだしていく。鉱山での仕事は頗る危険なものだ。常に噴煙が満ちており、視界は全く覚束ない状況で採掘を行わなくてはならない。仕事の後に近くの川で身体を洗うのは数少ない休息の時間となる。だが稼ぎはあまり良くない故に、更に仕事に打ちこむ必要がある。そんな閉塞した毎日をヨノは送っているのだ。

この風景において際立つのはヨノを含むウシン人と自然の関わりあいだ。東ジャワ州は鬱勃として豊穣な緑の自然が広がっており、この恩恵を受けながらウシン人たちは生きている。ジャングルの奥深くで彼らは親密な会話を繰り広げ、時には草原で雑草狩りをしながら自然に恩を返していく。この大いなる自然に息づくウシン人の生が、撮影監督も務めるGurreaの手によって繊細かつ勇大に描かれていく。

だが特に印象に残る風景は過酷な硫黄採掘現場だ。ヨノたち鉱夫は視界もままならない状況で、金のために採掘を行う必要がある。どこまでも濁った白が広がる世界で現れる硫黄は異様な黄色に覆われており、それが輝く一瞬は驚くほど美しい。だがそう美に耽溺できるほど状況は楽観的なものでは有り得ない。それでも濃霧を寡黙に進み続ける鉱夫たちの姿は厳粛さを湛えている。

そしてウシン人にとっては自然と同じように、超自然的な概念も重要だ。ヨノらの会話には黒魔術や呪いなどの言葉が日常的に現れる。ここでは誰が誰を呪ったというのが世間話に成りえるのだ。更にこれがイスラム教信仰とも密接に結びつくことになる。ウシン人にとって黒魔術の隣にはアラーが居て、この信仰もまた日常に息づいているのだ。

Gurrea監督はこうした描写を淡々と積み重ねていくが、この淡々さが緩やかな時間感覚へと繋がっていく。このゆったりとした流れは、都市生活者が味わうような忙しなさとは全く異なっている。今作を観ていくうち、ウシン人の豊穣な文化はこの時間感覚とは切っても切れないものなのだと観客も悟ることだろう。

Alvaro Gurreaは1988年にバルセロナで生まれたスペイン人映画監督であるが、2016年からインドネシアの文化に惹かれ、2国間を行きかう生活をしている。こうして5年の歳月を懸けてウシン人たちと交流を続け、彼らとともに作りあげた作品がこの"Mbah jhiwo"という訳である。ここから監督自身の言葉を紹介しよう。

"他者性という概念が今作のちょうど核に存在しています、人類学的な意味でも形而上学的な意味でもです。そして今作は自己と残りの他者、そして無限との関係性そのものでもあります。語りとしては他者に関する古典的な構築から隔たったうえで、祖先より受け継いだ儀式や信条を描きながら、そして自己のなかにある他者の投影、言い換えるなら私と私という概念の間で繰り広げられるゲームを通じて展開していくんです。それと並行して、この計画が始まってからの4年以上もの間、私と登場人物たちの関係性は同じような展開を遂げました。この作品、そして映画という媒体によって形作られた空間は、距離や現実の構造、コミュニケーションの形を私たちが探求するうえで使用した乗り物であり、これらを越える複層性をも持つことになりました。そして映画において登場人物たちが住んでいるブルサリという小さな村で、私が発見したのは近年のインドネシアにおける植民地化の歴史と同一である、3つの神話的な層でした。技術資本主義、イスラム教とヒンドゥー教それぞれにおけるアニミズムの3つです。この3つの次元において並行して状況、空間、儀式について思惟を深めるのは簡単なことでしたが、更に本能的かつ遊び心あるやり方で以て、私たちはこの思惟から語りを組み立てていきました"

物語が展開していくにつれ、ヨノの状況も少しずつ変わっていく。妻の愛と母の健康を取り戻すため、ヨノは友人たちとともにメッカ巡礼を行うことを決意する。だが当然、インドネシアからメッカのあるサウジアラビアまで行くには相当の旅費がかかる。そうしてヨノは更なる勤勉さで以て仕事に明け暮れることとなる。

前半において今作はウシン人であるヨノの個人的な視点を通じてウシン人の文化を描いてきたが、後半においては共同体という視点、つまりは真逆の大局的な視点から文化を描きはじめる。独自の神秘性とともに生きていくオシン人たちは街を行き、ジャングルを行き、炭鉱を行く。ヨノ以外の名も語られない市井の人々の姿がここで交錯していく。

この風景に、観客はウシン人の共同体が今正に変わっていっている移ろいを感じるだろう。それを象徴するのが硫黄鉱山だ。前半においてそこには鉱夫たちだけがいたが、後半そこには多くの観光客が現れており、スマートフォンで記念写真を撮るなどはしゃぎ回っている。当初の過酷さは不思議と弛緩し、鉱山は観光地と化している。ウシン人の共同体へは、正に監督が言う"他者"存在が流入し始めている。これによって良くも悪くも共同体に変化の時が訪れている。監督自身は観光客とは微妙に異なりながら、やはり彼もウシン人にとっての他者であり、この他者という観点から他者存在が引き起こす化学反応を観察しているのである。この意味で"Mbah jhiwo"は過渡期にあるウシン人の現在を、個人/共同体の視点から見据える野心的な作品なのである。

