鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

映画痴れ者/ライター済東鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

善き人であらんとする意志「クワイエット・プレイス 破られた沈黙」

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“何で裸足なの?”とクワイエット・プレイス 破られた沈黙」を観た人々が言っているのを、驚くほど頻繁にTwitter上で見た。もしこれを監督に実際尋ねたとしたなら、観客が理解できるにしろできないにしろ、彼は即答するだろうという妙な確信がある。そういう個人的な論理でこそ今作はできているのだと思える。個人的というのは得てして無駄であり、今作を無駄ばかりと思う人は多いだろう。だが、だからこそ私には切り捨てられないものがここには余りに多かった。とても豊かな映画だ。

今作を観るというのは、誰かの沈思黙考を90分端から眺めるような経験だった。眺められるその思惟とは、このクソッタレな世界でどうすれば善き人であれるのか、そのために何を切り捨てなくてはならないのかという残酷な妥協への問いなのだ。クラシンスキーのこの思考の流れに、私たちは静寂のなかで触れることになる。すこぶるシビアなものだ。

今作を観ながら浮かんだ言葉が“優等生的”というものだった。少しこれについて説明させてほしい。優等生的という言葉はいつも悪口だ。無駄、切り捨て、妥協。そういうものを胡散臭い欠点と見なし“優等生的”という言葉を使って批判する。しかし私にとって優等生的な映画というのは、善くあろうとする意思の下、そのため何かを切り捨てるシビアな妥協を繰り返す、極個人的な論理に裏打ちされた残酷な映画であり、今作は正にそれだと。私が優等生的と思う作品は、最近のものであると「透明人間」「プロミシング・ヤング・ウーマン」に、それから今作だ。私が思うに、残酷を積極的に謳う作品よりも、こういった作品にこそ見過ごせない、割りきれない残酷さというを感じ、“いや、それでいいのか?”と観客が思うことが多く、そうしてこの作品群が何かを覆い隠してると見なす、拒否感を抱く場合が多いのではと思える。だがそれこそが優等生的の核で、かけがえがない。

語り手としてのクラシンスキーは観客それぞれに読み取らせるタイプであり、物語自体はシンプルを好みながら、作劇自体は無駄に丁寧であり、それが泥臭いという印象にまで至る。この続編では前作でギミックを全て明かしているゆえ、手数で勝負するという選択をしているので、よりいっそう泥臭さを感じさせるかもしれない。これを洒落臭いと。しかしそこで彼は、泥にまみれた裸足をてらいなく提示することになる。この泥臭さが生への誠実さで、そこから私の言う優等生的に至るのだと。

そしてもう1つ重要な要素がある。今の時代の作品として、マジョリティが自身の無徴性を有徴性に押し上げながら、相対的に自身の存在や特権性について内省するものに、私は心惹かれる。この文脈で、私には今作が白人映画であり、健常者映画であると思え、とても興味深く感じる。今作のノア・ジュープキリアン・マーフィは完全足手まといな存在であり、特に前者においてそれが一種の聖書的な受難にすら思える過剰さがある。こういった類いの内容を物語の中核に据えると、得てして自己犠牲やナルシシズムに堕していくが、今作でそれはあくまで並列される要素の1つと控えめに語られる。この要素をナルシシズムの域には行かせない。

さらに興味深いのは、前作においてはミリセント・シモンズのキャラが聴覚障害者なのに意味があり、功罪半ばとしてギミックの一部として機能していた。今作においてもある程度はそう機能しながらも、それ以上にジュープとマーフィーが白人健常者男性であること、少なくともあの位置に配されたことにこそ意味がある。この世界で抑圧者である白人が善き人であるには?という問いが裏にはある。このマジョリティの無徴性の逆転が興味深い。そして先述した控えめさが、アメリカの白人健常者男性というマジョリティのジョン・クラシンスキーが出す、善き人であるために何を成すべきか?への現状での答えだと。

おそらくクラシンスキーは今後一生善き人にはなれないのではないかと思う。だが善き人になろうという努力を今後一生忘れることはないだろうという確信がある。生きるということは結果でなく、過程なのだ。少なくとも今作からはそう感じた。明らかに続編への橋渡しといった切れ味鋭すぎる唐突なラストも、それが問いの終りのなさを示している。こういったクラシンスキーの真摯な加害者意識、そしてこれを生きることに違和なく馴染ませる手捌き、全く見事だ。

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暴力映画、暴力についての映画「Mr. ノーバディ」

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いくら理由をつけたとしても、結局、究極的にはただ暴力が振るいたいだけ。それでも知りたい、なぜ自分は暴力に惹かれるのか、なぜ社会に暴力は存るのか。「Mr. ノーバディ」はある映画監督が暴力について理解しようと試みる、その終ることなき過程なのだと私は受けとった。飽くなき行動=知性の映画なのだと。

例えば生命倫理、例えばポリティカル・コレクトネス、ここにおいては暴力が個や社会へいかに作用するかという世界そのもののシステム、そういったものに対して思考を止めることのない映画作家の暴力映画は、ある一線を越えた時に暴力についての映画ともなる。ベン・ウィートリーS. クレイグ・ザラーが持つ暴力への深い知性をイリヤ・ナイシュラーも共有しているのだ。

アメリカにおいて1910-1920年代のサイレント期、暴力は行動と感情と思考が三位一体で存在する、もっと剥き身のものではなかったか。例えばキング・ヴィダー「廣野に叫ぶ」“Wild Oranges”アラン・ドワン"The Half-Breed"ロイス・ウェバー「暗中鬼」ヘンリー・キング乗合馬車ジョセフ・フォン・スターンバーグ「救ひを求むる人々」を観れば分かるはずだ。しかし時期が進むにつれそれがどんどん空中分解していってしまう。その形態は、40-50年代におけるリチャード・フライシャーアンソニー・マンといったB級映画職人による、以前の剥き身的な感触を語りの経済性に奉仕させる速さばかり先立った安い暴力、90年代におけるクエンティン・タランティーノ以降の美学化された軽薄な暴力など色々ある。私がこれを挙げたのは特に唾棄すべきと思うから以上に、前者が行動の過剰、後者が感情の過剰を象徴しているように思われるからだ。そしてそこには思考が欠けている。

この文脈において、私がスティーブン・ソダーバーグエージェント・マロリーに感動を覚えたのは、描かれる暴力に思考を取り戻そうとする意志を感じたからだ。シャンタル・アケルマンによる映画史上の傑作「ジャンヌ・ディエルマン」の方法論、つまりは徹底してミニマルかつ即物的な眼差しを援用しながら、今作はアクション映画であると同時に、アクションについての映画でもあろうとしていた。そしてエージェント・マロリーの後に、例えばベン・ウィートリーはもはやアンチ・ガンアクションの域にあったフリー・ファイヤー(詳しくはこの記事を)を製作し、S. クレイグ・ザラーは、ブレッソンのような崇高さによって暴力映画と暴力についての映画が共存するような作品を作り続けている。

そして暴力についての映画、その最前線にある映画がイリヤ・ナイシュラーによる「Mr. ノーバディ」だと、私は思ったのだった。暴力についての映画は、暴力を振るうという行動そのものが、暴力について洞察する思考それ自体でも有りうる、行動がそのまま知性足りうるのだ。そんな即物的な知が、今作にはあるのである。ナイシュラーの出身国であるロシアを含めて、東欧映画を多く観てきて思うのは、サイレント時代のアメリカ映画、それが持っていた剥き身の暴力というものがが今もそこに存在しているのでは?ということだ(「異端の鳥」みたいなのとは少し違う)ロシア人のナイシュラーがこれをハリウッドの中心に持ってきて、重心をずらすような作品を製作したと。

今作の暴力で印象に残るのは暴力そのものというよりも、暴力の余波や事後の方のように思える。例えばボコボコにした相手が血で窒息する時に主人公がかます、首にストローをブッ刺すという相当な荒療治。例えばチンピラの1人が主人公を命からがら捕縛した後、助手席で首に刺さったナイフを引っこ抜くという妙な光景。そして主人公を演じるボブ・オデンカーク、暴力を受けた時の動作、傷ついた肉体を引きずる遅さ、それに関して相当力を入れて演技していることが分かる。これこそが重要なのだ。

しかしここで描かれるのは、暴力による肉体への余波だけでなく、精神への余波もある。バスで大乱闘を起こした後、主人公と妻という個と個の関係性が変貌する。その次にラスボスの暴力によって、犯罪組織そのもののパワーバランスが変貌する、この個と個の関係性、組織もしくは共同体への暴力の余波が並列に置かれることで、その大いなる作用の可動領域が明らかになる。そして暴力の最中、オデンカークがふと我に帰ったかのように自分の暴力の理由を説明しようとする。彼はある程度それを筋道立てて理路整然と説明することができる。しかしカメラは、実のところ自分でもいまいち理解できていないような、そんな途方に暮れた感覚に打ちひしがれる彼の姿をも映し出す。これは何か作り手自身の、暴力を理解しようとする過程がそのまま現れたような誠実さ、それと表裏一体の切実さをも感じさせると。

こうして暴力そのものを描きながら暴力について思考し、時には言葉によってその思考を深めようとする。この何かを理解しようとする過程、結果ではなく、あくまでも飽くなき過程というものを、ゴロンと剥き身で提示する今作は本当に知的な暴力映画であり、暴力についての映画だと断言できる、感動的までに。知性と思考の塊のような映画を観ると本当に嬉しくなるものだ。こちらとしても思考をグングンと刺激される感覚がある。暴力においてはウィートリーやザラー、ナイシュラー、性においてはアラン・ギロディ、彼らの製作するような知の映画をもっと観たいと思える。いや、本当に素晴らしかった。