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私の好きな監督・俳優シリーズ
その411 ロカルノ2020、Neo Soraと平井敦士
その412 Octav Chelaru&"Statul paralel"/ルーマニア、何者かになるために
その413 Shahram Mokri&"Careless Crime"/イラン、炎上するスクリーンに
その414 Ahmad Bahrami&"The Wasteland"/イラン、変わらぬものなど何もない
その415 Azra Deniz Okyay&"Hayaletler"/イスタンブール、不安と戦う者たち
その416 Adilkhan Yerzhanov&"Yellow Cat"/カザフスタン、映画へのこの愛
その417 Hilal Baydarov&"Səpələnmiş ölümlər arasında"/映画の2020年代が幕を開ける
その418 Ru Hasanov&"The Island Within"/アゼルバイジャン、心の彷徨い
その419 More Raça&"Galaktika E Andromedës"/コソボに生きることの深き苦難
その420 Visar Morina&"Exil"/コソボ移民たちの、この受難を
その421 「半沢直樹」 とマスード・キミアイ、そして白色革命の時代
その422 Desiree Akhavan&"The Bisexual"/バイセクシャルととして生きるということ
その423 Nora Martirosyan&"Si le vent tombe"/ナゴルノ・カラバフ、私たちの生きる場所
その424 Horvát Lili&"Felkészülés meghatározatlan ideig tartó együttlétre"/一目見たことの激情と残酷
その425 Ameen Nayfeh&"200 Meters"/パレスチナ、200mという大いなる隔たり
その426 Esther Rots&"Retrospekt"/女と女、運命的な相互不理解
その427 Pavol Pekarčík&"Hluché dni"/スロヴァキア、ロマたちの日々
その428 Anna Cazenave Cambet&"De l'or pour les chiens"/夏の旅、人を愛することを知る
その429 David Perez Sañudo&"Ane"/バスク、激動の歴史と母娘の運命
その430 Paúl Venegas&"Vacio"/エクアドル、中国系移民たちの孤独
その431 Ismail Safarali&"Sessizlik Denizi"/アゼルバイジャン、4つの風景
その432 Ruxandra Ghitescu&"Otto barbarul"/ルーマニア、青春のこの悲壮と絶望
その433 Eugen Jebeleanu&"Câmp de maci"/ルーマニア、ゲイとして生きることの絶望
その434 Morteza Farshbaf&"Tooman"/春夏秋冬、賭博師の生き様
その435 Jurgis Matulevičius&"Izaokas"/リトアニア、ここに在るは虐殺の歴史
その436 Alfonso Morgan-Terrero&"Verde"/ドミニカ共和国、紡がれる現代の神話
その437 Alejandro Guzman Alvarez&"Estanislao"/メキシコ、怪物が闇を彷徨う
その438 Jo Sol&"Armugan"/私の肉体が、物語を紡ぐ
その439 Ulla Heikkilä&"Eden"/フィンランドとキリスト教の現在
その440 Farkhat Sharipov&"18 kHz"/カザフスタン、ここからはもう戻れない
その441 Janno Jürgens&"Rain"/エストニア、放蕩息子の帰還
その442 済藤鉄腸の2020年映画ベスト!
その443 Critics and Filmmakers Poll 2020 in Z-SQUAD!!!!!
その444 何物も心の外には存在しない~Interview with Noah Buschel
その445 Chloé Mazlo&"Sous le ciel d'Alice"/レバノン、この国を愛すること
その446 Marija Stonytė&"Gentle Soldiers"/リトアニア、女性兵士たちが見据える未来
その447 オランダ映画界、謎のエロ伝道師「処女シルビア・クリステル/初体験」
その448 Iuli Gerbase&"A nuvem rosa"/コロナ禍の時代、10年後20年後
その449 Norika Sefa&"Në kërkim të Venerës"/コソボ、解放を求める少女たち
その450 Alvaro Gurrea&"Mbah jhiwo"/インドネシア、ウシン人たちの祈り

Norika Sefa&"Në kërkim të Venerës"/コソボ、解放を求める少女たち

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私は2020年の映画界を制する国の1つはコソボだと常々言っているが、2021年は正にコソボ映画界が大躍進を果たしそうだ。まず年間の長編制作数が5本ほどのこの国から既に1作がサンダンス映画祭、1作がロッテルダム映画祭に選出されるという快挙を成し遂げた。そして前者であるBlerta Basholli監督作"Hive"はサンダンスのワールドシネマ劇映画部門で監督賞と観客賞、そして最高賞の審査員大賞を獲得した。この3部門を同時制覇した作品は今作が初だそうだ。更に後者であるNorika Sefa監督作"Në kërkim të Venerës"もまたタイガーコンペティション部門において審査員特別賞を獲得した。私はFacebookで多くのコソボの映画人たちと繋がりがあるのだが、その沸き立ち様といえば喜ばしいほど活気あるものだった。ということで今回はこの2本の中から後者である"Në kërkim të Venerës"を紹介していきたいと思う。

今作の主人公はヴェネラ(Kosovare Krasniqi)という少女だ。彼女はコソボの田舎町で両親や祖父母、きょうだいらと一緒に住んでいる。3世代が同居しているゆえに家は狭苦しいものであり、彼女は息苦しさを感じている。しかしそれは物理的な問題であるだけでなく、精神的な問題でもある。あまりにも小さい村は相互監視と因習の文化に包まれ、それがヴェネラの心を追い詰めていた。

まずこの作品はヴェネラが直面する日常の抑圧を淡々と浮かびあがらせていく。家族のなかでも父親は強権的な人物であり、ヴェネラや家族の行動をその言葉と威厳でキツく縛りつけている。家から逃れたとしても、ヴェネラに注がれるのは男たちの不気味な視線だ。彼らはヴェネラ含めて女性への軽蔑、それでいて不穏な好奇心すら隠すことはなく、不愉快なニヤつきを顔に張りつけながら、ヴェネラを見据え、追い回すのだ。

そんななかで、ヴェネラはドリナ(Erjona Kakeli)という同世代の少女と出会う。ヴェネラが寡黙で内向的な性格の一方、ドリナは真逆に快活で外向的であり、1度友人関係になったとなると、彼女はヴェネラを様々な場所に連れ立っていく。こうして一緒の時間を過ごすうちに、ヴェネラは自由と友情を謳歌していき、その心は少しずつ解き放たれていく。

撮影監督のLuis Armando Arteagaによって、この情景が映しだされる際に最も際立つのは、彼女たちの友情の瑞々しさだ。村の閑散とした道を歩きながら、ヴェネラたちは他愛ない会話を繰り広げる。バーに行っては年齢をごまかして酒を飲み、その味を楽しむ。前半においてカメラに映しだされるのはヴェネラの苦虫を潰したような無表情ばかりだったが、ドリナとの邂逅によってその無表情が少しずつ綻んでいくことにも観客は気づくだろう。そこには笑顔すらも浮かびあがる。

しかし男性たちの視線はその友情にすらも介入しようとする。バーでは物珍しい少女たちに対し、彼らは一切の躊躇もなく粘りきった視線を向け、その風景がカメラに映しだされることとなる。それはまるでヴェネラたちを性的に値踏みでもしているかのようだ。だがそれより不気味なのは男たちより更に年下の、少年たちの視線である。彼らは路上で犬を燃やしたり女性を嘲笑ったりと頗る胸糞の悪い存在だが、例えドリナに注意されようと軽蔑的なニヤつきを抑えることはない。何を考えているのか分からない不気味さが彼らにはあるのだ。そしてそんな彼らのニヤつきや視線が、常にヴェネラたちに付きまとう。