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"他者"とともに生きるということ~Interview with Marieke Elzerman

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さて、このサイトでは2010年代に頭角を表し、華麗に映画界へと巣出っていった才能たちを何百人も紹介してきた(もし私の記事に親しんでいないなら、この済藤鉄腸オリジナル、2010年代注目の映画監督ベスト100!!!!!をぜひ読んで欲しい)だが今2010年代は終わりを迎え、2020年代が始まった。そんな時、私は思った。2020年代にはどんな未来の巨匠が現れるのだろう。その問いは新しいもの好きの私の脳みそを刺激する。2010年代のその先を一刻も早く知りたいとそう思ったのだ。

そんな私は短編作品を多く見始めた。いまだ長編を作る前の、いわば大人になる前の雛のような映画作家の中に未来の巨匠は必ず存在すると思ったのだ。そして作品を観るうち、そんな彼らと今のうちから友人関係になれたらどれだけ素敵なことだろうと思いついた。私は観た短編の監督にFacebookを通じて感想メッセージを毎回送った。無視されるかと思いきや、多くの監督たちがメッセージに返信し、友達申請を受理してくれた。その中には、自国の名作について教えてくれたり、逆に日本の最新映画を教えて欲しいと言ってきた人物もいた。こうして何人かとはかなり親密な関係になった。そこである名案が舞い降りてきた。彼らにインタビューして、日本の皆に彼らの存在、そして彼らが作った映画の存在を伝えるのはどうだろう。そう思った瞬間、躊躇っていたら話は終わってしまうと、私は動き出した。つまり、この記事はその結果である。

今回インタビューしたのはオランダの新鋭映画作家Marieke Elzerman マリーケ・エルゼルマンだ。彼女の短編作品"Kom hier"は今年観た作品でも随一の作品だ。ペットシェルターで働く女性の日常、そこに現れるのはペットと共に生きる、誰かと共に生きる、つまりは自分とは違う他者と生きていくことへの苦悩。そのなかで2人の女性の視線がぎこちなく交錯し、"それでも"という想いに手が繋がれる。本当に真摯な、真摯な愛の映画だった。今作に感動した私は早速監督にコンタクトを取り、インタビューを敢行した。作品について以外にもベルギーの映画学校KASKでの経験やヴェルナー・ヘルツォークとの邂逅などなど様々なことについて聞いてみた。ということで、どうぞ。

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済藤鉄腸(TS):まずどうして映画監督になりたいと思いましたか? どうやってそれを成し遂げましたか?

マリーケ・エルゼルマン(ME):それはまず子供時代の夢でした。父は毎週土曜日にいつも映画館に連れていってくれて、なので映画を作るという考えにとても興奮していたんです。しかし高校時代にはその夢も忘れ、経済学の分野で何かしたいと思っていました。しかし高校最後の年、アンネ・フランクの住んだ家で映画を撮るという計画に参加しました。彼女の日記を題材に何か短いビデオ作品を作らなくてはいけなかったんです。それが何かを撮影し、編集した初めての経験です。こうしてこの経験に恋に落ちて、映画を学ぼうと決めた訳です!

TS:映画に興味を持ち始めた頃、どんな映画を観ていましたか? 当時のオランダではどういった作品を観ることができましたか?

ME:10代の頃は娯楽映画の方が好きでしたが、とても印象に残ったインディーズ映画もあります。例えばデボラ・グラニックウィンターズ・ボーンが鮮明に覚えていますね。しかしKASKでの最初の年、私は多くの映画作家を発見しました。シャンタル・アケルマンケリー・ライヒャルトJohan van der Keuken ヨハン・ファン・デル・クーケンなどです。

TS:あなたの作品"kom hier"の始まりは何でしょう? あなた自身の経験、オランダやベルギーで流れたニュース、もしくは他の出来事でしょうか?

ME:様々な要素が組み合わさっていますね……まず私は2人の女性の友情にまつわる映画が作りたかったんです。私自身の経験に基づいた、1人がもう1人に近づいていきながら、彼女はそれから恥ずかしげに離れていくとそんな風な作品です。それでいて直感的に最初からドッグ・シェルターの存在も念頭にありました。なのでまず久し振り再会した女性たちの物語を執筆したんですが、オーステンデでシェルターを見つけそこの人々と交流した後、2人の女性の物語もかなり変わっていきました。人々と交わした会話の幾つかは直接脚本に入れてもあります。そしてKoen(シェルターに勤める人物で、映画にもほぼ本人役で出演)の授業も友情というテーマに影響を与えましたね。

TS:"Kom hier"は人間と動物の間の、難しくも重要な関係性を描いていますね。他者と生きることはいつだって難しいことですが、動物と生きることは人間と生きることとはまた異なるもので、それが今作は胸を打つ美しい方法で描かれています。この人間と動物の関係性を描くうえで最も不可欠だったことは何でしょう? そして動物たちと映画を製作するにあたって最も挑戦的なことは何だったでしょう?

ME:私にとって興味深かったことはKoenが犬を育てることを教える上でのその視点です。犬に服従を求めるのではなく、彼らが例え自分の言いなりにならず反抗してきても、その安心を保証するべきだと彼は主張します。

そこで私は関係性におけるコントロールの必要性について何度も考えてしまいました。犬をコントロールする必要性と直面することは頻繁にあります。例えば"こっち来い!"と叫ぶと……犬はいつだってあなたの元にやってくる。そんな関係性の中に、私が人々と気づく関係性との相似を見つけたんです。誰かにもっと近づきたい、かつこの絆をある種コントロールしたいという複雑さです。しかしそれは不可能です、関係性がいかに発展していくかをコントロールするのは不可能なんです。美しいと私が思ったのは最良のことは何かを求めるのではなく、他者に温もりと安心感を与えることだというコーンの教えです。そうすることで絆は独りでに成長していくと。

動物と撮影するうえでのチャレンジは……これに関してはKoenの多くを負っていますね、彼が多くの面でサポートしてくれました。それからエーファとクララは彼の愛犬であり、とても特別な絆がありました。クララから神経質な演技を引き出すのを、とても容易にしてくれました。

TS:今作で印象的だったものの1つはオーステンデをめぐる映画のロケーション。寒々しくも寛容な雰囲気が主人公であるサムや動物たちを包む一方で、そこには困難な現実もまた存在しています。それでもサムと彼女の新しい友人が夜に親密な会話を繰り広げる場面は美しく、心温まるものでした。この場所のどこに最も惹かれましたか? どうやってこの場所を見つけたのでしょう?

ME:その言葉に感謝します! そう感じてくれたことは私にとっても幸せで、正にオーステンデ、特にシェルターでそんな感覚を味わったからです。オーステンデでライターズ・レジデンシーに参加していた時にシェルターへ訪れました。暖かな環境と過酷な現実という二面性はとても強く、そこに深く惹かれたんです。

シェルターの人々は毎日見捨てられ、虐待された動物たちにまつわる残酷な現実と直面することとなります。しかし同僚たちの間、彼らと動物たちの間には温もりが存在していて、これがこの場所を安心感に溢れる場所へと変えてくれていました。

TS:そして私が感銘を受けたのはあなたが描き出していた、2人の女性の間で紡がれる繊細な関係性です。まず彼女らの視線が部屋のなかで交錯しあい、それからある種のぎこちなさと共に彼女たちは会話をすることになります。そして彼女たちの誠実な言葉やその手が互いに触れあうことで、他者と生きることの幸せが現れる、これを目の当たりにしていると涙が込みあげてきました。この関係性や登場人物たちの性格を描くにあたって、最も重要なことは一体何でしたか?

ME:彼女たちの出会いを描くのは興奮するものでした。この場面はつまり私たちが誰かに初めて出会い、その人を知っていく瞬間の数々であるからです。しかしキャラクターの形を成していくこと、彼女たちの言葉とその関係性を探し求めることは難しかったです。そして今作の大部分は私のシェルターでの出会いに影響を受けています。ブリュッセルに住んでいた私はここで新しい世界に触れた訳です。ある時そこでボランティアをしている若い女性と会話をしました。彼女は私に友人は沢山いるかと尋ねてきたのですが、その瞬間に何かとても感銘を受けたんです。それから台詞の幾つかは過去に私が実際経験した友人関係を基にしています。そして私としてはキャラクターやその心理模様、背景などをデザインしようとは思いませんでした、その行為には力が沸きあがることがなかったんです。私がしようとしたのはむしろ彼女たちが直面する状況について、そこにおいて彼女たちが互いとどう交流するのかについて考えることでした。

TS:前の質問に関連して、その関係性の感動的な繊細さを支えているのは2人の俳優Loes SwaenepoelAnna Franziska Jägerに他ならないでしょう。彼女たちは心に眠る言葉にならない感情の数々を絶妙な形で捉えているんです。どのように彼女たちと出会いましたか? 今作で彼女たちを起用しようと思った最も大きな理由は何でしょう?

ME:LoesとAnna Franziskaは2人とも私と同じKASKに在学しながら、演技を学んでいました。ある舞台劇でAnnaの演技を観て、脚本すらまだ書けていない今作の制作初期には既に連絡を取っていました。制作過程の間何度も会って彼女のキャラクターについて話しあいましたね。とても豊かな経験でした。

Loesと会ったのは撮影2か月前です。まず私はシェルターのあるボランティアの方を起用したく、実際にサムというキャラクターは彼女や彼女と交わした会話を基に作りあげました。しかし最終的に彼女がやりたくないと言ったので、ギリギリになってキャスティングを始めたんです。Loesと会ったのは本当に素晴らしい経験でした。リハーサルは1回だけでしたが、映画について話していると私たちは同じ場所に立っていると思えたんです。このおかげでセットでも共同は簡単で、テイクを沢山重ねることもありませんでした。彼女らと仕事をすることを選んだのは、彼女たちの生命力が私には美しく見えて、良い化学反応が生まれるだろうと感じたからです。

TS:そして今作の核はあなたが身体の動きをいかに捉えているかでしょう。特に最後の場面における主人公たちの手は印象的です。彼女たちの手は凪の陽光のなかで舞い踊りながら、他者と生きることの難しさ、そしてその美しさを観客に語ります。"Kom hier"においてあなたが捉える手はそれ自体が希望であるのです。そこで聞きたいのは撮影監督であるFrank Schulte フランク・スフルテとともに身振り手振りを捉える、特に最後の場面を撮影するうえで、最も重要であったことは何かということです。

ME:フランクとの共同作業はとても円滑なもので、ここから多くのことを学びました。彼は当初ドキュメンタリーを撮っていて、最適なアングルを迅速に見つけることができる人物でした。それが6日間という短い期間の、シェルターという環境での撮影にはうってつけでした。例えば映画冒頭の影は脚本に書いてあったものではないです。私たちは同時にこれを見出してカメラに捉えた訳ですが、こういう協同が仕事のやり方として素晴らしかったんです。最後の場面はリハーサルなしで撮影しました、後々後悔はしましたが……それでも有難いことにKoenがいてくれて、俳優たちがいかに手を動かせばいいかを指南してくれたんです。なので撮影リストなどは作らず、ただ公園を動きまわり、陽が落ちる前に様々な風景を撮影しました。この場面の編集には長い時間をかけましたね。例えばサムの笑顔もまた脚本には書かれておらず、動きを演じるなかでのアドリブだったんです。彼女たちの演技、Koenの指南、そしてFrankの撮影は私が執筆した脚本よりもその場面を豊かなものにしてくれました。深く感謝しています。

TS:あなたはベルギーのヘントにあるKASKという美術学校で監督業を学んでいたと聞きました。まず他の学校ではなく、何故KASKを選んだかお尋ねしたいです。それからKASKでの経験はどうでしたか、あなた以外は誰も体験したことがないのではと思える個人的な思い出はありますか?

ME:アムステルダム映画アカデミーにも挑戦したんですが、試験に合格できなかったんです。なのでベルギーの映画学校を探していました。KASKに入学できて嬉しかったです! ドキュメンタリーを監督するかフィクションを監督するか、どちらかを選ぶ必要がないのが気に入っています。最初の2年間はとても忙しく、撮影や編集をたくさんこなしました。映画製作の合間に個人指導を受けたのは最高の経験でしたね……ここでは映画製作の過程にこそ強く焦点が当てられていて、映画学校の授業としてここがKASKの大きな独自性だと思いました。最高にクールだった思い出の1つはKASKの同級生たちと一緒に、ロッテルダム映画祭でアピチャッポン・ウィーラセタクンに会ったことです。私たちは円になって座り、人生と映画について語りあいました……本当に魔術的な経験でした!

TS:Festival Scope(批評家や配給会社など映画のプロ用の会員制映画配信サイト)に書いてあるあなたのプロフィールのなかに、興味深い記述を見つけました。"彼女はヴェルナー・ヘルツォークの監修で短編'Moises y el pajaro'(2018)を製作した" ヴェルナー・ヘルツォーク! あまりに素晴らしい経験のように思えますが、この経験についてぜひお聞きしたい。ヘルツォークの監修とはどういったものでしたか? あなたに助言してくれる人物がヘルツォークというのはどういう気分でしたか?

ME:はは、それはもうあまりに素晴らしかったです! 私は48人の若い映画作家がペルーのジャングルへ赴くというプログラムに参加し、そこで2週間映画製作をすると共にヘルツォークがガイド役を務めてくれた訳です。とても高額で疑念も持っていたのですけど、人生を変えるような、心温まる経験となりました。ヘルツォークはとても付き合いやすい人物でした。彼の妻と弟も一緒で、私たちは皆で時間を過ごしたんです。最初、私はとてもシャイになっていました。ジャングルで撮影をする時、ヘルツォークが来て私のことを見るんです。少し経つとその場から去るんですが、次の日に編集をしていると彼が現れてこう言いました。「昨日君が撮影しているのを見た時、心が沈んでしまったよ。私たちは映画の作り手であって、ゴミの収集者じゃない!」と。彼は、私が見境もなく多くのものを撮影しすぎていると言いたかったのでしょう。私はとても神経質になってしまいましたが、フッテージの残りを見た後、彼は興奮して今日中に映画を仕上げなさいと私を勇気づけてくれました。夜に映画を披露すると、彼は私を誇りに思うと言ってくれただけでなく、昼食に誘わってくれました! もう心が喜びで叫んでいました。それから授業における最高の経験は、とても迅速に映画を作ることができたことです。映画製作ではたくさんの人とミーティングを行い、様々な場所で撮影を行う必要があります。こうして本物の出会いに多く恵まれ、彼らと絆を紡ぎ、自分の物語を見つけ出せたという経験は本当に素晴らしいものでした。そして私は"Kom hier"の制作に挑戦していった訳です。

TS:何か新しい短編、もしくは長編を作る予定はありますか? もしそうなら、ぜひ日本の読者に教えてください。

ME:今はスペインのサン・セバスチャンにあるElías Querejeta Zine Eskolaという映画学校で学んでいます。ここも素晴らしい学校です! KASKと少し似ており、映画製作の過程にこそ重きを置いているんです。今制作している短編は、サン・セバスティアンでクリスマスに使われる大きな人形、それを修復したり、造型したり、専用の服を作ったりする人々にまつわる作品です。これはこの都市において長きに渡る伝統で、中央広場に多くの人形たちが飾られるんです。とても興味深い形で装飾が成されていて、そこに深く魅了されたんです。人形の腕や服を修復するワークショップを訪問したのですが、人々が修復や、それこそ創造を行う姿には豊かなケアの精神と繊細さが宿っており、本当に美しかった。この風景を映画として捉えられることに興奮しています。そして今作は"Kom hier"におけるシェルターと同じく、実践される場所こそが始まりなのだと言えると思います!

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ジャック・ニコルソン&"Drive, He Said"/アメリカ、70年代の始まり

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さて、Jack Nicholson ジャック・ニコルソンである。俳優としての彼を知らない映画好きはいないだろうが、では作り手としての彼はどうだろう。Roger Corman ロジャー・コーマンの下で多くの作品に出演していた彼は60年代から脚本も書き始めるのだが、ここにおいて先日亡くなったMonte Hellman モンテ・ヘルマンの存在は重要だった。彼とタッグを組んだ作品のなかで、フィリピンで撮影した異形のスリラー"Flight to Fury"(1964)と「旋風の中に馬を進めろ」/ "Ride in the Whirlwind" (1966)は出演とともに脚本執筆も行っている。この後もヒッピー文化を存分に取り入れた「白昼の幻想」/ "The Trip" (1967)や「ザ・モンキーズ 恋の合言葉HEAD!」/ "HEAD"(1968)などの脚本を執筆するが、ここでニコルソンはとうとう監督業へ乗り出すことになる。そして1971年に完成させた長編デビュー作こそが"Drive, he Said"だった。

今作の主人公ヘクター(William Tepper ウィリアム・テッパー)は将来を嘱望されるバスケ選手であり試合での活躍も目覚ましく、大学だけでなく地域でも有名な存在だった。しかし彼自身は何か満たされない思いを抱えている。その虚無を向ける相手は、教授であるリチャード(Robert Towne ロバート・タウン)の妻オリーヴ(Karen Black カレン・ブラック)であり、彼女との不倫愛に慰めを見出していた。

今作の語りはかなり断片的なものであり、まるで光の激しい明滅のようにイメージが浮かんでは消えるという形で物語が展開していく。編集には4人もの技師が携わっており、Terence Malick テレンス・マリック作品も斯くやという錯乱した様相を呈しているが、この混乱ぶりが独特の語りに影響しているというのは確かだろう。

ニコルソンが今作によって捉えようとしているものの1つはアメリカに広がる時代の潮流だ。いわゆるカウンターカルチャー全盛の70年代前半の空気感が、これでもかと濃厚なのだ。例えば冒頭、ヘクターが参加する試合の途中、いきなり左翼のゲリラ劇団が闖入を果たし演説を繰り広げる。その後も血気盛んな若者たちが騒動を繰り返し、大学のキャンパス内には妙な不穏の雰囲気で充満している。ヘクター自身はそれから距離を取ろうとしているが。

そしてベトナム戦争の影もまた濃密なものだ。大学生たちは戦地に送られるのを恐怖しながら日々を過ごしているが、ヘクターのルームメイトであるガブリエル(Michael Margotta マイケル・マーゴッタ)もその1人だ。ゲリラ劇団に所属する急進的な左翼として、やたらめったら権威に楯つき、徴兵に対しても拒否を貫きながら、この行為が彼を窮地に追いつめていく。