今作に登場する男性たちは、女性たちに表立って暴力を振るうなどはしない。だがここにおいて最も恐ろしいのは彼らの視線そのものだ。それはヴェネラたちを軽蔑の対象として他者化していき、人間以下の地位に貶められていく。そしてこの感覚が全ての男性に共有され、いつしか村全体に満ちる不可視の抑圧となっていく。この悍ましい風景が今作には描かれているのだ。

昨今のコソボ映画は女性の抑圧というものを多く描きだしている。例えばAntoneta Kastrati"Zana"(レビュー記事)は子供を念願される女性が被る、過去の傷を源とする苦悩を描いた作品であり、先に紹介したBlerta Basholli監督作"Hive"は養蜂業を始めようとする女性が直面する差別の実態を描いた作品だ。そしてこういった作品の作り手は女性監督が多いが、彼女たちは一様にコソボに広がる家父長制を強く見据えている。この国はヨーロッパで最も若い国である一方、旧ユーゴ時代、もしくはそれ以前からの女性差別的な伝統は温存され続け、今でも残っている。コソボの女性監督たちは自身の作品によってこの実態を描きだし、痛烈に告発するのである。これこそがコソボを変える1歩目と信じながら。"Në kërkim të Venerës"も正にそういった作品なのである。

そして家父長制において家族という概念もまた重要なものだ。ヴェネラにとって家族は正に監獄のような場所だ。権威的な父を頂点として、彼が構成員全員を支配し抑圧していく。ヴェネラたちは彼に従いながら生活し、外では父の評判を貶めないように行動を制限する必要がある。だがドリナとの邂逅がヴェネラにこの馬鹿馬鹿しさを教え、いわば権威と化した父の存在から逸脱を図ろうとし、これが彼の怒りを呼ぶ。

この一方で反抗を行うようになったヴェネラにとって、自身の母はもはや憐れな存在に思える。夫に対して奴隷のように従い、臆病な素振りを見せながら逃亡することすらできない。だが権威からの反抗を考えるにあたり、ヴェネラはこれが女性同士の分断を呼ぶことにも薄っすら気づき始める。劇中にはこの憐れみを越えて、2人が共鳴しようとする瞬間もまた存在するのだ。だが抑圧された者同士ですらそう容易く繋がることはできない絶望をも、監督は描きだすのだ。この連帯もまた男性たちの視線のなかに埋没していくのである。

今作の核となる存在は間違いなくヴェネラ役を演じるKosovare Krasniqiだろう。劇中の大部分において彼女は苦い無表情を顔に浮かべているのだが、そこに彼女の諦念や絶望感が現れる一方で、ドリナや母との交流によって一瞬綻びる表情は希望の兆しをも感じさせる。だがこの世界はそんな生易しいものではないとは先述したばかりだ。現れるたび希望は潰え、全ては不穏な絶望に包まれていくかと思える。だがこれを経るにつれヴェネラの無表情から、最初はとは違う、言葉にならない感情が溢れるのに気づくはずだ。こうして彼女の強靭な存在感が"Në kërkim të Venerës"を、コソボの抑圧的な現状を見据える、苦くも力強い1作へと高めているのだ。そしてコソボ映画界の更なる躍進と発展を寿いでいる。

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アゼルバイジャン、列車を待つ男~Interview with Şövkət Fikrətqızı

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さて、このサイトでは2010年代に頭角を表し、華麗に映画界へと巣出っていった才能たちを何百人も紹介してきた(もし私の記事に親しんでいないなら、この済藤鉄腸オリジナル、2010年代注目の映画監督ベスト100!!!!!をぜひ読んで欲しい)だが今2010年代は終わりを迎え、2020年代が始まった。そんな時、私は思った。2020年代にはどんな未来の巨匠が現れるのだろう。その問いは新しいもの好きの私の脳みそを刺激する。2010年代のその先を一刻も早く知りたいとそう思ったのだ。

そんな私は短編作品を多く見始めた。いまだ長編を作る前の、いわば大人になる前の雛のような映画作家の中に未来の巨匠は必ず存在すると思ったのだ。そして作品を観るうち、そんな彼らと今のうちから友人関係になれたらどれだけ素敵なことだろうと思いついた。私は観た短編の監督にFacebookを通じて感想メッセージを毎回送った。無視されるかと思いきや、多くの監督たちがメッセージに返信し、友達申請を受理してくれた。その中には、自国の名作について教えてくれたり、逆に日本の最新映画を教えて欲しいと言ってきた人物もいた。こうして何人かとはかなり親密な関係になった。そこである名案が舞い降りてきた。彼らにインタビューして、日本の皆に彼らの存在、そして彼らが作った映画の存在を伝えるのはどうだろう。そう思った瞬間、躊躇っていたら話は終わってしまうと、私は動き出した。つまり、この記事はその結果である。

今回インタビューしたのはアゼルバイジャンの新鋭作家Şövkət Fikrətqızı ショフカット・フィラツグズだ。彼女の短編作品"06:45 Qatarı"を観た時には衝撃を受けた。フレーム内外が強烈に意識された冒頭から、世界が豊かに広がっていく様を私は目撃したのである。父と息子の間に横たわる精神的葛藤というある種月並みなテーマを、この監督は美しい思索へと昇華しているのだ。今作を観た時、私は早速彼女にインタビューを申し込んだ。ということでここでは作品についてと同時に、アゼルバイジャン映画についても語ってもらっている。楽しんでもらえれば幸いだ。それではどうぞ。

/////////////////////////////

済藤鉄腸:まずどうして映画監督になりたいと思ったのでしょうか? どのようにそれを成し遂げましたか?

ショフカット・フィラツグズ(SF):私は芸術、特に音楽に囲まれて育ちました。だから芸術の全ての側面を持ち合わせたような仕事ができるのをいつも夢見ていたんです。そうして映画監督になることを決めました。もちろんその頃は、映画製作がこんなに難しいとは思っていませんでしたが。

TS:映画に興味を持ち始めた頃、どういった映画を観ていましたか? 当時のアゼルバイジャンではどういった映画を観ることができましたか?

SF:監督業に興味を抱いたのは13-14歳頃です。しかし当時は監督なんてできないと思っていました。私には難しすぎると自信がなかったんです。しかし先生のおかげで自分を信じられるようになりました。観ていたのはその先生であるEldar Qliyev エルダル・グリエフRasim Ocaqov ラシム・オジャゴフの作品、それから今でも好きなジュゼッペ・トルナトーレペドロ・アルモドバルミヒャエル・ハネケラース・フォン・トリアーの作品などです。

TS:あなたの作品"06:45 Qatarı"の始まりは何でしょう? あなたの経験、アゼルバイジャンのニュース、もしくは他の何かでしょうか。

SF:私たちの大学では生徒たちは毎年試験のために映画を作るんです。なのでその年に作る映画のための脚本を友人たちと探していました。男のドラマ、もしくは女のドラマ、そんな作品を求めていました。図書館で色々と読んでいた時、コメディ作品のなかにRamiz Rövșən ラミズ・レヴシャンという小説家の作品を見つけました。この物語自体は私が撮れる、もしくは私が撮りたいスタイルの作品ではなかったんですが、そこに書いてあった1文に感銘を受けたんです。男が毎朝駅に行き"彼女"を待っているというものです。物語で男が駅に行く理由は、私の作品とは異なっています。しかしこの1文に触発され"06:45 Qatarı"の脚本を執筆した訳です。

TS:正直に言うと、冒頭を観た時に今作は傑作だと確信したんです、そしてそれは当たっていました。このシークエンスにおいて主人公が起き、立ち、歩き、正しい位置に絵画を置き直し、ドアを通じて外へ出ていきます。しかしこの静謐の風景において、突然フレーム外から女性が現れるのには驚いてしまいました。この場面で映画の世界観は息を呑むほど美しく、豊穣な形で拡大していっていたんです。ぜひこの場面についてお聞きしたい。この場面を撮影監督や俳優たちとともにどう撮影したのでしょう? どうしてこの場面を作品の冒頭に置こうと思ったのでしょう?

SF:まずあなたの素敵な言葉に感謝します。率直に言えば、この場所自体を見るまで場面がどうなるか想像もついていなかったんです。この場面は重荷が多すぎたんです。観客がクエスチョンマークを頭に浮かべる一方、何かが十全に明らかにされてなくてはならないと。この場面はとても複雑微妙な形で夫婦の関係性を表しているとも言えます。そして撮影場所を実際に見た時、私の眼前で風景が命を得て、この計画1つのみで撮影を行うのがベストだと思いました。考えを撮影監督とシェアすると、彼はそれをとても気に入ってくれて、こうやって撮影しようと決まった訳です。

TS:クレジットによると、今作はRamiz Rövșənの小説が原作だそうですね。彼の作品は私も好きです、特にHüseyn Mehdiyev ヒュセイン・メフディエフの傑作"Süd dişinin ağrısı"の脚本は素晴らしいです。しかしあなたは彼の作品とどう出会ったのでしょう。彼の作品に惹かれる最も大きな理由は何でしょう?

SF:先ほどこの質問への答えを部分的に書いてしまいましたね。Ramiz Rövșənはとても素晴らしい詩人であり小説家です。この映画の前から、彼の創造性が好きで、作品には注意深く触れていました。もちろん今作を撮影してからは更に興味を持つようになりましたね。言った通り、作品自体の原作はたった1文なんですけど(笑)

TS:そして舞台となる場所もまた今作の深みをより豊かなものにしていますね。大地を駆ける線路が傍らにある孤独な駅、この駅と共生する自然。この場所は無二の美しさと悲しみを兼ね備えているんです。この場所はどこでしょう? アゼルバイジャンにおいて有名な場所でしょうか、それともあなたの故郷であったりするのでしょうか?

SF:撮影監督と一緒に、私たちはバクーにある全ての駅や廃墟に赴きました。場所はそれ自身の物語を持っている必要があったんです。この場所を目の当たりする時、観客がそれを意識するようなものが理想でした。残念ながら良い候補地が見つからなかったので、学校が隣にある廃墟の駅で撮影することを決めました。ここは基準を満たしてはいたんですが、私も撮影監督も探していた場所ではないと思っていたんです。しかしこの場所の写真を撮った後、適当なバスに乗って線路を辿っていきました。するとまた新たな駅を見つけました。見た瞬間に、こここそが探していた場所だと確信しましたね。

TS:父と息子の関係性がいかに繊細に描かれているかにも感銘を受けました。彼らにとってパーソナルな感情と、私たちにも伝わる普遍的な感情とが混ざり合うことで、この関係性はアゼルバイジャンにおける家族を観客に考えさせるとともに、私たち自身の家族にも思いを馳せることになります。脚本を執筆する際、この関係性を描くうえで最も重要なことは一体何でしたか?

SF:今作においては観客に対して会話や際立った出来事でこの関係性を説明したくはありませんでした。小さな細部こそが必要だったんです。しかしこれらの細部は私たちそれぞれに親しみ深いものでもあるべきでした。脚本を執筆する際、そういった細部に光を当てようと努力し、少しはできたかなと思っています。

TS:前の質問に関連しますが、今作の核となる存在は父を演じる俳優Ayșad Məmmədov アイシャド・マンマドフでしょう。彼は人生や家族に対して主人公が抱える不満や深い悲しみを巧みに演じています。どうやって彼を見つけましたか? 彼をこの映画で起用した最も大きな理由は何でしょう?

SF:正直に言うと脚本が書きあがる前の最初のアイデアが思い浮かんだ時、会うことのできたただ1人の俳優がAyșad Məmmədovだったんです。彼を思い浮かべながら脚本を執筆し、彼に渡しました。もし彼がこの役を受け入れてくれなければ、今作を作ることはできなかったでしょうね。

TS:あなたがアゼルバイジャン映画界の巨匠の1人であるEldar Quliyevの生徒だとお聞きしました。このことについてぜひお聞きしたいです。教師として彼はどんな人物ですか、彼の授業に何か特別な思い出がありますか、そして彼の作品で好きな作品は何でしょう?