こうして時代の空気感を鮮烈に捉えるため、ニコルソンと撮影監督Bill Butler ビル・バトラーは、ロケ地のオレゴン大学周辺でゲリラ撮影を多く行ったという。例えば構内で勃発した大学生たちの抗議デモに巡りあうとそれを撮影、物語内に組みこんだ。さらに登場人物の1人が全裸でキャンパス内を走る場面は、大学当局の許可を一切取らずに無断で撮影したらしい。だからこその爆発的な生々しさが今作には宿っている。

だがこの横溢する生命力そのものの生々しさは、若者たちが抱く淀んだ鬱屈すらも暴きだしていく。行動自体は派手で暴力にすら近づくことも多々ありながら、彼らが紡ぐ言葉の数々は驚くほど内省的で、絶望に満ちている。分かるか、社会は病に冒されてる、世界は病に冒されてる、今や全部がそんなことになってるんだ。そしてヘクターもこんな本音を吐露する、何だか僕自身がバラバラになってる気分なんだ……

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今作の原作はJeremy Larner ジェレミー・ラーナーという人物が1964年に執筆した同名の長編小説であり、これが彼にとってのデビュー長編でもあったという。映画化にあたってラーナー自身とニコルソンが、執筆当時よりカウンターカルチャーの隆盛が決定的となった時代風潮を反映しながら脚本を執筆したが、ノンクレジットで実は執筆に参加していたらしい人物にあのテレンス・マリックがいたらしい。先に"編集4人ってマリック作品かよ!"とツッコミを入れたが、本当に関わっていたらしいのは驚きだ。ここにマリック作品の源流を恣意的にしろ見出す試みも面白いかもしれない。

主演のウィリアム・テッパーは激動のカウンターカルチャー全盛時代にアメリカの若者たちが抱く虚無を静かに体現している。彼はその狂騒とは距離を置いて、粛々とバスケに専心していながら、それにすらも徐々に熱意を失い、生きる意味すらも見失う。オリーヴとの不倫関係に虚無の慰めを求めながらも、彼女が妊娠してしまったことから事態は更に泥沼化していき、それでもヘクターは全てをどこか他人事のように処理していく。

だがヘクターよりも物語で際立つ真の主役と呼べる存在はガブリエルの方かもしれない。徴兵忌避のために彼が選んだ手段は狂人を演じることだ。徴兵検査の際に兵士たちをとことんまでおちょくり、精神鑑定で徴兵不適合とされるよう画策する。だがこの演技はいつしか日常にまで及び、演技であった筈の狂気に彼はどんどん呑みこまれていく。彼は正に時代の犠牲者だ、そしてヘクターはそんなガブリエルの姿を傍らで眺めていることしかできない。

"Drive, He Said"は70年代の始まりにアメリカに広がっていた若者たちの虚無と不安、それが致命的な狂気へと繋がっていく様を独特の形で捉えた注目すべき1作だ。最後の最後、虚無に支配されていたヘクターは心の底からの叫び声をあげながら、それはもう遅すぎる。

この作品は1971年にカンヌ国際映画祭でプレミア上映されたが、相当なブーイングを喰らったそうだ。アメリカの批評家陣も酷評の嵐で今作を迎えたそうだが、その中で擁護の論陣を張ったのがRoger Ebert ロジャー・イーバートPauline Kael ポーリーン・ケイルという人物らだった。だが彼らの言葉が評価と注目に繋がるのは、2010年にCriterionがアメリカン・ニューシネマの一翼を担ったBBS Productions特集の1本として、今作のソフトを発売する時まで待たなくてはならない。ニコルソンも俳優としてはアメリカ映画界の頂点へと君臨することとなる一方、監督としては今後、異色西部劇ゴーイング・サウス」/ "Goin' South"(1978)と、俳優としての代表作、その自作自演の続編である黄昏のチャイナタウン」/"The Two Jakes" (1990)のたった2本しか制作していない。

実は今作を観たきっかけは前の記事で書き記した、謎の映画作家Henry Jaglom ヘンリー・ジャグロム(彼の長編デビュー作"A Safe Place"のレビュー記事)が俳優として出演しているからだったのだが、結局誰がジャグロムだったのかよく分からないままに終わってしまった。そこは悲しいところである。

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ヘンリー・ジャグロム&"A Safe Place"/あの時、私は空を飛んでいた……

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"天才? 詐欺師? 誇大妄想狂? 異端者? ある者たちからは映画の天才、フェミニストアメリカ映画界の純なる異端者と呼ばれる一方、ある者たちからは覗き魔で誇大妄想狂の'世界サイテーの監督'と侮られる。そんな中でこの男は執拗に、執拗なまでに人生と芸術の間に引かれた線を曖昧にし、グチャグチャにしていくのだ" ―― ドキュメンタリー"Who is Henry Jaglom?"のあらすじより抜粋。

Henry Jaglom ヘンリー・ジャグロムという名前に聞き覚えがある人が日本にどれほどいるだろうか。重度のシネフィルを含めても100人は居ないのではないかと邪推してしまうが、斯く言う私も少し前までその名前を全く知らなかった。知ったきっかけは、ひょんなことからJack Nicholson ジャック・ニコルソンの初監督作"Drive, He Said"について調べた時だ。このジャグロムという男はそこに俳優として参加していたが、映画監督でもあるそうで、更に長編デビュー作"A Safe Place""Drive, He Said"とともにCriterionから発売されていることを知り、興味が湧いた。ということで早速今作を観たのだが、本当に度肝を抜かれてしまった。そしてヘンリー・ジャグロムという知られざる映画作家について知りたいと、そう思ったのだ。ということで今回から少しずつ彼の作品を紹介していきたいと思う。

とはいえまずはジャグロムの経歴についてザッと紹介していこう。ジャグロムは1936年、ロンドンのユダヤ人家庭に生まれた。ナチスドイツの侵攻をきっかけに家族とともに英国を離れ、アメリカに移り住んだジャグロムは演技に目覚め、NYのアクターズ・スタジオLee Strasberg リー・ストラスバーグの教えを受ける。しばらくはオフ・ブロードウェイの舞台に立つとともに戯曲の執筆や舞台の演出もこなすが、60年代中盤に転機が起きる。映画スタジオであるコロンビア・ピクチャーズに所属しギジェットは15歳」/ "Gidget"「いたずら天使」/ "The Flying Nun"といったTVドラマの端役を得たり、先日亡くなったRichard Rush リチャード・ラッシュジャック・ニコルソンの嵐の青春」/ "Psych-Out" (1968)や、Boris Sagal ボリス・シーガル空爆特攻隊」/ "The Thousand Plane Raid" (1969)といった作品に出演する。

ここで彼は2人の重要人物と出会う。1人目がジャック・ニコルソンだ。先述の「嵐の青春」でも共演を果たしている彼らは相当意気投合したと思え、ニコルソンはジャグロムを自身の監督デビュー作"Drive, He Said"に起用、逆にジャグロムはニコルソンを自身の監督デビュー作"A Safe Place"に起用する(後者においてニコルソンはギャラの代わりにカラーテレビ一式を買ってもらったらしい)

もう1人がBert Schneider バート・シュナイダーだ。彼の父Abraham Schneider エイブラハム・シュナイダーはコロンビア・ピクチャーズの重鎮であり、そのツテでコロンビアのTV部門であるScreen Gemsに勤務していたが、父とコロンビアの後ろ盾を借りながら、後にアメリカン・ニューシネマの時代の立役者となる映画作家Bob Rafelson ボブ・ラフェルソンとともに制作会社Raybert Productions(後にStephen Blauner スティーヴン・ブローナーが加入しBBS Productionsとなる)を立ち上げる。ここで彼らはTV番組「ザ・モンキーズ・ショー」/ "The Monkees Show"を製作、オーディションで選ばれたメンバーで結成のモンキーズアメリカを風靡することになる。この成功をきっかけに彼らは悲願だった映画製作に乗り出し、シュナイダーが制作、ラフェルソンが監督として「ザ・モンキーズ 恋の合言葉HEAD!」/ "HEAD" (1969)を完成させる。ここで脚本を担当したのが件のニコルソンで、この繋がりからジャグロムはシュナイダーらと関係を深める。

彼らが制作した作品は錚々たるものだ。イージー・ライダー」/ "Easy Rider" (1969)や「ファイブ・イージー・ピーセス」/ "Five Easy Pieces" (1970)、ラスト・ショー」/ "The Last Picture Show" (1971)などアメリカン・ニューシネマの一時代を築いた作品ばかりである。だが1971年には更に2本の、日本での知名度は低いながらも重要作を製作しており、それが"Drive, He Said""A Safe Place"だった訳である。

"A Safe Place"の制作に目を向けていこう。そもそもジャグロムが俳優から映画作家に転身しようと思ったのはFederico Fellini フェデリコ・フェリーニ8 1/2を観たことだったという。彼はインタビューでこんな言葉を残している。

"この映画は私のアイデンティティを変えてしまいました。そして気づいたのは私のやりたいことは映画を作ることだったということです。どんな映画を作りたいのか、私自身の人生です。ある程度までですけどね"

そしてジャグロムはイージー・ライダーの編集作業に参加するなどして制作経験を積んだ後、彼は"A Safe Place"に着手する。彼が題材として選んだのは自身が60年代に執筆した同名戯曲(この時に主役を演じていたのが「ファイブ・イージー・ピーセズ」にも出演していたKaren Black カレン・ブラック)だった。幸運だったのは、ジャグロムはある大物俳優を作品に起用できたことだ。それがOrson Welles オーソン・ウェルズである。かつては天才の名を恣にしながらも、徐々にその傲慢さを疎まれアメリカでは映画制作すら叶わない状況にあり、同時にアメリカン・ニューシネマ世代の若者たちからも旧時代の遺物として扱われていた。そんな彼をジャグロムは起用、そして彼らの友情は1985年のウェルズの死まで続く。ちなみに彼らは定期的に食事を共にし、特に1983年から1985年までは毎週ハリウッドのレストランMa Maisonで食事会を行っていたそうだが、自伝を執筆するためその時交わした会話をテープレコーダーに録音していたのだという。これが後の2013年にジャグロムと、日本でもその著作を基にしたドキュメンタリー作品イージー・ライダーレイジング・ブル」/ "Easy Riders, Raging Bulls" (2003)が有名なPeter Biskind ピーター・ビスキンド共同編著の"My Lunches With Orson"として結実する。いや、長々と制作裏について語りすぎたかもしれない。ここからは映画のレビューに入っていこう。

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子供の頃に空を飛ぶ夢を見たことがないだろうか。窓枠に座って、木の枝まで登ってから、屋根から星を眺めながら、手を伸ばして身体を宙に委ねるのだ。そして鳥のように羽ばたいて自由に空を飛んでいく。実際人間にそんなことできないとしても、夢のなかでなら全てが可能だ、私たちだって飛べるのだ。大人になってから、そんな夢を、そんな子供時代を懐かしく思ったことは? あの時代に戻りたいと思ったことは? そしてもしかしたらあの日夢見ていたことが、もしかしたら現実だと思ったことは?……

"A Safe Place"の主人公はノア(Tuesday Weld チューズデイ・ウェルド)という女性だ。奇抜な恰好をして、同じような風貌の若者たちとマリファナ片手に共同生活を行う、そんな典型的なヒッピーといった風の女性だ。だが彼女は満たされない虚無感を抱えている、彼女は今は失われてしまった"心安らげる場所"を探し続けている、そして本当はそれがどこにあるのだかも分かっている。

今作において際立つのは極端なまでの語りの断片性である。ノアが部屋で仲間たちとくつろぐ、窓から見知らぬ老人がマジックを披露する姿を眺める、ニューヨークの街並を彷徨いながら会話を繰り広げられる。そういった風景の数々がバラバラに引き裂かれて、一貫性というものを拒否しながら浮かんでは消えていく。そしてある人物が喋っている場面に、何故だか全く別の場所にいる、話とも関係ない人物たちが見ている風景が、まるでサブリミナル映像さながら瞬間的に挿入される。その錯綜ぶりは、わざと観客を混乱させたいがためすら思える。こうして私たちは極彩色の万華鏡を覗き込んでいるような錯覚に陥る。

こういった意味でPieter Bergema ピーテル・ベルヘマが手掛けた編集は凄まじく支離滅裂なのだが、これは全く意図的なものだろう。今作は例えばジャック・ニコルソンの嵐の青春」イージー・ライダーなどLSD的な錯乱を映画文法として組み込んだ作品の意志を継いでいる。特に後者の影響は大きい。繰り返しになるが、2作はボブ・ラフェルソンバート・シュナイダーが設立した制作会社BBS Productionsの作品であり、更に監督のジャグロムは編集アシスタントをしていた。監督とベルヘマはこの編集法を継承し、今作を作りあげた訳である。

ノアの前には2人の青年が現れる。フレッド(Phil Proctor フィル・プロクター)は眼鏡が特徴的な真面目青年であり、ぎこちない愛の言葉で以てノアと交流を深めていく。一方でミッチ(ジャック・ニコルソン)はプレイボーイといった洒脱な男であり、すぐさまノアの懐に滑りこみ肌を重ねるようになる。ノアはこの2人のあわいを妖精さながら自由に行きかう。だがそこに"心安らげる場所"はない。ある時、ノアはフレッドに語る。子供の頃、私は空を飛んでいたの、本当に空を飛んでいた。それはただの勘違いだよ、フレッドは彼女の言葉をこともなく否定する。ノアは必死に言い返しながら、フレッドが彼女を信じることはない。

もう1人重要な人物がいる。彼女が窓から見かけた老マジシャン(オーソン・ウェルズ)だ。そのマジックに惹かれたノアは彼と交流を始め、様々な事柄について会話を重ねていく。披露されるマジックのこと、子供時代のこと、いつか見た夢のこと、そして自分が空を本当に飛んでいたこと。はたから見れば、彼との会話にこそノアは心地よさや暖かさというものを最も感じているように思われる。その時に浮かべるノアの笑顔が最も柔らかなものに思われる。

ここでジャグロムが見据えるのはノアの内面そのものだ。彼女は今の自分の話よりも、自身の子供時代の話を誰に対しても繰り返す。この反復が仄めかすのはノアの心がもはや今にはないということだ。彼女はもはや失われてしまった過去への郷愁に浸っている、もしくは支配されている。そして"心安らげる場所"とはこの過去でしかないことを知っているのだ。

この思いを最も色濃く反映するのが劇中で流れる音楽の数々だ。例えばFred Astaire フレッド・アステア歌唱の"I'm Old-Fashioned"Dina Shore ダイナ・ショア版の"Someone to Watch Over Me"など特に40-50年代の楽曲が多用される。中でもCharles Trenet シャルル・トレネ"La Mer"は印象的な冒頭を含め、全編通じて何度も何度も流れる。その反復と甘やかな響きはノアが抱く郷愁そのものだ。彼女はそこから逃れられないし、逃れようともしない。

"心安らげる場所"が過去でしかないのなら、そこへ行くには何をすればいいのか、誰もが分かっているだろう。根づいた今という時間から生を断ち切るには死しかない。だからこそ郷愁は暖かな陽射しの下で死への欲望、自らを殺す欲望へと変貌していく。今作は死の匂いを濃厚に帯び始めるのだ。そしてこの衝動に少しずつ突き動かされていくのはノアだけではない。他の登場人物たちもまた死に惹きつけられ、ある者は友人たちの前で涙を流しながら、自殺に魅入られる自分を語るのだ。

今作では俳優たちもまた支離滅裂なまでに特徴的な演出に負けない演技を魅せてくれる。まず途方もなく鷹揚たる存在感を発揮するのが老マジシャン役のオーソン・ウェルズだ。ハッキリ言うが私は俳優としての彼はまったく評価していない。特にリチャード・フライシャー「強迫/ロープ殺人事件」/ "Compulsion" (1959)といった作品の彼には落胆しかなかった。だが今作で俳優としてのウェルズを初めて良いと思った。マジシャンという彼のもう1つの顔は何度も映画に現れてきたが、ここに映る髭面の壮大な巨体は威厳よりも、全てを抱擁する優しさを湛えている。それでいて彼が披露するマジックはノアを過去へ、郷愁へ、死へ更に深く誘うもので在り得る。これはウェルズの佇まいがあまりにも優しすぎるからだ、誰かが死を求める思いすらも肯定してしまうかのように。

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だが最も印象的なのはチューズデイ・ウェルドに他ならない。妖精さながら街を自由に彷徨いながらも、その実"心安らげる場所"=死を求め、それでも躊躇いを放棄できないでいる。身振り、視線、笑顔、その全てが仄かに儚げな輝きを放ち、それこそ次の瞬間に自殺でもしてしまうのでは?という思いに観客は駆られるが、死ぬことはない、死ぬことはできない。ウェルドが体現するこの危うさは俳優として神懸かり的なもので、間違いなく正に今作の要だ。個人的に彼女の最高傑作は1972年制作の"Play It As It Lays"だと思っていたが、今作はそれを越える作品と思えた。

スタッフたちについても少し書いていこう。撮影監督のRichard C. Kratina リチャード・C・クラティナある愛の詩」/ "Love Story" (1970)や「生き残るヤツ」/ "Born to Win" (1971)などを手掛けた人物だが、今作の詩情の核たる編集をその美麗な映像で支えている。プロダクション・デザインは先述の制作バート・シュナイダーの弟であるHarold Schneider ハロルド・シュナイダーが担当している。衣装のBarbara Flood バーバラ・フラッドはジャグロムの友人の1人で、今後も様々な形で彼の作品に関わっていく。

だが最も興味深いキャリアを持つ人物は編集のピーテル・ベルヘマだ。彼は1932年生まれのオランダ人で、20代でアメリカ移住後に「コンバット!」などのドラマ作品にエキストラとして出演している。この後、彼は"A Safe Place"に編集として参加し偉大な結果を残してくれるが、この後には2本の作品しか残していない一方で、この2本が頗る注目に値する。1本目の"Max Havelaar of de koffieveilingen der Nederlandsche handelsmaatschappij" (1976)は題名からして物々しいが、それに負けない3時間もの長さを持つオランダ映画だ。オランダ占領下のインドネシアに派遣された1人の軍人が、会心の後にインドネシアのため立ちあがるという物語で、ムルタトゥーリという小説家によって書かれた同名長編を原作としている(「マックス・ハーフェラール―もしくはオランダ商事会社のコーヒー競売」という邦題で翻訳も発売)そして監督のFons Rademakers フォンス・ラデマーカースは戦後オランダ映画の基礎を築いた最も有名なオランダ人監督の1人であり、彼が制作した最大規模の1作がこの"Max Havelaar"だ。そんな"A Safe Place"の真逆にあるような大作をベルヘマは2作目として担当した(Victorine H. van den Heuvel ヴィクトリーネ・H・ファン・デン・ウーフェルと共同)訳でその経緯に興味がつきないが、英語もしくは彼の母語であるオランダ語でも情報が全くない。