SF:Eldar Guliyevの作品全てに彼自身の印や感触が刻まれています。その鑑賞者としては全てが素晴らしく思えます。一方で監督としては"Girov"という作品が最も私の魂に近いですね。監督が私でも正にこの映画をこう撮ったという作品です。Eldar Quliyevはいつだって言っていました。"監督業というのは魂の行為であり、他の誰かが植えつけてくれるようなことではない。しかし私は君たちそれぞれに知性を注ぎこんでいこう"と。

TS:日本のシネフィルがアゼルバイジャン映画史について知りたいと思った時、どんな映画を彼らは観るべきでしょう? その理由も聞きたいです。

SF:個人的な私の好み、そしてお勧めしたい作品は "Bir cənub şəhərində"、"Şərikli çörək"、"Gün keçdi"、"Ölsəm bağışla"ですね。この作品群にアゼルバイジャンの文化や人の営みが見えてくるでしょう。

TS:もし1本だけ好きなアゼルバイジャン映画を選ぶなら、どれを選びますか? その理由も知りたいです。何か個人的な思い出がありますか?

SF:率直に言えば選ぶのは難しいです。何故なら好きな映画、好きな音楽、好きな映画監督というのは日によって、もしくは機嫌によっても変わってくるからです。少なくとも私にとってはそうですね(笑)

TS:アゼルバイジャン映画の現状はどういったものでしょう? 外側からだと良いように思えます。新しい才能が有名な映画祭に現れていますからね。例えばカンヌのTeymur Haciyev テイムル・ハジエフロカルノElvin Adigozel エルヴィン・アディゴゼルRu Hasanov ルー・ハサノフ、そしてヴェネチアHilal Baydarov ヒラル・バイダロフらです。しかし内側からだと現状はどう見えていますか?

SF:最近まで状況はあまり喜ばしいものではありませんでした。その最も大きな理由の1つが、アゼルバイジャンソ連から独立した後、全てにおいて新しい流行に乗り始めたことです。金銭的な面でも影響を受けていますね。しかし昨今、新しい映画の潮流があなたの挙げた映画作家たちの手で広がり始めています。私は年月を経れば状況は改善されると信じていますし、アゼルバイジャン映画というものをまた信頼しているんです。

TS:新しい短編や長編映画の計画はありますか? もしそうならぜひ日本の読者にお伝えください。

SF:"6.45 Qatarı"の後、2020年に別の短編を作りました。その時の撮影監督はRuslan Agəzadə、あなたも知っての通り"Balaca"の監督です。そしてMehriban Zəki メフリバン・ゼキというアゼルバイジャンで最も成功した女優の1人が出演してくれています。今は編集段階ですね。何度か編集はしたんですが、まだ求めている結果に達していないんです。それから短編の脚本執筆にも取り組んでいます。この映画は"大人になること"について作品になるでしょう。

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クロアチア映画史の灼熱~Interview with Marko Njegić

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さて、日本の映画批評において不満なことはそれこそ塵の数ほど存在しているが、大きな不満の1つは批評界がいかにフランスに偏っているかである。蓮實御大を筆頭として、映画批評はフランスにしかないのかというほどに日本はフランス中心主義的であり、フランス語から翻訳された批評本やフランスで勉強した批評家の本には簡単に出会えるが、その他の国の批評については全く窺い知ることができない。よくてアメリカは英語だから知ることはできるが、それもまた英語中心主義的な陥穽におちいってしまう訳である(そのせいもあるだろうが、いわゆる日本未公開映画も、何とか日本で上映されることになった幸運な作品の数々はほぼフランス語か英語作品である)

この現状に"本当つまんねえ奴らだな、お前ら"と思うのだ。そして私は常に欲している。フランスや英語圏だけではない、例えばインドネシアブルガリア、アルゼンチンやエジプト、そういった周縁の国々に根づいた批評を紹介できる日本人はいないのか?と。そう言うと、こう言ってくる人もいるだろう。"じゃあお前がやれ"と。ということで今回の記事はその1つの達成である。

今回インタビューしたのはクロアチア映画批評家Marko Njegic マルコ・ニェジチである。彼は相当気合の入ったプロフィールを送ってきてくれたので、全訳しよう。

"Marko Njegicは最も活動的なクロアチア映画批評家であり、クロアチア映画批評家組合と国際映画批評家連盟(FIPRESCI)のメンバーでもある。1979年生まれ、スプリットでグラマースクールを卒業する。そしてそのまま法を学んだ後、ザグレブではジャーナリズムを学んだ。2005年からはスプリットに住み日刊紙Slobodna Dalmacijaに所属の映画批評家、コラムニスト、ジャーナリストとして活動、ヨーロッパ映画賞や映画祭などのレポートの他、レビューやエッセイ、インタビューを広く刊行している。3つの映画コラム連載を持つが、オンライン雑誌のCineMarkoでの活動が主なものだ。加えてスプリット映画祭やスプリット地中海映画祭(FMFS)にも所属する一方、Odiseja u uteruというラジオ番組にも出演、映画学や映画批評をテーマとする映画誌Hrvastski filmski ljeptopisやWebサイトPopcorn.hrにも参加している。クロアチア最初の映画誌HollywoodやSlobodna Dalmacija内の週刊文化誌Reflektorでも編集として活動している。モトヴン映画祭のFIPRESCI審査員(2010)、ここで映画批評のワークショップを開催する。その後もヴコヴァル映画祭(2012)、FreeNewWorld国際映画祭(2013)、アッヴァントゥラ映画祭(2014)、ドゥブロヴニク映画祭(2014)、ベオグラード映画祭(2016)、ダルマチア映画祭(2016)、リブルニア映画祭(2016)、ベティナ映画祭(2019, 2020)で審査員を務める。Moj-film.hr(2013)やCinestarの'You Can Become a Film Critic As Well'(2014)やスプリット芸術学校の批評家コンテストにも参加している。2014年末、自身の10年間の記事を収録した初めての著書Filmotekaを出版する。2017年と2018年にはクロアチア視聴覚センターでマイノリティ共同制作の芸術アドバイザーとして勤務、ベルリン映画祭に手掛けた3作の作品が選出される。2019年にはマルチメディア展覧会'An Hommage to Alexander F. Stasenko'が開催、この展覧会はウクライナのコサックにルーツを持つスプリットの映画作家の人生と作品に捧げられた"

ということで今回はそんな彼にクロアチア映画史の流れや、この国の偉大なる映画作家たち、そして2010年代最も存在感を発揮したクロアチア人監督Dalibor Matanić ダリボル・マタニチについてなどなど様々な事柄について聞いてみた。それではどうぞ。

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済藤鉄腸(TS):まずどうして映画批評家になりたいと思いましたか? どのようにそれを成し遂げましたか?