そして2作目はある意味で更に奇妙だ。1986年制作の「ザ★ジャスティス/復讐の銃弾」 / "Instant Justice" (1986)はスペインへ妹に会いにやってきた海軍兵士がその死を知り復讐を始めるというあらすじ、主演はMichael Paré マイケル・パレと一見凡庸なアメリカ産B級アクションに見える。だが注目すべき今作がジブラルタル映画だということだ。イベリア半島の南東端に位置するイギリスの海外領土で、未だにイギリスとスペイン間で領土問題として論争されるという複雑な地域がその資本で、しかも初めて作った作品のが本作なのだ。そんな映画史の影に隠れた特異点にベルヘマは編集として、更にはプロデューサーとしても関わっているのだ。だがこれ以後彼の消息は全く不明で、本当に謎ばかりが残る経歴と言わざるを得ない。少しこの謎すぎる人物にアツくなりすぎただろうか、本筋に戻ろう。

実際、私はこの作品を観た時、本当に衝撃を受けてしまった。映画批評家として数多くの映画を観てきた自覚はありながら、何かこんなにも切ない映画が存在すること、本当に衝撃的だったのだ、ほんの数時間前までこの映画の存在を知らなかったことも含めて。呆然としながら、こんな映画が存在してしまっているという奇跡はあまりに残酷すぎる、そう思えた。そこで冒頭の風景が頭に浮かぶ。老マジシャンがノアに語るのは自身が見た夢についてだ。夢のなかで彼は眠り、夢を見ている。夢を見る夢を見る夢を見る夢を……その様は無限の迷宮のなかでどこへも辿り着けない切なさがあり、ノアは正にそこにいる、そこから突き抜ける唯一の手段として自殺が存在するのだ。この映画は恐ろしい、これを観終わった後本当に自殺する人間が現れるのではないかと私は本気で感じるのだ。それほど今作の強度が凄まじいということだが、ならこんな映画が本当に、本当に存在していいのか? 私にはまだ分からない。

あの時、私は空を飛べた、本当に空を飛んでいたんだ。失われた子供時代への郷愁に囚われ心は今にいないのに、どうして"私"は今を生きているの。消えよう、消えていこう、心安らげる場所へ……

1971年に"A Safe Place"は完成し、ニューヨーク映画祭でプレミア上映が成された訳だが、その前衛的な作風からそこでの評価は絶賛と非難に激しく二分されたという。批評家たちの多くは非難する一方で、熱狂的なファンも存在し、その中の1人があの小説家Anaïs Nin アナイス・ニンだった。このレビュー記事において彼女はこう書き記している。

"'A Safe Place'が語るのは、夢を共有することのできない私たち自身の無能さが孤独を生み出すということだ。この作品を理解できない人々は自分自身、そして他者さえも非存在の安全地帯へと追いこんでいくだろう。ここにおいて本物のマジシャンはヘンリー・ジャグロムだ。何故なら彼こそが、私たちの空想を初めてフィルムの上に解き放ってくれたのだから"

相当な絶賛ぶりである。そして彼女はアメリカ各地の大学で女性学の講義を行う際、今作の16mmフィルムを担いでいき生徒たちに見せていたという逸話もある。そんな熱狂も虚しく、"A Safe Place"は他のアメリカン・ニューシネマ作品のように注目を浴びることはなく歴史の埃に埋もれることになった。だがジャグロムは全くへこたれることなく映画製作を続け、40年間で20本以上の作品を製作することになる。更に2010年代に差し掛かる頃、とうとう"A Safe Place"は映画史の闇から救いあげられ、Criterionからソフトが発売されるという名誉に浴することになった。ということで今回からヘンリー・ジャグロムというアメリカの知られざる映画監督についてしばらく追っていきたい。ぜひこれからも記事を読んでくれれば幸いである。

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Ernar Nurgaliev&"Sweetie, You Won't Believe It"/カザフスタン、もっと血みどろになってけ!

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現在、カザフスタン映画界がアツいというのはこの鉄腸マガジンで何度も書いている。この前もまだ詳細は書けないのだが、カザフスタンの友人から"新作ができたから、意見を聞きたい"と作品を送られ、これがまた素晴らしかった。今作が映画祭でプレミアを迎える際にはぜひ特集したいと思っているが、その数日後にまた異なる魅力を誇るカザフ映画、しかも血みどろの不謹慎コメディ映画を観てしまい、私のなかのカザフ映画界への信頼が更なるものとなったんだった。ということで今回はカザフ映画界期待の星たる新人Ernar Nurgalievによる1作"Sweetie, You Won't Believe It"/ "Жаным, ты не поверишь!"を紹介していこう。

今作の主人公はダス(Erkebulan Dairov)という男性だ。彼の妻ジャンナ(Asel Kaliyeva)は出産を間近に控えているが、毎日毎日彼女に赤ちゃんの名前候補のセンスや自身の優柔不断ぶりを壮絶に詰られるなど、パッとしない日々を送っている。とうとう不満が爆発したダスは出産予定日に友人たち(Rustem Zhany-Amanov&Azamat Marklenov)と釣りに行くという暴挙へ出ることとなるが……

まず監督が描きだすのは人生の分岐点に差し掛かった男の惨めさだ。ダスの現状はいわゆるかかあ天下、妻の尻に敷かれるという典型であり、妻によって常に精神をボコ殴りにされている。代わりに女性店員や銀行員には居丈高な態度を取り"クソ女……クソ女……"と吐き捨てることも辞さない。ダスの日常を小気味よく描いた冒頭5分だけでも、その惨めさが濃厚に伝わってくる、苦笑するしかないだろう。

紆余曲折があった後、ダスが友人たちと釣りに勤しむのだが、そこで最悪の出来事に遭遇してしまう。ギャング集団が、ショットガンで男の頭を吹っ飛ばす凄惨な殺人現場を目撃してしまったのだ。ダスたちは逃走、そしてギャング集団はもちろん猛追、奇妙な逃避行が繰り広げられるが、その彼方から眺めるのは謎の禿頭男だった。

ここから作品に本格的にギアが入り、私たちの網膜にブチ撒けられるのは血みどろの笑いの数々だ。ひょんなことから耳たぶがブチ切れるわ、ショットガンで脳髄が爆裂するわ、他にも様々な肉体の部位が吹き飛びまくり、血飛沫が炸裂していく。監督は血潮に飢えたグロ映画愛好家の勘所を的確に刺激していきながら、肉片まみれの物語を紡いでいく。

そしてそこには下衆のユーモアも欠かせない。友人の1人は警察官なのだが同時にダッチワイフ狂いの童貞でもあり、勝手に持参してきた2体の人形がダスたちにひと悶着を齎したりする。おしっこ関連で相当馬鹿なことやらかす下りもあり、血肉ブチ撒けに並んで排泄物ネタが大好きな私としては爆笑するとともに心が温まるような思いだった。こういった血と下衆のユーモアを原動力として、今作は不謹慎を邁進していく。

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だがこの作品が他のジャンル映画と一線を画するのは演出の息を呑む洗練だ。例えばAzamat Dulatovの担当する撮影は技術への理解に裏打ちされた気品が存在している。主人公たちが歩く様を鷹揚に捉える優雅な横移動撮影、即物的なショックからは一歩引いた、惨々たる世界そのものを映すロングショットの多用が頗る目立つのだ。ホラーなどのジャンル映画は幾らかの軽薄は許されるだろうが、今作はその常道も進む一方で、こうした演出によって逸脱する瞬間が多くある。だからこその別種の強度がここには宿っている。

こうした洗練の撮影と先述の不謹慎なユーモアの数々はある種水と油と同じ関係性にあるとも思われながら、今作において2つの間に均衡を齎しているのが監督自身が手掛ける熟練の編集だ。後者がブチ撒ける瞬間的な快楽に耽溺することなく、かといって前者が陥りがちな見てくれだけが良い怠惰な美しさに埋没することもなく、そのあわいの滑らかなリズムを彼の編集は紡ぎだしているのだ。

そしてこの均衡は常に緊張感を孕んでいる。互いが互いを濃密さにおいて凌駕しようと虎視眈々と機会を伺っているのだ。不謹慎なユーモアは、後半において登場人物たちの強烈な自我を膨張させていく。主人公ら3馬鹿集団はその馬鹿っぷりを更に加速させ、徐々に素性が明かされていく謎の禿頭男はその超人的な能力で映画を引っかき回す。特に印象的なのはギャング集団の1人でトレインスポッティングのベグビーにも似たチンピラだ。常にショットガンを携帯する乱射魔で劇中通じて人間を肉塊に変えていくが、妙に仁義に厚いところもあり、その人情が血糊の量を増幅させていく。

この一方で撮影と編集も練度を増していく。どの場面も捨てがたいが、特に印象的なのは禿頭男とダッチワイフ狂いの家屋でのかくれんぼだ。画面を一見だけするなら"いや、普通バレてるだろ"という露骨な白けが充満しながら、作り手らの視線は先鋭だ。キャラの距離感や奥行きに対する計算を綿密に組み立てながら、この白けをスリリングな潜み笑いへと昇華していく。そして緩急自在の編集が笑いから更に進んだ驚きすらも観客に齎すのだ。このシークエンスの画面構成や編集リズムの素晴らしさだけでも今作には観る価値がある。