マルコ・ニェギチ(MN):それは映画を愛し始めた頃からですね。映画について語るのが好きでした。高校からは何か書くのも好きだったんですが、クロアチア語と英語の宿題があったり、国語の授業で読書感想文なんかも書く必要があったので、自然とそうなりましたね。こうしている時、同じように映画を分析できたらと思ったんですが、選択授業でちょうどそんな授業があったので始めました(例えばジェームズ・キャメロン「トゥルー・ライズ」などがテーマになりました)この時期からノートに観た映画について書いたり、点数をつけ始めました。9年生頃からですね(言い換えれば高校2年生の頃でしょうか)そこから10年ほどが経ってSlobodna Dalmacijaという日刊紙でフリーランスとして執筆を始め、今でも世話になっています。それからクロアチアで最も歴史のあった映画雑誌Hollywood――今はもうありませんが――では、2003年から2006年まで編集を務めていました。最初は当然ですがより小規模な記事を書いていましたね。興行収入のレポート、今後上映される映画のプレビュー、そこから徐々に俳優や映画作家のプロファイリング記事を書き始めました。こうしてスキルを磨いた後、映画批評に移行した訳です。今でも楽しんでますね。

TS:映画に興味を持ち始めた頃、どんな映画を観ていましたか? 当時のクロアチアではどういった映画を観ることができましたか?

MN:先にも言及しましたが、私の映画への興味は子供時代からで、その源は両親、特に父ですね。彼は頻繁に私を映画館に連れていってくれました。映画には一目惚れしましたね。80年代の重要で際立った映画の殆どを観ていると思います(例えばE.T.」「ターミネーター」「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」「トップガン」「レインマン)それからもっと過小評価されている作品もですね(例えばトミー・リー・ジョーンズリンダ・ハミルトンが主演しているブラックライダーなど)更に旧ユーゴスラビアにおいて映画公開は、アメリカから1年や2年遅れるのが普通でした。ですがアメリカ映画は必ず公開するほどこの国では1番の存在感だったんです。そこにフランス、イタリア、香港が続きます。その後が旧ユーゴ映画ですね。

TS:あなたが初めて観たクロアチア映画は何でしょうか? その感想もお聞きしたいです。

MN:観たのを明確に覚えている最初のクロアチア映画はAnton Vrdoljak アントン・ヴロドリャク"The Glembays"ですが、子供の頃は数えきれないほど旧ユーゴ映画を観ていましたね。例えば「パパは出張中!」"Žikina Dinastija"というコメディシリーズ、"Tesna koža""Hajde da se volimo"などで、まだまだ挙げられます。どの映画もよく覚えています、心のなかにずっと残っているんです。そうしてこういった作品群が"旧ユーゴ映画とは何か? 何がこれを大衆映画以上のものにしているのか?についての考えを、私に齎してくれたんです。

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TS:あなたの意見としてクロアチア映画史において最も重要な作品は何だと思いますか? その理由もぜひお聞きしたいです。

MN:"最も重要な"というのは定義するのが難しいですが、個人的なお気に入りはNikola Tanhofer ニコラ・タンホフェル"H-8..."ですね。今作はドラマ、スリラー、ディザスター映画、ロードムービーの完璧なブレンドなんです。序盤から最後は予想できるんですが、それでも本当に緊迫感ある1作で、同時にそのサブテクストにおいて人道的で映像も美しいんです。舞台となるバスはザグレブからベオグラードへ向かう途中、逆サイドから走ってきたトラックと衝突してしまうのですが、この事件とバスの個性的な乗客たちの姿を通じて、社会そのものが交わる様を描きだしているんです。

TS:もし1本だけ好きなクロアチア映画を選ぶなら、どれになるでしょう? その理由は何でしょうか。個人的な思い出がありますか?

MN:今回はより新しい作品を選びましょう。2003年制作のArsen Antun Ostojić アルセン・アントゥン・オストイチ"Ta divna splitska noć"ですね。今作はとても個人的な理由で私の思い出に残っているんです。今作を観たのはザグレブなんですが、この時私はHollywoodの編集として働くためスプリットから引っ越してきたばかりでした。私の故郷で撮られた本作は見覚えのある場所や、いわゆる"スプリット魂"というものを捉えており、私にとって郷愁のトリガーともなったんです。しかしそれを措いても、素晴らしい演技や美しいモノクロ撮影で巧みに紡がれたこの"Ta divna splitska noć"は間違いなく21世紀において最も優れたクロアチア映画の1本なんです。

TS:クロアチア国外において、最も有名なクロアチア人作家の1人は間違いなくZvonimir Berković ズヴォニミル・ベルコヴィチでしょう。彼のデビュー長編"Rondo"が愛の爽やかな心理と哲学を、軽妙ながら深遠なスタイルで描く一方、例えば"Putovanje na mjesto nesreće"などは愛が生み出す深い傷を解剖するような1作で深く感銘を受けました。しかし現在、彼や彼の作品はクロアチアの人々にどのように評価されていますか? ぜひその作品へのあなたの正直な意見や思い出などもお聞きしたいです。

MN:Zvonimir Berkovićは死後11年が経っても未だに尊敬されている人物です。最近、クロアチア映画のオールタイムベストを決める批評家投票が行われました。彼の"Rondo"は2位であり、脚本を執筆した"H-8..."が1位になりました。トップ20位以内には"Ljubavna pisma s predumišljajem""Putovanje na mjesto nesreće"が入ってもおかしくはなかったんですが、今回は入らずでした。彼が亡くなった時、私は"追悼文"を執筆したり、繋がりのあった映画作家たちと連絡を取り思い出を語ってもらいましたね。彼がクロアチア映画やその文化一般に長きに渡る影響を与えたのは皆が賛成するところです。彼が存命の頃にインタビューできなかったのが残念でなりません。間違いないです、きっと素晴らしいものになったでしょうから。彼は間違いなくクロアチア映画において最も重要な映画作家の1人であり、監督としても脚本家としても素晴らしい存在でした。短くも偉大な歴史を作りあげたんです。クロアチアの脚本家(もしくは世界の脚本家)で"作曲の原理、特にモーツァルトの理論"を基に脚本を書きあげた人物を知りません。しかしBerkovićは書きあげてみせた、もしくは作曲してみせたんです。

TS:そして私が好きなクロアチアの作家の1人はAnte Peterlić アンテ・ペテルリチです。彼のデビュー長編"Slucajni zivot"は自由なスタイルと美しい魂によってクロアチア映画史の傑作の1本に数えられていますね。しかし興味深いことに、彼はクロアチアで際立った映画批評家であった一方、監督作はこの1本しか残していませんえ。そこで聞きたいのはクロアチアの映画産業における彼の人生、そして"Slucajni zivot"が今のクロアチアでどのように受容されているかです。そして映画批評家としての彼の仕事はクロアチア、もしくは旧ユーゴ圏でどれほど有名なのでしょうか?

MN:そうですね、彼がもう何度かだけでもカメラの裏側へ行ってくれなかったことは残念でなりません。しかし彼が"Slučajni život"を監督したのは正に偶然のことで、先述したクロアチア映画の批評家投票で今作は19位になりました。Peterlićは映画批評における伝説ですが、それ以上にクロアチアにおける映画学の父であり、著者としても編集者として映画理論や映画史にまつわる多数の本を編纂し、更には大学教授でもあったんです。人々にとっても、私にとっても彼の存在は愛おしい思い出であるんですが、それは彼がTV番組"3,2,1... Go!"の司会者でもあり、世界的に有名な映画作家、例えばオーソン・ウェルズなどがクロアチアに来た際はインタビューを行っていたんです。若い映画批評家として、私の著書がPeterlićの最後の本の1つである"The Early Work"が出版された会社から発刊されたことを誇りに思っていますね。"The Early Work"は彼の人生や仕事を発見したいという映画好きには心からお勧めしたい本です。

TS:そして2010年代においてクロアチア映画界で最も重要な存在はDalibor Matanić ダリボル・マタニチでしょう。2000年代に"Fine mrtve djevojke""Kino Lika"といった作品でキャリアを築いた後、2015年にはカンヌでプレミア上映された「灼熱」("Zvizdan")で名声を博し、今作は後に日本を含めた世界各地で配給されることとなりました。Nicola TanhoferLordan Zafranović ロルダン・ザフラノヴィチをも越えて、彼は日本で最も有名なクロアチア人監督であるでしょう。しかし本当に知りたいのはクロアチアの人々が彼や彼の作品をどう思っているかです? 「灼熱」クロアチアでも実際に議論を巻き起こしたのでしょうか?

MN:Dado(Matanićのニックネーム)は現代的で今に通じるトピック、挑発性と公共性に通じており、俳優たちを見つけ出す能力も優れています。彼はその作品を観るために人々が映画館に集まるとそんな人物なんです。「灼熱」はシリアスなドラマながら観客からの人気も素晴らしかったです。より議論を呼んだ作品は"Kino Lika"でしたね。Matanićと彼の作品は観客と批評家の間で評価が真っ二つに割れますが、好きか嫌いかに関わらず、2000年以降彼が最も多産で活動的なクロアチアの映画監督であることは認めざるを得ません。彼はある計画から次の計画へ簡単に飛躍してみせ、例えばクロアチア映画には珍しいホラー映画("Ćaća" "Egzorcizam")なども含めどんなジャンルにも臆さない、驚くほど勤勉な映画作家であるんです。2010年、私は彼を2000年代に最も印象を残したクロアチアの映画監督と評しましたが、2010年代も正にトップで在り続けたんです。Matanićは何度も話題にあげたクロアチア映画ベスト20において既にその作品が挙がる、2000年以降の若い作家の1人です。ちなみに他の2人はTomislav Radić トミスラフ・ラディチ("Što je Iva snimila 21. listopada 2003.")とOgnjen Sviličić オグニェン・スヴィリチチ("Oprosti za kung fu")です。

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TS:2010年代も1年前に終りを告げました。そこで聞きたいのは2010年代最も重要なクロアチア映画は何かということです。例えばDalibor Matanić「灼熱」Hana Jušić ハナ・ユシチ「私に構わないで」("Ne gledaj mi u pijat")やIgor Bezinović イゴール・ベジノヴィチ"Kratki izlet"などがありますが、あなたのご意見はどういったものでしょう?

MN:"Ne gledaj mi u pijat""Kratki izlet"も好きで評価していますが、やはり1作選ぶなら「灼熱」が2010年代で最も重要なクロアチア映画でしょう。今作でMatanićは監督としての手腕を最大限に発揮し、完璧な画角の移り変わりによって映画の思考をローカルに展開しながら、普遍的な感触も宿らせることに成功しています、また逆も然りです。現地の人々にとって際立ったテーマ(90年代にユーゴスラビアが崩壊した後の紛争)と世界の観客にとって際立った美学的選択、そして3つの物語が描かれるという魅力的な語りを今作は持ち合わせています。もし俳優たちがクロアチア語を喋らなければ、カンヌのような規模の大きい映画祭で上映されるヨーロッパ映画の1本と勘違いされたでしょうし、実際今作はカンヌで上映されることになったんです。

TS:現在のクロアチア映画の状況はどういったものでしょう。外側からだと状況は良いものに思えます。多くの新しい才能が世界の有名な映画祭に現れていますからね。例えばロッテルダムIgor Bezinović、タリンのJure Pavlović ユレ・パヴロヴィチヴェネチアHana Jušićらです。しかし内側からだとその状況はどう見えてくるでしょう?