この映画はいわゆる犯罪コメディやホラーコメディと表現できる1作だ。だが演出を見ていって分かるのは、作り手側の映画史への深い造詣だ。前述のジャンル映画の流れを学び汲んでいくだけでも、面白い作品はできるだろうが、その埒外にある映画を観てその技術を吸収し取り入れる、これがジャンル映画を更に深化させることもある。笑う者もいるだろうが、今作において語りに厭味なく嵌った華麗な横移動撮影を観るたび、私は長きに渡るこの撮影法の歴史に思いを馳せた。そういった映画史の蓄積を今作には感じたのだ。

"Sweetie, You Won't Believe It"はホラーコメディ、そしてジャンル映画の持つ喜びをトコトン突き詰めた破格の1作だ。シッチェス映画祭でも絶賛された今作とその監督Ernar Nurgaliev2020年代のジャンル映画界に現れた輝く彗星だ、きっと未来を更に血みどろ肉塊まみれにしてくれるに違いない。

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私の好きな監督・俳優シリーズ
その411 ロカルノ2020、Neo Soraと平井敦士
その412 Octav Chelaru&"Statul paralel"/ルーマニア、何者かになるために
その413 Shahram Mokri&"Careless Crime"/イラン、炎上するスクリーンに
その414 Ahmad Bahrami&"The Wasteland"/イラン、変わらぬものなど何もない
その415 Azra Deniz Okyay&"Hayaletler"/イスタンブール、不安と戦う者たち
その416 Adilkhan Yerzhanov&"Yellow Cat"/カザフスタン、映画へのこの愛
その417 Hilal Baydarov&"Səpələnmiş ölümlər arasında"/映画の2020年代が幕を開ける
その418 Ru Hasanov&"The Island Within"/アゼルバイジャン、心の彷徨い
その419 More Raça&"Galaktika E Andromedës"/コソボに生きることの深き苦難
その420 Visar Morina&"Exil"/コソボ移民たちの、この受難を
その421 「半沢直樹」 とマスード・キミアイ、そして白色革命の時代
その422 Desiree Akhavan&"The Bisexual"/バイセクシャルととして生きるということ
その423 Nora Martirosyan&"Si le vent tombe"/ナゴルノ・カラバフ、私たちの生きる場所
その424 Horvát Lili&"Felkészülés meghatározatlan ideig tartó együttlétre"/一目見たことの激情と残酷
その425 Ameen Nayfeh&"200 Meters"/パレスチナ、200mという大いなる隔たり
その426 Esther Rots&"Retrospekt"/女と女、運命的な相互不理解
その427 Pavol Pekarčík&"Hluché dni"/スロヴァキア、ロマたちの日々
その428 Anna Cazenave Cambet&"De l'or pour les chiens"/夏の旅、人を愛することを知る
その429 David Perez Sañudo&"Ane"/バスク、激動の歴史と母娘の運命
その430 Paúl Venegas&"Vacio"/エクアドル、中国系移民たちの孤独
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その433 Eugen Jebeleanu&"Câmp de maci"/ルーマニア、ゲイとして生きることの絶望
その434 Morteza Farshbaf&"Tooman"/春夏秋冬、賭博師の生き様
その435 Jurgis Matulevičius&"Izaokas"/リトアニア、ここに在るは虐殺の歴史
その436 Alfonso Morgan-Terrero&"Verde"/ドミニカ共和国、紡がれる現代の神話
その437 Alejandro Guzman Alvarez&"Estanislao"/メキシコ、怪物が闇を彷徨う
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その439 Ulla Heikkilä&"Eden"/フィンランドとキリスト教の現在
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その441 Janno Jürgens&"Rain"/エストニア、放蕩息子の帰還
その442 済藤鉄腸の2020年映画ベスト!
その443 Critics and Filmmakers Poll 2020 in Z-SQUAD!!!!!
その444 何物も心の外には存在しない~Interview with Noah Buschel
その445 Chloé Mazlo&"Sous le ciel d'Alice"/レバノン、この国を愛すること
その446 Marija Stonytė&"Gentle Soldiers"/リトアニア、女性兵士たちが見据える未来
その447 オランダ映画界、謎のエロ伝道師「処女シルビア・クリステル/初体験」
その448 Iuli Gerbase&"A nuvem rosa"/コロナ禍の時代、10年後20年後
その449 Norika Sefa&"Në kërkim të Venerës"/コソボ、解放を求める少女たち
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その451 Ernar Nurgaliev&"Sweetie, You Won't Believe It"/カザフスタン、もっと血みどろになってけ!

リチャード・フライシャー再考その2

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ということでリチャード・フライシャー作品を観続けている。1984年制作の「キング・オブ・デストロイヤー/コナンPART2」/ "Conan the Destroyer"にはマジで感動した。いや、絶対午後のロードショーで観てたとは思うんだけど、こんなにも豊穣な作品だったのかと。ファンタジー映画において、設定でなくビジュアルで世界観を魅せるというのは、当然だとは思われながら実際には本当に高くて困難なハードルだと思える。だけどもフライシャーと撮影監督のジャック・カーディフ、そして忘れちゃいけない多くの特殊効果スタッフは、こんなにも容易く、威風堂々と飛び越えてみせる。それに衝撃を受けた。

その威風堂々さのなかで、しかし外連味もあって本当に楽しい。あの氷山のなかの鏡の空間の幻想性、かと思えばそこに現れる笑撃のトカゲ人間。でも割と強いんだよな、あいつ。そこからのシュワちゃん、鏡大破壊祭り。すげえのなんのって。本当、子供のように無邪気に楽しんでしまった。それでいて子供の頃分からなかったものが、今見えた気がする。感動以外の何物でもなかった。

1977年制作の「王子と乞食」"The Prince and the Popper"はその割を喰ったかもね。。別に悪くはないんだよ、冒頭の雑踏追っかけっこの素晴らしい躍動感、英国貴族の絢爛豪華たる汚らわしさ、アーネスト・ボーグナインの眉毛とオリヴァー・リードの胸毛乳首のハーモニー。いやリード、映画で毎回上半身露出しているイメージしかない、マーク・ウォールバーグかよ。だけども世界観の立ち上がり方とか「コナンPART2」の後に観るといささかか見劣りって感じで、何とも言えない出来だった。

1952年制作の日本未公開作"The Happy Time"1920年代カナダに生きるフランス移民の家族を描く1作だった。ある少年がのらくらで馬鹿だけど信念がある男たちに囲まれ成長するみたいな。だが"男ってやつっていつだって、いつまでも馬鹿"みたいな甘やかな郷愁が虫歯を量産するレベルの有害さだ。職人気質のフライシャーには珍しいまでに深い思い入れ、もしくは自己耽溺。見苦しいことこの上ない。

だが1974年制作のマジェスティック」/ "Mr. Majestyk"は予想に反して素晴らしかった。午後のロードショーとかで観ている筈だけど、その時は今作の面白さに全く気付けていなかった。ブロンソンのスイカへの熱き想い、それを嘲笑うスイカ大虐殺、泣けるね。だが最終決戦がすごい。無音と銃声の狭間を忍ぶブロンソンの渋みと薄笑いの哀愁は絶品。場を静寂で満たすさの手捌きといえばフライシャー作のアクション場面でも最上の1つ。冒頭に切れ味と血肉湧く激しい銃撃戦を置いたうえでのあの静謐は正に神懸かり的なアンチ・クライマックスで圧倒された。

でもその素晴らしさですら同年制作の「スパイクス・ギャング」/ "Spikes Gang"の前では霞むんだから困った。冒頭の荒野と少年たちの暖かな視線から、もう涙が溢れそうになった。そんな果てしない荒野で若さを生きる青年たちの切なさと多幸感、それをここまで胸を引き裂くほどの慎みと美を以て描いた作品があったか。70年代アメリカ最高の青春映画として屹立するべきフライシャーベストの1本。あまりにもやるせない、やるせないよ。

それから今作を観ながら、頭に思い浮かんだのはイヴァン・パッセル監督作「男の傷」だった。何か朧げな蜃気楼を思わす撮影、時おり響く場違いな、しかし印象的なまでに物悲しいシンセ音楽、そして世代が全く違いながら青春の終りを感じさせる主人公たちの道行き。それらが不思議と共鳴するような気がした。「男の傷」はもはや中原昌也率いる東京住まいの知的スノッブの慰み物となってしまい残念だな。

ここまで来ると、リチャード・フライシャーが日本で過大評価という当初の印象は無くなったが、今度は語られるべき作品が語られていないという印象が強くなる。50年代ノワール群とマンディンゴの著しい過大評価、晩年である80年代作品の著しい無視、初期作"Child of Divorce""Banjo"の日本未公開etcetc

次に観たのが1954年制作の夢去りぬ」/ "The Girl in the Red Velvet Swing"だった。ショービズ界の痴話喧嘩殺人っていう下らねえも下らねえゲス映画、フライシャーでも救えやしねえって感じだった。ジョーン・コリンズはただただテカってる木像状態、レイ・ミランドは生理的に受け付けないキモ紳士。唯一ファーリー・グレンジャーだけがモラハラ夫役で健闘しているも、正直映画全体は虚飾以外の何物でもない。無残だ。