MN:最近まで状況は良かったんですが、コロナウイルスのせいで状況は悪くなってしまいました。それでもこれはこの国以外でもそうでしょう、クロアチアより発展した国も例外ではないと思われます。そんな中で「灼熱」の続編である"Zora"がタリン・ブラックナイツ映画祭でプレミア上映されましたが、クロアチアでのプレミアが決まっていないのがこの状況を象徴しているでしょう。シリアスなドラマとしては「灼熱」は40000人を動員する大ヒットを遂げたので、ハリウッドの人々が大作公開を延期してより売れる時期に公開日を移そうとするのと同じようなことを、今作のプロデューサーもしている訳ですね。

TS:あなたにとって、2020年代にビッグになると思われるクロアチア映画界の新しい才能は誰でしょう? 例えば私としては暴力の詩情という意味でTin Žanić ティン・ジャニチを、信じられないほど笑えるほどアニメーションのスタイルという意味でIvana Pipal イヴァナ・ピパルを挙げたいです。

MN:私も彼らには尊敬を抱いています。私が希望を抱いている映画作家Hana Jušić、Sonja Tarokić ソーニャ・タロキチ、Barbara Vekarić バルバラ・ヴェカリチ、Hani Domazet ハニ・ドマゼト、Jure Pavlović、Josip Lukić ヨシップ・ルキチ、Igor Jelinović イゴール・イェリノヴィチ、Mladen Stanić ムラデン・スタニチ、Rino Barbir リノ・バルビル、Andrija Mardešić アンドリヤ・マルデシチ、Marko Jukić マルコ・ユキチといった人物です。彼らが長編デビュー作や次回作を完成させ、2020年代を彩ってくれることを願います。

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Iuli Gerbase&"A nuvem rosa"/コロナ禍の時代、10年後20年後

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さて、世界中の誰もがこのコロナ禍によって未曽有の状況に追いこまれている。容易く人とは会えなくなり、部屋に閉じこもらざるを得ない閉塞した状況は一体いつまで続くのだろうか。そんな苦悩を抱えている人々は今回紹介する映画を観るべきではないかもしれない。何故ならブラジル映画界の新鋭Iuli Gerbaseによるデビュー長編"A nuvem rosa"は否応なしに私たちの現実と共鳴し、その陰鬱たる未来を見据えた映画だからだ。

主人公は2人の男女ジョヴァンナとヤゴ(Renata de Lélis&Eduardo Mendonça)だ。彼女たちは人目を盗んで情事に耽っていたのだが、あくる朝桃色の雲が都市を満たし始め、部屋に閉じこもらざるを得なくなる。ニュースによれば雲は人体に頗る有害であり、これが消えるまでは外出は許可されていないという。そういった事情で、ジョヴァンナたちはしばらく寝食を共にすることとなる。

まず描かれるのは2人の新しい生活の風景だ。最初、彼女たちはこの奇妙な状況を楽しむ素振りすら見せる。2人だけの空間で食事を楽しみ、ヨガで身体の疲れを癒していき、そしてソファーの上でセックスをしながら互いの肌に触れあう。しばらくの間この緩やかな風景の数々はユートピア的光景にすら見えるかもしれない。

だが時が経つにつれて状況は刻一刻と変貌を遂げていく。なし崩しの生活を送っていたジョヴァンナはなし崩しに妊娠をし、中絶も不可能ゆえになし崩しに出産をし、息子であるリドを加えて、ジョヴァンナとヤゴはなし崩し的に家族という関係性に陥ることとなる。

このいつの間にかなし崩し的に進んでいく時間というものが"A nuvem rosa"という映画の鍵かもしれない。そのあまりの呆気なさに、ある者はどんな状況にも順応してしまう人間の強かさを見るかもしれないし、ある者は1つの異常事態によって失われてしまった喜び――例えば誰かに会いにいくこと、どこか遠い場所へ旅すること――への郷愁を見出すかもしれない。

絶妙な演出の数々もそういった観客の思索を深く刺激していく。撮影監督であるBruno Polidoroが捉える風景には常に桃色の影が付きまとい、それは登場人物によって脅威でありながらも、観客の網膜にとってはある種の詩情として揺蕩っていく。より重要なのはVicente Morenoによる編集であり、彼によって紡がれる断片的な時の流れは不気味な省略へと変貌していき、ジョヴァンナとヤゴの時間は恐ろしいほど速く過ぎ去っていってしまう。生の享楽、家族という関係性への遭難、子供の急速な成長、そして少しずつ迫る死の存在。この残酷な流れがいとも容易くここでは提示されるのだ。

Polidoroの編集が象徴しているが、今作の強みはこの終らない閉塞を10年20年単位で描きだしていることだろう。最近コロナ禍に直接対峙した作品が多く現れているが、それらがかなり小局的な視点からその閉塞感を描いている一方で、今作はもっと長いスパンを以て極限状況における人間心理の推移を描きだしているのだ。おそらくこれは今作がコロナ禍とは全く関係ない状況から作られたから成し遂げられたのもあるだろう。映画の冒頭に"今作の脚本は2017年に執筆され、撮影は2019年に行われました。ゆえに現在の状況と重なる点があるのは全く偶然です"という字幕が現れる。現在正に起こっていることに対して、10年20年後の未来を射程に入れながら物語を紡ぐというのはとても困難なことだろう。今ここに危機的状況があるのに、そのずっと先を見据えろというのも酷な話だ。その限界を"A nuvem rosa"は作り手自身が全く関知しないところで乗り越えており、全くの偶然からコロナ禍の現状とその遠い未来までもを何より奇妙に反映する作品となってしまったのだ。

前述したが、この作品の予期せぬ側面ゆえにコロナ禍における未来に懸念を抱いている人々は今作を観るべきではないと感じさせる。今作には観ながら"もしこのコロナ禍がこのままずっと続くとしたら……"と考えさせ、人々を際限ない憂鬱と恐怖へと追いこんでいく恐るべき力が確かに存在しているからだ。

今作はほぼカップル役のRenata de LélisEduardo Mendonçaの2人芝居から構成されている。どちらの演技も素晴らしいの一言だが、更に際立っているのはジョヴァンナ役のLélisの存在感だ。この状況の中で彼女の考えは様々に変化していく。最初は子供を持つなど最低だと切り捨てていたのに、なし崩し的に妊娠と出産を経験させられ、母として息子を育てざるを得なくなる。そしていつ終わるとも知れぬ閉塞の中で現実を直視することも不可能になっていき、VRの世界へ逃げこみ始める。この劇的な考えの変貌の流れへ、Lélisは確かな演技力を以て迫真性を与える。これが私たちの人生への思索を更に深いものとしてくれるのだ。

"A nuvem rosa"は偶然によって、壮絶なまでにコロナウイルスによって歪められたこの現代と共鳴することとなってしまった映画だ。現実と芸術というものは相互関係にあり、いつであっても互いに絶え間ない影響を与え続けるが、この芸術作品はその影響下すら越えて、突き抜けたのだ。

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