それでも1955年制作の「叛逆者の群れ」/ "Bandido!"はなかなか良かった。純白スーツを飄々しなやかに着こなしながら、手榴弾ジャンキーとして有象無象を虐殺する傭兵ロバート・ミッチャムという主人公造型の絶品さな。「替え玉殺人事件」の再撮で仲良くなったんだろうか? かつその音響効果の壮絶さは娯楽を突き抜け、常に銃撃やら爆撃やら馬の蹄やらが響いてる。もはや実験映画の極致へ到達していた(最近でここまで音響が突き抜けていた娯楽大作は仮面ライダーセイバー 不死鳥の剣士と破滅の本」くらいだろう)全部が全部成功しているとは言い難いが、フライシャーの意欲作として必見だと思える。

そして「コナンPART2」が素晴らしかったんで1985年制作のレッドソニア」/ "Red Sonja"を観た。これも多分午後のロードショーで観た。だが再見すると格調高いロングショットの連なりによって流れる如く紡がれるファンタジアに陶然とさせられる。そして水中の激戦と愛の剣劇の長ったらしさで、この陶然が永遠さながら延長されていくことにまた感動してしまった。フライシャー作で最も美しい映画の1本だよ、間違いない。

フライシャー作品で、ショット1つ1つの独立した完成度とショットの有機的な繋がりを最も美しく両立し体現している作品を挙げるなら、躊躇いも一切なく「キング・オブ・デストロイヤー/コナンPART2」レッドソニアを挙げたい。ロングショットとかクロースアップとか距離感がビビッドに現れるショット同士の繋がりやリズムがあまりにも華麗なんだよな。実はこの数日後に、気まぐれにジャン・ルノワール作品、例えば「カトリーヌ」とか「水の娘」とか観たんだけど本当美しかったね。俺はこの「コナンPART2」レッドソニアは、フライシャーが最もルノワールに近づいた作品と思えるよ。

初期フライシャーについてまた少し。ボディガード」以降のノワール期は、語りの経済性を押し進めすぎたゆえの加速主義的な胡散臭さを感じる。大作だけじゃなくてB級映画もまた"資本主義"の産物なんだよ、その速度が。こういう意味で「その女を殺せ」以外良くないと思う、いや「札束無情」もギリで良作かな。そして急に思ったことだけども、この意味で1951年における「替え玉殺人事件」の再撮は重要な転換期だったのかもしれないと思える。ノワール群と比べれば分かるが、その2時間というランタイムや前半ノワールで後半冒険劇という2部構成って感じの語りは件の経済性からは程遠い。そしてこの直後に作った"The Happy Time"から、フライシャー作品で決定的に何かが変わった感があるよな。

ということで鑑賞記録に戻ろう。「ならず者部隊」/ "Between heaven and Hell"はフライシャー1956年の1作だな。後年の大作「トラ・トラ・トラ!」の前哨戦、どころの騒ぎではなかった。正直、最初は主人公の回想を挿入する甘さが心配になった。これに関して、水とプールで現在と回想を繋げる手捌きがいいとか言ってるやついるけど、そもそもここに回想入れること自体、甘いだろ。だけどその後、戦争の静謐と喧騒を激しく行きかう最中、勃然と死が噴出するそのリズムが頗る異様(これはマジェスティックの最終戦とも共鳴する)で、死の不条理をまざまざと目撃させられる戦慄があるんだよ。あのヘッドショット、神懸かり的だ。さらにもう死ぬ気で主人公が山の斜面走りまくるラスト、生命の解放感というものがあって猛烈に興奮した。フライシャー50年代ベストの1本。

その次には1954年制作の海底二万哩」/ "20000 Leagues under the Sea"を観た。言わずと知れたジュール・ヴェルヌSF小説の映画化だけども、ぶっちゃけディズニーのために作っただけみたいな凡作だった。ピーター・ローレはヒョコヒョコおちゃらけカーク・ダグラスウクレレ持ってアシカと遊んでたり、俳優陣がすごい楽しそうだったので、まあ良し!

それよりも次に観た1955年制作の「恐怖の土曜日」/ "Violent Saturday"だよな。これ日本でもソフトとか出てるけど、語ってるやつをあまり見ない。ちょっと余りに過小評価されてないか?という傑作だった。こう何度も書いてる、50年代前半ノワール群における語りの経済性、味気ない加速主義の塊みたいな語りが、田舎町の群像としての豊かな余白/無駄と重なりあうことで生まれるものがあるんだよ。いや一体、あの人生の切実な交錯は何なんだ? 酔っ払いのオッサン、眼鏡のむっつりスケベ、置き引きを繰り返す中年女性、アーミッシュの家族。彼らの膨大な群像を、あの速度で捌かれるとさすがに驚嘆せざるを得なくなる。

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ディテールの描き方がさりげなくも鬼気迫る。子供の足をいきなり踏み躙るリー・マーヴィンの残虐な足、ゴミ箱に捨てられた財布、ポケットのなかの飴ちゃん、背中に突き刺さるピッチフォーク。これが"神は細部に宿る"ということかと思わされた。そしてその積み重ねのうえでラスト、人生の明暗が運命的に別れてしまった男2人のエピローグは壮絶で、残酷すぎるだろって言葉を失った。その崇高さはフライシャーのデビュー長編"Child of Divorce"のラストに匹敵すると思ったね。

で1958年制作のヴァイキング」/ "The Vikings"も観た。ぶっちゃけフライシャー50年代の大作群は「ならず者部隊」以外全部クソみたいに無難という印象の作品ばかりなんだけども、今作も正にそんな感じで退屈だった。スネーク・プリスキン先駆けの眼帯カーク・ダグラスが剣で自害するかと思いきや、何かよく分かんない感じで憤死するところは、何か良かった。それ以外は特に何も言うことはない。

次に観たのが1980年制作のジャズ・シンガー」/ "The Jazz Singer"だった。この映画は優しいよ。父親、優しいね。妻、優しいね。ヒロイン、優しいね。黒人の友達、優しいね。主人公、クズだけど優しいね。世界それ自体、優しいね。だからこそぬるい。例え視線は一方的ですれ違えても、人っていうのは分かりあえる。で? 30年前の"The Happy Time"に退行するぬるい親密さ。退屈。80年代のフライシャー作品は過小評価されているとは何度も言ったが、今作に関しては妥当な評価だ。

しかし気になったことが幾つか。1つは正直邪推に過ぎない。だが今作の完成度の低さには、シドニー・J・フューリーの後釜で撮影することになった事情もひっくるめ、その出来に納得行かず、3年後に同じく音楽が1つのテーマである「ザ・チャンプ」でリベンジしたと邪推したくもなる。そして成功した、と個人的には思う。しかも劇中、父親役であるローレンス・オリヴィエが"Tough enough"と「ザ・チャンプ」の原題を言うんだよな。これは早すぎる布石だったのか?

それからジャズ・シンガー観て、フライシャー作品における黒人表象の研究が興味深そうだなと。まあ、黒人表象を論文か何かで分析してくれると有難いです!というようなマンディンゴはそれとして、その数倍居心地が悪くなる、1940年代の白人と黒人の関係性をいやに鮮やかに捉えているような"Banjo"の冒頭とラスト(特にラスト、今やったら監督は社会的に抹殺されるだろうくらいに悍ましいほのぼのさだ)海底二万哩アシャンティの部族、「コナンPART2」グレイス・ジョーンズ、そして今作のリメイク元へのオマージュとしてのブラックフェイスなど。

今の所最後に観たのは「強迫/ロープ殺人事件」/ "Compulsion"だったけど、これはマジで余りにも酷かったな。さりげなさを装いながら、欲を出して技に溺れる撮影。撮影監督のウィリアム・M・メラーはこの時点でクソベテランだったが、ジョージ・スティーヴンスアンソニー・マンやらと、フライシャーの作品が違うことを全く理解してない無能って感じだった、さらに中立を気取ろうとして、殺人者への廉い同情に陥る脚本には呆れる。幾ら冷徹に殺人者の心理を観察しても、その1人が「俺が怖いのか?」と言いながら女友達をレイプしようとして、彼女が「怖いのはあなたを想ってるから!」みたいなことったら台無しだよな。それらが最高潮を迎える、オーソン・ウェルズ死刑廃止大演説は、スターという存在が要請するスペクタクルの虚無を壮絶なまでに体現してるよ。Filmarksには"彼らを生かすことことが本当の罰"という人がいて、確かにそれもそうだなという気はしながら今作に対して拒否感を抱くのは、この脚本の甘さとオーソン・ウェルズの存在のせいだな。死刑廃止論がクソみたいな殺人者の同情票に成り下がってる、ひでえよ。完全にフライシャー・ワースト。

現時点でのベスト

1.「悪魔の棲む家PART3」
2.「恐怖の土曜日」
3. "Child of Divorce"
4.「スパイクス・ギャング」
5. "Banjo"
6.「キング・オブ・デストロイヤー/コナンPART2」
7.「ザ・チャンプ」
8.「レッド・ソニア」
9.「見えない恐怖」
10.「ならず者部隊」
11.「その女を殺せ」
12.「マジェスティック
13.「叛逆者の群れ」
14.「おかしなおかしな成金大作戦」
15.「替え玉殺人事件」
16.「ムコ探し大騒動」
17.「ミクロの決死圏
18.「海底二万哩
19.「王子と乞食」
20.「札束無情」
21.「罠を仕掛けろ」
22.「静かについてこい」
23.「ヴァイキング
24.「ボディガード」
25.「カモ」
26. "The Happy Time"
27.「ジャズ・シンガー
28.「夢去りぬ
29.「アシャンティ
30.「強迫/ロープ殺人事件」
31.「マンディンゴ

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